「明けない夜」
(九)―⑥
「だけどそれじゃあ近代以前の貧しい時代へ戻るだけじゃないか」
「確かに近代文明を棄てれば前近代しかないけれど、だけど近代化へ
向かうしかなかった前近代とは全然違う」
「何が違う?」
「まず意識が違う。つまり世界限界を意識した者とそうでない者と」
「だけど意識が変わっただけで世界が変わるかな?」
「少なくとも意識を変えなければ何も変わらない。たとえば、クロマ
グロが絶滅すればいくらクロマグロの刺身が食べたいと思っても絶対
に食べることはできないように、生存環境が破壊されればどれほど近
代的な生活を望んでも生存そのものが危ぶまれる。クロマグロを食べ
続けるためにはまずクロマグロを食べないことしかない」
「それってジレンマだね」
「そうです、世界限界論は様々な文明のジレンマを生みます。いや、
そもそも内在していた根源的な矛盾が限界に達して転化できなくなっ
ただけなんですけど、たとえば破壊が新たな成長をもたらすだとか、
平和を守るために戦わなければならいだとか」
「なるほど」
「でも、絶滅によってクロマグロが食べられないことと絶滅させない
ために食べないことは同じじゃないでしょ」
「おれさ、クロマグロは食べられなくたって平気だけど、実はいま禁
煙している最中で、ほら、カウンターの中で旨そうにタバコを吸って
いる親父を見ていると、酒の所為もあって何とかして一本だけでも恵
んでもらえまいかという誘惑と闘っているんだけれど、禁煙だけでも
そんなに苦しまなければならないのに、果たして近代人が近代文明を
棄てるなんてできるわけないじゃないか」
「じゃあなぜ禁煙しようと思ったのですか?」
「健康のために決まっているじゃないか」
「ぼくが言っているのはまさにそれなんです。生存環境を損ねてまで
欲望を優先するのかということです。すでに今の日本人の消費生活を
世界中の人々が享受するとすれば地球が二つ以上なければ賄えないと
言われています。つまり日本の豊かさとは途上国の貧困によって支え
られていた。ところが、世界経済のグローバル化によって世界中が近
代化を目指し始めた。地球は一つしかないのに二つ分以上の豊かさを
求め始めた。すると日本の豊かさが賄い切れなくなることは必然で、
それどころか豊かさを奪い合う争いはすでに世界各地で起こり始めて
いるじゃないですか」
「まるで君はこう言ってるようじゃないか、『近代文明はアヘンだ』って」
「・・・」
傍目にはまったく噛み合っていない会話だったが酔っ払ってる二人
はそんなことはまったく意に介さなかった。すでに私も誰に話してい
るのかなどということはどうでもよくって腹の中に溜まっていた思い
を吐き出す解放感に気が緩んだ。そして吐き出すと同時に酒を呷った
ので、すでに醒めてしまった自分と陶酔へと堕ちる自分が錯綜して意
識はもっぱら二人の自分の折合いを図ることで精一杯だった。
「囲碁というゲームがあるでしょ。あれは碁盤に碁石が埋まって勝敗
が決すれば終局なんだけど、ところが世界というゲームには終局がな
い。歴史が終わっても世界は終わらない。盤上が石で埋めつくされたっ
て終局にはならない。そしてついには相手の石を自分の石に変えようと
する」
「それじゃあまるでオセロゲームだ」
「んんーっ、ちょっと違うけど」
コイツ、じゃなかった吉崎さんのズレた応答にも敢えて拘ろうとは思
わなかった。
「仮に今後日本がアメリカの51番目の州になったとしても、或は中
国共産党に熱烈歓迎されて日本人民共和国という国名に変ったとして
も、もしお望みなら民主主義という肩書を入れたって構わないけど、つ
まり、盤上の石がすべて白か黒かに変わったとしても、終局は勝敗に
よって決するのではなく、盤上を埋め尽くした石によってすでに近代と
いうゲームは終わっているんだ」
(つづく)