「明けない夜」
(十)―⑤
幹線道路沿いの「道の駅」に到着する頃には担当者の口笛のお陰で
車内の雰囲気もだいぶ和らいで、それぞれの夫婦が交わす遠慮のない
会話が耳に届いた。ただ、独りで参加した女性だけは窓際に座ってイ
ヤホーンをしたままずっと窓の外ばかり眺めて馴染もうとはしなかっ
た。強い意志を感じさせるキリッとした目をしていて顔立ちはまるで
刃物で丸みを削ぎ落としたような輪郭のはっきりしたきれいな女性だ
った。髪は後ろで束ねられて細工されていた。私は、何故か彼女を見
た瞬間に井上靖の小説「敦煌」に出てくる西夏の若い女を思い重ねた。
小説「敦煌」は宋の時代の話で、主人公の趙行徳は念願の官吏試験
に挑むが試験会場で待たされている間に眠入ってしまい、まるで「邯
鄲の夢」のような展開によって試験を受けられなくなってしまう。失
意のうちに城内を歩き回っているうちに城外に出てしまい、市場に黒
山の人集りができていて、そこには不義をはたらいた上に重罪を犯そ
うとした裸の女が切り売りされようとしていた。女は西夏出身で自らが
殺されることにまったく怖じけた様子がない。彼はその女を買い取って
自由にしてやると女は彼に西夏文字が書かれた一枚の布片を与えた。
こうして主人公は西夏の女の激しい気性と謎の西夏文字に惹かれて西
夏へ行こうと決心する。そもそも小説「敦煌」は、1900年の初めに流砂
に埋もれた洞窟から九世紀も前の夥しい量の文書が発見された驚くべき
事実から、井上靖氏がその顛末を空想した物語であって、趙行徳も西夏
の女も架空の存在でしかない。私は趙行徳を西夏へと向かわせる動機に
しては些か無理があると思ったが、どうしてか西夏の女のことだけは記憶
に残っていた。そして農業体験ツアーのワゴン車で始めて彼女を見て「西
夏の女だ」と心の中で叫んだ。私は趙行徳と同じようにどこか陰のある彼
女が気になって仕方なかった。
ワゴン車が駐車場に停車すると担当者が、
「遅くなって失礼ですが、ここでお昼を取っていただきます」
前の席の者がサイドドアから降り始め、私は奥に座っている彼女のた
めに椅子を移動させようとすると、担当者が助手席から、
「あっ、彼女はもうお昼は済まされてますので降りられません」
と言ったので彼女だけを残して車を降りた。レストランはバイキング
形式で地産地消を謳った料理が大皿に並べられていたが、既に昼のピ
ークが過ぎていたので空の皿が三つ四つあった。ワゴン車に戻ってく
ると相変わらず彼女はイヤホーンをしたまま窓の外を眺めていた。車
は駐車場を出てから幹線道路を右折して未だ震災による大津波の爪跡
が残る沿岸の方へ向かった。海岸線を望める高台に立って海岸線へと
続くきれいに整地された平地には何事も起こらなかったようにも見えた
が、「3.11」までは千人余りの人々が暮らす町があったと担当者の
説明を聴くとあまりにもかけ離れた現実から想像ができなかった。取
り戻すことのできない現実と想像できないもどかしさだけが残った。
ただ私は、この時も車から降りようとしなかった彼女のことが気にな
った。
「どうかされましたか?」
「ちょっと疲れただけですからどうか気になさらないで」
それ以上関与するわけにはいかなかった。ワゴン車が宿舎に着くと、
さすがに彼女も車から降りなければならなかった。私が椅子を移動さ
せてから降りると、彼女は意を決して立ち上がって後に続いた。しば
らくして振り返ると、彼女が片方の足に重心が移る度にそちらの方へ
身体が傾いだ。彼女は足が不自由だった。
(つづく)