田舎人の徒然日記

退職後を故郷で暮す1948年式男の書き散らし

犬猫の境涯におちれば気楽なもんや

2017-07-31 | 日々の暮し

雲の隙間

 司馬遼太郎作短編「みょうが斎の武術」の一節。
 場所は大坂。
 ・・・(引用開始)・・・
 みょうが斎源五郎は、あいかわらず犬猫になる修練に余念がなかった。
「おれの人生には目的がない」
 源五郎ははっきり云いきっていた。主取りをねらっているわけでもなく、また剣名をあげて流行道場を開こうというつもりでもなかった。
 (略)
「我流の武術を練っているのはな、目的はなんでもない、十津川の山奥にいたとき、犬猫猿のたぐいにまで人間がさがれば、たれでも剣術の達人になれると考えた自分の思いつきが、はたしてほんまかどうかたしかめてみたいだけのこっちゃ、それだけのこっちゃ」
「それを、よし確かめたところで、なにになる。そんなもんでは飯がくえるかい」
「飯は日に三度、椀に二杯ずつあればええ。それ以上の飯をほしがろうとするさかい、人間のなやみや争いが生じてくる。世の中ぜんぶが犬猫の境涯におちてしまえば、気楽なもんや。気楽やがな」
「世の中の人みんなにその犬猫をすすめて歩くつもりか」
「人にすすめるほどの親切はないわい。自分だけ、ひっそり、犬猫になればええと思うている」
「弟子もなく、師匠もなく、か」
「師匠はあるがな。犬と猫や」
 ・・・(引用終わり)・・・


屋根の向こうの夏雲

 彼は鍛錬のため夜は棒を手に町内を走りまわり、結果、町内の治安が良くなり感謝される。
 仕事を終えた泥棒の横にピッタリと寄り添う彼に泥棒、「もうかにんしとくなはれ!」
 また、相手が攻撃を加えようと思ったとき「そんなことをしてはいけまへんな」と相手の内心を読めるようになる。
 その彼は時流に乗らず、彼に惚れた「米智のいとはん」を連れて生まれ故郷の奈良県十津川村に戻り生涯を終える。
 その「いとはん」も結構個性のある女性で似た者同士、引きあうものがあったのだろう。

 最後は山奥の静かな爺ちゃん、婆ちゃんやったろうな。
 人にはそれぞれ喜び、悲しみ、後悔の入り混じる秘密の人生がある。
 過ぎたそれらを体内に醸造しながら静かに生きるのがカッコイイ。
 粋な高齢者でありたいものだ。