古寺巡礼(第2回-2)鎌倉五山-⑥浄妙寺⑦建長寺古寺巡礼・鎌倉五山巡りの後半コースへ
五山の第五位は、浄妙寺。ここに行く途中にある宝戒寺へ寄ってみた
ここは鎌倉で最大級の枝垂れ梅が有名と聞いていたので訪れて納得。

こんもりと小山を連想させるような見事な白梅、ここまで歩いてきてまだ冬枯れの鎌倉を彩っているのが梅であると感じていたが、宝戒寺の梅はお見事すぎる、人も多かった。



萩寺といわれるらしいので萩もきれいなんだろう。北条一族の鎮魂の目的で1335年(建武2年)に足利尊氏が建立されている。
ここから浄妙寺へは距離がありバスも考えたが、やっぱり巡礼は歩くこと、まがりくねった金沢街道の狭い歩道をどんどんすすむ。浄妙寺のバス停から左へ入って行くと山間に佇むように鎌倉五山五位の浄妙寺についた。

他の五山が北条氏と関係が深い中で、浄妙寺だけは足利氏と関係のある寺で1188年(文治4年)足利義兼が建てた真言宗が前身、その後に臨済宗に改宗、足利氏の保護のもとに発展したという。
この寺も重なる火災で衰退、いまの銅葺きの屋根の本堂が往時をしのばせている、参道の梅と白砂と本堂が背景の山に静かにおさまっていてとても雰囲気のあるお寺だった。



すぐ近くにある報国寺へ寄りたかったが時間がなくてパス、残念。
次は、鶴岡八幡宮から建長寺へ、その途中、寄りたかった鎌倉宮もパス、源頼朝の墓所へは寄ってみた。

鶴岡八幡宮も大勢の人が訪れていた、ここも二度め、SNSのおせつさんが紹介していた国宝のいちょうも、いまは冬の装い、舞殿で結婚式に遭遇、野次馬になってしばし見物させてもらった。



15時50分、八幡宮から建長寺へ
息子が幼稚園の頃から、京都・奈良の史跡を一緒に歩いたころのことをなつかしく思い出しながら今日最後の親子ウォーキング、建長寺を目指して鎌倉街道の狭い道を後ろ前に並んで歩く、あの頃は、朱印帳を持ち歩いていたのが息子、いまはその息子に連れられてご朱印を楽しみに集めるおやじ。二度めの建長寺の門前へ、なつかしい。

総門を入ると三門がそびえ立つ、そこから仏殿、法堂と建物が縦一列に並ぶ様は、鎌倉五山第一位の寺格を示している、臨済宗建長寺派の大本山だ。
鎌倉幕府五代執権北条時頼が1253年(建長5年)に建立したわが国最初の禅寺で本格的な禅の修行の場として発展した。中国の建物を模した禅宗様式は、のちにわが国の禅宗寺院建築に大きな影響を与えているそうだ。




鎌倉幕府が滅んだ後も、足利幕府によって保護され、現在も各地に400寺以上の末寺をもっている。
ラッキーだったのは法堂が特別公開中で普段見ることができない髭面のお釈迦様の像を見ることができた。法堂の天井には、小泉画伯の雲龍図が描かれている。

北鎌倉から新横浜へ、息子が心配したのか新幹線の入口までついてきた、午後8時半に自宅へ戻ることができた。
前日が、東海道53次丸子宿から府中宿まで歩き、今日は鎌倉五山巡り、天気にも恵まれ楽しい思い出に残る二日間を過ごすことができた。

同じ仏教を土台に栄えてきた京都・奈良とはまるで違う雰囲気が漂う鎌倉への関心はますます高まるばかり、機会をつくってまた訪れたい。
最後に「五山」について
「五山」とはインドの五精舎にならって中国で始められた制度で禅宗の保護と統制を目的に、格式の高い5つの寺と定めたもの。禅宗が入ってくるまでのお寺、たとえば東大寺、興福寺、延暦寺などの有名寺院は五山に含まれていない。
源氏の後を継いだ北条氏が京都の貴族文化と違った新しい仏教や文化を育てようと禅宗の育成に力を入れたことから鎌倉で五山制度が定められたらしい。室町時代になると京都五山が定められた。
ブログの記載内容は正確さを欠くところがあるかもしれません。鎌倉や仏教に詳しい方、間違いがあればご指摘いただけるとありがたいです。
五山の第五位は、浄妙寺。ここに行く途中にある宝戒寺へ寄ってみた
ここは鎌倉で最大級の枝垂れ梅が有名と聞いていたので訪れて納得。

こんもりと小山を連想させるような見事な白梅、ここまで歩いてきてまだ冬枯れの鎌倉を彩っているのが梅であると感じていたが、宝戒寺の梅はお見事すぎる、人も多かった。



萩寺といわれるらしいので萩もきれいなんだろう。北条一族の鎮魂の目的で1335年(建武2年)に足利尊氏が建立されている。
ここから浄妙寺へは距離がありバスも考えたが、やっぱり巡礼は歩くこと、まがりくねった金沢街道の狭い歩道をどんどんすすむ。浄妙寺のバス停から左へ入って行くと山間に佇むように鎌倉五山五位の浄妙寺についた。

他の五山が北条氏と関係が深い中で、浄妙寺だけは足利氏と関係のある寺で1188年(文治4年)足利義兼が建てた真言宗が前身、その後に臨済宗に改宗、足利氏の保護のもとに発展したという。
この寺も重なる火災で衰退、いまの銅葺きの屋根の本堂が往時をしのばせている、参道の梅と白砂と本堂が背景の山に静かにおさまっていてとても雰囲気のあるお寺だった。



すぐ近くにある報国寺へ寄りたかったが時間がなくてパス、残念。
次は、鶴岡八幡宮から建長寺へ、その途中、寄りたかった鎌倉宮もパス、源頼朝の墓所へは寄ってみた。

鶴岡八幡宮も大勢の人が訪れていた、ここも二度め、SNSのおせつさんが紹介していた国宝のいちょうも、いまは冬の装い、舞殿で結婚式に遭遇、野次馬になってしばし見物させてもらった。



15時50分、八幡宮から建長寺へ
息子が幼稚園の頃から、京都・奈良の史跡を一緒に歩いたころのことをなつかしく思い出しながら今日最後の親子ウォーキング、建長寺を目指して鎌倉街道の狭い道を後ろ前に並んで歩く、あの頃は、朱印帳を持ち歩いていたのが息子、いまはその息子に連れられてご朱印を楽しみに集めるおやじ。二度めの建長寺の門前へ、なつかしい。

総門を入ると三門がそびえ立つ、そこから仏殿、法堂と建物が縦一列に並ぶ様は、鎌倉五山第一位の寺格を示している、臨済宗建長寺派の大本山だ。
鎌倉幕府五代執権北条時頼が1253年(建長5年)に建立したわが国最初の禅寺で本格的な禅の修行の場として発展した。中国の建物を模した禅宗様式は、のちにわが国の禅宗寺院建築に大きな影響を与えているそうだ。




鎌倉幕府が滅んだ後も、足利幕府によって保護され、現在も各地に400寺以上の末寺をもっている。
ラッキーだったのは法堂が特別公開中で普段見ることができない髭面のお釈迦様の像を見ることができた。法堂の天井には、小泉画伯の雲龍図が描かれている。

北鎌倉から新横浜へ、息子が心配したのか新幹線の入口までついてきた、午後8時半に自宅へ戻ることができた。
前日が、東海道53次丸子宿から府中宿まで歩き、今日は鎌倉五山巡り、天気にも恵まれ楽しい思い出に残る二日間を過ごすことができた。

同じ仏教を土台に栄えてきた京都・奈良とはまるで違う雰囲気が漂う鎌倉への関心はますます高まるばかり、機会をつくってまた訪れたい。
最後に「五山」について
「五山」とはインドの五精舎にならって中国で始められた制度で禅宗の保護と統制を目的に、格式の高い5つの寺と定めたもの。禅宗が入ってくるまでのお寺、たとえば東大寺、興福寺、延暦寺などの有名寺院は五山に含まれていない。
源氏の後を継いだ北条氏が京都の貴族文化と違った新しい仏教や文化を育てようと禅宗の育成に力を入れたことから鎌倉で五山制度が定められたらしい。室町時代になると京都五山が定められた。
ブログの記載内容は正確さを欠くところがあるかもしれません。鎌倉や仏教に詳しい方、間違いがあればご指摘いただけるとありがたいです。