ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社) ー③ー

2019-06-16 19:07:25 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

       ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)


             ー③ー


 今や近代社会は経済成長の限界だけにとどまらず、様々な状況の

「限界」に直面しています。人口爆発、異常気象をもたらす地球温

暖化ガスの排出、自然破壊、資源の枯渇、そして格差社会など、ま

た国内だけで見れば高齢化による少子化社会、都市部への一極集中

、異常気象による自然災害などなど、それらは何れも科学文明によ

る「固定化」がもたらした状況の「限界」である。そもそも科学文

明社会は固定化した仕組みによって変動する生成の侵入を制圧して

秩序を維持してきた。しかし、世界とは生成でありカオスであると

すれば、固定化した科学文明社会もいずれはその限界に達する日が

くるに違いない。つまり、それはこれまで通りの生活が続けられな

くなる日が来るということである。われわれはこの道(近代科学文明

社会)を引き返すか、或は方向転換が迫られるだろう。かりに多くの

人間が存在しなくなる戦争でも起きない限りは。

 生存環境の変化によって転換を余儀なくされた近代科学文明社会

は、果たして新しい価値設定を何に求めればいいのだろうか?とこ

ろでハイデガーは、「人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性

にもとづく新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存在

概念を構成、もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然

観を復権することによって、明らかに行きづまりにきている近代ヨ

ーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたのであ

る」(木田元著「ハイデガーの思想」岩波新書268)しかし、この

企ては挫折した。それは「人間中心主義的文化の転覆を人間が主導

権をとっておこなうというのは、明らかに自己撞着であろう。」(同

書)「では、この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれに何

がなしうるのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけだ、と後

期のハイデガーは考えていたようである。」(同書)

 では、ハイデガーはいったい「何を」待つことだけだと思ったのだ

ろうか?それは、「明らかに行きづまりにきている近代ヨーロッパの

人間中心主義的文化」の崩壊である。だとすれば、今まさにその時で

はないか。近代社会が限界に達した今日こそ、自家撞着に陥らずに、

〈存在=生成〉への回帰が求められているのではないだろうか。

 さて、近代社会において最も重要な価値とはヒューマニズム(人間

中心主義)である。「人命は地球より重い」と揶揄された時代すらあ

ったが、そもそも地球は人間のためにあるのではないが、それにして

も、人口爆発によって物理的な人権の価値は著しく暴落し始めていて

、マイノリティーへの差別や優生思想の復権など、その兆候をいたる

処で見聞きする。近代社会はヒューマニズムの下で発展してきたが、

新興国の近代化に伴ってヒューマニズムが蔑ろにされている。かつて

、中国の政治家は先進国からの人権に対する批判に対して、人口の多

さを理由に先進国と同じようには対応できないというようなことを言

ったが、分からないでもない。今や米中の対立は、ヒューマニズム、

或は「自由と民主主義」をめぐる対立にほかならない。ただ、限られ

た世界の中で飽和に達した人間の権利を守ることはそう簡単ではない

。水は低い所に流れるとすれば、世界限界論の下では「人命は国家よ

り軽い」とならざるを得ない。では、中国が覇権を握った世界ではい

ったいどんな政治が行われるか?それは科学主義による「生成」の固

定化、つまりAIによる管理社会であり、人間の家畜化にほかならな

い。そしてそれはニーチェ=ハイデガーが唱える「生成」への回帰と

は正反対の世界である。つまり、近代科学文明の限界とはヒューマ二

ズム(人間中心主義)の限界でもある。

                         (つづく)


ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社) ー②ー

2019-06-16 16:03:57 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

    ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)

             

             ー②ー 

 さてニーチェは、《新しい価値定立の原理を確立する課題にとって、芸

術こそが決定的意義を持つ》と言います。つまり、変遷流転する「生成」

の世界で絶対不変の「真理」を追い求めても、われわれの理性は「真理」

に到達できず、その喪失感と共にニヒリズムが芽生える。しかし「芸術は

ニヒリズムに対する卓越した反対運動であ」り、「芸術は真理よりも多く

の価値がある」。そして、「われわれは真理のために没落することがない

ようにするために、芸術を持っている」とまで言います。それは「創造す

る」ためには「美への陶酔」が不可欠であり、「美への陶酔」こそが「生

成」の本質「力への意志」にほかならないからです。つまり、「芸術は力

への意志のもっとも透明で熟知の形態である」のです。ただ、「創造する」

行為に「陶酔」が生まれるので、「芸術は芸術家の側から把握されなけれ

ばならない」、創造行為こそが「力への意志」の具現化した姿だと言いま

す。

 世界とは「生成」であるとすれば、「生成」とは変遷流転する世界であ

り、その一方で、「真理」とは固定化した認識で、科学技術はその固定化

した「真理」の追究から派生した固定化した技術である。「生成」の世界

は回帰しながら循環して永劫性を持続するが、科学技術は直線的でやがて

限界に達して持続できなくなる。ハイデガーは、原点を忘れた人間中心主

義の直線的な近代社会を「存在忘却」或は「故郷喪失」と言ったが、それ

は「生成」としての世界を再び取り戻すためにほかならなかった。しかし

、人間中心主義の社会を人間の手によって転換することは自家撞着にほか

ならない。ところが、今や「生成」の世界の限界によって、それは直線的

な科学技術によって「生成」の回帰循環が阻まれて、自然環境の持続可能

性が失われ「生成」への回帰が叫ばれている。かつてハイデガーが主張し

て、しかし諦めざるを得なかった「生成」への回帰が、世界が限界に達し

たことによって、再び見直されようとしている。

 では、「真理」に代わる新しい価値定立としての「芸術」をどう捉えれ

ばいいのだろうか?それに関してすでにニーチェは一つの命題を挙げてい

ます。それは「芸術は芸術家の側から把握されなければならない」と言う

のです。さらに、「芸術と真理との関係について、私はもっとも早い時期

に、重大な問題に気づいた。そして今でも、或る神聖な驚きを抱いてこの

離間の前に立っているのである」と書き残しています。では、芸術と真理

の関係にある「驚愕すべき離間」とはいったい何でしょうか?そもそも芸

術とは「芸術家の側から把握されるとすれば」作品を制作する創造活動で

すが、その創造活動とは「美」の創造にほかならない。そして真理は理性

による認識からもたらされる。つまり、芸術と真理の「驚嘆すべき離間の」

関係は、「芸術と科学的認識との関係、ないしは美と真理との関係として

とらえられなくてはならない。」(本書)本書では以下で芸術と真理の本

質をプラトンのイデアにまで遡って延々と記述されるが、ここでは取り上

げずに私論を述べますが、対象への向き合い方が対照的であると思った。

つまり、芸術は未だ存在しない世界を創造によって制作する行為だが、真

理は既に存在する世界を理性によって認識する行為である。存在者(世界)

に対する向き合い方が「創造」と「認識」では異なるのだ。さらに、芸術

における創作は主観的であり流動的であるが、真理を求める認識は客観的

であり固定的である。そして世界とは変動する「生成」であり「力への意

志」であるなら、世界を固定化によって認識しようとする理性は真理を掴

み損ねてニヒリズムへと頽落する。そこで、「われわれは真理のために没

落することがないように芸術をもっている」。

                          (つづく)


ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)

2019-05-27 04:35:48 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

     ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)


 この本 (ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ) はすでにこのブログで何

度も取り上げましたが、実は難解すぎてよく分からずに引用ばかりして

投稿していましたが、もちろん読み終えた今もほとんどチンプンカンプ

ンなんですが、しかし、いまやグローバル経済の下で「成長の限界」を

迎え行き詰まりにきているこの時代にこれからどう生きるべきかを教え

てくれる貴重な哲学書だと信じて已(や)みません。以下は私がニーチェ

=ハイデガーが残した命題を手引きにして、稚拙ではありますが、行き

詰まりの近代社会を転換させることができるヒントがあるのではないか

と、極力引用を用いずに分かり易く記してみたいと思います。

 まずニーチェは、世界とは「生成」であると言います。そして「生成」

とは変遷流転する世界であり、そこでは「真らしきもの」は必然として

求められても絶対不変である「真理」そのものは幻想であると言うので

す。つまり変動する「生成」の世界では堅固に固定化された「真理」も

絶対ではないのです。では、「真理」とは何であるか?われわれの理性

が創り上げた認識である。たとえば、ここに書かれた文章は私の理性が

創作した認識であるが、これらは固定化された文章と今現在の認識であ

り、いずれ「生成」変化する社会にそぐわなくなる。過去に書き残した

文章を改めて読み返してみた時に、現在の自分の感想の違いに思わず恥

ずかしくなる。それは、われわれの理性が創り出すものは固定化したも

ので、それらはいずれ変遷流転する「生成」の世界にそぐわなくなるか

らだ。では、われわれが創作した様々なもの、それはかつては絶対的な

宗教もそうだったが、今や堅固に固定化された科学製品も劣化の果てに

「生成」の世界とそぐわなくなる。いや、すでに科学物質は、「生成」

の循環再生を阻害して、様々な自然環境の変化をもたらしている。

 そもそも形而上学《Meta-physics》とは、存在者(事実存在)として

の存在(本質存在)とは何であるかを思惟する学問で、それは古代ギリシ

ャのプラトン・アリストテレスから始まった。プラトンは、「生成」と

しての存在はいずれ消え去る不完全な仮象の存在でしかなく、完全な理

想の存在こそが真の存在であると言い、それを「イデア」と言った。こ

うして世界は事実存在としての仮象の世界と、本質存在としての「イデ

ア」の世界に二分され、「イデア」の世界は後にキリスト教世界観へと

引き継がれ、形而上学による「真理」の追求はやがて科学知識をもたら

した。しかしニーチェが言うように、世界とは変遷流転する「生成」で

あるとすれば、「真理」もまた固定化したものではなく、「真らしきも

の」として必然性はあっても真理そのものは「幻想」でしかない。あの

ー、今さら改めて言うのも何ですが、「変遷流転する真理」というのは

そもそも矛盾律ですから、当然「真理は一つで不変」でなければならな

いのですが、「生成」の世界にそぐわない固定化した「真理」は科学を

生み、科学知識は固定化した科学物質を創出し、変遷流転する「生成」

の世界で「永劫に回帰する」自然循環を妨げ再生を滞らせ「生成」のし

くみを破壊する。つまり、自然と科学の対立は、簡単に言ってしまえば

、生成変化する自然(生成)に固定化した科学(真理)がそぐわないことか

ら生まれる。ニーチェが言うように世界とは変遷流転する「生成」であ

るとすれば、固定化した科学技術は「生成」の進化をも妨げる。たとえ

ば、科学文明社会で暮らすわれわれの視力はすでに科学技術の補助「メ

ガネ」なしでは生活できないほどにまで退化している。いずれ人類は「

メガネを付けた生物」と定義する日が来るに違いない。こうして、科学

技術の進化への依存は身体的「退化」を加速させる。すでに我々は死だ

けでなく誕生でさえも科学技術の介入によって「生成」が人為的に歪め

られようとしている。ところで、科学技術によって人為的に管理された

生命とは「家畜」にほかならない。

 「真理とは幻想なり」であるとすれば、われわれの認識は「真理」に

 的中せずに世界は意味を失い「ニヒリズム(虚無主義)」へ陥る。真の世

 界(イデア)の頽落は同時に仮象の世界(現実)を無価値化する。「ニヒリ

 ズム」から脱け出すためにわれわれに求められるのは新しい価値の設定

 である。かつて、われわれは「神は死んだ」と聞いて、人間中心主義(

 ヒューマニズム)に価値を見い出し、科学技術によって「生成」の世界を

 作り変えてきた。しかし今や科学技術がもたらす環境破壊は「生成」の

 循環再生が妨げられ、グローバリゼーションの下ですでに限界を越えて

 、「生成」としての世界の持続可能性が危ぶまれている。地球温暖化が

 もたらす異常気象、自然破壊による環境変化、そして人口爆発などなど

 、いずれも限界に達した地球環境の下で、これまでは世界内存在(ハイ

デガー)として「正義」のお墨付きを与えてきた「ヒューマニズム」が

その価値を失うのもそう先の話ではないのかもしれない。いや、もっと

はっきり言おう、ヒューマニズムが蔑ろにされる最大の出来事とは戦争

である。「成長の限界」に達した世界経済の下では経済成長は「ゼロサ

ム」化して、たとえば、中国の利益はアメリカの損失になるだけで、世

界の生産量そのものは変わらない。だが、経済成長の奪い合いは次第に

熾烈になってやがて戦争へと至る。そして戦争はヒューマニズムを喪失

させニヒリズムを生む。  

 固定化した科学知識から作られた機械や科学物質はゴミにな っても「

生成」へは回帰せずに世界にとどまる。「生成」は材料として人間中心

主義の下に固定化した人工物質に造り変えられて持続可能性(サステイナ

ブ ル)を失い再生されなくなる。限界に達した近代社会は、行き過ぎた科

学主義を見直して「生成」としての世界に回帰しなければならない。「生

成 」への回帰はヒューマニズムの放棄にほかならないが、世界内存在とし

て「生成」の世界に依存しなければ生きていけないヒューマン(人間)にと

って仕方のないことだと思う。なぜなら、世界が終わっても、それでも人

間だけが残っていることなど起こり得ないからだ。気持ちは分かるが「人

命は地球より重い」訳がない。限界に達した近代社会を見直して、新しい

社会的価値を見い出すには大きな価値の転換が求められる。新しい価値定

立は、限界に達した科学主義をまずは「断念」する「覚悟」が求められる

。何故なら科学主義的視点からいくら新しい価値の創出を試みてもそれは

従来の延長線上の付け足しでしかなく、価値転換は起こらない。自動車に

乗って舗装された道路を走りながら前人未踏の世界を探しても見つかるわ

けがない。価値転換はまず意識転換から始まる。たとえば、地球温暖化問

題への危機感を共有し、いち早く対応した西欧諸国では官民を挙げて規模

の大小を問わずに継続して取り込んでいる。ところが地球温暖化問題を疑

うアメリカに依存するわが国は、かつては京都で開催された「COP3」

で環境意識が高まったがその時だけで終わってしまった。西欧諸国は日本

の環境技術へ期待を寄せていたが、われわれは従米主義から自立すること

ができなかった。つまり、われわれは未来よりも今を選んだ。

 

                           (つづく)