針供養
2010-02-08 | 行事
針供養(はりくよう)は、広辞苑に「2月8日または、12月8日に、針仕事を休み、折れた針(縫い針)を集めて、豆腐やこんにゃくに刺して供養すること。 淡島神社に収めるなどする。」とあるように、主に淡島神社(粟島神社)または淡島神(あわしまのかみ)を祀る堂(淡島堂・粟島堂)のある寺院で行われているようである。
淡島神社(淡島以外に、粟嶋、粟島などの字が当てられている)は、神道および日本の民間信仰の神である淡島神を祀っている神社であり、淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるようだが、その総本社は和歌山県和歌山市加太(かだ)の淡嶋神社であり、この神社は平安中期の延喜式神名帳に記載されている由緒ある神社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇る神社である。
総本社加太(かだ)にある淡嶋神社公式HPに書かれている由緒などを見ると“神功皇后が三韓出兵からの帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会い、沈みそうになったとき、神に祈ると神のお告げがあり、その通りに船を進めると友ヶ島(淡州または淡島また粟島とも言う。沖ノ島・地ノ島・神島・虎島の4つの島からなるその中の神島とされている)に漂着し、その島の祠には、神話において日本を創造したと伝えられる少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと=大国主の別名で、少彦名命と協力して天下を経営したとされる)が祀られていたので、感謝の気持ちを込めて、韓国で得た宝物をお供えしていたが、その後、何年か経ち、神功皇后の孫にあたる仁徳天皇が友ヶ島へ遊猟のとき、そのいきさつを聞き、島では何かとご不自由だろうと、社を対岸の加太に移し、神功皇后の崇敬された神社であるので皇后を合わせ祀り、一宮三坐の神としたのが、加太淡嶋神社の起こり”・・・としており、又、祭神の“少彦名命は、医薬の神様で、特に、女性の病気回復や安産・子授けなどに霊験あらたかといわれている。又、裁縫の道を初めて伝えた神様である事から、2月8日に針供養をしているのだという。当神社は人形供養の神社としても有名で、境内には供養のために納められた、無数の雛人形等が所狭しと並べられている。当神社では、3月3日正午に雛祭(雛流し)の行事も行っているが、これは、” 男びな女びなの始まりは、淡島神社のご祭神である少彦名命と神功皇后(=息長足姫尊【おきながたらしひめのみこと】。淡島神社の三神の一)の男女一対のご神像であるとされている。また、雛祭りが3月3日になったのは、友ヶ島から対岸の加太へのご遷宮が、仁徳天皇5年3月3日であったことから。“・・・としており、これも、友ヶ島に祀られていた祭神少彦名命神を加太淡嶋神社移したことと関連付けている。しかし、淡島神の本体については様々な伝承があるようだ。3つほど有力な説があり、その1つが、同社由緒に書かれているように、「少彦名命」としているものであるが、2つ目の説として、“住吉明神の后であるとするものがある。淡島神は天照大神の6番目の子で、住吉明神に嫁いだが、婦人病にかかったことにより淡島に流されてしまったため、そこで婦人病の人々を救うという誓いを立てたという説であるが、「淡島神は女神だから女性を守る」という信仰も根強いようだ。又、3つ目の説は日本神話に登場する「淡島」が淡島神であるとするもので、国産みの段に、イザナギ・イザナミ二神の2番目の子として「淡島」が登場する。しかし、1番目の子である蛭子(ヒルコ)と同じく、不具の子であったために葦の舟に乗せて流され、子の数には数えないとしている。2番目と3番目の説は、「舟に乗せて流された」という点が共通している。そして、1,2、3共に船で来たことになっている。
淡島信仰は、江戸時代に、淡島願人と呼ばれる遊行の人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったことから、淡島信仰が全国に広がったといわれるが、『続飛鳥川』(文化末年頃の編)に、「淡島明神、天照大神宮第六番目の姫宮にて、渡り給ふ。御年十六才の春の頃、住吉の一の后そなはらせ給ふ神の御身にも、うるさい病をうけさせ給ふ。綾の巻物、十二の神楽をとりそろへ、うつろ船にのせ、さかひ(堺)は七度の浜より流され給ふ。あくる三月三日、淡島に着給ふ。巻物をとり出し、ひな形をきざませ給ふ。ひな遊びのはじまり。丑寅の御方は、針さし粗末にせぬ供養、御本地は福一まくこくぞう、紀州なぎさの郡加田淡島大明神、身体堅固の願、折針をやる」とあり、これは淡島神社淡島願人が話す内容を記録したものだそうである。
冒頭掲載の図の向かって左の人物が『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)に描かれた淡島願人ある。編み笠を被った人物が、柄の先に小型のお宮を付けたものを手に持ち歩く姿が描かれている。小宮の中には立雛や這子(ほうこ。Yahoo!百科事典―這子参照)らしきものが描かれており、宮の周囲からいくつも細い布が垂れ下がっている。この説明に「淡嶋殿、かれが向上、一から十まで皆誤りなれども、それをたゞす者もなし。女の身にとっては第一気の毒の病をまもり給ふといえば、愚なる心から、おしげなくとらする也。夫(それ)粟嶋は紀伊国名草郡蚊田(かだ)にあり。其神は陽躰(ようたい)にして女躰にはあらず。然(しかる)を、はり才天女の宮といふ也。わろうべしわろうべし」とある。 『人倫訓蒙図彙』の著者にとっても、淡島願人は荒唐無稽なことを言って婦女をたぶらかし、施しを受けるとんでもない者に見えたようである。江戸後期に和歌山藩によって編纂され1839(天保10)年に成稿した『紀伊続風土記』には加太淡島神社の由来に続いて、「寛文記」に、淡島明神は天照大神の姫宮で住吉明神の后という。俗信には天照大神の第六の姫宮という、(中略)何れも索強付会(無理にこじつけた)の説にて信じかたし」と書かれているという。又、江戸時代後期の国学者・神道家平田篤胤の『志津(しづ)の岩屋(いわや)』上巻には、「さて、この粟島の祭神は、即ち少彦名(すくなひこな)神で御座る。然るを俗には粟島の神を女神なりと申して(中略)別して腰より下の病を癒し給はんとの御誓願ぢゃなどと申すけれども、其の女神にまし坐さぬことは、右に申したる御記(日本書紀)・古事記の文面に依って明かなこと。こりゃ思ふに、大穴牟遅神(おおなむちのかみ。大国主)を伴って国々を経営なされたと云ふことを片はし聞いて、女神と心得、どうか云ふことで大穴牟遅神を住吉大明神と誤り心得、また病を治るの方を御定めなされたと云ふことを、ただ婦人の病のみをいやし給ふことに心得(中略)誤りにあやまりを伝へたもので御座る」と説いているそうで、やはり、淡島の祭神は少彦名神なのであろう。(以下参考の、※:「淡島信仰と流し雛(流しびな)・石沢誠司」、又、※:「は行らわ>ハリクヨウ【針供養】」参照)。
『人倫訓蒙図彙』の中の説明の中に淡島神社の祭神をはり才天女の宮(婆利才女。はりさいじょ)という也などとあることから、このはり(婆利)が「針」に通じることから針供養に結びついた?・・と言う説もあるようだ。又、『人倫訓蒙図彙』に描かれている小宮の中の立雛図が以外に古いものだそうで、『女用訓蒙図彙』(貞享四年・1687年)の「雛(ひいな)」の図、『日本歳時記』(貞享五年・1688年)の雛飾りに描かれている立雛図と刊年においてほとんど同時代といってよいものらしい。
「ひいな遊び」のもとになった3月3日の上巳(じょうし)の節句は、川辺に赴いて禊(みそぎ)を行う中国の風俗にならったもので、人形で身体を撫でて穢れを移し、川や海に流すというものであったこと。一方、雛はこの祓(はら)いの人形から発展し、平安時代のころから「ひいな遊び」と言われていた人形遊びが、京都で平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたものであることは、以前に、このブログ3月3日「雛祭り」で書いたが、淡島神社は、世の中にひいな遊びが普及しはじめた1600年代の後半には、すでに淡島の神として立雛を取り込んでいたことになり、世の中の動きを先取りしたものであったといえる。
針供養も、女性が針仕事で折った針の供養をし、「針を使うのを忌みつつしむ日だとされている。前に、このブログ12月8日「御事納め」でも書いたが、12月8日は「御事納め」、その年の農事等雑事をしまう日。農事を始める「御事始め」は2月8日である。「事」とは、本来、祭りや催事を意味する。2月と12月の8日を節目の日と考え、物忌みをする風習は広く見られる。一般に関西では針供養に限らず全ての祭事について、事納めの12月8日が重視されることが多く、中部以東では事始めの2月を重視することが多いようだが、地域的にかなりばらつきがあるようだ。正月を事とした場合、12月8日と2月8日は、正月の元旦をはさんでの物忌みのことである。この両日は、「事八日」「八日節供」とも言うが、この日は、様々な妖怪が姿を現す日ともされている。そのため、人々は外出を避け、軒先に魔除けのお呪いをしたりして過ごす。この日に現れるので有名なのが一つ目小僧である。京都などでは、この日に、「針供養」をするところもあるが、これは仕事を休んで正月に向けての物忌みをすると共に、「針の目(=目が一つ)」で、針を使わず休める事が、一つ目の妖怪を鎮めるのにも関係しているのだともいうのだが・・・。この針供養に似たことも、もともと中国にあったものものらしく、これが我が国にも伝わり、事始め、事納め、女の守護神たる淡島神社などと相混合してできたものが針供養のようである。
江戸時代中期から盛んに行われるようになり、明治年間には、お針子たちが晴れ着を着て、五目飯などをつくり、一年間使った針と一緒に淡島様に供え、裁縫の上達を祈願するのが習わしであったが、いまでは洋裁学校などで行われているようだ。東京では事始めの2月8日の行なわれる浅草寺境内の淡島堂の針供養が有名である。同寺公式HPを見ると、“浅草寺の淡島堂の祭神は「少彦名命」といわれ、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本地仏(ほんじぶつ。神の正体とされる仏のこと。)としている」とある(以下参考の「※:浅草寺>針供養会」参照)。
関西では、事始より、12月8日の事納めとし、12月の方を重要視することから、大体は12月に物忌(ものいみ)に基づく所作が多い。真言宗五智教団に属し、京の西山、渡月橋を渡った名勝・嵐山の中腹(京都市西京区)に位置する法輪寺(ほうりんじ)は、713(和銅6)年、行基(父は百済系渡来氏族の末裔)が元明天皇の勅願により五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺(かどのいでら)を建立したのがはじまりである。その後、829(天長6)年、空海の弟子にあたる道昌(俗姓は秦氏)が、虚空蔵菩薩像を安置した後、清和天皇の貞観10年(868年)葛井寺を「法輪寺」と改称したという。平安時代には、清少納言の「枕草子」の寺の段(194段)において、代表的な寺院として記されており、「嵯峨の虚空蔵(梵名アーカーシャ・ガルバ。日本では五智如来の変化身ともいう)さん」(「嵯峨虚空蔵」は日本三大虚空蔵菩薩の1つ)として親しまれ、智恵と福徳、技芸上達のご利益を授かるため、数え13歳の男女が全国から「十三まいり」に訪れる寺として知られており、かって、関西では、七五三よりも、「十三まいり」の方が盛んで、中でもここ嵐山の法輪寺と、奈良の弘仁寺が有名である。
そして、この法輪寺の針供養は、平安時代、清和天皇によって針供養の堂が建立され、皇室で使用された針の供養を天皇の命によって始めたのが起源とされており、現在でも毎年12月の針供養の際には皇室からお預かりした針の供養が続けられているという。本堂で法要が営まれ、雅楽の演奏に乗せた読経後、雅楽と奈良時代の装束の織姫の舞いを奉納した後、針供養の施餓鬼が行われる。その様子は、以下参考の※:「動画ライブラリ>針供養・法輪寺 【京都新聞】」で見れる。この針供養 は、2月8日にも行われる。
法輪寺公式HPにある同寺の由来を見ると、古墳時代、すでに「三光明星尊」を祀った「葛野井宮」(かずのいぐう)があったという。そこへ、秦の始皇帝の子孫、弓月君(ゆづきのきみ。融通王)の一族が、一族祖神として信仰している「虚空蔵尊(こくうぞうそん)」と深い因縁のあるこの「葛野井宮」を尋ね求めて渡来した(日本書紀によると応神天皇14年)。これらの人々には「秦氏」の姓氏が与えられその子孫の多くが、養蚕・機織の技術を我が国に伝えたとしている。
先に、浅草寺の淡島堂の祭神は「少彦名命」で、その本地仏(神の正体とされる仏のこと。)は虚空蔵菩薩としている」ことを書いたが、外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である「少彦名命」を尊崇していたようだ。木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみむすびのやしろ)は、京都市右京区太秦にある神社であるが、本殿東側に織物の始祖を祀る蚕養(こかい)神社があることから蚕の社(かいこのやしろ)の通称が広く知られている。この神社がある嵯峨野一帯はかって渡来した秦氏が養蚕、織物などの技術を持ち込んだことから蚕が祀られている。機織・・・針仕事とは関係が深い。
少彦名神が、特に女性の守護者だと思える部分は少ないが、少彦名神が持ち込んだ「医薬」の技術や、彦名神を崇拝していた秦氏が「養蚕」と関係が深いことなどから、淡島信仰の広がりと共に女性の物忌み行事や、裁縫の上達を願っての針供養などと結びついていったようだね。ただ、今でも天皇家で使用された針が法輪寺に納められ供養されているとなれば、少なくとも針供養に関しては、法輪寺の方が由緒正しいということになるのだろうか・・・。
針供養は俳句の季語になっており、高浜虚子が以下のような句を詠んでいる。
小ざつぱりしたる身なりや針納
春の戸を出て夕まぐれ針供養
町娘笑みかし行く針供養
(画像向かって左が、紀伊国加太村の淡島明神の信仰を勧める淡島願人。右は三途の川で死者の衣を剥ぎ取る奪衣婆と地蔵の像を拝ませる御優婆勧進。江戸元禄期の生活図解百科『人倫訓蒙図彙』国立国会図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第1巻生活編より)
参考は別紙となります。クリック ⇒ 針供養:参考
淡島神社(淡島以外に、粟嶋、粟島などの字が当てられている)は、神道および日本の民間信仰の神である淡島神を祀っている神社であり、淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるようだが、その総本社は和歌山県和歌山市加太(かだ)の淡嶋神社であり、この神社は平安中期の延喜式神名帳に記載されている由緒ある神社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇る神社である。
総本社加太(かだ)にある淡嶋神社公式HPに書かれている由緒などを見ると“神功皇后が三韓出兵からの帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会い、沈みそうになったとき、神に祈ると神のお告げがあり、その通りに船を進めると友ヶ島(淡州または淡島また粟島とも言う。沖ノ島・地ノ島・神島・虎島の4つの島からなるその中の神島とされている)に漂着し、その島の祠には、神話において日本を創造したと伝えられる少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと=大国主の別名で、少彦名命と協力して天下を経営したとされる)が祀られていたので、感謝の気持ちを込めて、韓国で得た宝物をお供えしていたが、その後、何年か経ち、神功皇后の孫にあたる仁徳天皇が友ヶ島へ遊猟のとき、そのいきさつを聞き、島では何かとご不自由だろうと、社を対岸の加太に移し、神功皇后の崇敬された神社であるので皇后を合わせ祀り、一宮三坐の神としたのが、加太淡嶋神社の起こり”・・・としており、又、祭神の“少彦名命は、医薬の神様で、特に、女性の病気回復や安産・子授けなどに霊験あらたかといわれている。又、裁縫の道を初めて伝えた神様である事から、2月8日に針供養をしているのだという。当神社は人形供養の神社としても有名で、境内には供養のために納められた、無数の雛人形等が所狭しと並べられている。当神社では、3月3日正午に雛祭(雛流し)の行事も行っているが、これは、” 男びな女びなの始まりは、淡島神社のご祭神である少彦名命と神功皇后(=息長足姫尊【おきながたらしひめのみこと】。淡島神社の三神の一)の男女一対のご神像であるとされている。また、雛祭りが3月3日になったのは、友ヶ島から対岸の加太へのご遷宮が、仁徳天皇5年3月3日であったことから。“・・・としており、これも、友ヶ島に祀られていた祭神少彦名命神を加太淡嶋神社移したことと関連付けている。しかし、淡島神の本体については様々な伝承があるようだ。3つほど有力な説があり、その1つが、同社由緒に書かれているように、「少彦名命」としているものであるが、2つ目の説として、“住吉明神の后であるとするものがある。淡島神は天照大神の6番目の子で、住吉明神に嫁いだが、婦人病にかかったことにより淡島に流されてしまったため、そこで婦人病の人々を救うという誓いを立てたという説であるが、「淡島神は女神だから女性を守る」という信仰も根強いようだ。又、3つ目の説は日本神話に登場する「淡島」が淡島神であるとするもので、国産みの段に、イザナギ・イザナミ二神の2番目の子として「淡島」が登場する。しかし、1番目の子である蛭子(ヒルコ)と同じく、不具の子であったために葦の舟に乗せて流され、子の数には数えないとしている。2番目と3番目の説は、「舟に乗せて流された」という点が共通している。そして、1,2、3共に船で来たことになっている。
淡島信仰は、江戸時代に、淡島願人と呼ばれる遊行の人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったことから、淡島信仰が全国に広がったといわれるが、『続飛鳥川』(文化末年頃の編)に、「淡島明神、天照大神宮第六番目の姫宮にて、渡り給ふ。御年十六才の春の頃、住吉の一の后そなはらせ給ふ神の御身にも、うるさい病をうけさせ給ふ。綾の巻物、十二の神楽をとりそろへ、うつろ船にのせ、さかひ(堺)は七度の浜より流され給ふ。あくる三月三日、淡島に着給ふ。巻物をとり出し、ひな形をきざませ給ふ。ひな遊びのはじまり。丑寅の御方は、針さし粗末にせぬ供養、御本地は福一まくこくぞう、紀州なぎさの郡加田淡島大明神、身体堅固の願、折針をやる」とあり、これは淡島神社淡島願人が話す内容を記録したものだそうである。
冒頭掲載の図の向かって左の人物が『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)に描かれた淡島願人ある。編み笠を被った人物が、柄の先に小型のお宮を付けたものを手に持ち歩く姿が描かれている。小宮の中には立雛や這子(ほうこ。Yahoo!百科事典―這子参照)らしきものが描かれており、宮の周囲からいくつも細い布が垂れ下がっている。この説明に「淡嶋殿、かれが向上、一から十まで皆誤りなれども、それをたゞす者もなし。女の身にとっては第一気の毒の病をまもり給ふといえば、愚なる心から、おしげなくとらする也。夫(それ)粟嶋は紀伊国名草郡蚊田(かだ)にあり。其神は陽躰(ようたい)にして女躰にはあらず。然(しかる)を、はり才天女の宮といふ也。わろうべしわろうべし」とある。 『人倫訓蒙図彙』の著者にとっても、淡島願人は荒唐無稽なことを言って婦女をたぶらかし、施しを受けるとんでもない者に見えたようである。江戸後期に和歌山藩によって編纂され1839(天保10)年に成稿した『紀伊続風土記』には加太淡島神社の由来に続いて、「寛文記」に、淡島明神は天照大神の姫宮で住吉明神の后という。俗信には天照大神の第六の姫宮という、(中略)何れも索強付会(無理にこじつけた)の説にて信じかたし」と書かれているという。又、江戸時代後期の国学者・神道家平田篤胤の『志津(しづ)の岩屋(いわや)』上巻には、「さて、この粟島の祭神は、即ち少彦名(すくなひこな)神で御座る。然るを俗には粟島の神を女神なりと申して(中略)別して腰より下の病を癒し給はんとの御誓願ぢゃなどと申すけれども、其の女神にまし坐さぬことは、右に申したる御記(日本書紀)・古事記の文面に依って明かなこと。こりゃ思ふに、大穴牟遅神(おおなむちのかみ。大国主)を伴って国々を経営なされたと云ふことを片はし聞いて、女神と心得、どうか云ふことで大穴牟遅神を住吉大明神と誤り心得、また病を治るの方を御定めなされたと云ふことを、ただ婦人の病のみをいやし給ふことに心得(中略)誤りにあやまりを伝へたもので御座る」と説いているそうで、やはり、淡島の祭神は少彦名神なのであろう。(以下参考の、※:「淡島信仰と流し雛(流しびな)・石沢誠司」、又、※:「は行らわ>ハリクヨウ【針供養】」参照)。
『人倫訓蒙図彙』の中の説明の中に淡島神社の祭神をはり才天女の宮(婆利才女。はりさいじょ)という也などとあることから、このはり(婆利)が「針」に通じることから針供養に結びついた?・・と言う説もあるようだ。又、『人倫訓蒙図彙』に描かれている小宮の中の立雛図が以外に古いものだそうで、『女用訓蒙図彙』(貞享四年・1687年)の「雛(ひいな)」の図、『日本歳時記』(貞享五年・1688年)の雛飾りに描かれている立雛図と刊年においてほとんど同時代といってよいものらしい。
「ひいな遊び」のもとになった3月3日の上巳(じょうし)の節句は、川辺に赴いて禊(みそぎ)を行う中国の風俗にならったもので、人形で身体を撫でて穢れを移し、川や海に流すというものであったこと。一方、雛はこの祓(はら)いの人形から発展し、平安時代のころから「ひいな遊び」と言われていた人形遊びが、京都で平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたものであることは、以前に、このブログ3月3日「雛祭り」で書いたが、淡島神社は、世の中にひいな遊びが普及しはじめた1600年代の後半には、すでに淡島の神として立雛を取り込んでいたことになり、世の中の動きを先取りしたものであったといえる。
針供養も、女性が針仕事で折った針の供養をし、「針を使うのを忌みつつしむ日だとされている。前に、このブログ12月8日「御事納め」でも書いたが、12月8日は「御事納め」、その年の農事等雑事をしまう日。農事を始める「御事始め」は2月8日である。「事」とは、本来、祭りや催事を意味する。2月と12月の8日を節目の日と考え、物忌みをする風習は広く見られる。一般に関西では針供養に限らず全ての祭事について、事納めの12月8日が重視されることが多く、中部以東では事始めの2月を重視することが多いようだが、地域的にかなりばらつきがあるようだ。正月を事とした場合、12月8日と2月8日は、正月の元旦をはさんでの物忌みのことである。この両日は、「事八日」「八日節供」とも言うが、この日は、様々な妖怪が姿を現す日ともされている。そのため、人々は外出を避け、軒先に魔除けのお呪いをしたりして過ごす。この日に現れるので有名なのが一つ目小僧である。京都などでは、この日に、「針供養」をするところもあるが、これは仕事を休んで正月に向けての物忌みをすると共に、「針の目(=目が一つ)」で、針を使わず休める事が、一つ目の妖怪を鎮めるのにも関係しているのだともいうのだが・・・。この針供養に似たことも、もともと中国にあったものものらしく、これが我が国にも伝わり、事始め、事納め、女の守護神たる淡島神社などと相混合してできたものが針供養のようである。
江戸時代中期から盛んに行われるようになり、明治年間には、お針子たちが晴れ着を着て、五目飯などをつくり、一年間使った針と一緒に淡島様に供え、裁縫の上達を祈願するのが習わしであったが、いまでは洋裁学校などで行われているようだ。東京では事始めの2月8日の行なわれる浅草寺境内の淡島堂の針供養が有名である。同寺公式HPを見ると、“浅草寺の淡島堂の祭神は「少彦名命」といわれ、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本地仏(ほんじぶつ。神の正体とされる仏のこと。)としている」とある(以下参考の「※:浅草寺>針供養会」参照)。
関西では、事始より、12月8日の事納めとし、12月の方を重要視することから、大体は12月に物忌(ものいみ)に基づく所作が多い。真言宗五智教団に属し、京の西山、渡月橋を渡った名勝・嵐山の中腹(京都市西京区)に位置する法輪寺(ほうりんじ)は、713(和銅6)年、行基(父は百済系渡来氏族の末裔)が元明天皇の勅願により五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺(かどのいでら)を建立したのがはじまりである。その後、829(天長6)年、空海の弟子にあたる道昌(俗姓は秦氏)が、虚空蔵菩薩像を安置した後、清和天皇の貞観10年(868年)葛井寺を「法輪寺」と改称したという。平安時代には、清少納言の「枕草子」の寺の段(194段)において、代表的な寺院として記されており、「嵯峨の虚空蔵(梵名アーカーシャ・ガルバ。日本では五智如来の変化身ともいう)さん」(「嵯峨虚空蔵」は日本三大虚空蔵菩薩の1つ)として親しまれ、智恵と福徳、技芸上達のご利益を授かるため、数え13歳の男女が全国から「十三まいり」に訪れる寺として知られており、かって、関西では、七五三よりも、「十三まいり」の方が盛んで、中でもここ嵐山の法輪寺と、奈良の弘仁寺が有名である。
そして、この法輪寺の針供養は、平安時代、清和天皇によって針供養の堂が建立され、皇室で使用された針の供養を天皇の命によって始めたのが起源とされており、現在でも毎年12月の針供養の際には皇室からお預かりした針の供養が続けられているという。本堂で法要が営まれ、雅楽の演奏に乗せた読経後、雅楽と奈良時代の装束の織姫の舞いを奉納した後、針供養の施餓鬼が行われる。その様子は、以下参考の※:「動画ライブラリ>針供養・法輪寺 【京都新聞】」で見れる。この針供養 は、2月8日にも行われる。
法輪寺公式HPにある同寺の由来を見ると、古墳時代、すでに「三光明星尊」を祀った「葛野井宮」(かずのいぐう)があったという。そこへ、秦の始皇帝の子孫、弓月君(ゆづきのきみ。融通王)の一族が、一族祖神として信仰している「虚空蔵尊(こくうぞうそん)」と深い因縁のあるこの「葛野井宮」を尋ね求めて渡来した(日本書紀によると応神天皇14年)。これらの人々には「秦氏」の姓氏が与えられその子孫の多くが、養蚕・機織の技術を我が国に伝えたとしている。
先に、浅草寺の淡島堂の祭神は「少彦名命」で、その本地仏(神の正体とされる仏のこと。)は虚空蔵菩薩としている」ことを書いたが、外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である「少彦名命」を尊崇していたようだ。木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみむすびのやしろ)は、京都市右京区太秦にある神社であるが、本殿東側に織物の始祖を祀る蚕養(こかい)神社があることから蚕の社(かいこのやしろ)の通称が広く知られている。この神社がある嵯峨野一帯はかって渡来した秦氏が養蚕、織物などの技術を持ち込んだことから蚕が祀られている。機織・・・針仕事とは関係が深い。
少彦名神が、特に女性の守護者だと思える部分は少ないが、少彦名神が持ち込んだ「医薬」の技術や、彦名神を崇拝していた秦氏が「養蚕」と関係が深いことなどから、淡島信仰の広がりと共に女性の物忌み行事や、裁縫の上達を願っての針供養などと結びついていったようだね。ただ、今でも天皇家で使用された針が法輪寺に納められ供養されているとなれば、少なくとも針供養に関しては、法輪寺の方が由緒正しいということになるのだろうか・・・。
針供養は俳句の季語になっており、高浜虚子が以下のような句を詠んでいる。
小ざつぱりしたる身なりや針納
春の戸を出て夕まぐれ針供養
町娘笑みかし行く針供養
(画像向かって左が、紀伊国加太村の淡島明神の信仰を勧める淡島願人。右は三途の川で死者の衣を剥ぎ取る奪衣婆と地蔵の像を拝ませる御優婆勧進。江戸元禄期の生活図解百科『人倫訓蒙図彙』国立国会図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第1巻生活編より)
参考は別紙となります。クリック ⇒ 針供養:参考