「芭蕉館」で平泉わんこそばをたらふく食べた後はいよいよ世界遺産の平泉中尊寺へ。
世界遺産に登録されたせいか月曜日なのに多くの観光客でにぎわっていますね~!!
でも運よく一番近い第一駐車場に駐車することができました。駐車料金は1回400円です。
修学旅行なのか中学生や高校生の姿が多いですね。
中尊寺への参道は急坂の始まりです。
この参道の坂は月見坂と言ってそのいわれをちらっと聞きましたが忘れてしまいました。月見をしながら歩いたような話をしていたような気がします。
参道の両側には杉が植えられていますが、その杉は江戸時代に平泉を治めいてた伊達藩によって植樹されたそうです。
樹齢は350年ほどになっているそうで、その歴史の重みみたいなものが感じられますね。
暑さを感じるくらいの日でしたからこの杉木立にさえぎられた参道を歩くのは気持ちがいいですよ。
でも、以前からこんなに急な坂だったっけ? かなり急に感じるのはやっぱり年のせい?
参道の途中に「東物見台」という見晴らしの良いところがあります。
以前来たときにはここからの展望はもっとよかったと思いますが、今は木々が伸びていますね。
東北自動車道や新幹線等が整備されて近代化された光景が広がっていました。
以前訪れた時に団体客を案内するガイドさんの説明を聞いたのを思い出しました。
衣川という川と北上川が流れていてこの下で二つの川が合流します。その合流地点付近が武蔵坊弁慶の立ち往生の地とされているそうです。
源義経が兄の源頼朝に追われ、藤原3代秀衡を頼りに平泉に身を寄せるが、秀衡が病死すると、4代泰衡は頼朝の圧力に耐えかねて義経の居住を攻め込み自害に追い込みます。その時の戦いで、弁慶は並み居る敵兵を次々と倒すが、ついには無数の矢を受けて薙刀を杖にして仁王立ちのまま息絶えたと言われています。その場所は川の流れが変わり当時とは場所が変わっているそうですが、この地なんですね。
江戸時代に平泉を訪れた松尾芭蕉は、平安時代に繁栄を極めた平泉の当時の栄華が無くなり田野となって広がる光景を見て
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
と詠んだんですかね。
参道の途中には数多くの御堂が立ってます。「峯薬師堂」は目にご利益のある薬師様ですから目が悪い人はお立ち寄りください。というので進んだ老眼が少しでもよくなるようにお願いしてきました。
それにしても絵馬やいろいろなものが目でした。ちょっとやりすぎではないのかな?
まずは中尊寺の「本堂」にお参りします。
「中尊寺」というのはこの山全体を言うそうです。本堂は山の中心となる建物で明治42年に再建されています。
御本尊は阿弥陀如来で、参拝は掌を合わせて「南無何弥陀仏」と心の中でお唱えすればよいそうです。
心の平安をお祈りしてきました。
このコンクリート製の覆堂の中に金色堂があります。この覆堂が完成したのは1990年だと言うから23年前になりますがもっと前だったような気がする。これが完成して間もない頃に来たような気がするな?
そして、いよいよ金色堂への参拝です。
館内は撮影禁止なのでパンフレットの写真です。
阿弥陀如来の仏国土(浄土)を表す仏堂建築です。同時に、金色堂は藤原氏四代(清衡・基衡・秀衡・泰衡)の遺体及び首級をそれぞれ安置した霊廟であり、今なお地域における精神的な拠り所ともなっています。屋根板を除く全ての部材の外面には黒漆が塗られ、金箔が押されています。また、建物の部材に用いられた東南アジア産の紫檀・赤木、螺鈿に用いられた南海産の夜光貝などは、12世紀に国内外の広い範囲に及ぶ交易・交流が行われていたことを示しています。金箔の装飾、蒔絵・螺鈿などの漆芸・金工の意匠・技術を尽くした金色堂は、 徹底した輝光の荘厳であり、「無量光」とされる阿弥陀如来の極楽浄土を表現ししています。(パンフレットより)
覆堂を出て金色堂が収められていた旧覆堂へ向かう途中に「松尾芭蕉翁」が立っていました。
五月雨 降り残してや 光堂
金色堂に参拝した芭蕉は、鎌倉北条氏によって建てられたと言われている覆堂の中で、朽ちかけた金色堂がかろうじて光を投げかけている光景をみて、光堂と詠んだんでしょうね。
かなり久しぶりに訪れた平泉中尊寺。
世界遺産に登録されてから、さらに観光地化したような気がしますがやはり歴史の重みみたいなものが身体全体で感じられます。
この頃、神社仏閣や博物館みたいなものが好きになってきたような気がする。
やっぱり年なのかな?
次は庭園のきれいな毛越寺へと続きます。