トライランダーの蔵出し写真館 第2号

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貝塚線について考える 3

2010-01-20 20:43:00 | 私鉄
このような状況で西日本鉄道の一員となった貝塚線であるが、1954年に大きな変革を迎えることとなる。起点であった新博多から3.3キロ先の競輪場前(現・貝塚)までを改軌、電圧降下、複線化し、市内線に取り込んだのである。高速鉄道から路面電車へという時代に逆行した政策であったように思えた。

ちなみに国鉄線とほぼ並行し、後背地の極めて狭い貝塚線と似たような性格を有した類似路線に、阪神本線、静岡鉄道静岡清水線、広島電鉄宮島線があった。これらの路線は並行する国鉄線に対し、速度は遅いながらも圧倒的な本数、短い駅間距離で中間利用客をうまく取り込み、優位に立っていた。阪神、静鉄においては軌道が発祥であり、順次専用軌道化、大型車両化で優位な立場を確固たるものとした。

これに対し軌間、電圧が市内線と同じであったにもかかわらず西広島駅で乗り換えを要していた広島電鉄宮島線は、貝塚線一部市内線化の後の1962年、市内線の低規格、小型車両により鉄軌道直通を果たしたのである。
そして1991年には鉄道線用大型車は全廃され、名実ともに市内線と一体のネットワークを築くこととなった。

規格が低下した反面、中心市街地へ乗換無しでの移動が確保され、その後も先進的な車両開発によるサービス改善に努め、利便性を維持したままJR発足後も一定の競争力を保っている。これは軌道から鉄道へと進化してきた都市鉄道の「進化論」の逆行が唯一成功した例と言ってよい。

この事実から、貝塚線一部軌道化は、広電に先駆けての先進的政策であった、と好意的に捉える事が出来るもしれないが、実は当時の状況を考えると貝塚線を生かすというよりも、市内線側に事情があったという側面が推察されるのである。


貝塚線と似た環境にあった広電宮島線。全線の軌道化という政策で直通を果たした。