「カナ縛り」
「この部屋に男の人が入るの、あなたが初めてよ」
「へーっ、それは光栄だ。おれの部屋に君が来たのは、えーっと何人目
だっけ?」
「いいよ!数えなくたって」
赤子の反応には「人見知り」だけでなく「場所見知り」ということば
もあるらしいが、高校生の時に一コ上の彼女が、今日は家に誰も居ない
から遊びに来ない?と誘うので、シッポを膨らまして、いやシッポを振
って着いて行った。彼女の部屋に入ると、いつまでも二人っきりで話を
したりゲームをしたりするつもりなどなかったので、イチャツいている
うちに絡み合って彼女のベッドの上に倒れ込んだ。しばらくして、彼女
の喘ぎ声が次第に大きくなって部屋中にこだまし始めた時、突然後ろの
ドアが開いて、「何やってんだ!」と彼女の喘ぎ声を遮るように大きな
怒鳴り声がして、振り返ると見知らぬ中年おやじが顔を真っ赤にして立
っていた。おれは何をやっているのかいちいち説明しようとは思わなか
ったが、ただ、そっちの方からだけは見られたくないなぁ、と思った。
その男は彼女の父親で、予定を変更して一人で戻ってきたらしい。もっ
とも彼女は「あの人、マジ親じゃないから気にしなくていいよ」とは言
ったが、そういう問題じゃないだろと思った。
その時以来、おれの赤子は「人見知りは」はまったくしないが「場所
見知り」をするようになって、馴染みのない部屋はもちろんのこと、セ
キュリティーのしっかりしたホテルの客室であっても、コタツの中の猫
のように丸くなったまま全く反応しなくなった。
「早く入ってよ、他人に見られたくないから」
彼女は部屋の中からドアの前で躊躇っているおれを促した。
「ごめんごめん」
彼女の部屋は何処にでもあるマンションの2LDKだった。彼女がリビ
ングのドアを開けて中に入ったので後に続いた。すると突然奥の方から
何か物音がした。おれは、
「えっ!誰か居るの?」
「ネコが居るの」
ソファで寝ていたネコがおれの侵入に驚いて、部屋の隅に設えられたキ
ャットタワーに慌てて飛び移った音だった。彼女が言うには、それはノ
ルウェージャンフォレストキャットって種類で、小型の成犬よりも大き
かった。ネコはその最上部から大きな目でおれを見降ろしていた。
「大きなネコだね」
「でも、かわいいでしょ」
「さっきからじーっとおれを見てる」
「男の人を見るの初めてだから」
「オス?」
「それがね、くれた人はメスだって言ったんだけど、わたしもてっきり
メスだと思って飼っていたら、しばらくしてキンタマが出て来たの。そ
んなことってあるのかしら?」
おれは、ネコの性別の雌雄がどう決着するかよりも、彼女が「キンタマ」
と言ったことにビックリした。普段はおれが下ネタを言っただけでも厭
な顔をして窘めたのに猫を被っていたのかもしれない。彼女は帰途にコ
ンビニで買った惣菜などを持ってキッチンの方へ行ったので、おれはし
ばらくキンタマのあるメスネコと睨み合っていた。すでにテーブルには
彼女の白ワインとおれの焼酎が置かれていた。彼女は惣菜を温めて皿に
移し替えて、そしてグラスとアイスペールを持って戻って来た。ふたり
はさっそくカンパイをしてそれぞれのグラスに口を付けた。すでに彼女
はおれの部屋には何度も訪れていたので、つまり二人は「出来ていた」
のでいまさら何の気兼ねもなかったが、強いて言えば、おれの「場所見
知り」だけが気掛かりだった。そこでおれは何処に居るのか分らなくな
るまで酔っ払ってしまおうと思って普段よりもグラスを傾けるピッチを
上げた。やがてアルコールで理性を流し落とした二人は残った本能に促
されて絡み合った。別に官能小説を書くつもりはないのであまり閨房の
様を詳しく描写するつもりはないが、この酩酊作戦は性交、じゃなかっ
た成功した。彼女に誘われてベッドに移った時には何処に居るのかさえ
忘れて本能が意識を凌駕した。しかし飲酒がもたらした酩酊は気紛れで
思わぬ覚醒が訪れた。彼女が喘ぎ声を洩らした時に「あの時」の事が甦
った。思わず振り返ると薄暗い部屋の衣装箪笥の上からさっきのネコが
二人の行為をじっと見ていた。彼はさすがに「何やってんだ!」とは言
わなかったが、おれは、そっちの方からだけは見られたくないなぁ、と
思った。羞恥の記憶は現実への執着を喪失させる。すっかり酔いも醒め
て、おれの赤子は「場所見知り」をして忽ち萎えてしまった。散々彼女
の罵声を浴びながら、彼女が和室に用意してくれた布団にシッポを巻い
て退散した。
どれほど眠ったのか覚えていなかったが、用を足そうと思って起き上
がろうとしても体が起こせない。ジタバタしているうちに尿意がひっ迫
してくる。ここで粗相をするわけにはいかないと焦ってもどうにもなら
ない。「あっ!こっ、これは金縛りだ」と思って大声を上げた。すると
彼女が部屋の引戸を開けて現れた。
「ちょっと、夜中に大きな声を出さないでよ!」
「かっ、金縛りだ!おい、この部屋、なんかいるんじゃないか?」
「縁起でもないこと言わないでよ。カナちゃんが上に乗ってるだけじ
ゃない」
頭を起こして胸元を見ると、おれの胸の上でネコが丸くなって寝てい
た。ネコを払い除けてトイレへ駆け込んだ。戻ってきたおれは、
「おい、さっきネコの名前なんて言った?」
「カナ、カナちゃん」
「えっ!カナ?」
「そう、オスかな、メスかな、って迷ったからカナちゃんにしたの」
「カナ・・・か」
「カナちゃん」は畳の上で前足をきちんと揃えて座りながら穢れのない
円らな眼でおれを見た。その眼はなにか別の世界から本能を弄ぶ人間た
ちのさもしい理性を観念的に窺っているように思えた。否、それともた
だおれのふしだらな情欲が清澄な無辜の眼差しに堪えられなかっただけ
かもしれない。しばらくして彼女とは別れた。
(おわり)