「明けない夜」 (十)―⑤

2017-08-23 08:58:00 | 「明けない夜」10~⑨

          「明けない夜」

           (十)―⑤


 幹線道路沿いの「道の駅」に到着する頃には担当者の口笛のお陰で

車内の雰囲気もだいぶ和らいで、それぞれの夫婦が交わす遠慮のない

会話が耳に届いた。ただ、独りで参加した女性だけは窓際に座ってイ

ヤホーンをしたままずっと窓の外ばかり眺めて馴染もうとはしなかっ

た。強い意志を感じさせるキリッとした目をしていて顔立ちはまるで

刃物で丸みを削ぎ落としたような輪郭のはっきりしたきれいな女性だ

った。髪は後ろで束ねられて細工されていた。私は、何故か彼女を見

た瞬間に井上靖の小説「敦煌」に出てくる西夏の若い女を思い重ねた。

小説「敦煌」は宋の時代の話で、主人公の趙行徳は念願の官吏試験

に挑むが試験会場で待たされている間に眠入ってしまい、まるで「邯

鄲の夢」のような展開によって試験を受けられなくなってしまう。失

意のうちに城内を歩き回っているうちに城外に出てしまい、市場に黒

山の人集りができていて、そこには不義をはたらいた上に重罪を犯そ

うとした裸の女が切り売りされようとしていた。女は西夏出身で自らが

殺されることにまったく怖じけた様子がない。彼はその女を買い取って

自由にしてやると女は彼に西夏文字が書かれた一枚の布片を与えた。

こうして主人公は西夏の女の激しい気性と謎の西夏文字に惹かれて西

夏へ行こうと決心する。そもそも小説「敦煌」は、1900年の初めに流砂

に埋もれた洞窟から九世紀も前の夥しい量の文書が発見された驚くべき

事実から、井上靖氏がその顛末を空想した物語であって、趙行徳も西夏

の女も架空の存在でしかない。私は趙行徳を西夏へと向かわせる動機に

しては些か無理があると思ったが、どうしてか西夏の女のことだけは記憶

に残っていた。そして農業体験ツアーのワゴン車で始めて彼女を見て「西

夏の女だ」と心の中で叫んだ。私は趙行徳と同じようにどこか陰のある彼

女が気になって仕方なかった。

 ワゴン車が駐車場に停車すると担当者が、

「遅くなって失礼ですが、ここでお昼を取っていただきます」

前の席の者がサイドドアから降り始め、私は奥に座っている彼女のた

めに椅子を移動させようとすると、担当者が助手席から、

「あっ、彼女はもうお昼は済まされてますので降りられません」

と言ったので彼女だけを残して車を降りた。レストランはバイキング

形式で地産地消を謳った料理が大皿に並べられていたが、既に昼のピ

ークが過ぎていたので空の皿が三つ四つあった。ワゴン車に戻ってく

ると相変わらず彼女はイヤホーンをしたまま窓の外を眺めていた。車

は駐車場を出てから幹線道路を右折して未だ震災による大津波の爪跡

が残る沿岸の方へ向かった。海岸線を望める高台に立って海岸線へと

続くきれいに整地された平地には何事も起こらなかったようにも見えた

が、「3.11」までは千人余りの人々が暮らす町があったと担当者の

説明を聴くとあまりにもかけ離れた現実から想像ができなかった。取

り戻すことのできない現実と想像できないもどかしさだけが残った。

ただ私は、この時も車から降りようとしなかった彼女のことが気にな

った。

「どうかされましたか?」

「ちょっと疲れただけですからどうか気になさらないで」

それ以上関与するわけにはいかなかった。ワゴン車が宿舎に着くと、

さすがに彼女も車から降りなければならなかった。私が椅子を移動さ

せてから降りると、彼女は意を決して立ち上がって後に続いた。しば

らくして振り返ると、彼女が片方の足に重心が移る度にそちらの方へ

身体が傾いだ。彼女は足が不自由だった。

                         (つづく)


「明けない夜」(十)―⑥  

2017-08-23 08:56:43 | 「明けない夜」10~⑨

           「明けない夜」

            (十)―⑥

 

 その日の宿は当地では名の通った老舗旅館で、震災による原発事故

の前ならとても一般が利用することなど憚られたが、しかし風化しな

い放射能汚染の不安から来客が途絶え、否、それどころか代を継いで

住み慣れた地元の者でさえも思いを残して立ち去る始末なので一時は

廃業さえ考えたが、しかし再びかつての暮らしが戻ってくる日がくる

ことを信じて存続させるために破格の料金で宿を提供している、と担

当者は言った。そう言われてみれば、なるほど格調のある建物や趣き

のある庭園などを目にすると他人同士の集りであるツアー客にすれば

些か敷居が高かった。

 しかし部屋はその本館ではない別棟の新館に案内され、夕食もその

別館の個室が宛がわれ、部屋には真ん中に大きなテーブルがあり、す

でに席には漆塗りを模した黒いプラスチックの折箱が蓋をして置かれ

ていた。私が部屋に入った時にはすでに「西夏の女」は席に着いてい

た。軽く会釈をして彼女とは対角の席に腰を下ろすと、彼女も座った

まま会釈を返した。すぐに二組の夫婦がやってきてそれぞれ向かい合

った空席を埋めた。遅れて担当者が現れて「失礼しました」と私の席

とは角を挟んだすぐ横の席に立って改めて自己紹介することを求めて

掌を私の方に向けた。私は座ったまま、

「高橋寛です。東京から来ました。よろしくお願いします」

と簡単に済ますと、担当者はさらに続けるものと思ってしばらく黙っ

て私を見詰めていたが諦めて隣の夫婦に視線を遣って頭を下げながら

掌を差し出した。私の簡単な自己紹介は後の者にも伝播して、最後に

「西夏の女」は小さな声で、

「カガワセイコです。よろしくお願いします」

とだけしか言わなかった。彼女は「カガワセイコ」という名前だった

。彼女のことをもっと知りたかったのに始めに自分の素性を明かさな

かったことを少し悔やんだ。食事の前に担当者が今後の日程のブリ

ーフィングを行ない、その後には振興課の課長が挨拶をする手筈だっ

たが、定員20名の募集に6名しか集まらなかったからなのか、

「失礼ですが、急に仕事が入って来れませんので割愛します」

と、担当者は「割愛」の使い方が間違っていることも知らずに資料に

目を落としたまま小さな声で言った。そして、手にした資料をぞんざ

いに傍らに置いたので、私は何気なく自分の前に置かれたその資料を

覗くと一番上に参加者の名簿があって彼女の名前が載っていた。「カ

ガワセイコ」は「賀川星子」だった。

「それでは食事にしましょう」

と担当者の掛け声によってテーブルに置かれた折箱の蓋を開けると、

色とりどりの料理が升目に並べられた角皿に詰められていた。そして

誰もが箸を止めさせない他愛もない会話をしながら夕食は始まった。

私は一切「西夏の女」、じゃなかった「賀川星子」には目もくれずに

担当者の話や夫婦同士の会話に耳を傾けていた。つまり私は彼女のこ

とばかり意識していた。ただ、彼女と一緒に歩いてこの部屋を出て行

くことが気が引けたので誰よりも早く折箱の蓋をして、

「ごちそうさまでした」

と言うと、担当者は箸を止めて、

「えっ!もう食べたのですか?」

「ええ、先に部屋へ戻ってもいいですか?」

「いいですけど」

私は立ち上がってみんなに一礼して個室を後にした。自分の部屋へ戻

る廊下を歩きながらも頭の中では彼女のことばかり考えていた。もし

かしたらケガだとかの原因によって一時的に跛行せざるを得ないだけ

かもしれない、と他人の境遇を勝手に悲観している自分を慰めた。

 しかし寝床に入っても彼女のことが頭から離れず夜更けになっても

寝付けないので起き上がって窓を開けて外を眺めた。二階の部屋は庭

園に臨んでいた。窓を開けると夜に追い遣られた冬の寒気が流れ込ん

できた。手入れされずに荒れ始めた木々の間から歩道に沿って外灯の

支柱が生えその先端の明かりが私が居る建物の入口へ至る歩道の雑草

を照らしていた。その歩道を独りの女性が跛行してこちらに近づいて

きた。彼女はしばしば立ち止まってはしばらく夜空を見上げた。何度

目かの時に私と目が合った。たぶん5階建の建物の窓に灯りが燈って

いるのは私の部屋だけで、彼女にすれば勝手に目が行ったにちがいな

い。私は思い切って声を掛けた。

「何をしてるんですか?こんな時間に」

彼女は見られていたことを気まずく思ったのかしばらく黙っていたが

「ほら、星があんなにきれい」

と、それまでの暗い表情ではなく笑みを湛えて上を指差した。下ばか

り向いていた私は彼女の指に促されて見上げるとそこには漆黒の夜空

を埋め尽くす無数の星々が生き生きと輝いていた。それは東京では決

して見ることのできない美しい宇宙の神秘だった。

「ね、きれいでしょ」

と、彼女は夜空を見上げながら言った。

「ああ、きれいだ」

と、私は彼女を見下ろして言った。彼女が湛える満面の笑みは満天に

煌めく星々よりも輝いていた。彼女は地上の星だった。

「でも、いつまでもそんなとこに居たら風邪を引きますよ」

「ええ、もう部屋に戻ります」

彼女はそう言うと臆することなく跛行しながら歩き始めた。私は左足

に重心をかける度に傾ぐ彼女を建物の中に隠れるまで見送った。そし

て、彼女が足が不自由なことをまったく気にしていないことを知って自

分の安っぽい同情が恥ずかしくなった。

 彼女が居なくなった後もしばらく漆黒の宇宙に光輝く神秘的な星空

を眺めていた。やがてその神秘性は星々を眺めている自分自身にはね

返ってきて、果たして自分はこの広い宇宙の中でいったい何のために

存在するのかと思い始めた。無限に拡がる生命なき宇宙の中で唯一の

生命体を有する地球とそこで生きる命こそがまさに神秘であり奇跡そ

のものではないか。星々の神秘とはそれを受け止める生命体の神秘に

他ならない。宇宙は神秘的でも何でもない、ただ在るだけだ。存在を

超えた何かなど生命体が描くイリュ―ジョンでしかない。われわれは

何かのために生きているのではない、生きるために何かを求めている

だけだ。おそらく生命の誕生以上の如何なる神秘も奇跡も宇宙では起

こらないだろう。つまり生命こそが奇跡であり神秘なのだ。命を繋い

で生存を存続させること、それこそが命を受け継いだ生命体の使命で

はないか。ところが、ここ福島では「豊かさ」というイリュージョン

のために命を繋ぐための生存環境が破壊され「在るだけの宇宙」が剥

き出しになった。たとえば「何のために生きているのか?」と問われ

れば、そんなこと解るわけがない、ただ生命体ができることは命を繋

いで生き延びることだけだ。しかし、ここ福島では命を繋ぐという神

秘的な営みが絶たれた、「豊かさ」というイリュージョンを追い求め

る自らを知的生命体と名乗る生命体の手によって。

                      (つづく)


「明けない夜」 (十)―⑦

2017-08-23 08:55:09 | 「明けない夜」10~⑨

       「明けない夜」

        (十)―⑦


 どうやら風邪をひいてしまったようだ。朝起きて出掛ける支度をし

始めるとすぐに躰が熱くなって喉がえがらっぽく、脳がフィルムに包

まれたようにボーッとしていた。それでも予定されていた農場見学に

参加したが、最後の牧場見学では意識がいよいよ利己的になって、年

老いた牧場主が語る体験談を聴いていても、その話よりも彼が話し終

える度に頻りに舌を出す仕草が、すぐ後ろで柵から頭を出して藁を食

む乳牛たちの舌を伸ばす仕草とダブって、笑いを堪えるのに必死だっ

た。帰りの車の中ではフィルムに包まれた脳は外界への意識を朦朧と

させたが、逆にフィルムに閉じ込められた意識は妄想を膨らませた。

 宇宙はビッグバーンによって生まれ、世界を構成する質量そのもの

は宇宙誕生以来不変である。生命体を形成する物質もそれらからもた

らされるとすれば物質の特性から逃れることはできない。その特性と

は、物質はさまざまな分子が結合して生まれ、その分子はまた小さな

原子からなり、原子もさらに小さな素粒子からできていて、素粒子は

電荷を持つ。電荷は異なったもの同士では結合する引力が働き、同じ

電荷同士では反発する斥力が働く。世界を構成する質量とは物質とエ

ネルギー、つまり「存在と力」なのだ。そもそも物質を構成する素粒

子はなぜ電荷を帯びているのかはビッグバーンまで遡らなければなら

ないが、物質は「反」物質と結合して光を放って消滅するはずだった

が、しかし「対称性の破れ」によって反物質と結合できず「無」へ回

帰できずに取り残され引き裂かれたことによって電荷を持つようにな

ったのかもしれない。電荷は反物質との結合を求めているが、しかし

すでに反物質は存在せず、仕方なく他者との結合と反発を繰り返して

いる。つまり、電荷は他者と結合するためにもたらされたのではなく

、反物質と分裂したことによってもたらされたのだ。ところで、生命

体もまたそれらの物質の結合によって細胞を構成し、細胞は分裂増殖

して成体を形成し、成体は生存を存続させるために様々な受容と拒絶

を繰り返して環境への適性を高次元化させた。生命体とは物質の「存

在と力」による引力と斥力がもたらす複雑な自然現象であるとすれば

、と言うのも命が亡くなっても生命体を構成する物質そのものは無く

ならないので、物質から見れば生命体とは複雑な結合がもたらす自然

現象だと言ってもそれほど間違っていないだろう。だとすれば、現象

である生命にその本質を求めても何かが見つかるとは思えない。たと

えば、雲はなぜ斯く在るのかと言えば雲という現象を構成する粒子の

特性と影響を与える外的影響によって説明されるように、では生命と

は何かと問うなら、まず生命体という現象を構成する粒子の特性を語

らなければならない。存在とは「無」から取り残された不完全な物質

によって構成され、絶対「無」への回帰こそが完全な形であるなら、

それらから構成される生命体も不完全な存在で、存在の意義など伴わ

ないただの仮象に過ぎず、すでに存在しない反「自分」を追い求めて

他者との結合と反発を繰り返しながらやがて仮象は、つまり生命は消

滅する。こうして我々という現象は、さながら宿命の人を失った者が

次から次へと及ばぬ相手にその影を求めるように、完全な結合から取

り残された後悔とそれでも生きなければならない虚しさに苛まれなが

ら存在している。もしも、物質が無限に拡がる宇宙空間の中で「無」

への回帰に抗いながら有限を保って存在し、そして消滅から逃れるた

めに結合と反発を繰り返して物体や液体、或いは気体を形成して本来

の姿を変化させたとするなら、それらの物質の結合によってもたらさ

れる生命体もまた、「無」への回帰に抵抗するために存在の限界を保

ちながら変化し続けなければならない。つまり、空虚な宇宙空間の中

で存在そのものに意義があるとすれば、そして存在とは抗いであり有限

であり変化であるなら、またそれらから生成される人間存在も、抗い

、つまり生きるとは闘うことである、有限、つまり無限を追い求めず、変

化、つまり進化し続けなければならない。

                        (つづく)


「明けない夜」 (十)―⑧ 

2017-08-23 08:53:39 | 「明けない夜」10~⑨

        「明けない夜」

        (十)―⑧ 


 宿舎へと戻るワゴン車の中でついに寝てしまった。「着きましたよ」

と呼び掛ける担当者の声で目を覚ますとすでに私以外の乗客は誰も居な

かった。たぶん西夏の女は、寝ている私にはまったく気に掛けずに車か

ら降りたに違いない。と言うのも、朝の食堂で顔を合わせた時も、それ

から私が後から車に乗り込んだ時も、それは昨夜打ち解けて話を交わし

た明るい印象からはまったく想像できないほどに無愛想で、こちらから

声を掛けても煩わしそうに目を逸らしたからだ。彼女にいったい何があ

ったのか知る由もないが、ただ、彼女の人格はもっぱら気分が支配して

いるように思えた。

 担当者に風邪を理由に夕食への出席を断って部屋で寝ていると、旅館

の女中さんが席に出された折箱を部屋まで届けてくれた。そこにはカゼ

薬が添えられていた。その気遣いに感謝しながら折詰を平らげて薬も飲

んで再び眠った。しばらくすると部屋のドアをノックする音で目が覚め

た。部屋の明かりを灯して時計を見るとすでに十時を過ぎていた。訝り

ながらドアを開けると西夏の女が申し訳なさそうに立っていた。

「カゼをひかれたとか、お体の加減はいかがですか?」

私は突然の彼女の訪問に驚いて、その表情から窺える彼女の気分を推し

測りながら、

「どうもご心配をお掛けしました。お蔭で大分元気になりました。たぶ

ん明日の視察には参加できそうです」

「そうですか、それは良かったです。何だかわたしの所為でカゼをひか

せてしまったので気になって」

ドアを挟んでの立ち話だったが、彼女は得体の知れない西夏の女ではな

く賀川星子だった。すぐに会話は途絶えて、彼女は立ち去るものだと思

っていたが一向にその気配がなかった。かと言って出会ったばかりの女

性を深夜に部屋に招くわけにはいかない。短い沈黙のあと私は口を閉じ

たまま喉の奥で咳をした。すると、

「ごめんなさい、ここでの立ち話はお体に障りますよね。あのー、もし

よければお部屋に入ってもいいかしら?」

彼女の言葉に一瞬戸惑いながら、

「あっ、いいですよ、あなたさえ良ければ」

彼女の目を見ながらそう言った。そしてずっと握っていたドアノブを引

いてドアを開いた。彼女は頭を下げてから歩くたびに体を傾げながら部

屋に入った。私はそのうしろ姿を見ながら彼女への想いが次第に失せて

いくのを感じた。彼女に対する憧れのようなものが憐れみへと微妙に変

化したからかもしれない。新館の部屋はすべて洋式のツインルームでど

の部屋も同じ造りだった。彼女はたぶん部屋ごとに違うベットの上に掛

かった小さなリトグラフを一瞥してから窓のカーテンを開けてガラス越

しに外を眺めて、

「今夜も星がきれい」

と言った。私はドアを閉めて、

「カゼがうつらなければいいですが」

「カゼなんて気にしないから」

そう言いながら窓際のベットの端に腰を下ろした。そして、

「ねえ、あなたはどうして農業を始めようと思ったの?」

と聞いた。

「えっ、どうしてって」

私は自分の思っていることを簡単に伝えることができなかったので、

「あなたはどうしてですか?」

と返した。

「わたし。わたしはもう、わたしの人生は終わってしまったから、都会

から逃げ出したかったの」

わたしはその深刻な告白にどう応えていいのか分からなかったので黙っ

ていた。

「ほら、足が悪いでしょ。事故で足を痛めてから何もかも終わってしま

ったの」

「事故ですか?」

「ええ、自動車事故」

「そうなんですか。でも足が悪いだけで人生そのものが終わったわけで

はないでしょ」

「ダメよ、片輪の女なんか。憐れみを買うばかりでいざとなったら誰も

まともに係わろうとは思わないんだから」

「そうかな、そんな大したことだとは思わないけど」

「そうよ。他人にとってはどうだっていいことなんだけど、私にとって

はそれがすべてなの」

わたしは彼女のこれまでの心の葛藤も知らずに軽々しく慰めようとした

ことを恥じた。その苦しみは彼女が言った「片輪」という言葉に表れて

いた。わたしはその言葉に驚かされた。自らの身体を淡々と「片輪」と

言い切るまでにはどれほどの心の葛藤が繰り返されたことだろうか。

「私ね、どうしても農業がしたいからこの視察ツアーに参加したわけじ

ゃないの。もちろん生きていくためには働かなければならないけれど、

もう他人の好奇の目に曝されて身構えながら生きることにウンザリした

の。だから生きるにせよ死ぬにせよ、人知れずのんびりと暮らしたいと

思ったの。でもね・・・」

彼女は現地視察に参加してのんびりと暮らしている自営農家などまった

く存在しないことにガッカリした、と言った。それはわたしも同じ思い

だった。すでに経済至上主義は限界集落で暮らす人々までも洗脳し、面

白くもないイベントやどれもこれも似たり寄ったりの特産品を取り上げ

て「村おこし」に躍起になっている。それらは成功させなければならな

い正に都市イズムそのものだった。そして農家は農業所得を増やすため

に効率化を求め、設備や重機などを揃えるための先行投資を借金をして

購い、すでに農業は機械や薬品に頼らなければ成り立たないほど近代化

が進み、そこで余生をのんびり暮らしたいと思っている定年退職者や、

都会の煩わしさから遁れてゆっくり暮らしたいと願っている新規就農者

などは思いもしないブラック企業以上に過酷な労働を覚悟しなければな

らない。こうして近代化がもたらす効率主義の波は都市を呑み込んで農

村まで及び、農村で暮らす人々は都市で暮らす人々以上に近代化を渇望

している。

「たぶん、ぼくたちは波を避けようとして波の来る方へ逃げようとして

いる」

                 (つづく)


「明けない夜」(十)―⑨

2017-08-23 08:52:18 | 「明けない夜」10~⑨


       「明けない夜」

        (十)―⑨

 

 学生の頃、明け方まで友人たちと飲み歩いた帰り、始発電車を待って

駅から自宅までの道を酩酊しながら辿っていると、向こうから一人の男

が棒切れのようなものを振り回しながら悲鳴のような叫び声を上げてこ

っちへ向かって歩いてきた。寝静まった街は他に人影もなくただ異様な

叫び声だけが響いていた。わたしは酔っ払いだと思って相手にせずに行

き違おうとして道を譲ると、その男が振り回していた棒切れは盲人用の

白い杖だった。彼はわたしの存在にはまったく気付かずに慟哭しながら

白い杖を振り回していた。いったい彼に何があったか知る由もないが、

その悲痛な慟哭は振り回す白い杖そのものに象徴されていて、それ以上

の理由などどうだっていいことに思えた。すれ違った後、どうすること

もできないもどかしさから居た堪れない思いに苛まれてすっかり酔いも

醒め、彼が通り過ぎた後もしばらくわたしの頭の中には彼の悲痛な叫び

声がこだましていた。たぶん彼も人前では決してそのような自棄的な振

舞いは露ほども見せずに自らの境遇を淡々と受け入れて、もちろん生き

ていくためには受け入れざるを得ないのだが、平穏に日々を送っていた

に違いない。人は誰しも大なり小なりどうすることも出来ない苦悩を抱

えていて、生きるためにその苦悩から目を背けている。ところが、身体

の障害は隠すことができない。どれほど自分自身で納得しても生活に戻

ろうとして立ち上がった瞬間に躓く。それくらいのことは覚悟していて

も、健常者の前で奇態を曝け出さなければならなくなった時にその覚悟

は脆く砕け散り、居た堪れない思いに苛まれる。障害が精神の自由まで

も挫くのだ。わたしが感じた「居た堪れなさ」は彼がこれまでに何度も

味わってきた思いに違いない。

「私ね、明日からの研修は参加しないことに決めたの」

賀川星子は座っていたソファから立ち上がってびっこを引きながら窓の

側へ近付いて再び夜空を眺めた。

「どうしてですか?」

「だって農業がしたいから参加したんじゃないのよ」

「そうでしたね」

「ほんとうは一人になってゆっくり考えたかっただけなの」

「ええ」

彼女が話さなかったのでしばらく静まった。そして、振り返って、

「ねえ、お酒飲みません?」

「あります?」

「冷蔵庫に」

そうだった、確かに部屋の冷蔵庫には缶ビールが入っていた。冷蔵庫

から缶ビールを二つ取り出して一つを彼女に手渡した。プルタブを引き

開けてからお互いの缶を合わせた。彼女はすぐに缶に口を付けて傾け

一気に喉に流し込んだ。わたしは熱くなった喉を労わりながらゆっくり飲

んだ。カゼの所為でまったく味はしなかったがその冷たさが美味かった。

味覚は五つあると言われているが、なぜ冷たさや熱さといった温度がそ

の中に数えられていないのか不思議だった。缶を口から離して頭を戻し

た彼女と目が合った。わたしはとっさに目を逸らして二人の間に置かれ

たテーブルに缶ビールを置いた。そして、気になっていることを聞いた。

「でも、どうしてそんなに大胆なんですか?」

「だいたん?」

「だってふつうは警戒して男の部屋に一人で入ったりしないでしょ」

「もしかして迷惑だった?」

「いやそんなことないけれど、ただ驚いただけです」

「ほら、さっきも言ったけど事故で私の人生は終わってしまったから、

もう怖いものなんて何もないのよ」

「ふーん。でもいったいどんな事故だったんですか?」

「私、結婚するつもりで付き合っていた人が居たんだけど、その彼がず

っと前から付き合っていた女性とも続いていたことが分かって、それま

でにも何度かそんなことがあったんで、それで決心が着いて別れようと

思った」

「二股っていうやつですね」

「しばらくして、どうしてももう一度会いたいというので会って最後にしよ

と思ったの」

「うん」

「すると彼は何故か車で来たので仕方なく助手席に座った。何処へ行く

つもりなのかと訊いても教えないで、ただ自分の勝手な言い訳を繰り返

すばかりで私は耳を貸さずに黙っていた。郊外の洒落たレストランに着

いたが、そこは二人が初めてのデートで車で立ち寄った店だった。付き

合い始めた頃はそんな凝った演出も自分を喜ばしてくれるためにしてく

ているんだと好意的に受け入れたけれど、嫌いになると、ウケた話を

何度でも繰り返す無粋さや、別れ話をするためにわざわざそんな所まで

連れて来る鈍感さが耐えられなかった。私はまったくそんな気になれな

かったので入らずに帰ろうとしたけれどどうして帰ればいいのか分から

ない。仕方なく彼に元の場所へ引き返すように訴えて彼も仕方なく了承

した。帰りの車の中では今度は私が彼から受けたストレスをぶちまけた。

彼は黙って聞いていた。そして、次の交差点を右折すればいよいよ私の

家に近付くというところで、彼は何を思ったのか停止していた右折レーン

から車を急発進させたので直進してくる対向車と衝突した。助手席に座っ

ていた私に対向車が全速で突っ込んできた。対向車のヘッドライトの閃

光が眩しかったことは覚えているが、その後のことは何も覚えていない。

気が付けば病院のベットの上で、骨盤と大腿骨など何ヶ所も損傷してい

ると医者が説明した」

言い終わると彼女は缶を逆さにして残ったビールを飲んだ。

                         (つづく)