今日(1月25日)は「お詫びの日」
この日は、1077年、神聖ローマ皇帝がローマ教皇に「お詫び」をした日。つまり、「カノッサの屈辱 」の日と言われている日である。
カノッサの屈辱とは、聖職叙任権をめぐってローマ教皇・グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝・ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間、教皇による破門の解除を願って北イタリアの城に赴いて許しを願ったことをいう。
この事件の背景を語る前に、ローマ時代の複雑なキリスト教の状況を理解する必要があるので、以下簡単に、キリスト教の歴史を振り返ってみよう。
キリスト教を国教化したローマ皇帝・テオドシウス1世は、死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなく、対照的な運命を辿ることになった。そのため、今日ではこれ以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼んでいる。ただし、当時の意識としては別の国家となったわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国が西の皇帝と東の皇帝の統治管区に分割されているというものであった。
ローマ帝国の分裂後、東ローマ帝国領域内と西ローマ帝国領域内で、キリスト教はそれぞれ違った展開をみせる。この相違は政治的なものにとどまらず、両地域がそれぞれギリシア語圏とラテン語圏に分かれ、元来異なる文化圏に属したことに由来すると考えられている。
東ローマ帝国において、宗教上の最高決定権は皇帝の手に握られるようになった。これを『皇帝教皇主義』という。東西教会が教理上の問題で分裂した後は、首都コンスタンティノポリスの総主教は「世界総主教」としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。
西方では、王朝替えしたカロリング朝のカール大帝(シャルルマーニュ)のとき、フランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。カロリング朝ではローマ教皇との連携を重視し、カール大帝の父王ピピン3世は、イタリアのロンバルド王国討伐で征服したラヴェンナ地方を教皇に献上して以降、ローマ教皇庁が北イタリアに徐々に自前の領土と勢力圏を持つにいたった。こうして成立したのが教皇領である。
やがてコンスタンティノポリス総主教庁とローマ教皇庁は決定的に対立することとなり、1054年に東方正教会とローマ・カトリック教会に分裂する。
またグレゴリウス7世など一連の有能な教皇たちが現れ、弛緩していた教会の規律を正し、世俗領主たちに握られていた聖職叙任権を取り戻していくことで、カトリック教会の影響力を宗教面のみならず、世俗政治の世界においても強めることになった。
実質的なフランク王国終焉後、ドイツでは962年にオットー1世が西ローマの後継として神聖ローマ帝国を名乗るが、その6世の孫になるハインリヒ4世は、北イタリアにおける影響力を増すべく、自分の子飼いの司祭たちをミラノ大司教、フェルモやスポレトの司教などに次々と任命していった。それに対して、教皇は司教の任命権(叙任権)は王でなく教会にあることを通達し、対立司教の擁立中止を求めたが、ハインリヒ4世は聞き入れなかった。こうして、王権を超える権威として西欧に影響力を強めるカトリック教会と、聖職叙任権や教会財産の問題をめぐって各地の権力者たちとの対立が起こるようになった。これが叙任権闘争といわれるものである。このような対立は、次第に深刻なものとなり、グレゴリウス7世が王の破門と皇帝権の剥奪をほのめかしたため、ハインリヒ4世側が激怒。1076年1月に独自の教会会議を開いて教皇の廃位を宣言した。ここに至って教皇も、1076年2月にハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言した。
ザリエル朝(以下参考の神聖ローマ帝国/ザリエル朝参照)のもとで王権・帝権の強化が進んだことがザクセン公はじめ、ドイツ諸侯らの懸念を招いていたこともあり、彼らはハインリヒの王位を否定する動きをみせた。こうして翌1077年1月、自らの政治的地位が動揺したハインリヒ4世は、教皇から破門を解いてもらう為にグレゴリウス7世が滞在している北イタリアのカノッサ城にを訪れたが、グレゴリウスはなかなか会おうとせず、カノッサ城外で悔恨の心を示すことを要求した。ハイリンヒは修道士の服装に身をつつんで1月25日から3日間、真冬の城外で赦しを請い続けたという。これをカノッサの屈辱という。
しかし、グレゴリウス7世に、一旦謝罪、屈服したハインリヒであるが、この事件後、ドイツに戻ると直ちに反撃、反対派の諸侯を制圧し王権を確立する。その後、再び叙任権をめぐって両者の対立は激化するが、ハインリヒは対立教皇クレメンス3世を擁し、軍勢を率いてイタリアに侵攻、4年間の戦役の後、1084年ついに、ローマを包囲した。教皇・グレゴリウス7世は、辛くも脱出し、1085年にサレルノで客死した。この戦いにより、ハイリンヒは、「カノッサの屈辱 」を晴らしたのであるが、1105年、ハインリヒ5世となった息子の手によって王位を追われ、さびしい最期をとげることになる。
そして、この叙任権闘争は、以降もヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立した1122年まで続いたという。その後、176代ローマ教皇インノケンティウス3世は、グレゴリウス7世の改革と教権統治の思想を受け継ぎ、世俗権力との対立、十字軍派遣、異端対策などをすすめ、ローマ教皇庁の強化と教皇領の失地回復を図り、ローマ・カトリック教会はその絶頂期を迎えた。そして、「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語したといわれる。1216年死去するが、対外的には暴君的であるとの批判も多い。神聖なる神さんの世界も、その地位を確保するまで、ずいぶんと俗っぽい事をしてきたんだよね。
なんだか、少々、くどくどと、難しい話にもなってしまったが、私も、余り、よく知らない分野なので、フリー百科事典Wikipediaなど便りに調べながら書いたのでので悪しからず。
現実の世界では、なかなか、過ちを犯しても素直に「ごめんなさい」と謝れないことが多いものだが、そのために、日頃、家族間、友人間、また、会社などの中でも、尾を引いているわだかまりなどのある人も多いだろうが、この際、「お詫びの日」を口実にすれば、照れ隠しながらも誤る事ができるかもしれないので、謝ってスッキリさせると良いかもね。・・・実行してみる・・・?。え、謝ることなんかないって・・・!。私なんか・・・家人には謝らなければならないことが一杯あるのだが・・・・。
(画像は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世。フリー百科事典Wikipediaより借用)
参考:
キリスト教の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
皇帝教皇主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D%E6%95%99%E7%9A%87%E4%B8%BB%E7%BE%A9
神聖ローマ帝国/ザリエル朝
http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/wol/kings/salier.htm
カノッサの屈辱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%B5%E3%81%AE%E5%B1%88%E8%BE%B1
インノケンティウス3世 (ローマ教皇) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B93%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
歴代教皇名 索引(アイウエオ順)
http://homepage3.nifty.com/st_peter/pps/index5.html
この日は、1077年、神聖ローマ皇帝がローマ教皇に「お詫び」をした日。つまり、「カノッサの屈辱 」の日と言われている日である。
カノッサの屈辱とは、聖職叙任権をめぐってローマ教皇・グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝・ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間、教皇による破門の解除を願って北イタリアの城に赴いて許しを願ったことをいう。
この事件の背景を語る前に、ローマ時代の複雑なキリスト教の状況を理解する必要があるので、以下簡単に、キリスト教の歴史を振り返ってみよう。
キリスト教を国教化したローマ皇帝・テオドシウス1世は、死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなく、対照的な運命を辿ることになった。そのため、今日ではこれ以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼んでいる。ただし、当時の意識としては別の国家となったわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国が西の皇帝と東の皇帝の統治管区に分割されているというものであった。
ローマ帝国の分裂後、東ローマ帝国領域内と西ローマ帝国領域内で、キリスト教はそれぞれ違った展開をみせる。この相違は政治的なものにとどまらず、両地域がそれぞれギリシア語圏とラテン語圏に分かれ、元来異なる文化圏に属したことに由来すると考えられている。
東ローマ帝国において、宗教上の最高決定権は皇帝の手に握られるようになった。これを『皇帝教皇主義』という。東西教会が教理上の問題で分裂した後は、首都コンスタンティノポリスの総主教は「世界総主教」としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。
西方では、王朝替えしたカロリング朝のカール大帝(シャルルマーニュ)のとき、フランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。カロリング朝ではローマ教皇との連携を重視し、カール大帝の父王ピピン3世は、イタリアのロンバルド王国討伐で征服したラヴェンナ地方を教皇に献上して以降、ローマ教皇庁が北イタリアに徐々に自前の領土と勢力圏を持つにいたった。こうして成立したのが教皇領である。
やがてコンスタンティノポリス総主教庁とローマ教皇庁は決定的に対立することとなり、1054年に東方正教会とローマ・カトリック教会に分裂する。
またグレゴリウス7世など一連の有能な教皇たちが現れ、弛緩していた教会の規律を正し、世俗領主たちに握られていた聖職叙任権を取り戻していくことで、カトリック教会の影響力を宗教面のみならず、世俗政治の世界においても強めることになった。
実質的なフランク王国終焉後、ドイツでは962年にオットー1世が西ローマの後継として神聖ローマ帝国を名乗るが、その6世の孫になるハインリヒ4世は、北イタリアにおける影響力を増すべく、自分の子飼いの司祭たちをミラノ大司教、フェルモやスポレトの司教などに次々と任命していった。それに対して、教皇は司教の任命権(叙任権)は王でなく教会にあることを通達し、対立司教の擁立中止を求めたが、ハインリヒ4世は聞き入れなかった。こうして、王権を超える権威として西欧に影響力を強めるカトリック教会と、聖職叙任権や教会財産の問題をめぐって各地の権力者たちとの対立が起こるようになった。これが叙任権闘争といわれるものである。このような対立は、次第に深刻なものとなり、グレゴリウス7世が王の破門と皇帝権の剥奪をほのめかしたため、ハインリヒ4世側が激怒。1076年1月に独自の教会会議を開いて教皇の廃位を宣言した。ここに至って教皇も、1076年2月にハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言した。
ザリエル朝(以下参考の神聖ローマ帝国/ザリエル朝参照)のもとで王権・帝権の強化が進んだことがザクセン公はじめ、ドイツ諸侯らの懸念を招いていたこともあり、彼らはハインリヒの王位を否定する動きをみせた。こうして翌1077年1月、自らの政治的地位が動揺したハインリヒ4世は、教皇から破門を解いてもらう為にグレゴリウス7世が滞在している北イタリアのカノッサ城にを訪れたが、グレゴリウスはなかなか会おうとせず、カノッサ城外で悔恨の心を示すことを要求した。ハイリンヒは修道士の服装に身をつつんで1月25日から3日間、真冬の城外で赦しを請い続けたという。これをカノッサの屈辱という。
しかし、グレゴリウス7世に、一旦謝罪、屈服したハインリヒであるが、この事件後、ドイツに戻ると直ちに反撃、反対派の諸侯を制圧し王権を確立する。その後、再び叙任権をめぐって両者の対立は激化するが、ハインリヒは対立教皇クレメンス3世を擁し、軍勢を率いてイタリアに侵攻、4年間の戦役の後、1084年ついに、ローマを包囲した。教皇・グレゴリウス7世は、辛くも脱出し、1085年にサレルノで客死した。この戦いにより、ハイリンヒは、「カノッサの屈辱 」を晴らしたのであるが、1105年、ハインリヒ5世となった息子の手によって王位を追われ、さびしい最期をとげることになる。
そして、この叙任権闘争は、以降もヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立した1122年まで続いたという。その後、176代ローマ教皇インノケンティウス3世は、グレゴリウス7世の改革と教権統治の思想を受け継ぎ、世俗権力との対立、十字軍派遣、異端対策などをすすめ、ローマ教皇庁の強化と教皇領の失地回復を図り、ローマ・カトリック教会はその絶頂期を迎えた。そして、「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語したといわれる。1216年死去するが、対外的には暴君的であるとの批判も多い。神聖なる神さんの世界も、その地位を確保するまで、ずいぶんと俗っぽい事をしてきたんだよね。
なんだか、少々、くどくどと、難しい話にもなってしまったが、私も、余り、よく知らない分野なので、フリー百科事典Wikipediaなど便りに調べながら書いたのでので悪しからず。
現実の世界では、なかなか、過ちを犯しても素直に「ごめんなさい」と謝れないことが多いものだが、そのために、日頃、家族間、友人間、また、会社などの中でも、尾を引いているわだかまりなどのある人も多いだろうが、この際、「お詫びの日」を口実にすれば、照れ隠しながらも誤る事ができるかもしれないので、謝ってスッキリさせると良いかもね。・・・実行してみる・・・?。え、謝ることなんかないって・・・!。私なんか・・・家人には謝らなければならないことが一杯あるのだが・・・・。
(画像は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世。フリー百科事典Wikipediaより借用)
参考:
キリスト教の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
皇帝教皇主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D%E6%95%99%E7%9A%87%E4%B8%BB%E7%BE%A9
神聖ローマ帝国/ザリエル朝
http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/wol/kings/salier.htm
カノッサの屈辱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%B5%E3%81%AE%E5%B1%88%E8%BE%B1
インノケンティウス3世 (ローマ教皇) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B93%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
歴代教皇名 索引(アイウエオ順)
http://homepage3.nifty.com/st_peter/pps/index5.html