今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

松竹歌劇団(SKD)が、新宿の厚生年金会館で最終公演を した日

2008-02-25 | 歴史
1990(平成2)年 2月25日の今日、松竹歌劇団(SKD)のレビュー「東京踊り」が東京・新宿の厚生年金会館での舞台を最後にサヨナラ公演となった。SKDは2年後に活動を再開するが、華麗なラインダンスで人気を集めた「グランド・レビュー」はこの日が見納めとなった。
松竹歌劇団(SKD)は、宝塚歌劇団、OSK日本歌劇団と並ぶ日本の三大少女歌劇のひとつとして、かつて存在した東京を代表するレビューを主とした歌劇団。浅草・国際劇場を本拠地とし、「西の宝塚・東の松竹」とも呼ばれ、戦前・戦後を通して一時代を築いていた。
SKDとは、劇団名であった「松竹歌劇団」(Shochiku Kageki Dan)の略称。かつて、宝塚歌劇団と同じ関西でしのぎを削り、「歌の宝塚、ダンスのOSK」と並び称されていたOSK(以前の劇団名であった「大阪松竹歌劇団」(Osaka Shochiku Kagekidan の略称)とは、姉妹会社である。同じ松竹が経営していたSKDは、OSKの後に東京を本拠とする劇団としてつくられたもので、大阪本拠のOSKとの棲み分けを図っていた。このOSKのことについては、OSK日本歌劇団を見てください。
1922(大正11)年4月に、大阪にて松竹合名社分室に松竹楽劇部生徒養成所が生まれた。これは、後の大阪松竹少女歌劇団(OSK。現在の日本歌劇団)の前身で、1923(大正12)年5月には、第1回公演を行っている。1928(昭和 3)年8月、OSKの『虹の踊り』が浅草松竹座にて高い人気を集めたのをきっかけに、浅草松竹座の支配人が東京でも別に楽劇部を作ることを勧め、同年10月12日 東京松竹楽劇部が発足。10月に有名な水の江瀧子を含む16名を一期生として採用。しかし、当初は、一本立ちするには難しく、大阪組の東京公演時に合流・助演という形での応援出演からスタートし、翌1929(昭和 4)年11月の浅草松竹座での公演から正式に活動を開始。次いで新宿松竹座にも出演した。 (以下参考に記載の「浅草松竹座」参照)
1930(昭和 5)年4月 恒例の「東京踊り」公演を浅草松竹座と帝国劇場で開始。名古屋松竹座へも出張公演を開始。メンバーも月を重ねる事に増加し、東京一の大レビュー団に成長。同年9月 水の江滝子が髪型を刈り上げ、「男装の麗人」で登場。多くのファンを魅了する。そして、 10月には 松組・竹組の二組制となり、翌年1月には梅組・桜組を新設し、四組制になる。 1932(昭和 7)年7月 松竹少女歌劇部(略称・SSK)に改称。 絶頂期を迎えるが、翌1933(昭和 8)年6月 松竹少女歌劇団の少女達が労働争議団を結成し、待遇改善を巡る労働争議を起こした。委員長には、当時まだ18歳の水の江が選ばれていた。労働争議の中心人物である彼女の愛称にちなんで「ターキー・ストライキ」の異称もあるようだ。その2年ほど前には爆発的な人気が出て、いよいよ上り調子の最中のこと。いわば超アイドルの争議委員長が誕生したわけである。アサヒクロニクル「週刊20世紀」によると、これを「桃色争議」と呼んだマスコミも含めて世の中は好意的な興味を持って成り行きを注目したというが、後年彼女自身は、「私達には別に不満はなかった。楽士さんたちの待遇があんまりひどいというので、じゃ、可哀想だからって応援しただけ」と回顧しているという。発端は待遇改善を求める数十人の学士たちと会社側との争いだったが、思想弾圧が激しさを増す反面、映画館や芝居小屋でも労働争議が続いていた時世。彼女がいうところの「ホンモノの共産党」が直ぐ肩入れする。すると待遇についての少女達の日頃の不満も覚醒し、たちまち、争議は本格化したという。「演説の台本は共産党が書いてくれた。難しい言葉なんだ、専門用語が。でも若いからすぐ覚えて、時々、自分の感情を入れてやったりして、おもしろかったね」とそんな回想ばかりすることもあって、彼女は、操り人形だと評されることが多いが、しかし、間違いなく、彼女は、強い自我と義侠心をもつ強い闘士であったらしい。(詳しくは桃色争議を参照)このことから、同年7月 には松竹本社の直轄となり、松竹少女歌劇団となる。1934(昭和 9)年9月 本拠を(新宿第一劇場に、1937(昭和12)年7月に浅草国際劇場に移した。
しかし、1941(昭和16)年太平洋戦争に突入。1944(昭和19)年3月 戦時体制の強化に伴い、国際劇場が閉鎖されまた退団者も相次いだため、解散。 残留者により「松竹芸能本部女子挺身隊」が組織され、各地の慰問に派遣(以下参考に記載の「女子挺身勤労令」参照)。翌1945(昭和2)年にはその一部が、「松竹舞踊隊」の名で浅草大勝館等のアトラクションに出演するなどして凌いでいたという。 同年8月終戦を迎え、10月には松竹歌劇団(SKD)に改称の上、復活、浅草大勝館で公演を行っていたが、 1947(昭和22)年11月 国際劇場が復興。 国際劇場の大舞台を最大限に利用した「屋台崩し」(舞台上の建物が崩れ落ちるさまを見せる仕掛け)や15間の舞台にずらりと並んだラインダンス「アトミックガールズ」、踊りの上手な精鋭団員8名で構成された妖艶かつ華麗なダンス「エイト・ピーチェス」(踊りの上手い団員8名で結成されていたチーム)、本物の水を大量に使用した大滝のセットなど見る者全てを魅了した舞台は東京名物ともなった。定期公演の一部は必ず日本舞踊や日本の地域の祭りをフィーチャー(feature。呼び物となる企画)した舞台が組み込まれ、外国人観光客にも好評だった。しかし、かっては、水の江瀧子、川路竜子、小月冴子(おづきさえこ)などの大スターを生んだSKDフランチャイズも1965(昭和40)年をピークに客足は遠のき、1970年代に入ると娯楽の多様化などに伴い、本拠地・浅草と共に斜陽化。宝塚歌劇のような恒常的な女性ファンも付かなくなり、次第にはとバスの観光客で糊口を凌ぐようになっていった。既に毎年多額の赤字を出しており、1981(昭和56)年2月有楽町の日劇が、施設の老朽化と東京都の再開発事業により閉館されたのに続いて、東京でただ1ヵ所レビューを続けていた浅草國際劇場は9月17日、松竹労使の交渉でSKDが独立することを決める(松竹、国際劇場とのフランチャイズ契約を打ち切り)。翌年4月の「春のおどり」を最後に、レビュー館としての役目を終えることとなった。そして、1982(昭和57)年4月15日、最後の公演「第51回東京踊り」には4000人のファンがつめかけという。
当時の華やか国際劇場の雰囲気が以下で味わえるよ。
レビュー研究室/今はなき浅草国際劇場について
http://vintaka.fc2web.com/kokusai.html
劇場閉鎖に前後してSKDは、ミュージカル劇団に転身を試みるが、ミュージカルとしての完成度は低く失敗に終わっただけでなく、従来のレビューのファンをも失う結果となったようだ。1990(平成 2)年の今日・2月25日、新宿の厚生年金会館でレビュー最終公演「東京踊り きのう・今日・明日」の上演をもって、62年に及ぶレビューの歴史に幕を下ろした。この時の全出演者のプロフィ-ル、チラシの詳細など以下参考に記載の「僕のSKDア―カイブス 」の以下のページで見ることが出来る。レビューファンには懐かしいだろう。
SKD東京踊り SKD~きのう・今日・明日 PARTⅡ /チラシ・新聞広告
http://bokuchan.fc2web.com/h02toukyouodori.html
SKD東京踊り SKD~きのう・今日・明日 PARTⅠ/全出演者のプロフィ-ル
http://bokuchan.fc2web.com/h02toukyouodorisyutuensya.html
また、当日フィナーレの団歌「さくら咲く国」の全員による大合唱は、客席のファンも口を合わせ目を潤ませれば、舞台では頬を流れる涙を拭うことも忘れた団員、嗚咽があちこちからあがり、また、皆が歌ったという。「さくら咲く国」を私は知らないが同「僕のSKDア―カイブス 」)に掲載されていたものだろう。ちょっと、聴いてみては・・・。
団歌「桜咲く国」
http://bokuchan2007.hp.infoseek.co.jp/SKDdanka.html
この公演以後2年間公演を休止して本格的にミュージカル劇団への再編を試み1992(平成 4)年6月 ミュージカル劇団再編後第一作として「賢い女の愚かな選択」を東京芸術劇場中ホールで上演するが、退団者が激増して松竹も運営の継続を断念。1996(平成 8)年6月30日を持って突如解散となる。解散から1年後の1997(平成9)年には、解散時のメンバー西紀佐江子(以下参考に記載の「竹歌劇団(SKD)OG 西紀佐江子」参照)を代表としたOG(女性の卒業生)らによって新たに薔薇笑亭SKD(バラエティSKD)が組織され、レビューの継承と新人育成を目的に、現在まで継続的に活動を行っているようだ。一方、元トップスター・千羽ちどり、高城美輝、明石薫、銀ひ乃らを中心としたSTAS(以下参考に記載のSKD OG. STAS dotREVIEW [スタス オフィシャル サイト]参照)も1992年より活動を続けており、後継団体は統一されていないのが現状である。
SKDは映画館・松竹座のアトラクション「松竹楽劇部」として組成された歴史的経緯から、その公演は国際劇場のアトラクションのひとつであり、併映した松竹映画とワンセットの興行形態だった。このため、舞台の内容はほとんどレビューのみであり、人気歌手のショウ等のバックダンサーとしても活躍した。この点から、ライバルは宝塚よりむしろ同じ東宝のNDT(日劇ダンシングチーム)であったともいえるようだ。 その日劇も1981(昭和56)年建物の老朽化により閉鎖。劇場としての歴史は現在の日劇PLEXに繋がっているものの、今ではレビューは見れない。 今の宝塚のレビューは少女趣味なものであり、SKDや日劇の時のような大人の娯楽としてのものではないので、男性のレビューファンにはちょっと寂しいだろうね~(^0^)。
最後に、余談であるが、昨日今日、1981年に米国ロサンゼルス市内で妻一美さんを銃撃・殺害(ロス疑惑参照)したとして、ロス市警によって、サイパン島で逮捕されたとして話題になっている三浦和義は、先に述べた、創業間もない松竹歌劇団(SKD)を一躍有名にした大女優水の江滝子の甥(実兄の子)にあたる人物である。そのため、舞台・映画・テレビにわたる半世紀以上の芸能生活をしていたが、甥である三浦和義が1985年にロス疑惑で世間に騒がれたのを機に引退し、本名である三浦ウメを芸名の水の江滝子に改名した・・・と言うようなことがあった。日本の裁判で無罪となっていた人物が、アメリカの裁判でどのような結果が出るのだろうか。
(画像は、1990年2月25日、東京新宿厚生年金開館でのSKDのレビュー最終公演。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
松竹歌劇団 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%AB%B9%E6%AD%8C%E5%8A%87%E5%9B%A3
浅草松竹座
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/asakusa6k5.htm
僕のSKDア―カイブス
http://bokuchan.fc2web.com/index.html
女子挺身隊制度強化方策要綱 | 国立国会図書館-National Diet Library
http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00549.htm
女子挺身勤労令
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jyositeisinnkinnrourei.htm
浅草・大勝館
http://www.asahi-net.or.jp/~ia6t-tkhs/asakusatishokan.htm
レビュー研究室/松竹歌劇団(SKD)のコーナー
http://vintaka.fc2web.com/skdmain.html
桜咲く国(1991年版) - ちどりんメモ ((松竹歌劇ファン)
http://wiki.livedoor.jp/chidori527/d/%BA%F9%BA%E9%A4%AF%B9%F1%A1%CA1991%C7%AF%C8%C7%A1%CB
松竹歌劇団(SKD)OG 西紀佐江子
http://skd2002.hp.infoseek.co.jp/
薔薇笑亭 SKD のホームページ
http://skd.hmc6.net/
SKD OG. STAS dotREVIEW [スタス オフィシャル サイト]
http://skd-og-stas.pave.jp/stas.html
OSK
http://ja.wikipedia.org/wiki/OSK

昭和天皇の大喪の礼

2008-02-24 | 行事
昭和天皇の大喪の礼の為、1989(平成元)年の2月24日は休日になった。
裕仁天皇(昭和天皇)は、1989(昭和64)年1月7日に崩御され、おりからパリで開催中の化学兵器禁止国際会議の席上、参加149か国の全員により黙とうが捧(ささ)げられた。そして、同年2月24日、新宿御苑において大喪の礼(たいそうのれい)が行われ、世界164か国、EC及び27の国際機関の元首、弔問使節が参列し、粛々と行われた。参列した国の数及びその参列者のレベルは、史上例のないものであった。
1909(明治42)年に皇室服喪令(以下参考に記載の「中野文庫 - 皇室服喪令」参照)が制定され、大喪を、大行天皇(天皇が崩御した後、追号が贈られるまでの呼称)、太皇大后皇太后皇后の裳にあたるときと定めた。さらに、1926(大正15)年制定の皇室喪儀礼によって、大喪儀の諸儀式が定められた。いずれも、「天皇は神聖にして侵すべからず」とうたった明治憲法下での法令であり、象徴天皇となった現在の日本国憲法下では、新皇室典範に「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」(第25条)の規定があるだけ。大葬儀は、崩御以後1ヵ月以内にわたる儀式の総称である。
大喪の礼とは、国の儀式として行われる天皇の葬儀のことであるが、皇室喪儀礼では、大葬儀中、殯宮移御(もがりのみやいぎょ)の儀、轜車発引(じしゃはついん)の儀、斂葬(れんそう)の儀(葬場殿の儀、陵所の儀)を夜間に行うことも定められていた。斂葬の儀が、一般の本葬に当る。明治以降の天皇の葬儀は「骨格は平安期の後一条天皇の葬場形式が参考にされると共にその儀礼を貫く本義、古代から続いた殯宮儀礼によるところが大きかった」(岡田国学院大助教授)という(毎日グラフ緊急増刊『昭和天皇大喪」)。
1989(平成元)年の2月24日、この日の大喪については、1月7日の天皇崩御の日に政府は臨時閣議を開き、「大喪の礼(一般の告別式)」を行うことを決定。別に、本葬にあたり「斂葬の儀」は私的な皇室行事とすることを決定した。 (以下参考に記載の「大喪の礼を国の儀式として行う件」参照)
つまり、皇室行事は神道に則って行われる為、1947(昭和22)年の憲法改正以後初となる昭和天皇の大喪の際には憲法 第20条政教分離の原則への配慮から、皇室の儀式「天皇大喪儀」の一部である「斂葬の儀(れんそう)」の内の「葬場殿の儀」の後、葬場から鳥居等の宗教的要素を持つものを撤去したものを、引続いて国の儀式である「大喪の礼」として行われたのである。しかし、その諸儀式について宮内庁は、「憲法の趣旨に沿いつつも、伝統を尊重していく方針だ」とし、故陛下の葬送儀礼も、大正天皇の時より簡素化はされるものの、さまざまな儀式はほとんど変わらぬ形をとることになったようだ。(以下参考に記載の日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【天皇制について】参照)
天皇の葬儀「大葬の儀」は、おびただしい数の様々な儀式によって構成されており、天皇崩御から約1ヶ月半に及ぶ一連の大葬の儀がおこなわれるが、その儀式の数は非常に多い。実際に、どのように進められたかは、以下参考に記載の「皇室のきょうかしょ - vol.60 天皇の葬儀」が簡単にかつ詳しく判りやすく書かれているので参照されると良い。
とは、死去してから埋葬するまでの葬送儀礼の一つである。【殯】(ヒン)の解字は、「歹(死体)+賓(お客、そばにいるあいて)」の会意兼形声文字で、死人をそばにいる客として、しばらく身辺に安置すること(学習研究社『漢和大字典』)だという。
天皇が死去してから大喪の礼を行うまで皇室で行われる「殯」に関わる儀式が延々何と1ヵ月半もおこなわれているのである。殯は日本の古代において普遍的に行われていた喪葬の形態であり、一定期間柩(きゅう=ひつぎ=棺)を仮小屋(殯宮)に安置したり仮埋葬したりしておいて、諸儀礼を尽くして霊魂を慰撫しその後に埋葬するのが殯である。古代においては盛大に行われていたようだ。殯の儀式は大化の改新以降に出された薄葬令によって葬儀の簡素化や墳墓の小型化が進められた結果、仏教とともに日本に伝わったと言われる火葬の普及もあり、急速に衰退していったといわれるが、天皇家において実際には、そうともいえないようだ(以下参考に記載の「中村幸雄論集 新「大化改新」論争の提唱」参照)。
もともと、こ「殯」は現代の「喪」とは意味合いが違っていたようで、「死霊がたたらないようにするための鎮魂の儀礼だった」のではないか。ある天皇に関しては殯宮で「大祓(おおはらえ)」をしたと記されており、蘇生しないと確かめたあと、荒らぶる魂にならないよう鎮めるのが主な目的だった」のではないかとする説もあるようだ(以下参考に記載の「asahi.com:カンヌ映画グランプリ「殯の森」の殯とは? 」参照)。
昨2007年、第60回カンヌ国際映画祭で、河瀬直美監督の『殯の森』がグランプリを受賞した。
この映画のラストで、認知症のジイサンが山の中で1晩を過した翌朝、妻と思われる幻影に会い、ダンスをした後、 山奥に分け入り懸命に一点を掘り始める。そこには1本の木が目印に立っており、それはジイサンの妻の墓だった。どんどんと掘り続けていた、それをじっと見ていた同伴者の介護士の女性の前で倒れ、満足気な表情で横たわりそのまま絶命する。天を見上げて号泣する介護士の女性。しばらくして画面が突然暗転。「殯り」の短い説明文が現れて映画は終わる。 映画は、現代では余り耳にすることもなくなった「殯」という言葉をあえて使い、かけがえのない者の死をどのように受容するかを現代に問いかけているのだという。
昔は、「遺族にとって、近親者は亡くなってもただちに『死者』になるわけではなく、葬送や喪の期間は生者が『死者』になっていくプロセスだ」と考え、庶民の間にも殯の風習はあったようだが、仏教伝来以降、見ることもなくなった。というか、仏教では、命あるものは死んでは次の生へと生まれ変わることを繰り返す輪廻転生)とされており、死んでから次の生が始まるまでを「中有」(中陰とも)と言い、この中有の期間が四十九日と考えられた七日ごとに親族は法要を営み、死者の死を悼みつつ、死者が次の生ではより良い世界に生まれることを祈るようになった。天皇家が仏教ではなく殯の儀式を死して後、1ヵ月もの間、一体何を、実際にしているのかはベールのうちのことでよくわからないが、人間宣言をした天皇、古式に則った儀式をひっそりと続けられていることを思うと、まだまだ、神がかり的な思想が残っているのだろうか・・・などと考えたりもするのだが・・・。
(画像は、毎日グラフ緊急増刊「昭和天皇大喪」表紙。三重の入れ子構造の柩は、車から葱華輦に移され葬場内に運ばれる。表紙の写真は、「葱華輦」を担ぐ人達。明治天皇と大正天皇の大葬の儀にあたっては、八瀬童子が葱華輦を担ぐ習慣であったが、昭和天皇の時は警備上の都合により、束帯をまとった皇宮護衛官が駕輿丁となった。また、棺の移動には自動車が使われたため、葱華輦は葬場内の移動にのみ使用され、八瀬童子の代表者数名がオブザーバーとして参加していたようだ。)
参考:
宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/
大喪の礼 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%96%AA%E3%81%AE%E7%A4%BC
皇室令 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E4%BB%A4
YouTube - 昭和天皇、大喪(葬場殿の儀など)
http://www.youtube.com/watch?v=0fCkZdTCa4s
中野文庫 - 皇室服喪令
http://www.geocities.jp/nakanolib/kou/km42-12.htm
中野文庫 - 内閣告示(昭和64年)
http://www.geocities.jp/nakanolib/kokuji/kn-s64.htm
中野文庫 - 宮内庁告示(平成元年)
http://www.geocities.jp/nakanolib/kokuji/kk-h01.htm
中野文庫 - 誄(平成時代)
http://www.geocities.jp/nakanolib/gosata/rui2.htm
大喪の礼を国の儀式として行う件(平成元年内閣告示第1号)/網際情報館
http://www2s.biglobe.ne.jp/~law/law/ldb/H01K0001.htm
皇室のきょうかしょ - vol.60 天皇の葬儀
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/column/koshitsu/koshitsu60.html
日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【天皇制について】
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/01291/contents/010.htm
皇室のきょうかしょ - vol.60 天皇の葬儀
http://www.fujitv.co.jp/takeshi/column/koshitsu/koshitsu60.html
外 交 青 書第2節 世界の中の日本
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1989/h01-1-2.htm
漢字にみる死と悲嘆
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199402.html
漢字について
http://suzuka.cool.ne.jp/kondo_hiro/proverb/busyu/kanji.htm
形声文字(ことばありき)--漢字家族
http://ww81.tiki.ne.jp/~nothing/kanji/moji_3.html
第60回カンヌ国際映画祭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC60%E5%9B%9E%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD
殯の森- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%AF%E3%81%AE%E6%A3%AE
映画「殯(もがり)の森」小論
http://www.st.rim.or.jp/~success/mogari_ye.html
asahi.com:カンヌ映画グランプリ「殯の森」の殯とは?
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200706230111.html
中村幸雄論集 新「大化改新」論争の提唱
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nakamura/nakamur4.html
日本人の仏教
http://www.ohaka-im.com/butsuji-49nichi.html


陸軍省が戦意昂揚の為、「撃ちてし止まむ」のポスター5万枚を配布した日

2008-02-23 | 歴史
1943(昭和18)年の今日(2月23日) 陸軍省が戦意昂揚の為、「撃ちてし止まむ」のポスター5万枚を配布。
1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争支那事変)によって、日本の満州事変以来の軍国主義的膨張を警戒する英米仏と、日中戦争の長期化は欧米の対中支援のせいとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げるドイツ・イタリアと1940(昭和15)年に日独伊三国軍事同盟を締結し、仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとするが、アメリカの石油輸出全面禁止などの激しい反発をさらに招いただけだった。その後数度にわたる日米交渉も難航し、アメリカは1941年(昭和16年)11月26日、ハル・ノートを日本側に提出した。これを最後通牒と受けた日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定、択捉島からハワイ真珠湾へ向けて出撃していた帝国海軍連合艦隊に12月8日の戦闘行動開始命令が伝えら、日本がアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。1942(昭和17)年中盤までは、日本軍が優位に駒を進めていたが、1942(昭和17)年6月5日 ミッドウェー海戦(~7日)で日本軍は敗北このとき、日本海軍は主力航空母艦4隻とその全艦載機を喪失するという状況に至り、以降は連合軍が優勢に転じ、8月7日米軍の、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島上陸により連合軍の本格的反攻始まり(ガダルカナル島の戦い)。1943年2月1日から7日、日本軍、ガダルカナル島撤退(ケ号作戦)。3月26日 アッツ島沖海戦。4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。5月には、学徒戦時動員体制の発表(学徒出陣)に至る。
1937(昭和12)年の日中戦争を契機に日本国内では次第に戦時色が強まり、わが国は国民総動員体制へと突入した。大本営発表は戦争に勇ましく勝ったときの情報ばかり流し、ガダルカナル島撤退の時も、その悲惨な敗戦の状況は国民には一切知らされず、アッツ島の玉砕も、政府は、「戦史に残る絶妙の転進」という言葉でごまかした。大本営も、負け戦を「敵に多大なる被害を与えるも我が方損害軽微」ですませ、圧倒的に敗戦した時はこれを隠蔽して発表しなかった。そのような中で、幾ら情報不足の国民も大本営発表の嘘、誇張、隠蔽に気付き始め、これは危ないと感じ始めた。そんな空気の中で、国中を駆け巡ったのが「撃ちてし止まむ」のスローガンだった。
出展は古事記神武東征の中に出てくる歌謡、「みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ 」に起源をもつ( この歌のことは、以下参考に記載の頭に※印の付いたものを参照されると良く判る)が、これが大々的にPRされたのが、1943(昭和18)年第38回陸軍記念日である。陸軍省は、この日に備え、2月23日に、5万部のポスターを全国に配り、当日一斉に掲げるよう支持した。この日のために、2月23日東京・有楽町の日劇ビル壁面には、約100畳の大きさの「撃ちてし止まむ」の大写真ポスターを掲げ、この日、多くの市民の見守る中陸軍軍楽隊が「愛国行進曲」などを演奏。唱和する場面もあったという。大画面の写真を撮影したのは、金丸重峯。二人の兵士が敵陣に突入する瞬間をとらえていて、悲壮感漂う迫力満点の出来栄え(この時の画像が冒頭に貼付のもの)。又、陸軍兵士が銃剣をかざして星条旗を踏みにじり敵陣に突入する絵のポスターは、画家宮本三郎が描いた。そして、「撃ちてし止まむ」は資生堂歯磨やマツダランプなど民間の広告にも盛んに使われるようになる。しかし、内閣情報局の指示で戦意高揚のスローガンの方を大きくし、自社の名や商品名を小さくしなくてはならなかった。この「献納広告」にしか、許可が下りなかったのだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
1938(昭和13)年には国家総動員法が成立し国民は一致団結して、難局に立ち向かうことを求められていたが、更にこれ以降、国内では臨戦態勢が一段と強化されることになった。それはとりもなおさず自由な商業活動と消費の抑制、縮小を意味しており、広告もまた本来の機能と活動の場を失って冬の時代を迎えたのである。「献納広告」と言うのは広告主が新聞などのスペースを買い上げ自社の商品広告ではなく時局にあったメッセージを掲載するという臨戦体制下ならではの広告形態である。かつての華やかな嗜好品・贅沢品などの広告が姿を消し、広告の大半を日用品などが占めるようになった。
以下参考に記載の「日本の戦時債権昭和18年物(1943年)」では、先に紹介した「撃ちてし止まむ」のポスターを見ることが出来るよ。
日本の戦時債権昭和18年物(1943年)
http://f59.aaa.livedoor.jp/~bokujin/S18.html
1942(昭和17)年には米軍機による初めての東京空襲もあり、翌1943(昭和18)年10月には第1回学徒出陣が行われ、そして、1943(昭和19)年には国民総武装決起へと戦局はますます厳しさを増していったのである。
その後、統制経済が進み自由な商業活動は抑制されると、広告は冬の時代を迎える。そのような環境の下では、広告メッセージもまた、時局を反映した内容へと変わらざるを得なかったのである。そんな広告事情は以下を参考にされると良い。広告の時代の変遷が見れて面白いよ。
昭和の広告展[Ⅰ] モダンと激動の四半世紀 | アド・ミュージアム東京
http://www.admt.jp/exhibition/program/2007_showa1.html
(画像は、1943年2月23日、東京・有楽町に地劇ビル壁面に掲示された「撃ちてし止まむ」の大写真。朝日クロニクル「週刊20世紀」より。)
参考:
太平洋戦争の年表 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8
1943年 / クリック 20世紀
http://www.c20.jp/20c/1943.html
学徒戦時動員体制確立要綱 | 国立国会図書館-National Diet Library
http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00479.htm
※日本神話 - Wikiquote
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1
※橿原神宮の新嘗祭・久米舞(来目舞) その8
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/event/niiname-Kasihara-08.htm
※千年の悦楽 一夜の彷徨: 『古事記』:久米と久米歌考:
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/09/post_5783.html
※古事記中巻
http://dokushin.hp.infoseek.co.jp/koji-m1.htm
※日本書紀 巻第三・神武天皇・弟磯城の帰順
http://www1.bbiq.jp/shinsisyuppan/nihonsyoki28.html
昭和の広告展[Ⅰ] モダンと激動の四半世紀 | アド・ミュージアム東京
http://www.admt.jp/exhibition/program/2007_showa1.html
ヌプンケシ54号
http://www.city.kitami.lg.jp/650-03/54/nupunkesi54.htm
日本の戦時債権
http://f59.aaa.livedoor.jp/~bokujin/index.html

国際母語デー

2008-02-21 | 記念日
今日(2月21日)は「国際母語デー(International Mother Language Day)」。国際デーの一つ。
国連教育科学文化機関(ユネスコ)が1999年11月17日に制定した。 言語と文化の多様性、多言語の使用、そしてそれぞれの母語(ぼご)を尊重することを推進することを目的とする。
1952年のこの日、当時はパキスタンの一部だったバングラデシュダッカで、ベンガル語公用語として認めるように求めるデモ隊に警官隊が発砲し、4人の死者が出た。バングラデシュでは、独立運動の中の重要な事件の一つとしてこの日を「言語運動記念日」としていた。
母語とは、人間が幼少期から自然に習得する言語。つまり、第一言語ともいう。
日本における日本語では、国を入れて母国語ということが多いがこれは、正確ではない、世界的に見た場合、言語は必ずしも国と結びつくものではない。日本では日本語が「国語」となっており、日本国民のほとんどの人が日本語を話すことから、母国語という言葉を使ったりする人がいるが、これは、誤りである。出身国を母国と呼ぶとき、「母国の言葉」という意味で母国語という言葉は成立する(複数もありうる)が、地球上の殆どの人にとって母語すなわち母国語ではないことは知っておく必要がある。(以下参考に記載の「母国語」という用語の問題性について参照)
ある人がもっとも上手く使いこなせる言語はその人の母語である、しかしその逆は一般に成り立たない。幼少期に複数の言語を身につけた場合、母語が複数になることもあるが大抵はそのうち一つが最も得意な言語(第一言語)となる。
分かりやすく言えば、母語とはオギャーと「生まれてきたとき母親などが話しかけてきた言葉」と言うことになるのだろうか。日本人の場合は、普通、日本語が多いので、先に断ったことを承知の上で、今日は、日本を母国とする日本人の「日本語」をテーマーに書くことにする。
言葉も時代と共に変化しているものであることぐらいは承知しているが、そんな、刻一刻と変化しつづける日本語、私達の年代のものには、理解できない若者言葉が非常に多くなっている。最近流行のローマ字の略語「KY 」=「空気読めない」「IW」=「意味わからない」などである。余り多すぎるのでネット上に「若者用語の小事典」なるものができたり、ローマ字式略語辞典「KY式日本語」(大修館書店)が出版されたりしているという。このような簡略語が使われるのは今に始まったことでもないし、言葉は時代の変遷であり、言葉の乱れとは別のことと割り切ればいいとの見解も多くある。このような、我々からすれば言葉の乱れと感じられるものが、急速に増えた背景には、携帯電話やパソコンなどの普及での略語の方が交信に便利といった利便性もあるのだろう。中には、こんな言葉を覚えて若者の仲間入りが出来たと得意になって使っている中年のおじさんやおばさんもいるのだから神経質にならなくても良いのかも・・・。
ただ 今の時代、テレビの世間に与える影響は非常に大きく、子供なども影響されやすい。そのようなテレビに出てくるアナウンサーキャスタータレントなどの言葉の誤用や聞き苦しい言葉遣いの使用については気になるところである。
もともと学生時代から、国語や文学を苦手としてきた私などが、偉そうに、「日本語の乱れ」などについて語る資格もないが、先にも言ったオギャーと生まれてきたときに話しかけてくれる母親などの使う言葉・つまり母語としての日本語の乱れがないかといわれれば、やはり、あるといえるのではないだろうか。
最近テレビを見ていると、日本語を取り扱ったクイズバラエティ関連の番組が非常に増えてきているようだ。正しい言葉の使い方はAとBのどっち?とか漢字の読み問題、言葉のウンチク問題、漢字の描き順問題などなど・・・。これらは、日本の番組らしく、内容に少しの差はあるがあそこがやるならうちもと、何でも右へ並への「日本語ブーム」といったところか。
また、そこに出演し・・・何故?・・と首を傾げたくなるほどの無知さぶりをご披露してくれる素敵なタレント達の多いこと。これは我々テレビの視聴者に「私の方がよく知っている」・・・と喜ばせ、自己満足させるために、番組の企画者がわざと少々おかしな人を多く選ぶというサービス精神であろうとは思っているが、日本人でありながら、外国人には通用もしないようなカタカナ英語をよく使うのに、自分が生まれ、育ち、住んでいる日本の国の言葉や文字についてはよくわからないなどと言うのは、何とも少々おかしいのではないだろうか???
何でも知っておくべきことを知った上で、略語を使おうが、自分たち独自の隠語を使うのはそれはそれでよい。中には、確かに、面白いものがあり、のちのちそれが通常語になるかも知れないと思われるものもある。
最近、小中高の教科書の出版社として有名な、東京書籍主催による「日本語検定」が出来ている。検定試験の目的は、「自分自身の日本語をとらえなおし、日本語を正しく使えるようにするための一つの手立てとなること、それが願いです。」・・・とある。今は亡き東京の叔父がちょっとした貿易会社を経営していたが、思うようにいかず経営を止めてから、得意の語学を生かして、翻訳の仕事をしていた。その時に私が叔父に「最近は、英語の堪能な人達が増えてきたので、翻訳の仕事も減ったのでは・・?」と聞いたところ、叔父はこういった。「たしかに英語の話せる人は、増えたのだが、日本語を正確に話せる人が少なくなった。だから、英語を正確に翻訳することが出来ない。役所関係などへ届け出なければならない書類では、きっちりと正確な日本語に翻訳して届けないと受け付けてくれない。だから、そのような翻訳の仕事をしているのは私達のような年配者ばかりなのだ。」・・と。私も、文章を書くことは得意ではないので、現役時代は、レポートなど書くために公用文「用字用語の要点」(新日本法規)といったものを座右において仕事をしていた。
ローマ字略語や自分達の仲間同士での隠語の使用など、自由にやれば良いが、最近はj国際化が進み、日本語を話し日本の文化に興味を持っている外国人も非常に増えてきているようだ。せめて、そのような日本語の話せる外国人などから変な日本語を使う日本人と笑われるようなことにはならないようにしてほしいものだよね。
(画像は、『日本語検定公式模擬問題集 一級』 東京書籍)
日本ユネスコ協会連盟
http://www.unesco.or.jp/
Wikipedia - 国際母語デー
http://ja.wikipedia.org/wiki/国際母語デー
乱れた日本語、矯正計画!? - [資格]All About
http://allabout.co.jp/study/qualification/closeup/CU20070319N/
日本語の乱れ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B9%B1%E3%82%8C
SEIKOUニュースリリース「新成人は世渡り上手? 社会を生き抜くには「空気読力」が必要!」
http://www.seiko.co.jp/mainsection.html?page_is=newsrelease&id=636
SEIKOU新成人が考える「時」の意識アンケート調査
http://www.seiko.co.jp/nihongo/shinseijin/shinseijin2008/index.html
「母国語」という用語の問題性について
http://members.jcom.home.ne.jp/anmi5/bokokugo.htm
語彙獲得達成レベルにおける第一言語と第二言語の相関性:継承日本語の観点からの考察
http://www.colorado.edu/ealld/atj/SIG/heritage/fujiyama.html
若者用語の小事典
http://www.tnk.gr.jp/young/word/index.asp
東京書籍 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%9B%B8%E7%B1%8D

東大構内でポポロ事件が発生した日

2008-02-20 | 記念日
1952(昭和27 )年の今日(2月20日)、東大構内でポポロ劇団の演劇会場に潜入していた私服警官を学生が摘発し、警察手帳を奪う事件(ポポロ事件)が発生。21日暴行容疑で学生2人が逮捕された。
ポポロ事件とは、日本国憲法第23条に保障する学問の自由及びそこに含まれる大学の自治と警察権との関係 に関する最高裁判所判例をもたらした事件である。
1952(昭和27 )年の今日(2月20日)、東京大学本郷キャンパスの教室において、同大学公認の学生団体「ポポロ劇団」が松川事件をテーマとした演劇『何時(いつ)の日にか』の上演を行なった。 これは大学に正式な許可を得て行われたものであった。上演中に、観客の中に本富士警察署の警官4名が私服で潜入しているのを発見し、これらの警察官の3名の身柄を拘束して警察手帳を奪い、暴行を加えたとして、暴力行為等処罰ニ関スル法律により起訴されたもの。
一審は、学生の行為が大学の自治を守るためのものであるゆえに正当であるとし、学生を無罪とした(東京地方裁判所昭和29年5月11日判決)。二審(東京高等裁判所昭和31年5月8日)も一審を支持したため、検察が上告。
それに対して、最高裁判所は、1963(昭和38)年5月22日大法廷判決は、「大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。大学の施設と学生は、これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである」
しかし、「政治的、社会的活動に当たる行為は大学の自治の範囲に含まれず、実社会の政治的、社会的活動に当たる行為をする場合には大学の自治と自由は享有せず、ポポロ劇団の発表は反植民地デーの一環として、松川事件に取材した演劇活動を行うことを告げずして教室使用許可を受けてかかる演劇を行いその際資金カンパや渋谷事件の報告が行われたとすれば、これは、教室の許可外目的使用であり、」
「本件集会は、真に学問的な研究と発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動であり、かつ公開の集会またはこれに準じるものであつて、大学の学問の自由と自治は、これを享有しないといわなければならない。したがって、本件の集会に警察官が立ち入つたことは、大学の学問の自由と自治を犯すものではない」
として、原審を破棄し、審理を東京地方裁判所に差戻した。以下参照。
最高裁判所判決、主文、理由(最高裁判所ホームページ)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=28498&hanreiKbn=01
差し戻し後、被告人は第一審で有罪とされ(東京地方裁判所昭和40年6月26日判決)、控訴上告も棄却された(東京高等裁判所昭和41年9月14日判決、最高裁判所昭和48年3月22日判決)。
この事件の争点は学生が学問の自由(23条)の享有主体か否か、という点について、大学内で内偵していた警察官を学生が発見し、排除するために暴行を加えた場合、通常このような行為は罪となるが、もし学生も23条の享有主体であれば大学の自治が認められるから、警察を排除することそのものは「正当防衛」になるが今回はそれに該当しないということである。
GHQ占領下(1945年〔昭和20年〕9月から1952年〔昭和27年〕4月28日)の当時は「民主主義」が流行したが、「社会主義」も今では想像できないほどに勢いがあった。1951(昭和26)年サンフランシスコ講和条約で反社会主義の西側陣営に入り、朝鮮戦争特需で資本主義を再建していく過程で労働運動など、反政府色の強い運動に対し制限、弾圧といえるものも見られた(日本の労働運動史参照)。
この「ポポロ事件」はポポロ劇団が公演中に学生達に摘発された私服警官のメモから警察による系統的な学内スパイ活動が露見ししたことが、東大側と警察が全面対立した(東大ポポロ事件)ようであり、その翌日、警視庁予備隊(現在の機動隊)は、大学構内に入り学生を暴行容疑で逮捕した.。(以下参考に記載の「思想良心の自由と制限について」の「学問の自由と国家権力」など参考にされるとよい)
この時、矢内原忠雄 は東大総長として大学の自治と学問の自由を守るよう学生に呼びかけたといわれているが、この事件に関わった吉川勇一 (後べ平連の事務局長)は、矢内原や当時東大法学部長であった尾高朝雄らとともに国会に証人として呼ばれたときの記録が、「国会会議録検索システム」に全文掲載されている。以下参照。
ポポロ事件参議院の記録(吉川勇一HP)
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/124Popolo-JIken-Snngiin-Kiroku.htm
戦後のこのような時代背景などを考えると、少々微妙な判例のような気もするが、確かに、当時の社会主義者と言われる人達の行動には過激な行動もあったようにも思われるが、取り締まる側、取り締まられる側にもまだまだ、本当の意味での「自由」と言うものが何であるのか消化不良であったのではないかと言う気がする。しかし、どちらにしても、この当時の反政府色の強い運動に対する制限や弾圧によって、その後の東大紛争などを境に、若者やマスコミなどが、腰砕けになり強権力者にへつらったような腑抜けになってしまったような気がするのだが・・・。
(画像:東大闘争は1968年1月インターン制度に代わる登録医制度意に反対する医学部学生の、無期限ストから始まった。バリケードを組んで校舎を封鎖する実力行動が全学に拡大、機動隊による封鎖解除、学生による再封鎖が繰り返されるなか、封鎖続行を主張する反代々木系と封鎖阻止を求める共産党系の民主青年同盟の対立が激化、中に割って入る一般学生も混じって三者三様の複雑な攻防が続いた。11月23日の写真。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
東大ポポロ事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E3%83%9D%E3%83%9D%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ポポロ事件参議院の記録(吉川勇一HP)
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/124Popolo-JIken-Snngiin-Kiroku.htm
正当防衛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%BD%93%E9%98%B2%E8%A1%9B
日本の労働運動史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8A%B4%E5%83%8D%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8F%B2
吉川勇一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%8B%87%E4%B8%80
村岡到尾高朝雄自由論の解説
http://www18.ocn.ne.jp/~logosnet/images/jiyukaisetu.html
思想良心の自由と制限について
http://homepage3.nifty.com/silc/hoshi/51_shisou_ryoushin_giyuu.html
尾高朝雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E9%AB%98%E6%9C%9D%E9%9B%84
矢内原忠雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84