村爺のなんでもいいべ

南相馬市の馬事公苑を中心に活動しているディスクゴルフの話題や南相馬の出来事や思いついたことを書いていきます。

毛越寺~厳美渓へ

2013年06月07日 19時46分27秒 | 旅行・温泉

平泉中尊寺の駐車場から約15分程度で世界遺産 特別史跡・特別名勝の「毛越寺 もうつうじ」に到着しました。

意外と近かったんですね。駐車料金は300円。

中尊寺の駐車場を利用すると100円割引になるようですが、後から割引券に気づき使えなかった、失敗!!

拝観料は大人500円。平泉観光も駐車料金や拝観料がかかるから結構経費がかさみますよね。

でも、維持費が大変だから仕方がないのかな?

毛越寺の由来は、

寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師が東北巡遊のおり、この地にさしかかると、一面霧に覆われ、一歩も進めなくなりました。ふと足元を見ると、地面に点々と白鹿の毛が落ちておりました。大師は不思議に思いその毛をたどると、前方に白鹿がうずくまっておりました。大師が近づくと、白鹿は姿をかき消し、やがてどこからともなく、一人の白髪の老人が現れ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げました。大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し、嘉祥寺と号しました。これが毛越寺の起こりとされています。

(パンフレットより)

寺名の読みは、

毛越寺はモウツウジと読みますが、通常「越」という文字を「ツウ」とは読みません。「越」は慣用語で「オツ」と読みます。従って「モウオツジ」が「モウツジ」になり、更に「モウツウジ」に変化したようです。

拝観料は払い門を入ると正面に本堂が望め、右手に浄土庭園が広がっています。

中心にある池は、大泉ヶ池と言って東西180m、南北90mあり当時の姿を伝えているそうです。

毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。(パンフレットより)

本尊は平安時代に作られた薬師如来を安置しているそうです。

本堂では座禅が行われていました。「静かにお参りください」という表示がされていましたので静かにお参りしてきました。

俺はじっとしていられないから無理だな。でも、全員順番にたたかれているようだったから、居眠りこいても大丈夫なのだろうか?

本堂にお参りしてから大泉ヶ池のほとりを散策しました。池のほとりの所々にベンチがありますが観光客の皆さんが涼んでました。

涼しい風が吹き付けて気持ちいいですね。皆さんのんびり気持ちよさそうないい表情をしてましたよ。

池の東北川に「遣水」という小川が流れていました。

「遣水 ヤリミズ」は、池に水を引き入れるためと造られたものです。「作庭記」に記述されている四神相応・吉相の順流であり、曲がりくねる水路の流れに、水切り、水越し、水分けなどの石組が配されています。毛越寺の遣水は平安時代の唯一の遺構で、全国的にも極めて珍しいものです。この遣水を舞台に毎年新緑の頃に「 曲水の宴」が開催され、周囲の樹木とあいまって平安の雅な情景が作り出されます。

境内にはもみじの木が多くありましたが、なんかちょっと感じが違うと思い眺めていると、なんともみじに花らしいものがついていました。

もみじに花が咲くんだろうか? はじめて気が付いた!!

 

奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡が造営した平安時代当時の姿が復元されたら、きっと日本一の規模になるかもしれませんね。

毛越寺は初めての経験でした。時間があまりなかったのが残念です。ゆっくり散策したいところですね。

毛越寺から次は最終目的地厳美渓へ向かう。

途中に史跡・名称「達谷窟毘沙門堂」の表示が見えたので立ち寄ることにした。

拝観料300円。駐車料金は無料。

坂上田村麻呂が征夷の記念に毘沙門天を祀った岩屋である。懸崖造りの毘沙門堂は、火災のたびに立て直されてきた。平安時代造像の丈六不動明王像や北限とされる「岩面大仏」も必見。(パンフレットより)

入口には鳥居が3つ立っています。鳥居が立っているってことは神様???

達谷窟の昔話より

昔々、達谷窟に蝦夷の頭 悪路王(あくろおう)や赤頭 高丸が城を造り、女の人や子供をさらったり宝物を奪ったりしていました。みんな困っていましたがどうすることもできません。

あるとき、悪路王らは京の葉室中納言(はむろちゅうなごん)様の娘、ゆり姫さまを誘拐したのです。悪路王はゆり様を窟の奥に閉じ込めました。篭の鳥のようにお姫様を閉じ込めていたので、そこは「かごのひめ」と言われるようになりました。

ゆり姫さまの他の姫さま達は髪を切られていました。悪路王らは逃げ出そうとする姫さまを下の瀧で待ち伏せしました。その瀧は「姫待瀧」と呼ばれました。そしてとらえられたお姫さまの髪を切り大きな石にかけました。髪をかけられた石はかつらのように見えたので「かつら石」と呼ばれました。

悪路王の悪行はとどまるところを知りません。そこで桓武の帝は、坂上田村麻呂公に蝦夷征伐をお命じになられたのです。ところが悪路王ら蝦夷は強く、田村麻呂公は苦戦しました。みんなを助けて守るために田村麻呂公が戦うと戦の神様である毘沙門天様が天から降りてきて田村麻呂公に味方しました。

毘沙門天様のおかげで田村麻呂公は悪路王を征伐し、ゆり姫さまはじめ多くの人々を救い出すことができたのです。

坂上田村麻呂公は、戦に勝ったお礼に悪路王らが住んでいた窟にお堂を立て百八体の毘沙門様を祀り、毘沙門堂と名付けました。

これが達谷窟毘沙門堂の始まりです。これ以後人々は毘沙門様を拝み、田村麻呂公に感謝して幸せに暮らしたとさ。

今から一千二百年以上前のお話です。

神式にお参りしていいのか、仏式にお参りしていいのかわからないから、ただ手を合わせてきました。

階段を下りて先に進んでいくと「岩面大佛」が岩壁に掘られていました。

義経(よしつね)公のご先祖にもあたる源義家(みなもとのよしいえ)様が、この地方でたびたび起こった戦で亡くなった者を弔うために彫ったものと伝えられているそうです。

「姫待不動尊」その中には大きな不動明王像がありました。

昔話にあった「姫待瀧」のかたわらに「姫待不動尊(ひめまちふどうそん)」としてまつられてあったのが、この不動明王(ふどうみょうおう)だそうです。 そもそも「姫待不動尊」は智証大師(ちしょうだいし)という方が祀ったもので、奥州藤原氏二代の基衡(もとひら)公が再建したとも言われてます。 しかし、長い年月の間にそのお堂も壊れてしまったため、 江戸時代に達谷の西光寺(せいこうじ)の境内に移されたということだそうです。 全国でも大きい部類に入る不動明王は、岩手県有形文化財に指定されてます。

平泉の歴史はやはり奥深いものがありますね。

そこからいよいよ最終目的地「厳美渓」です。

時間も遅くなってきたせいか観光地なのに意外とひっそりとしていましたね。

ここの駐車場は300円です。あまり見るところがないので300円でも高いような気がしますよ。

厳美渓はきれいな渓谷が続いているのでゆっくり散策したら気持ちがいいでしょうね。

渓谷沿いに遊歩道があったらいいといつも思うんですが?

東屋には有名な「かっこうだんご」があります。

篭の中にお金を入れて合図すると、篭が引き上げられお金と引き換えに団子が下りてきます。

結構売れているみたいですね。

でも俺は体のために食べたいのを我慢してしまいましたよ!!

ブログでは三日もかかってしまいましたが、実際には半日の行程です。

忙しく巡った世界遺産の旅でしたが、みちのくの歴史に触れることができました。

おいしい出張をありがとう!!