さて、貝塚線は西鉄発足以来2度目の転機を迎えることとなる。
1954年3月に新博多(同時に千鳥橋に改称)-西鉄多々良(同時に競輪場前に改称・後に貝塚に改称)間を改軌するという思い切った政策で市内線乗り入れを果たした宮地岳線であったが、筆者はこの政策が果たして宮地岳線の積極的活用を目的とするものであったかどうかには、疑問を感じている。
ここで接続駅が何故競輪場前駅となったのかを推測してみたい。
現代的な思考から考えると、改軌区間の終点に成り得る可能性がある拠点駅として、津屋崎・古賀・三苫・新宮・和白・香椎等が挙げられよう。特に香椎は副都心としての発展が目覚ましい地域である。
しかし改軌区間が千鳥橋-競輪場前間僅か3.3キロに留まった理由として、1954年3月の時点で糟屋郡で町制を施行していた自治体が、香椎町(1943年町制)のみに留まっていたことを考慮する必要があろう。この時点においては和白村、新宮村にはまだ本格的な市街地の形成が見られないものと推測される。
宗像郡にまで目をやれば福間、津屋崎はどちらも町制を施行していたが、福岡都心から距離的にかなり遠く、速度の遅い路面電車化による所要時間の増加がデメリットとなり、選択されなかったものと推測される。
となれば香椎までの乗り入れが考慮されたであろうが、競輪場前駅東側にコンクリート製の多々良川橋梁が存在したことが最大のネックとなったであろう。複線化用地は福間-宮地岳間まで既に確保されていたようであるが、橋梁が単線規格であり、資金的問題から複線化を断念したものと思われる。
また、宮地岳線の輸送人員は1945年度の年間8858千人に対し、改軌前年度は8049千人と頭打ちであったのに対し、福岡市内線は1945年度の68738千人から97822千人へと、大幅な伸びを示していた。更には車両数においてもこの10年間で30両程の増加をみていた。その為に宮地岳線側の事情というよりも、市内線の車庫用地の確保という側面があったのではないかとの結論に至ったのである。
事実この1954年には西鉄軌道線黄金時代を彩る1000形が登場しており、13年後の1967年には車両数194両と、実に1954年に比較して48両の増加をみせるのである。
頭打ちであった宮地岳線の輸送人員も、1950年代後半に入ると、第1次ベビーブーム世代の通学需要や第1次産業から第3次産業へと産業構造の転換、さらには和白・新宮両村の町制施行と人口増による予想需要の高まりで、列車運行間隔も30分毎から13分毎と大幅に増加され、年間1千万人を超えるようになる。千万人台は1961年から68年まで維持され、貝塚線はここに第1次全盛期を迎えることとなる。
貝塚-名島間に存在する多々良川橋梁。当時宮地岳線積極的活用の方針があれば香椎乗り入れが望ましかったであろうが、ここの複線化はネックであったと思われる。
1954年3月に新博多(同時に千鳥橋に改称)-西鉄多々良(同時に競輪場前に改称・後に貝塚に改称)間を改軌するという思い切った政策で市内線乗り入れを果たした宮地岳線であったが、筆者はこの政策が果たして宮地岳線の積極的活用を目的とするものであったかどうかには、疑問を感じている。
ここで接続駅が何故競輪場前駅となったのかを推測してみたい。
現代的な思考から考えると、改軌区間の終点に成り得る可能性がある拠点駅として、津屋崎・古賀・三苫・新宮・和白・香椎等が挙げられよう。特に香椎は副都心としての発展が目覚ましい地域である。
しかし改軌区間が千鳥橋-競輪場前間僅か3.3キロに留まった理由として、1954年3月の時点で糟屋郡で町制を施行していた自治体が、香椎町(1943年町制)のみに留まっていたことを考慮する必要があろう。この時点においては和白村、新宮村にはまだ本格的な市街地の形成が見られないものと推測される。
宗像郡にまで目をやれば福間、津屋崎はどちらも町制を施行していたが、福岡都心から距離的にかなり遠く、速度の遅い路面電車化による所要時間の増加がデメリットとなり、選択されなかったものと推測される。
となれば香椎までの乗り入れが考慮されたであろうが、競輪場前駅東側にコンクリート製の多々良川橋梁が存在したことが最大のネックとなったであろう。複線化用地は福間-宮地岳間まで既に確保されていたようであるが、橋梁が単線規格であり、資金的問題から複線化を断念したものと思われる。
また、宮地岳線の輸送人員は1945年度の年間8858千人に対し、改軌前年度は8049千人と頭打ちであったのに対し、福岡市内線は1945年度の68738千人から97822千人へと、大幅な伸びを示していた。更には車両数においてもこの10年間で30両程の増加をみていた。その為に宮地岳線側の事情というよりも、市内線の車庫用地の確保という側面があったのではないかとの結論に至ったのである。
事実この1954年には西鉄軌道線黄金時代を彩る1000形が登場しており、13年後の1967年には車両数194両と、実に1954年に比較して48両の増加をみせるのである。
頭打ちであった宮地岳線の輸送人員も、1950年代後半に入ると、第1次ベビーブーム世代の通学需要や第1次産業から第3次産業へと産業構造の転換、さらには和白・新宮両村の町制施行と人口増による予想需要の高まりで、列車運行間隔も30分毎から13分毎と大幅に増加され、年間1千万人を超えるようになる。千万人台は1961年から68年まで維持され、貝塚線はここに第1次全盛期を迎えることとなる。
貝塚-名島間に存在する多々良川橋梁。当時宮地岳線積極的活用の方針があれば香椎乗り入れが望ましかったであろうが、ここの複線化はネックであったと思われる。