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豊臣秀吉の妹・朝日姫が徳川家康に嫁ぐ。

2008-04-28 | 歴史
天正14年 4月28( (1586年6月15日)豊臣秀吉の妹・朝日姫が徳川家康に嫁いだ日だそうだ。
朝日姫(あさひひめ)は、豊臣秀吉の異父妹であり、徳川家康の二番目の正室とされている。ただ、小和田哲男著『豊臣秀吉』(中公新書)によると同父妹としているそうだが、はっきりとしない。名前は旭姫、駿河御前、南明院殿、末津とも。
父は織田信秀同朋衆を務めた水野昌盛(竹阿弥)で前妻との死別後、愛知郡の御器所村の在地武士であり刀匠であった関兼員(弥五郎)の次女なか(後の大政所)と再婚した。
朝日姫は、この竹阿弥となかの間に天文12年(1543年)に生まれ、実の兄に、小一郎(のちの豊臣秀長)がいる。又、なかの前夫である織田信秀足軽組頭であった木下弥右衛門との子である藤吉郎(幼名は日吉丸のちの豊臣秀吉)は、異父兄になる。(親子関係には諸説あるようだ)
1551(天文20)年、竹阿弥と馬が合わなかった藤吉郎(当時15歳)は家を飛び出し、侍になるために放浪の末に今川氏の陪臣となったといわれている。私達は、歴史で秀吉は貧農の子から織田信長に見出されて以降次第に頭角を表し天下人にまで至った「戦国一の出世頭」と教えられてきたが、実際には、そのような貧農の出ではなかったようだ(秀吉の母方、父方の出自などは、以下参考に記載の「古代及び中世氏族の系譜関係/2 青木紀伊守一矩と秀吉の母方一族」が詳しい。)
朝日姫は、尾張国の農夫のもとに嫁ぐが、秀吉の出世と共に夫が武士(佐治日向守と名乗る)に取り立てられた。
元亀元年(1570年)、越前国朝倉義景討伐に従軍。金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切り織田軍を背後から急襲。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、池田勝正明智光秀と共に秀吉はしんがりを務め功績をあげた(金ヶ崎の戦い参照)。その後も浅井・朝倉との戦いに功績をあげる。天正元年(1573年)9月1日、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、天正2年(1573年)春、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。
この秀吉の長浜城主時代に朝日姫は、夫である佐治日向守と死別したため、秀吉与力の副田吉成(通称は甚兵衛)と再婚したという。  
天正10年6月2日(1582年6月21日)、信長が本能寺の変で明智光秀によって討たれると、中国大返しにより京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長旧臣中で大きな力を持つに至った。同年6月27日(7月16日)、当主と嫡男を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ(清洲会議)、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と信長の嫡男織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す秀吉との間で激しく対立。そして、「賤ヶ岳合戦」で柴田勝家を破った、秀吉は、織田家中で信長の後継者として台頭してくる。しかし、天正12年(1584年)、信長の後継を自任する信長の次男・織田信雄は、秀吉に年賀の礼に来るように命令されたことを契機に反発し、秀吉と対立するようになる。こうして秀吉と織田信雄との間で火蓋を切った「小牧長久手合戦」は、実質的には秀吉と東海の雄・家康との直接対決となった。この戦いでは家康の戦術の巧みさの前に局地戦で敗北を重ねたが、なんとか得意の外交手段で信雄と和睦し講和にこぎ着けた。家康勢のしたたかな戦略に翻弄(ほんろう)され続けたことから、これ以上戦って傷を広げるよりも、和睦を結ぼうと考えた秀吉は、しきりに家康に上洛を促したが、家康がなかなかこれに応じてこない。そこで、秀吉は家康の正室築山殿(清池院)が不慮の死を遂げて以来ずっと正室の座が不在であることに目をつけ、家康の継室に自らの血縁者を送り込み、義兄弟となれば、当然挨拶に来るだろうと考えた。そして、その相手にと突如担ぎ出されたのが朝日姫であった。
しかし、朝日姫はすでに秀吉の臣下の1人に嫁ぎ、すでに40歳をとうに過ぎていただろうから、人生50年の当時としては、姥桜とも言える彼女は、本当に驚いただろうが、戦国の世の武将の女の運命、朝日姫も「天下のため」と迫る異夫兄の命には従わざるを得なかったのだろう。又、家康にとってもこれ以上秀吉の執拗な申し入れを断ることも出来ずしぶしぶ婚姻を受諾するしかなかったのだろう。
朝日姫は前夫と強制的に離縁させられ、天正14年に家康のもとへ輿入をした。(輿入した日を4月28日としているが5月14日とする説などいろいろあるようだ)。
だが、家康が朝日姫を正室に迎えても、なお上洛の気配を見せないことから、秀吉はとうとう次なる手として、「嫁いだ娘の病気見舞い」という名目で、実母である大政所を送り込んだ。
天正13年(1585年)に、日本で初の武家関白ともなっていた秀吉の実母を人質に差し出すという捨て身の作戦に、ついに家康は上洛し秀吉に臣下の礼をとるしかなった。これにより、大政所も約1ヶ月で大坂に戻ることができた。
その後、家康とともに駿府城に移り住み駿府御前と呼ばれるようになった朝日姫だが、2年後の天正16年(1588年)に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、そのまま京都の聚楽第で没している。墓所は京都の秋の紅葉で有名な東福寺にあり、同寺南明院(なんみょういん)の前に「徳川家康公正室旭姫墓在院」と書いた道標がたっている。秀吉は薄幸の妹を東福寺に手厚く葬り、家康もまた駿河国の瑞竜寺(以下参考に記載の「※瑞龍寺」参照)に朝日姫を弔っている。
なお、前夫の副田吉成は秀吉の加増を拒否し、隠退したという。この家康と結婚のために無理やり離縁させられたという朝日姫の前夫については、司馬 遼太郎の「功名が辻」(2006年、NHK大河ドラマ)では、佐治日向守から再婚したという副田吉成説を採っているが、山岡荘八の「徳川家康」(1983年NHK大河ドラマ) では佐治日向守であったとの説を採っているようだ。
今年・2003(平成20)年3月、テレビ朝日でドラマ「徳川家康と三人の女」が放送された。このドラマでは、”政略結婚で家康の正室となった朝日には、その時、副田甚兵衛(甚兵衛は吉成の通称)がいた”・・となっている。私などには、どちらが本当かなど判らないが、戦国の女性たちは政略結婚で「お家のために」無理やり好きでもない男に嫁がされ、不運な運命をたどっているよね~。しかし、このような、男たちの天下統一の野心のために、利用された不幸な女性の歴史が無ければ、今のような天下泰平は出来なかったのかもしれない。
よく思うのだが、今の時代、世界遺産だなどといわれて、世界の人々が観光をし、楽しんでいる重要な遺跡や文化財などと言うようなものは、それらが建造された当時にはそれらを造るためにどの位多くの人達が為政者によって泣かされてきたのだろうね~。普通の人には出来ないものが出来た時、必ず、その影には悲劇があるのだろうと思うよ。
(画像は、紅葉で有名な京都・東福寺南明院前の道標「徳川家康公正室旭姫墓在院」とある。)
朝日姫-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E5%A7%AB
テレビ朝日|徳川家康と三人の女
http://www.tv-asahi.co.jp/ieyasu/
垂簾・戦国の女たち
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sengoku/sengoku.htm
古代及び中世氏族の系譜関係/2 青木紀伊守一矩と秀吉の母方一族
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/aoki/aokiitizoku2.htm
豊臣秀吉・フォトストーリー
http://sakuraoffice.com/hideyoshi1589.html
土木資料館/歴史日報
http://www.sakai11.jp/r_rekisinippou.htm
第03回 徳川家康の歴史:3
http://tomhana091.exblog.jp/8370965/
司馬遼太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
K'sBookshelf 資料 本能寺の変 人物 あ行
http://ksbookshelf.com/HJ/Who/WhoA.htm
南明院
http://www.geocities.jp/onriedo_gongujodo/nanmeiin.html
瑞龍寺
http://www.asahi-net.or.jp/~KW2Y-UESG/zuiryuji.htm
よろパラ ~文学歴史の10~日本史人物列伝/南明院
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00167.htm
静岡見て歩き/正妻 旭姫
http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/asahihime.htm
南明院解説画像
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/rinsen/page7t/km_03_03_031t_04.html