「二元論」(17)のつづき

2021-08-29 08:21:45 | 「二元論」

    「二元論」

 

     (17)のつづき


 〈存在が現存在(人間)を規定する〉のか、それとも〈現存在(人

間)が存在を規定する〉のかの二元論は、つまり人間とは、世界に

依存する〈世界=内=存在〉なのか、それとも人間こそが世界の中

心的存在であって自立するために世界を作り変えること(利用する

こと)が許された存在なのか、のどちらが優先するのかに理性的根拠

はない。われわれはただ世界(自然)を制作のための単なる材料・資料

として扱うことによって地球環境が生存に好ましくない変化をもたら

した結果だけから、つまり「事実存在」から「まずいんじゃないの」

と思っているだけで、しかしそれは生存環境が改まればあっさり忘れ

去られることで、なんら本質的な存在概念とは言えない。つまり、わ

れわれは世界が行き詰まりに達したからといって人間中心主義的世界

観を決して改めようとは思わないだろう。それはまさに2015年に

国連が全会一致で採択したSDGs 「Sustainable Development Goals

(持続可能な開発目標)」 に関することで、そこでは〈世界=内=存在〉

として世界に依存する人間と、人間中心主義的世界観の下に自立を掲げ

る近代人の背反する二律を目標に掲げている。しかし、私は決してSD

Gsを批判しているつもりはない、むしろ、それどころか〈存在=生成

=自然〉という存在概念の下では可変的なこういう「どっち付かず」の

あり方こそが〈生成〉的な展望ではないかとさえ思っている。確信的な

理性的根拠が存在しない二元論の下では「真理とは幻想である」(ニーチ

ェ)のだから。

 

                         (つづく)

 


「二元論」 (17)

2021-08-23 08:09:53 | 「二元論」

     「二元論」


     (17)


 かつてハイデガーを「思索の転回」に陥れた「二元論」は、存在

を「本質存在」と「事実存在」とに二分して思考する「形而上学」

によってもたらされた。それは「存在とは何か?」と問うソクラテ

スを師と仰ぐプラトン・アリストテレスから始まって、プラトンの

「イデア論」は中世西洋では真の世界と仮象の世界に二分する二世

界論と呼ばれるキリスト教世界観、そして近代になると形而上学的

二元論は科学主義をもたらした。


「二元論」 (16)のつづき

2021-08-16 04:45:44 | 「二元論」

   「二元論」


    (16)のつづき


 ハイデガーが〈現存在(人間)は存在を規定する〉という存在概念

によって、つまり「人間が世界の主体である」という了解の下で、

もう一度〈世界=生成〉という自然観を取り戻そうとして文化革命

を掲げるナチス・ドイツに積極的に加担したが、しかし、転回(ケ

―レ)後も消極的ではあれ、また存在概念はどうであれその目指す

世界観は一貫して変わらなかった。ただ、時代は「世界は人間のた

めにある」と言わんばかりの科学革命が全盛で、始原の復権を訴え

るハイデガーは「何がなしうるのか」と自問して、「失われた存在

を追想しつつ待つことだけだ」(木田元)と自答するしかなかった。

あれからおよそ百年を経て、グローバル化した世界の下で八十億も

の現存在(人間)が近代生活を求めて蠢き合い、その結果、生存環境

が破壊され「成長の限界」に達して、もはや人間中心主義(ヒューマ

ニズム)的文化の終焉に怯えて立ち尽しているところに、待ち続けて

いたハイデガーの姿が現われた。

                           (つづく)


「二元論」(16)

2021-08-15 11:48:32 | 「二元論」

   「二元論」


    (16)


 初期のハイデガーが「現存在が存在を規定する」、つまり「人間

は世界を変えてもいい」と考えたことと、転回(ケ―レ)を余儀なく

されてからはそれとは正反対に「存在が現存在を規定する」、つま

り「人間は世界の一部である」へと思想転換したことの形而上学上

の明確な根拠は存在しない。人間が世界を了解する視点に立って、

自分の思い通りに世界を作り変えてもいいのか、それとも自分は世

界の中の一部、つまり〈世界=内=存在〉として世界と共に在るべ

きなのか、の認識の選択は、世界がグローバル化(globe-al:金魚鉢‐

化)によって限界に達した近代社会において経済成長か、それとも環

境問題かへと転化される。つまり、経済成長を求めれば環境破壊が

進み、環境破壊を意識すれば経済成長が失われる。そして、そのど

ちらの選択にも明確な根拠が存在しない、とすれば、いわゆる環境

問題はハイデガーが転回(ケ―レ)を余儀なくされた、まさに根拠の

ない形而上学的二元論の延長線上にある。つまり、成長か環境かの

問題は、存在(世界)か現存在(人間)かの二元論に端を発する。

                        (つづく)


「二元論」 (15)のつづき

2021-08-14 16:53:51 | 「二元論」

    「二元論」


   (15)のつづき


 ハイデガーは、「存在と時間」の上巻の発刊後に思想転回(ケ―

レ)を余儀なくされて下巻の刊行を断念せざるを得なくなった。し

かし、ソクラテスを師と仰ぐプラトン・アリストテレスによって始

まった〈存在〉を「本質存在」と「事実存在」に二元化して思考す

る形而上学的思考から自然を制作のための単なる材料・質料と見る

存在概念によって構成された人間中心主義(ヒューマニズム)的文化

の限界をよみ取り、〈存在=生成〉という存在概念による自然観を

復権させようという企ては、折しも国民の支持を得た人種主義者ヒ

ットラー率いるナチス・ドイツに加担することによって文化革命を

具現化させようとしたが、間もなくしてナチス・ドイツは敗北のの

ち残虐なホロコースト政策が断罪されて、ハイデガーもまた批判の

矢面に立たされた。これら度重なる挫折を味わったのち、しかし、

〈現存在(人間)が存在を規定する〉という存在概念によって構成さ

れた人間中心主義(ヒューマニズム)的文化が限界に達することを確

信していたが、ハイデガー哲学の第一人者木田元は、「では、この

形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれに何がなしうるのか

。失われた存在を追想しつつ待つことだけと後期のハイデガーは

考えていたようである。」(木田元「ハイデガーの思想」)

 

実は大雨洪水警報の警戒レベル5相当が出ていてこんなことをしている     場合じゃないのですが、かと言っても何もすることがないので(つづく)