今日(1月22日)は、川田正子さんの忌日
童謡「みかんの花咲く丘」や」「里の秋」などで知られる童謡歌手・川田正子さんがが亡くなったのは、昨・2006(平成18)年の1月22日のことであった。71歳であった。東京都出身。
川田正子は、1942(昭和17)年、7歳で歌手として芸能界入りし、妹の川田孝子とともにコーラス合唱団音羽ゆりかご会に入会し、同会の会長で童謡作曲家の海沼実に師事する。
1943年、関東児童唱歌コンクールで「兵隊さんの汽車」を歌い、2位に入賞。
1945年、紅白歌合戦に出場。 この紅白歌合戦は、第二次世界大戦終結直後の1945(昭和20)年の大晦日(12月31日)に、平和になった証としての新時代にふさわしい大型音楽番組として企画され、「紅白音楽試合」というタイトルで放送された(ラジオ)。当時は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったが、GHQの反発のために音楽試合へと変更されたのである。このとき、川田が歌う曲は、「兵隊さんの汽車」であったが、この歌は、出征兵士を送る歌だった。そのため、音楽試合直前にGHQからクレームがつき歌詞の一部を変更させられ、現在皆に歌われている「汽車ポッポ」になった。今では明るい汽車の旅の歌であるが、本当は出征兵士を送るとても悲しい歌だったのである。
このことは、以前に私のブログ「NHK紅白歌合戦」で取り上げたので興味のある方は見てください。↓
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/808d6ac5d2c8d8973b1aecd50a0ff539
又、歌詞がどのように違うかなど、対比したものが以下にあります。
兵隊さんの汽車 ↓http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/heitaisanno.html
この歌のようにデビュー当初は戦時中であったこともあり、軍歌風の楽曲を中心に歌っていたが、戦後、本格的な童謡を歌うようになる。
特に1945(昭和20)年の「里の秋」と1946(昭和21)年の「みかんの花咲く丘」が大ヒット。甘くやわらかなソプラノで終戦直後の人々の心をとらえ、人気を集めた。
静かな静かな里の秋
お背戸(せど)に木の実が落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てます囲炉裏端 ♪
「里の秋」作詞:斎藤信夫、作曲:海沼 実
二木紘三MIDI歌声喫茶「里の秋」↓
http://www.duarbo.jp/versoj/v-douyou/satonoaki.htm
この静かな秋の深まりゆく様を歌った童謡「里の秋」ももともとは、終戦後の引揚者や復員兵のためにつくらた歌だという事はあまり知られていない。
1945(昭和20)年8月、日本は敗戦した。同時に、南方や大陸各地から軍人・軍属、民間人たちが続々と日本に引き揚げてきた。この年の暮れ、日本放送協会(NHK)が、そうした復員兵や引き揚げ者たちを励ます特別ラジオ番組を企画し、その中で流す歌として、音羽ゆりかご会の主催者であり作曲家でもある海沼実に依頼して作曲されたものである。
「里の秋」作曲に至る経緯などについては、上記サイトにも詳しく書かれているが、簡単に述べると以下のような経緯である。
その歌の放送日は、南方からの復員船が神奈川県・浦賀港に入港する12月24日と決められていた。そのため、曲を作るための時間的余裕のなかった海沼は、適当な詩を、古い童謡雑誌から探し、斎藤信夫作『星月夜』という童謡を見つけた。
斎藤は、詩人であり、千葉県の学校の教師でもあった。斎藤が、「星月夜」を作詞したのは、4年前の1941(昭和16)年であり、まさに太平洋戦争が始まろうとしていた時であった。
「里の秋」は周知のように、1番と2番で秋が深まりゆく山里の静かな生活を歌っているのに対し、3番では太平洋戦争が終り南方の島々から引き上げてくる兵士たち、つまり「父さん」の航海の無事を祈りますと結んでいる。しかし、もとの「星月夜」には4番まであった。1,2番は「里の秋」と全く同じであるが、3番では出征している父さんの武運を祈り、4番は自分も大きくなったら兵隊さんになって国を守りますという子供の抱負をうたっていた。しかし、この歌ができて4年後には、日本軍は南海の島々で追い詰められ、そのなかで、無謀な玉砕が繰り返され、何万人もの兵士・「父さん」達が屍となって朽ちていった。敗戦後、斎藤は教師として子供たちに間違った教育をしてきたことを悔いて教壇を去っていた。そこへ、NHKで放送するために復員兵を迎える歌詞にして欲しいと海沼から以来があったが、詩のテーマの根本的な変更なので、なかなか筆が進まず、あれこれ悩んでいるうちに、とうとう放送当日になってしまったため、1,2番はそのままにし、慌てて3番だけを付け足したのが、「里の秋」であった。すでに曲はできていたので、海沼は川田に詩を渡して練習させたあと、放送に臨んだという。
「星月夜」 と「里の秋」の歌詞の違いは、以下を見ると良くわかる。
「星月夜」 ↓
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/hoshidukiyo.html
みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船がとおく かすんでる♪
「みかんの花咲く丘」作詞:加藤省吾、作曲:海沼実
「みかんの花咲く丘」も、第2次世界大戦の終戦直後に生み出された、名作の1つであり、「里の秋」の翌年、1946(昭和21)年8月25日に作られた。
この歌は、1946(昭和21)年8月、NHKラジオで、東京のスタジオと伊豆半島・伊東市の小学校とを中継で結ぶ番組が企画され、その番組で「静岡にふさわしい童謡」を川田正子に歌わせたいということから海沼のところへ依頼がきたが、長野県出身の海沼にはイメージが湧かず、苦労したようだが、当初1回限りの放送用としてつくられたこの曲の反響はものすごく、聴取者からの要望に応えてレコード化され、童謡としては空前の大ヒットした曲となったもの。
日本の童謡の名作誕生の経緯などについては、下記サイトに詳しく書かれている。名曲を聴きながら御覧あれ。
二木紘三MIDI歌声喫茶「みかんの花咲く丘」↓
http://www.duarbo.jp/versoj/v-douyou/mikannohana.htm
1947(昭和22)年、変声期に差し掛かったため歌手を引退。その後、武蔵野音楽大学声楽科に進学。1971年歌手に復帰。1979年母・須摩子が病に倒れると、音羽ゆりかご会の会員を引き連れて森の木児童合唱団を創立、主宰し歌唱指導にあたった。近年は童謡だけでなく日本歌曲やカンツォーネなどにも取り組んでいた。
1991(平成 3)年6月、日本童謡協会より童謡賞特別賞を受賞する。 2001(平成13)年東京のNHKホールで歌手生活60周年記念コンサートを開催。 2006年1月22日夜、入浴中に意識を失い病院に搬送されたものの、そのまま息を引き取られた。
戦中戦後、私達の年代の者は、毎日のように川田さんの歌を耳にしてきた。
次々と、時代を共にしてきた昭和を代表する人達がいなくなっていくのが非常に寂しく思われるこの頃である。
(画像は、敗戦後川田正子さんが歌った童謡がミカン産地の静岡県伊東市の丘に建ち、1983=昭和58年11月1の除幕式で川田さんが、当時を懐かしみながら歌っているところ。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
二木紘三MIDI歌声喫茶
http://www.duarbo.jp/songs.htm
銀の櫂・童謡と唱歌
http://www.aba.ne.jp/~takaichi/douyou/douyou.htm
みかんの花咲く丘 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%AE%E8%8A%B1%E5%92%B2%E3%81%8F%E4%B8%98
d-score 楽譜 - 加藤省吾
http://www.d-score.com/ar/A04062709.html
兵隊さんの汽車
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/heitaisanno.html
星月夜
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/hoshidukiyo.html
川田正子と森の木児童合唱団
http://www.beato.co.jp/page/beato/2a/kmm.html
「NHK紅白歌合戦」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/808d6ac5d2c8d8973b1aecd50a0ff539
川田正子 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1147146/index.html
やあ、お元気ですね・No.4 川田正子さん(歌手)
http://www.yumekurabu.or.jp/04_yah/yah/ya4_kawada.html
さよなら/川田正子/童謡は心のふるさと/東京新聞出版局/2001年
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/3000Lied-Foto/010030Lied.htm
童謡「みかんの花咲く丘」や」「里の秋」などで知られる童謡歌手・川田正子さんがが亡くなったのは、昨・2006(平成18)年の1月22日のことであった。71歳であった。東京都出身。
川田正子は、1942(昭和17)年、7歳で歌手として芸能界入りし、妹の川田孝子とともにコーラス合唱団音羽ゆりかご会に入会し、同会の会長で童謡作曲家の海沼実に師事する。
1943年、関東児童唱歌コンクールで「兵隊さんの汽車」を歌い、2位に入賞。
1945年、紅白歌合戦に出場。 この紅白歌合戦は、第二次世界大戦終結直後の1945(昭和20)年の大晦日(12月31日)に、平和になった証としての新時代にふさわしい大型音楽番組として企画され、「紅白音楽試合」というタイトルで放送された(ラジオ)。当時は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったが、GHQの反発のために音楽試合へと変更されたのである。このとき、川田が歌う曲は、「兵隊さんの汽車」であったが、この歌は、出征兵士を送る歌だった。そのため、音楽試合直前にGHQからクレームがつき歌詞の一部を変更させられ、現在皆に歌われている「汽車ポッポ」になった。今では明るい汽車の旅の歌であるが、本当は出征兵士を送るとても悲しい歌だったのである。
このことは、以前に私のブログ「NHK紅白歌合戦」で取り上げたので興味のある方は見てください。↓
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/808d6ac5d2c8d8973b1aecd50a0ff539
又、歌詞がどのように違うかなど、対比したものが以下にあります。
兵隊さんの汽車 ↓http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/heitaisanno.html
この歌のようにデビュー当初は戦時中であったこともあり、軍歌風の楽曲を中心に歌っていたが、戦後、本格的な童謡を歌うようになる。
特に1945(昭和20)年の「里の秋」と1946(昭和21)年の「みかんの花咲く丘」が大ヒット。甘くやわらかなソプラノで終戦直後の人々の心をとらえ、人気を集めた。
静かな静かな里の秋
お背戸(せど)に木の実が落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てます囲炉裏端 ♪
「里の秋」作詞:斎藤信夫、作曲:海沼 実
二木紘三MIDI歌声喫茶「里の秋」↓
http://www.duarbo.jp/versoj/v-douyou/satonoaki.htm
この静かな秋の深まりゆく様を歌った童謡「里の秋」ももともとは、終戦後の引揚者や復員兵のためにつくらた歌だという事はあまり知られていない。
1945(昭和20)年8月、日本は敗戦した。同時に、南方や大陸各地から軍人・軍属、民間人たちが続々と日本に引き揚げてきた。この年の暮れ、日本放送協会(NHK)が、そうした復員兵や引き揚げ者たちを励ます特別ラジオ番組を企画し、その中で流す歌として、音羽ゆりかご会の主催者であり作曲家でもある海沼実に依頼して作曲されたものである。
「里の秋」作曲に至る経緯などについては、上記サイトにも詳しく書かれているが、簡単に述べると以下のような経緯である。
その歌の放送日は、南方からの復員船が神奈川県・浦賀港に入港する12月24日と決められていた。そのため、曲を作るための時間的余裕のなかった海沼は、適当な詩を、古い童謡雑誌から探し、斎藤信夫作『星月夜』という童謡を見つけた。
斎藤は、詩人であり、千葉県の学校の教師でもあった。斎藤が、「星月夜」を作詞したのは、4年前の1941(昭和16)年であり、まさに太平洋戦争が始まろうとしていた時であった。
「里の秋」は周知のように、1番と2番で秋が深まりゆく山里の静かな生活を歌っているのに対し、3番では太平洋戦争が終り南方の島々から引き上げてくる兵士たち、つまり「父さん」の航海の無事を祈りますと結んでいる。しかし、もとの「星月夜」には4番まであった。1,2番は「里の秋」と全く同じであるが、3番では出征している父さんの武運を祈り、4番は自分も大きくなったら兵隊さんになって国を守りますという子供の抱負をうたっていた。しかし、この歌ができて4年後には、日本軍は南海の島々で追い詰められ、そのなかで、無謀な玉砕が繰り返され、何万人もの兵士・「父さん」達が屍となって朽ちていった。敗戦後、斎藤は教師として子供たちに間違った教育をしてきたことを悔いて教壇を去っていた。そこへ、NHKで放送するために復員兵を迎える歌詞にして欲しいと海沼から以来があったが、詩のテーマの根本的な変更なので、なかなか筆が進まず、あれこれ悩んでいるうちに、とうとう放送当日になってしまったため、1,2番はそのままにし、慌てて3番だけを付け足したのが、「里の秋」であった。すでに曲はできていたので、海沼は川田に詩を渡して練習させたあと、放送に臨んだという。
「星月夜」 と「里の秋」の歌詞の違いは、以下を見ると良くわかる。
「星月夜」 ↓
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/hoshidukiyo.html
みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船がとおく かすんでる♪
「みかんの花咲く丘」作詞:加藤省吾、作曲:海沼実
「みかんの花咲く丘」も、第2次世界大戦の終戦直後に生み出された、名作の1つであり、「里の秋」の翌年、1946(昭和21)年8月25日に作られた。
この歌は、1946(昭和21)年8月、NHKラジオで、東京のスタジオと伊豆半島・伊東市の小学校とを中継で結ぶ番組が企画され、その番組で「静岡にふさわしい童謡」を川田正子に歌わせたいということから海沼のところへ依頼がきたが、長野県出身の海沼にはイメージが湧かず、苦労したようだが、当初1回限りの放送用としてつくられたこの曲の反響はものすごく、聴取者からの要望に応えてレコード化され、童謡としては空前の大ヒットした曲となったもの。
日本の童謡の名作誕生の経緯などについては、下記サイトに詳しく書かれている。名曲を聴きながら御覧あれ。
二木紘三MIDI歌声喫茶「みかんの花咲く丘」↓
http://www.duarbo.jp/versoj/v-douyou/mikannohana.htm
1947(昭和22)年、変声期に差し掛かったため歌手を引退。その後、武蔵野音楽大学声楽科に進学。1971年歌手に復帰。1979年母・須摩子が病に倒れると、音羽ゆりかご会の会員を引き連れて森の木児童合唱団を創立、主宰し歌唱指導にあたった。近年は童謡だけでなく日本歌曲やカンツォーネなどにも取り組んでいた。
1991(平成 3)年6月、日本童謡協会より童謡賞特別賞を受賞する。 2001(平成13)年東京のNHKホールで歌手生活60周年記念コンサートを開催。 2006年1月22日夜、入浴中に意識を失い病院に搬送されたものの、そのまま息を引き取られた。
戦中戦後、私達の年代の者は、毎日のように川田さんの歌を耳にしてきた。
次々と、時代を共にしてきた昭和を代表する人達がいなくなっていくのが非常に寂しく思われるこの頃である。
(画像は、敗戦後川田正子さんが歌った童謡がミカン産地の静岡県伊東市の丘に建ち、1983=昭和58年11月1の除幕式で川田さんが、当時を懐かしみながら歌っているところ。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
二木紘三MIDI歌声喫茶
http://www.duarbo.jp/songs.htm
銀の櫂・童謡と唱歌
http://www.aba.ne.jp/~takaichi/douyou/douyou.htm
みかんの花咲く丘 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%AE%E8%8A%B1%E5%92%B2%E3%81%8F%E4%B8%98
d-score 楽譜 - 加藤省吾
http://www.d-score.com/ar/A04062709.html
兵隊さんの汽車
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/heitaisanno.html
星月夜
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/hoshidukiyo.html
川田正子と森の木児童合唱団
http://www.beato.co.jp/page/beato/2a/kmm.html
「NHK紅白歌合戦」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/808d6ac5d2c8d8973b1aecd50a0ff539
川田正子 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1147146/index.html
やあ、お元気ですね・No.4 川田正子さん(歌手)
http://www.yumekurabu.or.jp/04_yah/yah/ya4_kawada.html
さよなら/川田正子/童謡は心のふるさと/東京新聞出版局/2001年
http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/3000Lied-Foto/010030Lied.htm