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東海道五十三次ウォーキング⑳(丸子宿→府中宿)

2009-02-10 13:46:11 | 東海道五十三次
7日の土曜日、急用で上京することになった、東京での約束
時間が16時なので、それに間に合うように静岡で途中下車、
前回の丸子宿から府中宿まで歩くことにした。

早朝の新幹線で新大阪をたち、名古屋でのぞみからひかりに
乗り換え静岡駅へ、バスの待ち時間が長くて丸子宿の西の入
り口、前回ゴールの丸子橋へタクシーで移動。


途中、安倍川にかかる安倍川橋で運転手さんが背中に富士山
が見えると教えてくれたので振り返る、雪をかぶった富士山
の迫りくるような迫力にびっくり、この安倍川橋を今日渡れ
る、わくわくする。

今日のスタートは、前回ゴールの丸子橋、ここは丸子宿の西
の入口になる。橋の上から前回歩いてきた宇津の谷の峠を振
り返る、あの峠を越えてきたのだ。




スタートの丸子橋の目の前にあるとろろ汁でおなじみの丁子
屋は梅がちらほら咲いてほのかな香りが春の訪れを告げてい
るようだった。



丁子屋の梅の木の横にある芭蕉句碑 
 "梅わかな丸子の宿とろろ汁"
東海道の道中には梅の花が咲き、宿の食膳には若菜が出され、
丸子の宿では名物のとろろ汁を召し上がったりしてよい旅を
してくださいという意。


あたりを散策していると後ろから30代後半くらいの男性に
声をかけられた、東京からマラソンで五十三次を走って京都
へ向かっているという、すごい、しばし東海道談義をして別
れた。

穏やかな早春の日差しを背に受けて走って行く男性の姿を見
送ってこちらもスタート、午前9時半今日の予定は午後2時
まで、3時前の新幹線には乗りたい。

車の通行量の多い道を日差しに向かって歩く、丸子本陣跡は
道路脇に石碑が立っているだけ、宿場の名残はまったくない。



埋もれかけた丸子一里塚も気をつけないと見過ごしてしまうよ
うに道路脇にひっそりと立っていた。


佐渡の交差点で1号線へ合流、両側にお寺の続く道を富士山の
見える安倍川橋を目指して元気よくすすむ、寒さはまったく気
にならなくて手袋も外した。


安倍川橋が見えてきた、自然と早足になる、富士山が待って
くれている・・・・と信じて。


緩やかな坂道を上って橋のふもとまで行くと目の前に富士山
が・・


?あれ

見えない!

富士山がいない!

おかしい?

どこへ行った?!

なんでやねん!!


快晴、真っ青な空

ただ、富士山の方向だけ雲に覆われていた・・・

・・・あ、がっかり!



気を取り直して安倍川にかかる安倍川橋を渡る、これまで渡っ
てきた天竜川や大井川と川幅を比べれば半分にも満たない
安倍川だが、それでも大きな川だ。


この正面に見えるはず・・・


渡り終えると安倍川義夫の碑をはさんで名物の安倍川餅の
店が2軒、手前の一軒でおやつに買うことにした、注文し
てつくってくれるので時間がかかる。今でもこの安倍川餅
は名物として人気があるらしい、東海道を行き来していた
昔の旅人は、ここまでくると安倍川餅を食べながら冨士を
眺め一息ついていたのだろうなあ・・・弥治さん、喜多さ
んもきっとそうだろう。


安倍川義夫の碑には、ほのぼのとした物語があるようで、
旅人の落とした小判の入った財布を拾った川越し人足が、
落した旅人を追いかけて渡し、礼金も固辞、その人足を
正直者として讃えた碑らしい。旅人の故郷だった和歌山
県と静岡県の有志が立てた碑ということだ。


すぐ近くの弥勒公園に行ってさっそくオヤツに3個食べ
た、おいしい、旅人気分も味わった。
こしあん、つぶあん二個ずつ+きなこに白砂糖をまぶした
餅4個の計8個豪華なおやつ。


公園内には、由井正雪の大きな碑が立っていた、由井正雪
はこれからすすむ由比の生まれで三代将軍家光没後に反乱
をおこそうとして失敗、自殺した歴史上の人物だ、碑の大
きさから地元では尊ばれているのだろう。
この場所に碑があるのは、当時、この安部川河原に処刑場
があって由井正雪と一族が河原で晒し首になっていたから
だそうだ。


この弥勒公園あたりが府中宿の西の入り口(出口)だったら
しい。


公園の入口角に安倍川川会所跡の説明板が立てられている、
川会所とは、当時の安倍川は徒歩渡しがおこなわれていて、
その川越し人足に指示を出したり賃銭の取り扱いをする役人
がいたところ。

安倍川川会所跡から一筋東海道を外れた府中一里塚を尋ね、
訪ねて歩いてやっと発見した。


古い街並みの新通りをすすみ、右折して人宿通りへ入り、
今度は左折して七間通りに向かう、曲がり曲がりの道は
わかりづらくて、確かめながら歩くので時間がかかる、
七間通りには映画館が続き人通りも多くなる、どうやら
静岡の歓楽街のようだ。

さらに札の辻の石碑を目印にすすむ、小学生高学年くら
いの女の子とお母さんが石碑の文字を声を出して読んで
いるのに遭遇、話しかけると地元にいながらこれまで碑
に気がつかなかったと言っていた。
ここには高札があったところらしい、高札とは、幕府の
法令を掲示するところで町奉行所が設置していた。


人通りの多い呉服町へすすむ、この通りは東海道の宿場
のモニュメントが立てられていてそれに沿って歩く、江
川町通りに出てさらにすすむ、このあたりが静岡の中心
地らしい、ビルが続く、そのビルの前の一角に西郷・山
岡会見史跡のモニュメントがあったが、これを発見する
のにも道を行ったり来たり、恥ずかしいくらいうろうろ
した。


西郷・山岡会見史跡について、1868年(慶応4年)幕府を平
定するために駿府まで軍をすすめた西郷隆盛のもとへ勝海舟か
らの手紙を携え山岡鉄舟が乗り込んできた、この会見は松崎屋
弥兵衛宅で行われ、勝・西郷の江戸城無血開城を話し合った、
鉄舟は徳川慶喜の身柄につき西郷に善処を約束させた。
この話し合いによって明治政府が樹立されたというから歴史を
作った場所といってよい。

次の交差点が伝馬町、伝馬通りになる、東海道はこの伝馬通り
を進むが、せっかく静岡に来たのだから家康公に会わずに素通
りはできないと、東海道から離れて駿府城跡へ向かう。


官庁街の従えるように広がる駿府城跡は広く、いまはお堀の他、
巽櫓が再興され、きれいに整備された公園は静岡の人の憩いの
場になっているのだろうと思った。



駿府城は今川氏に始まり義元が城下町として整備したが、家康
は竹千代時代に1549年(天文18年)から12年も人質とし
てこの城で過ごした、桶狭間の戦いで今川義元が敗死して解放
され岡崎城へ戻った。

天下統一を果たした後、再びこの城を居城として好きな鷹狩りな
どで過ごしていたが、1616年(元和2年)この城で亡くなった。

早咲きの桜も咲き始めている公園の一角、本丸跡に徳川家康公
の大きな銅像が立っていた、ここまで岡崎城、浜松城、そして
駿府城と家康公ゆかりの城で家康公に会ってきたが、それぞれ
の地で天に向かって立つ姿はいかにも天下人らしく雄々しくて
人々の誇りなのだ
ろう。



城跡をのんびり歩きまわっておやつ代わりに買った安倍川餅を
全部食べてしまった・・・結局、昼食代わりになってしまった。

お堀周辺の「家康公の散歩道」にある弥次さん喜多さんの像。


午後2時には静岡駅に戻りたいのでゴールは、静岡駅のひとつ
東にある東静岡駅にすることにして東海道伝馬通りへ戻り先を
急ぐ。

1号線を渡り、JR東海道線をくぐって曲金観音でウォーキング
中の女性グループと出会う、ここは時間が気になるので声をか
けなかった。


そのまま直進、東海道とは少し離れるが真新しいJR東静岡駅へ
ゴール、約24000歩。


余裕を持って新幹線に乗って東京での予定も楽しく過ごすこと
ができた。

・・理解不足のため日記の内容や、人名、地名等の固有名詞に
つきまして誤記や不明確な表現があるかもしれません。
失礼があればお許しください。