ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)
ー③ー
今や近代社会は経済成長の限界だけにとどまらず、様々な状況の
「限界」に直面しています。人口爆発、異常気象をもたらす地球温
暖化ガスの排出、自然破壊、資源の枯渇、そして格差社会など、ま
た国内だけで見れば高齢化による少子化社会、都市部への一極集中
、異常気象による自然災害などなど、それらは何れも科学文明によ
る「固定化」がもたらした状況の「限界」である。そもそも科学文
明社会は固定化した仕組みによって変動する生成の侵入を制圧して
秩序を維持してきた。しかし、世界とは生成でありカオスであると
すれば、固定化した科学文明社会もいずれはその限界に達する日が
くるに違いない。つまり、それはこれまで通りの生活が続けられな
くなる日が来るということである。われわれはこの道(近代科学文明
社会)を引き返すか、或は方向転換が迫られるだろう。かりに多くの
人間が存在しなくなる戦争でも起きない限りは。
生存環境の変化によって転換を余儀なくされた近代科学文明社会
は、果たして新しい価値設定を何に求めればいいのだろうか?とこ
ろでハイデガーは、「人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性
にもとづく新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存在
概念を構成、もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然
観を復権することによって、明らかに行きづまりにきている近代ヨ
ーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたのであ
る」(木田元著「ハイデガーの思想」岩波新書268)しかし、この
企ては挫折した。それは「人間中心主義的文化の転覆を人間が主導
権をとっておこなうというのは、明らかに自己撞着であろう。」(同
書)「では、この形而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれに何
がなしうるのか。失われた存在を追想しつつ待つことだけだ、と後
期のハイデガーは考えていたようである。」(同書)
では、ハイデガーはいったい「何を」待つことだけだと思ったのだ
ろうか?それは、「明らかに行きづまりにきている近代ヨーロッパの
人間中心主義的文化」の崩壊である。だとすれば、今まさにその時で
はないか。近代社会が限界に達した今日こそ、自家撞着に陥らずに、
〈存在=生成〉への回帰が求められているのではないだろうか。
さて、近代社会において最も重要な価値とはヒューマニズム(人間
中心主義)である。「人命は地球より重い」と揶揄された時代すらあ
ったが、そもそも地球は人間のためにあるのではないが、それにして
も、人口爆発によって物理的な人権の価値は著しく暴落し始めていて
、マイノリティーへの差別や優生思想の復権など、その兆候をいたる
処で見聞きする。近代社会はヒューマニズムの下で発展してきたが、
新興国の近代化に伴ってヒューマニズムが蔑ろにされている。かつて
、中国の政治家は先進国からの人権に対する批判に対して、人口の多
さを理由に先進国と同じようには対応できないというようなことを言
ったが、分からないでもない。今や米中の対立は、ヒューマニズム、
或は「自由と民主主義」をめぐる対立にほかならない。ただ、限られ
た世界の中で飽和に達した人間の権利を守ることはそう簡単ではない
。水は低い所に流れるとすれば、世界限界論の下では「人命は国家よ
り軽い」とならざるを得ない。では、中国が覇権を握った世界ではい
ったいどんな政治が行われるか?それは科学主義による「生成」の固
定化、つまりAIによる管理社会であり、人間の家畜化にほかならな
い。そしてそれはニーチェ=ハイデガーが唱える「生成」への回帰と
は正反対の世界である。つまり、近代科学文明の限界とはヒューマ二
ズム(人間中心主義)の限界でもある。
(つづく)