文久2年4月23日(1862年5月29日)薩摩藩尊皇派等が薩摩藩藩主(29代藩主島津忠義)の父で事実上の指導者・島津久光によって粛清された事件「寺田屋事件 」が起った。「寺田屋騒動」と呼ばれることもある。
え?、寺田屋事件・・・て、江戸時代末期の1866年、旅館・寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、薩長同盟の成立を悟(さと)った伏見奉行配下の新撰組によって包囲され捕縛ないし暗殺されようとしたあの有名な事件のことじゃ~ないかっ?・・・て。
そう、この2つとも、京都郊外の伏見(現在の京都府京都市伏見区)の旅館・寺田屋で発生した歴史上の重要事件である。
坂本竜馬は寺田屋に止宿中に襲われたが、同宿の女将とせの養女・おりょう(楢崎 龍。のち竜馬の妻)の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく難をのがれた。
なんでも、そのおりょうは風呂から裸のまま2階へ階段を駆け上がり危機を知らせ、龍馬は主に銃で反撃したといわれており、現在の寺田屋(以下参考に記載の「※寺田屋」参照)の建物には事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされているようだが、事件当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在ある建物は当時の敷地の西隣に建てられたものだそうである(明治38年〔1905年〕に登記されているという)。
事件の内容も発生年月も異なる「寺田屋」で起った2つの事件は何れも薩摩藩がかかわっているが、伏見は京・大阪からの船による交通の要所でもあったため、寺田屋は、薩摩藩が定宿として利用していたところからこの重要な事件の舞台となった。
補足すると、楢崎 龍の父・将作は井伊直弼による安政の大獄で捕らえられ、獄死し、このため、お龍と母、そして幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍はそれを養うため、各地を放浪の果てに寺田屋に奉公することとなったのだそうだ。
安政5年(1858年)7月16日、島津氏28代当主、薩摩藩の第11代藩主島津斉彬が急逝した。斉彬は、薩摩の精兵3千を率いて、京に上り、幕政改革を迫るつもりであった。英明の聞こえの高かった一橋慶喜を、将軍に擁立して、難局の打開をはかった一橋派は老中安倍正弘を失い、頼みの綱の斉彬まで失ってしまった。このあと、井伊直弼による大獄(安政の大獄)の嵐が吹き荒れる。薩摩藩では、斉彬死後、遺言により忠教(久光)の長男・茂久(後の忠義)が藩主に就任。茂久の後見を務めた斉興が安政6年(1859年)に没すると、藩主の実父として忠教(久光)の藩内における政治的影響力が増大した。忠教は文久元年(1861年)4月23日に宗家へ復帰し諱を久光と改名し、権力拡大の過程で小松清廉(帯刀)などと合わせて、大久保一蔵(利通)や岩下方平(みちひら)、海江田信義、吉井友実ら中下級藩士から成る有志グループ精忠組の中核メンバーを登用する。ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは合わず、西郷を憎んで島流しにした。
そんな薩摩藩が再び国事に乗り出すのは、3年の歳月を待たねばならなかった。この間薩摩を脱藩した有村次左衛門が、水戸藩士とともに桜田門外の変で、井伊直弼の首級(しゅきゅう)をあげている。文久2年(1862年)になると、藩主忠義の父久光が動き始める。幕政を改革せよという命令を朝廷から引き出し、自分が、それを持って江戸に乗り込もうというのである。千余の兵を率いて上京にあたり、先ず西郷を呼び戻して、先発して下関で待機するよう命じた。ところが、西郷は、久光の上京・江戸行きを挙兵計画と勘違いし、不穏な動きを見せ始めた尊皇攘夷派を抑えるため、上方に向かってしまう。下関で、西郷の無断上京を知った久光は、激怒して、西郷を沖永良部島に幽閉する。浪士鎮撫(ちんぶ。乱をしずめ人心を安定させること)の勅命をいただいている久光としては、自藩から暴発者を出すのを何としても阻止したかったのである。そして、4月23日、久光は、有馬新七ら自藩の尊皇攘夷派が京都伏見の寺田屋に集結したとの情報を得、直ちに、示現流の達人、大山綱良、奈良原繁、堂島五郎兵衛ら9名を鎮撫士として、寺田屋に走らせた。ここに同士相討つ壮絶な死闘が繰り広げられることになった(週間朝日百科「日本の歴史)。
ここには、同じ藩のもの同士が壮絶な死闘をすることになったのには、双方に大きな誤解があったようだ。
先ず、久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負っていたが、久光にはこの当時はまだ、倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。寺田屋に集結した者たちはそれに不満を持った薩摩藩士たちであるが、久光は大久保一蔵(利通)等を遣わしこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、彼らの同志である尊王派藩士を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとした。ただし万が一を考え、鎮撫使には特に剣術に優れた藩士を選んだ。大山綱良らは新七に「藩邸に同行するように」求めたが新七はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあいが始まり、この戦闘によって討手1人(道島五郎兵衛)と新七ら6名が死亡、2名が重傷を負ったという。また2階には多数の尊王派がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降。大山巌、西郷従道(西郷隆盛の弟)、三島通庸、篠原国幹ら22名が鹿児島へ送還された。負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。引き取り手のない田中河内介らは「薩摩藩に引き取る」と称して船に連れ込み、斬殺され、斬った柴山矢吉は後に発狂したという話があるそうだ。
彼だけでなく、鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い、一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要路に立った。
兎に角、この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かっていった。
そして、幕府に一橋慶喜を将軍後見職へ登用させ、久光は、一橋慶喜、松平慶永から、朝廷の優遇、参勤交代の緩和、御用普請(手伝普請)の停止などの賛同を取り付け江戸を立った。しかし、全てが、彼の思惑どうりに運んだわけではなく、幕府は、外様藩の家督でもない無官無位の久光が幕政に干渉することを不快に思っており、その後、幕府による久光いじめが始まり、久光の功労に対して、官位叙任の朝議があったが、これを拒絶。又、久光が江戸でイギリスからファイアリ・クロス号を購入する時には、これを妨害して多額の損害を与えている。さらに、船の引渡しが終わって、石炭を満載して乗船準備が完了したのに、幕府は乗船を許さず、陸路での帰還を命じ、久光は自慢の船にも乗れず、不愉快な思いで、旅立った。このような、事が続き、後に、幕府と対立することとなる。なお島津久光は帰国の最中、生麦事件を起こすこととなった。薩摩を倒幕に駆り立ててゆくことになり、結果として翌年薩英戦争が勃発する。
そして、この戦いの結果、薩摩は、最新式のアームストロング砲で藩の集成館(集成館事業 参照)も破壊され甚大な被害を被り、攘夷の不可能を悟った。だが、全国的には、攘夷を実行した薩摩藩の名声は高まり、英国代理公使ジョン・ニールは交渉の過程で、中央政権である幕府が、地方政権の1つに過ぎない薩摩藩に対して強制力を持たないことを知った。さらに、ニールは薩摩藩が雄藩として威勢がよいのは、この藩の裏に、琉球や南東諸国があるからで、さらに、琉球を通じて中国との間に交易のルートを持っていることも見抜いていたようである。
(参考、現在の寺田屋。フリー百科事典Wikipediaより)
寺田屋事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
なつほど幕末・10:薩摩藩の国政進出:島津久光の率兵上洛と寺田屋事件
http://bakumatu.727.net/top.htm
※寺田屋(京都市観光文化情報システム)
http://kaiwai.city.kyoto.jp/search/view_sight.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000126
京 都 と 薩 摩
http://homepage2.nifty.com/airman/satsuma/satsuma.html
龍馬写真館・お龍の生涯
http://inforyoma.com/monogatari/oryo.htm
幕政改革 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%94%BF%E6%94%B9%E9%9D%A9
尊皇攘夷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%9A%87%E6%94%98%E5%A4%B7
示現流 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BA%E7%8F%BE%E6%B5%81
集成館事業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E6%A5%AD
え?、寺田屋事件・・・て、江戸時代末期の1866年、旅館・寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、薩長同盟の成立を悟(さと)った伏見奉行配下の新撰組によって包囲され捕縛ないし暗殺されようとしたあの有名な事件のことじゃ~ないかっ?・・・て。
そう、この2つとも、京都郊外の伏見(現在の京都府京都市伏見区)の旅館・寺田屋で発生した歴史上の重要事件である。
坂本竜馬は寺田屋に止宿中に襲われたが、同宿の女将とせの養女・おりょう(楢崎 龍。のち竜馬の妻)の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく難をのがれた。
なんでも、そのおりょうは風呂から裸のまま2階へ階段を駆け上がり危機を知らせ、龍馬は主に銃で反撃したといわれており、現在の寺田屋(以下参考に記載の「※寺田屋」参照)の建物には事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされているようだが、事件当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在ある建物は当時の敷地の西隣に建てられたものだそうである(明治38年〔1905年〕に登記されているという)。
事件の内容も発生年月も異なる「寺田屋」で起った2つの事件は何れも薩摩藩がかかわっているが、伏見は京・大阪からの船による交通の要所でもあったため、寺田屋は、薩摩藩が定宿として利用していたところからこの重要な事件の舞台となった。
補足すると、楢崎 龍の父・将作は井伊直弼による安政の大獄で捕らえられ、獄死し、このため、お龍と母、そして幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍はそれを養うため、各地を放浪の果てに寺田屋に奉公することとなったのだそうだ。
安政5年(1858年)7月16日、島津氏28代当主、薩摩藩の第11代藩主島津斉彬が急逝した。斉彬は、薩摩の精兵3千を率いて、京に上り、幕政改革を迫るつもりであった。英明の聞こえの高かった一橋慶喜を、将軍に擁立して、難局の打開をはかった一橋派は老中安倍正弘を失い、頼みの綱の斉彬まで失ってしまった。このあと、井伊直弼による大獄(安政の大獄)の嵐が吹き荒れる。薩摩藩では、斉彬死後、遺言により忠教(久光)の長男・茂久(後の忠義)が藩主に就任。茂久の後見を務めた斉興が安政6年(1859年)に没すると、藩主の実父として忠教(久光)の藩内における政治的影響力が増大した。忠教は文久元年(1861年)4月23日に宗家へ復帰し諱を久光と改名し、権力拡大の過程で小松清廉(帯刀)などと合わせて、大久保一蔵(利通)や岩下方平(みちひら)、海江田信義、吉井友実ら中下級藩士から成る有志グループ精忠組の中核メンバーを登用する。ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは合わず、西郷を憎んで島流しにした。
そんな薩摩藩が再び国事に乗り出すのは、3年の歳月を待たねばならなかった。この間薩摩を脱藩した有村次左衛門が、水戸藩士とともに桜田門外の変で、井伊直弼の首級(しゅきゅう)をあげている。文久2年(1862年)になると、藩主忠義の父久光が動き始める。幕政を改革せよという命令を朝廷から引き出し、自分が、それを持って江戸に乗り込もうというのである。千余の兵を率いて上京にあたり、先ず西郷を呼び戻して、先発して下関で待機するよう命じた。ところが、西郷は、久光の上京・江戸行きを挙兵計画と勘違いし、不穏な動きを見せ始めた尊皇攘夷派を抑えるため、上方に向かってしまう。下関で、西郷の無断上京を知った久光は、激怒して、西郷を沖永良部島に幽閉する。浪士鎮撫(ちんぶ。乱をしずめ人心を安定させること)の勅命をいただいている久光としては、自藩から暴発者を出すのを何としても阻止したかったのである。そして、4月23日、久光は、有馬新七ら自藩の尊皇攘夷派が京都伏見の寺田屋に集結したとの情報を得、直ちに、示現流の達人、大山綱良、奈良原繁、堂島五郎兵衛ら9名を鎮撫士として、寺田屋に走らせた。ここに同士相討つ壮絶な死闘が繰り広げられることになった(週間朝日百科「日本の歴史)。
ここには、同じ藩のもの同士が壮絶な死闘をすることになったのには、双方に大きな誤解があったようだ。
先ず、久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負っていたが、久光にはこの当時はまだ、倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。寺田屋に集結した者たちはそれに不満を持った薩摩藩士たちであるが、久光は大久保一蔵(利通)等を遣わしこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、彼らの同志である尊王派藩士を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとした。ただし万が一を考え、鎮撫使には特に剣術に優れた藩士を選んだ。大山綱良らは新七に「藩邸に同行するように」求めたが新七はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあいが始まり、この戦闘によって討手1人(道島五郎兵衛)と新七ら6名が死亡、2名が重傷を負ったという。また2階には多数の尊王派がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降。大山巌、西郷従道(西郷隆盛の弟)、三島通庸、篠原国幹ら22名が鹿児島へ送還された。負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。引き取り手のない田中河内介らは「薩摩藩に引き取る」と称して船に連れ込み、斬殺され、斬った柴山矢吉は後に発狂したという話があるそうだ。
彼だけでなく、鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い、一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要路に立った。
兎に角、この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かっていった。
そして、幕府に一橋慶喜を将軍後見職へ登用させ、久光は、一橋慶喜、松平慶永から、朝廷の優遇、参勤交代の緩和、御用普請(手伝普請)の停止などの賛同を取り付け江戸を立った。しかし、全てが、彼の思惑どうりに運んだわけではなく、幕府は、外様藩の家督でもない無官無位の久光が幕政に干渉することを不快に思っており、その後、幕府による久光いじめが始まり、久光の功労に対して、官位叙任の朝議があったが、これを拒絶。又、久光が江戸でイギリスからファイアリ・クロス号を購入する時には、これを妨害して多額の損害を与えている。さらに、船の引渡しが終わって、石炭を満載して乗船準備が完了したのに、幕府は乗船を許さず、陸路での帰還を命じ、久光は自慢の船にも乗れず、不愉快な思いで、旅立った。このような、事が続き、後に、幕府と対立することとなる。なお島津久光は帰国の最中、生麦事件を起こすこととなった。薩摩を倒幕に駆り立ててゆくことになり、結果として翌年薩英戦争が勃発する。
そして、この戦いの結果、薩摩は、最新式のアームストロング砲で藩の集成館(集成館事業 参照)も破壊され甚大な被害を被り、攘夷の不可能を悟った。だが、全国的には、攘夷を実行した薩摩藩の名声は高まり、英国代理公使ジョン・ニールは交渉の過程で、中央政権である幕府が、地方政権の1つに過ぎない薩摩藩に対して強制力を持たないことを知った。さらに、ニールは薩摩藩が雄藩として威勢がよいのは、この藩の裏に、琉球や南東諸国があるからで、さらに、琉球を通じて中国との間に交易のルートを持っていることも見抜いていたようである。
(参考、現在の寺田屋。フリー百科事典Wikipediaより)
寺田屋事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
なつほど幕末・10:薩摩藩の国政進出:島津久光の率兵上洛と寺田屋事件
http://bakumatu.727.net/top.htm
※寺田屋(京都市観光文化情報システム)
http://kaiwai.city.kyoto.jp/search/view_sight.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000126
京 都 と 薩 摩
http://homepage2.nifty.com/airman/satsuma/satsuma.html
龍馬写真館・お龍の生涯
http://inforyoma.com/monogatari/oryo.htm
幕政改革 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%94%BF%E6%94%B9%E9%9D%A9
尊皇攘夷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%9A%87%E6%94%98%E5%A4%B7
示現流 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BA%E7%8F%BE%E6%B5%81
集成館事業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E6%88%90%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E6%A5%AD