「ラジオ体操と共同幻想」―⑨
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近代文明による環境汚染は国境で食い止めることは出来ません。
世界的な関心を集めた地球温暖化問題や、最近では中国から飛来す
る微小粒子状物質(PM2.5)による大気汚染、また、鳥インフル
エンザウィルス(H5N9)の感染被害もボーダレスです。更に、前
にも記しましたが、わが国はただ被害ばかり受けているわけではな
く、福島原発事故による放射能汚染水の流出による海洋汚染は、汚
染水の流出を早く食い止めることが出来なければ、それらの問題よ
りももっと深刻な事態に発展するかもしれません。毎日300トン
の放射能汚染水がこれから半永久的に海に垂れ流されることになれ
ば、放射能汚染は海だけの汚染では済まなくて地球全体に拡がりま
す。もはや事態は一電力会社が処理できる範囲を越えて、それどこ
ろか我が国一国で対応できる国家レベルをも遥かに凌駕して、世界
規模で対応しなくてならないはずなのに、なぜ政府は早くIAEA
に援助要請をしないのだろうか?もはや、彼らは安全神話を騙って
不安実話を隠すことしか出来ない。
このように、環境汚染はすでにナショナルな問題ではなくインタ
ーナショナルな対応が求められている。さらに、グローバル経済が
それに拍車を掛けている。つまり、地球環境の問題は国家レベルで
は対応出来なくなっている。また、国家は前進することしかできな
いので危機が迫っても撤退することができない。あるテーマの下に
人が集まるとき、その集団の存在意義はテーマによって保たれてい
る。近代国家はひとつには近代社会を実現することがテーマであり、
近代社会は経済成長なしに賄えない。つまり、国家の下では環境よ
りも経済が優先する。原発再稼働を求める人々は、成長経済を失っ
ても環境を守るべきだとは思っていない。テーマの下にある集団は
危機に際しても、経済人は経済を「成長」させることによって、政
治家は権力を「行使」することによって、そして軍人は武力を「発
動」することによってしか危機を乗り越えようとしない。彼らは「
獲得」するか、然もなくば「破滅」するかのどちらかしかなく、「
撤退」とはすなわち戦わずに敗北を認めることなのだ。つまり、進
むことを止めて撤退することはテーマから外れることであり、国家
はその存在意義を失う。例えば、選挙で敗北した民主党は、その結
党のテーマは「政権交代」であったが、そもそも政権とは政治を行
うための手段であって目的ではない。当然のように政権交代の目的
を果たした途端に終わってしまった。実際、政権内部ではそれぞれ
の政策はバラバラで方向が揃わない力はベクトルを生まなかった。
そして、首相になった人たちが党内に諮らずに突然個人のテーマを
語り始め、政党はそのテーマの下に纏まることがなかった。つまり、
民主党の失敗の原因はその結党時の「テーマ」そのものにあった。
政権さえ奪えば方向は自ずから決まるという結党時の小沢代表の言
葉は、分け前をばら撒く高度経済成長期ならいざ知らず、政治に敏
感になった国民から見れば時代錯誤の感が否めない。話しは本来の
テーマから逸れましたが、こうして、集りはテーマの下に生まれ、
その集りは力を生むためにそれぞれに団結が求められる。かつて、
郵政民営化問題では自民党でさえ結束を図れなかったが、意見の転
向を迫ると恨みが残り容易なことではない。つまり、集団はそう簡
単にテーマを変えることができないし、まして政治信条を共にする
集団となれば尚更のことである。原発の是非についても、再稼働を
求める集りは如何なる反対の声が耳に届いても原発推進のテーマを
下ろすことはできず、例えばもし仮に、もう一カ所で事故が発生し、
それが柏崎原発で起こったとすれば、日本列島を横断する福島原発
と柏崎原発間で放射能汚染ベルトができて日本が南北に分断される
最悪の事態でも発生しない限り、もちろんそんなことになれば日本
は「国家の終わり」を迎えるが、つまり、現実が理想を裏切らない限
り原発再稼働のテーマを下ろすことはないだろう。こんな例え話を
敢て持ち出したのも、柏崎原発の再稼働はあまりにも福島に近す
ぎて危険ではないか、と思ったからです。
実は、ずいぶん余談に字数を費やしたことを今は悔いながら、と
は言っても纏めるには断腸の思いでそうもいかず、後はすこし端折
ることにしますが、そこで、今の世界の問題を大雑把に並べ出すと、
経済成長が命題の近代国家はグローバル経済の下で新興諸国に国内
産業を奪われ経済秩序の崩壊によって停滞し、そこに追い打ちをか
けるように地球温暖化問題などの環境問題が顕現化し、さらに、世
界各地では格差社会に対する抗議や紛争が頻発し、いよいよ身動き
が取れなくなった世界経済は先行きが見えなくなっている。そんな
中でわが国は、原発事故という想定外の事態にも見舞われ、さらに、
近隣国との間に領土問題に火がついて、過去の遺恨にも燃え広がり、
すわ戦争かと緊迫した状況にまで到って、それぞれの経済にも影を
落とし、忽ち改憲を求める国粋主義者らが勢い付いている。
私はすべての問題をバッサバッサと乱麻を断つような解答を持ち
合わせていないので、ここではこれまでの流れから国家と環境問題
について思ったことを言います。まず、「われわれとは何か?」と
いえば、地球人という言葉があるように地球上に無数に生存する生
命体の一種である。今のところ地球以外で生存することはできない。
それは、地球の自然環境に依存しているからです。それを自然内存
在と呼ぶことにします。すぐに寿命を終えますが種を繋いで繁殖し
ます。自然内存在としてのわれわれは、自然環境が変化すれば生存
が脅かされます。しかし、これまでに絶滅の危機を迎えたことは多
分ありません。われわれのような知的生命体が地球の外からわれわ
れの営みを観察して「彼らはただ生存するためだけに生存している」
と思うことでしょう。それは環境に委ねて生きる他なかったからです。
とは言っても、すべてを環境に委ねて生きているわけではありませ
ん。共同生活を送る中で食料を「生産」し、やがて科学文明を生んで、
さまざまな道具が考え出されると、遂には「ただ生存するためだけ
に生存しているのではない」と答えられるまでになった。科学文明
はわれわれを自然環境に依存した自然内存在から解放した。とは言
っても、未だ生存するための多くは自然環境に委ねられているが、
しかし、自然環境の内部に文明社会を築き、社会内存在として生存
するようになった。かつて、われわれが自然内存在として生存してい
た時に自然の秩序を担っていたのは神だったかもしれませんが、文
明社会の秩序を守っているのは国家です。ですから、社会内存在とは
国家内存在であるとも言えます。自然内存在として神への服従を信仰
によって誓ったように、今やわれわれは文明内存在として国家への服
従を義務を果たして応えます。
(つづく)