1992年の今日( 1月26日)は日本の大相撲で、貴花田が19歳5か月の史上最年少で幕内優勝 を果たした日。
元第65代横綱で、現一代年寄の貴花田光司(本名花田 光司)の、父は元大関の貴ノ花健士、母は元女優の藤田憲子。兄はタレントの花田勝(元第66代横綱・若乃花)。妻は元フジテレビアナウンサーの河野景子。若乃花幹士(第45代横綱)は伯父(父の兄)という、日本相撲界のサラブレッドである。
1972(昭和47)年東京都杉並区に花田家の次男として生まれ、父の姿を見て育った光司は、1982(昭和57)年に、 相撲界から引退して、藤島親方となった父親(当時大関・貴乃花)が、中野区に藤島部屋を開いたため、中野区の小学校に兄の勝と転校。その年、4年生で、腕白相撲大会の横綱となる(兄勝は5年生で小結)。1985(昭和60)年、アマ相撲界で名高い明治大学附属中野中学校へ入学してからも、全国中学相撲選手権大会で7戦全勝。中野中学の団体優勝に貢献。 1988(昭和63)年2月、兄勝と共に中野中学を中退して、藤島部屋に入門。同年3月春場所兄弟そろって初土俵を踏む。翌1989(平成元)年春場所で、7戦全勝。16歳9ヶ月の幕下優勝は、富樫(元横綱柏戸剛)の17歳6ヶ月を抜く最年少記録である。そして、同年、9月秋場所で、7戦全勝10月に十両昇進。 北の湖(現日本相撲協会理事長)が持つ、17歳11ヶ月を破り、17歳2ヶ月の史上最年少関取となる。1990(平成2)年3月兄若花田も十両昇進を果たしている。この年5月、僅か3場所で十両を通過。17歳8ヶ月の新入幕は、北の海18歳7ヶ月を上回る史上最年少幕内昇進記録である。しかし、右足親指を痛め、夏場所は4勝11敗となり、僅か1場所で、十両に転落する。11月貴花田、三場所ぶりに再入幕。史上3組目の兄弟同時力士が誕生となる。1991(平成3)年3月、春場所で12勝あげ、史上最年少で、三賞のうち、技能、敢闘賞2賞を受賞し、貴花田フィーバーを巻き起こす。そして、5月、夏場所初日に横綱・ 千代の富士(現在は年寄・九重)と対戦し、史上最年少金星を獲得した。小柄ながらも筋肉の引き締まった肉体で、力士の大型化した時代に、スピードとパワーで相手を投げ飛ばす豪快な相撲をみせてくれていた千代の富士は、前年(1990=平成2年)1月場所には優勝回数を30と大台に乗せ、翌3月には前人未踏の通算1000勝を達成していた。その後しばらく優勝から遠ざかりとは言っても成績は13勝・12勝の準優勝であって横綱としては十分責任を果たしていたが、夏巡業で左足を痛めて9月場所を全休。35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて、北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けていた。翌1991(平成3)年1月場所初日に幕内通算805勝目を上げ、史上単独1位としたが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。そして5月場所初日に18歳の新鋭貴花田に完敗した。
私は、この時、テレビで試合を見ていて、貴花田に負けた千代の富士が悔しがるというよりも、体力の限界を感じていた彼がやっと、自分の後継者となる若者が育ってきたという喜びのようなものを感じていたのだろう・・試合に敗れながらかすかに微笑んでいた様に見えた。この日、彼は「もう一つ敗れたら引退だ」と久美子夫人に告げていたという。そして、三日目には、貴花田と同じ藤島部屋の若武者である貴闘力に敗れ、35歳11カ月で気力・体力の限界を表明して引退、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。貴花田は、この場所、9勝をあげ、場所後史上最年少小結となる。まさに、世代交代を感じさせる一番であり、相撲界の誰もが素直に彼の優勝を喜んだのではないだろうか。そして、9月には、大鵬の20歳3ヶ月を1歳以上更新して、史上最年少の関脇となった。
その翌年となる、1992年の今日( 1月26日)、初場所での優勝を果たした。19歳5か月での幕内優勝 は、大鵬のもつ20歳5ヶ月よりも1年も若い史上最年少記録である。場所後に、退任の決まっていた伯父である二子山理事長の、貴花田に賜杯を手渡した時の目はじんわりとうるんでいた。
その年の3月場所には、兄若花田も小結に返り咲き、90年九州場所の関脇寺尾、小結逆鉾につぐ、史上2組目の兄弟同時三役となる。以後、数々の最年少記録を打ち立て、兄若乃花とともに「若貴ブーム」を起こし、ライバル曙らと名勝負を演じてきた。
出世の早さに人格面が追いつかないうらみもあったものの、優勝22回は当時歴代4位の記録であり、平成の大横綱と称されている。
引退後は、父親の代から引き継いだ貴乃花部屋の親方になったが、部屋に住んでいないなど奇行も目立った。2005年5月30日の父の死に際して兄との確執が噴出し、マスコミも巻き込んで若乃花批判を行い大騒動に発展した。また返す刀で日本相撲協会の体質をも批判したため、同年7月場所中に相撲協会から厳重注意を受ける舌禍事件まで起こしてしまったことは、それまでの彼の名誉に傷をつけることになったのは惜しいことだ。
(画像は、貴乃花優勝を伝えるスポーツニッポン号外。写真は、目を潤ませ貴花田に賜杯を手渡す伯父でもある二子山理事長)
参考:
貴乃花光司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E4%B9%83%E8%8A%B1%E5%85%89%E5%8F%B8
日本相撲協会公式サイト
http://www.sumo.or.jp/
大相撲-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
大相撲力士一覧-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2%E5%8A%9B%E5%A3%AB%E4%B8%80%E8%A6%A7
大相撲 記録の玉手箱
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm
文藝春秋編 日本の論点PLUS
http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/sample/enquete/050721.html
元第65代横綱で、現一代年寄の貴花田光司(本名花田 光司)の、父は元大関の貴ノ花健士、母は元女優の藤田憲子。兄はタレントの花田勝(元第66代横綱・若乃花)。妻は元フジテレビアナウンサーの河野景子。若乃花幹士(第45代横綱)は伯父(父の兄)という、日本相撲界のサラブレッドである。
1972(昭和47)年東京都杉並区に花田家の次男として生まれ、父の姿を見て育った光司は、1982(昭和57)年に、 相撲界から引退して、藤島親方となった父親(当時大関・貴乃花)が、中野区に藤島部屋を開いたため、中野区の小学校に兄の勝と転校。その年、4年生で、腕白相撲大会の横綱となる(兄勝は5年生で小結)。1985(昭和60)年、アマ相撲界で名高い明治大学附属中野中学校へ入学してからも、全国中学相撲選手権大会で7戦全勝。中野中学の団体優勝に貢献。 1988(昭和63)年2月、兄勝と共に中野中学を中退して、藤島部屋に入門。同年3月春場所兄弟そろって初土俵を踏む。翌1989(平成元)年春場所で、7戦全勝。16歳9ヶ月の幕下優勝は、富樫(元横綱柏戸剛)の17歳6ヶ月を抜く最年少記録である。そして、同年、9月秋場所で、7戦全勝10月に十両昇進。 北の湖(現日本相撲協会理事長)が持つ、17歳11ヶ月を破り、17歳2ヶ月の史上最年少関取となる。1990(平成2)年3月兄若花田も十両昇進を果たしている。この年5月、僅か3場所で十両を通過。17歳8ヶ月の新入幕は、北の海18歳7ヶ月を上回る史上最年少幕内昇進記録である。しかし、右足親指を痛め、夏場所は4勝11敗となり、僅か1場所で、十両に転落する。11月貴花田、三場所ぶりに再入幕。史上3組目の兄弟同時力士が誕生となる。1991(平成3)年3月、春場所で12勝あげ、史上最年少で、三賞のうち、技能、敢闘賞2賞を受賞し、貴花田フィーバーを巻き起こす。そして、5月、夏場所初日に横綱・ 千代の富士(現在は年寄・九重)と対戦し、史上最年少金星を獲得した。小柄ながらも筋肉の引き締まった肉体で、力士の大型化した時代に、スピードとパワーで相手を投げ飛ばす豪快な相撲をみせてくれていた千代の富士は、前年(1990=平成2年)1月場所には優勝回数を30と大台に乗せ、翌3月には前人未踏の通算1000勝を達成していた。その後しばらく優勝から遠ざかりとは言っても成績は13勝・12勝の準優勝であって横綱としては十分責任を果たしていたが、夏巡業で左足を痛めて9月場所を全休。35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて、北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けていた。翌1991(平成3)年1月場所初日に幕内通算805勝目を上げ、史上単独1位としたが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。そして5月場所初日に18歳の新鋭貴花田に完敗した。
私は、この時、テレビで試合を見ていて、貴花田に負けた千代の富士が悔しがるというよりも、体力の限界を感じていた彼がやっと、自分の後継者となる若者が育ってきたという喜びのようなものを感じていたのだろう・・試合に敗れながらかすかに微笑んでいた様に見えた。この日、彼は「もう一つ敗れたら引退だ」と久美子夫人に告げていたという。そして、三日目には、貴花田と同じ藤島部屋の若武者である貴闘力に敗れ、35歳11カ月で気力・体力の限界を表明して引退、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。貴花田は、この場所、9勝をあげ、場所後史上最年少小結となる。まさに、世代交代を感じさせる一番であり、相撲界の誰もが素直に彼の優勝を喜んだのではないだろうか。そして、9月には、大鵬の20歳3ヶ月を1歳以上更新して、史上最年少の関脇となった。
その翌年となる、1992年の今日( 1月26日)、初場所での優勝を果たした。19歳5か月での幕内優勝 は、大鵬のもつ20歳5ヶ月よりも1年も若い史上最年少記録である。場所後に、退任の決まっていた伯父である二子山理事長の、貴花田に賜杯を手渡した時の目はじんわりとうるんでいた。
その年の3月場所には、兄若花田も小結に返り咲き、90年九州場所の関脇寺尾、小結逆鉾につぐ、史上2組目の兄弟同時三役となる。以後、数々の最年少記録を打ち立て、兄若乃花とともに「若貴ブーム」を起こし、ライバル曙らと名勝負を演じてきた。
出世の早さに人格面が追いつかないうらみもあったものの、優勝22回は当時歴代4位の記録であり、平成の大横綱と称されている。
引退後は、父親の代から引き継いだ貴乃花部屋の親方になったが、部屋に住んでいないなど奇行も目立った。2005年5月30日の父の死に際して兄との確執が噴出し、マスコミも巻き込んで若乃花批判を行い大騒動に発展した。また返す刀で日本相撲協会の体質をも批判したため、同年7月場所中に相撲協会から厳重注意を受ける舌禍事件まで起こしてしまったことは、それまでの彼の名誉に傷をつけることになったのは惜しいことだ。
(画像は、貴乃花優勝を伝えるスポーツニッポン号外。写真は、目を潤ませ貴花田に賜杯を手渡す伯父でもある二子山理事長)
参考:
貴乃花光司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E4%B9%83%E8%8A%B1%E5%85%89%E5%8F%B8
日本相撲協会公式サイト
http://www.sumo.or.jp/
大相撲-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
大相撲力士一覧-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2%E5%8A%9B%E5%A3%AB%E4%B8%80%E8%A6%A7
大相撲 記録の玉手箱
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/sumo.htm
文藝春秋編 日本の論点PLUS
http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/sample/enquete/050721.html