今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ミケランジェロ (伊:彫刻家,画家,建築家)の忌日

2008-02-18 | 記念日
今日(2月18日)は、ミケランジェロ (伊:彫刻家,画家,建築家)1564年の忌日。 <88歳>
ミケランジェロ・ブオナローティは、イタリアルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。
ミケランジェロ(Michelangelo)の名前はミカエル(Michael)と天使(angelo)を併せたものだそうだ。ミカエルはキリスト教ではラファエルガブリエルウリエルと共に四大天使の一人であり、キリスト教ユダヤ教においてもっとも偉大な天使であるらしく、凄い名前をつけてもらっているのだなと思うのだが、フランスではMichel と言う名の男子もMichèleという名の婦女子もそこら中にゴロゴロといる名前のようだが聖書にミカエルの名が登場するのは、旧約は『ダニエル書』の10章13節、新約は『ユダの手紙』の9節、『ヨハネ黙示録』の12章7のたった三箇所ぐらいだという。『ダニエル書』においてミカエルは天使長たちの一人としてペルシアの天使たちと戦うためにつかわされたといわれておりローマの守護聖人として人気があるようだ。
ミケランジェロは、アレッツォ近郊の小村カプレーゼに生まれ、フィレンツェで育った。教皇に雇われて成年期の大半をローマで過したが、生涯を通じて、フィレンツェの美術と文化に深い愛着をいだきつづけ、フィレンツェに葬って欲しいとの遺言どおり、遺体はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会(サンタ・クローチェ聖堂)に安置されている。
幼少の頃から絵画や彫刻に興味を示し13歳でドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし、ドメニコに才能を認められ、フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介され支援を受ける。その間にプラトン・アカデミーに集まるマルシリオ・フィチーノなどの人文主義者たちと多く出会い、芸術に関する着想を広げ、大きな影響を受けた。この間に、『ケンタウロスの戦い』『階段の聖母』の二つの浮き彫りを制作している。ロレンツォが亡くなった1492年以降メディチ家の支援を得られれずボローニャで3年ほど生活したが、1496年にミケランジェロの天使像を購入したサンジョルジオ枢機卿の招きでローマに5年ほど留まることになる。
彼は、ここで彫刻の傑作『ピエタ』を、その後また、ローマに帰り、4年かけて『ダビデ像』を、・・・美術史上に輝く大傑作を完成させた。他にも、『バッカス』、『モーセ』、『ラケル』、『レア』などが有名である。
ミケランジェロは同じフィレンツェ出身のレオナルド・ダ・ヴィンチ、それにラファエロ・サンティなどとともにルネサンスの三大巨匠と呼ばれるが、彼は、後世、伝記作家が彼のこと「石と語り、のみを執れば髪の毛ほどの幅に正確に石を彫る男」それが天才ミケランジェロであるといっているように、彼は、生涯にわたり自らを彫刻家であることを自任していた。
そんな彫刻家であるミケランジェロが絵を描くとどのような絵を描くのか。恐らく当時の人々も興味津々だったに違いない。そんな彼が、1508年、ユリウス2世から バチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられた。自分は彫刻家であり、画家ではないと拒んだが、しぶしぶユリウスの命令に従った。しかし、弟子の仕事ぶりが気にくわず、結局一人で制作を続けたという。礼拝堂内に足場を組み、横になって苦しい作業を続け、1512年までの4年間をかけて西洋で最も巨大な絵画の一つとも言われる『創世記』をテーマにした『、天地創造』の大フレスコ画を完成した。『天地創造』は名の通り、旧約聖書創世記の9場面、天地創造からその後アダムとイブの創造、彼らの楽園追放、ノアの箱船と大洪水といった(聖書上の)出来事を描いたものである。
又、 システィーナ礼拝堂天井画完成から24年後、教皇ユリウス2世の後に即位した教皇クレメンス7世がシスティーナ礼拝堂正面壁に壁画を描く構想を最初に練り、その意思を引き継いだ教皇パウルス3世の強くい要請により、正祭壇背面の壁画『最後の審判』を1536年から1541年まで5年をかけて完成させた。
最後の審判は、世界の終末においてメシアが出現し、死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分ける、という思想をいう。これはユダヤ教からキリスト教・イスラム教に引き継がれ、これら3つの宗教において重要な教義となっている。元々はゾロアスター教の教義から来たものと言われる(※最後の審判参照)。
ミケランジェロがバチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の天井画と祭壇画を描いた間には、ローマ略奪という大事件やと宗教改革により、ルネサンス精神は失われ、ヨーロッパ列強の支配が強まりつつあった。そのような不安な時代背景から、調和と安定がキーポイントの盛期ルネサンスから後のバロック美術へ移る途中のこの時期の芸術マニエリスムの時代への転換期とされている。
ミケランジェロの『最後の審判』の主題は、その名の示す通り、マタイ福音書などに記されている「最後の審判」をテーマにしたものであり、400名以上の人物が描かれている。中央では再臨したイエス・キリストが死者に裁きを下している。大きく四つの階層に分かれており、上から、天使たちの群像、キリストを中心とした天国、地獄に引きずり落とされる人々、地獄、が描かれている。しかし、その解釈と表現には新旧の聖書のほか、ダンテ神曲やトンマーゾ・ダ・チェラーノの『怒りの日』、カトリック改革派の思想、マルティン・ルター異教的思想など、さまざまなものが影響していると推測されているようだ。その為、制作当初からスキャンダラスとして批判を受け、異教的であるという理由から画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラに依頼し裸体で描かれていた人物に衣服が描き加えられたのを始め、最終的には44箇所に及ぶ加筆がおこなわれたという。また、キリストの右下には自身の生皮を持つバルトロマイが描かれているが、この生皮はミケランジェロの自画像とされる。パオリーナ礼拝堂には他にも『聖ペテロの磔刑』、『パウロの改宗』を描いている。
『最後の審判』などの壁画・天井画は、長年のススで汚れていたが、日本テレビの支援により1981年から1994年までに修復作業が行われた。壁画・天井画は洗浄され製作当時の鮮やかな色彩が蘇った。ミケランジェロの死後、裸体を隠すために幾つかの衣装が書き込まれていたが、これは一部を除いて元の姿に復元されたという(以下参考に記載の「永遠の都ローマ」参照。ミケランジェロの年表も詳しく記されている)。
美術的なことについての専門知識などは私には無いのでそのようなことは以下に記載の参考の中から見てください。中で、ミケランジェロの作品について、以下2つのHPは、非常に綺麗な画像で、特に大作 システィーナ礼拝堂天井画(『天地創造』)や正祭壇背面の壁画(『最後の審判』)などは細部の細かな絵の説明もあり、非常にわかりやすい。これを見ただけで、ミケランジェロ通になれるよ。今日は、タダで見れる美術館観賞日にしては・・・(^0^)。
ミケランジェロ-主要作品の解説と画像-
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/michelangelo.html
ミケランジェロ ルネサンスの巨匠 画像と解説
http://art.pro.tok2.com/M/Michelangelo/Michelangelo.htm
そうそう、彼は、建築家としての才能も持ち、バチカンの『サン・ピエトロ大聖堂』の設計者でもある。ここには彼の遺体も安置されている。
(画像は、システィーナ礼拝堂の天井画「天地創造」部分画・アダムの創造。フリー百科事典Wikipediaより。)
参考は以下をクリックください。この下のページに表示されます。
クリック→ ミケランジェロ (伊:彫刻家,画家,建築家)の忌日:参考

ミケランジェロ (伊:彫刻家,画家,建築家)の忌日:参考

2008-02-18 | 記念日
参考:
ミケランジェロ・ブオナローティ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3
ミケランジェロ-エンカルタ百科事典
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761560125/content.html
ミケランジェロ-主要作品の解説と画像-
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/michelangelo.html
ミケランジェロ ルネサンスの巨匠 画像と解説
http://art.pro.tok2.com/M/Michelangelo/Michelangelo.htm
[DOC] フルゴーニアッシジのフランチェスコ
http://home.g01.itscom.net/kazu-kw2/07.02%20St.Francois%20d'Assise.doc
「アッシジの聖堂壁画よ、よみがえれ」 石鍋真澄著 小学館
http://www.aritearu.com/Influence/Francis/PhotoAssisi/Yomigaere.htm
X51.ORG : ミケランジェロは自閉症だった
http://x51.org/x/04/06/0202.php
オランダ&イタリア紀行15
http://masa_n.at.infoseek.co.jp/nlit/nlit15.htm
サンタ・クローチェ教会・1
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7112/s_croce1.html
永遠の都ローマ
http://www.ntv.co.jp/roma/
聖書のダニエル書10:13
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411047684
ユダからの手紙
http://www.cozoh.org/denmo/Jude.htm
ヨハネ黙示録12章7~12節
http://blog.goo.ne.jp/tablemaster/e/9a33bc241b6955194843fe380ba80bf2



『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』がミラノ・スカラ座で初演 された日

2008-02-17 | 歴史
1904年の今日(2月17日)日本を舞台にしたオペラ『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』が ミラノスカラ座で初演された。
イタリア人作曲家ジャコモ・プッチーニの作品で、原作は米の作家ジョン・ルーサー・ロングの短編小説、『蝶々夫人(Madama Butterfly)』であり、同小説は1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン(1930年に廃刊)1月号に発表されたものである。このロング原作『蝶々夫人』にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した同名の戯曲を更に歌劇台本化したものだとされている。しかし、1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたそれは大失敗だったようで、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となったと言われている。プッチーニは、「「マノン・レスコー」「ラ・ポエーム」「トスカ」に続く、この「マダム・バタフライ」でジュゼッペ・ヴェルディ以降のイタリア・オペラの伝統を受け継ぐ地位と名声を確立。時にヴェルディの『椿姫』、ビゼーの『カルメン』と合わせて、「マダム・バラフライ(蝶々夫人)」を世界三大オペラに数える説もある。
「マダム・バタフライ」がミラノ・スカラ座で初演 されたこの年(1904年)、東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業した三浦環(20歳)は1913年に医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学する。しかし第1次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。当時イギリスとは日英同盟を結んでいた中であり、友好国民として歓迎され、そのような時代背景が幸いした部分もあったようだが、この年10月にロイヤルアルバート・ホールで開催された「愛国大音楽会」に出演する機会に恵まれた。このコンサートでの成功したことが翌1915年ロンドン劇場で上演された「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」のプリマドンナを日本人として初めて務めるきっかけとなった。しかし、「マダム・バタフライ」は初演されてからまだ10年ほどしか経っていなかったため、環はそれまで、このオペラを歌ったことがなく、「マダム・バタフライ」の楽譜を4月中旬に購入し、ほぼ1ヵ月余の間に蝶々夫人のパートを暗譜し、舞台上での動きなどについても考えをまとめた。そして、5月31日にロンドン歌劇場でおこなわれた「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」の公演は、日本人のプリマドンナが日本人をヒロインにしたオペラに出演するということでおおいに話題になった。当初、新聞の批評も概ね好評だったこともあり、当初5回が予定されていた出演回数は15回にふやされたという。(朝日クロニクル{週刊20世紀」)その後は蝶々夫人は彼女の最大の当たり役となりで世界中を飛び回り、アメリカのメトロポリタン歌劇場では名テノール歌手、エンリコ・カルーソと共演。ローマでは作曲者プッチーニは彼女の公演を見て感激、「夢に描いていた蝶々さんを現実に見ることができた」と賞賛したされるなど、生涯に2,000回もこの役柄を演じたという。帰国後も、彼女自身による日本語訳歌詞で蝶々夫人を歌い続け、精力的に活動した。日本人最初の国際的なプリマドンナとして三浦環の名前は今もオペラの歴史に刻まれている。長崎のグラバー園にはその功績を称える三浦の像がある。
以下の「ある晴れた日に 歌劇『蝶々夫人』(プッチーニ)」では、You Tubeで舞台の動画が見れるよ。
ある晴れた日に → http://www.worldfolksong.com/songbook/opera/onefine.htm
♪ある晴れた日 海の遥か彼方に 煙がひとすじ見え 船の姿が現れる・・・♪
一時の浮気心で蝶々さんと結婚し、そのままアメリカへ帰ってしまったピンカートンを信じて、帰りを待ち続ける蝶々さんが歌うのが有名なアリア「ある晴れた日に」。
3年後、ピンカートンはアメリカで正式に結婚した妻を連れて再び日本に帰って来る。すべてを察した蝶々さんは、ピンカートンとの間に生まれた子供を彼らに託し、父から譲り受けた守り刀で自らの命を絶つ。
「蝶々夫人」の中でも特に代表されるアリアであり、単独で歌われることの多いものである。伝説のソプラノ歌手、故マリア・カラスもこのアリアを十八番としており、現在出回っている彼女のベスト盤の多くにこのアリアが収められている。
舞台ではなく映画では1955(昭和30)年東宝の日伊合作となった「蝶々夫人」ではタイトルロールを当時、宝塚歌劇団在団中だった八千草薫が演じ、日本だけでなくイタリアでも大評判をとった。
しかし、オペラを作ったプッチーニも、その元になった戯曲を書いたベラスコも、その元になった小説を著したロングも、長崎はおろか日本を訪れたことはないそうだ。ロングの姉サラ・コーレルが、東山手の現・活水女子大学の付近にあったカブリー英和学校(後の鎮西学院)の校長をしていた夫とともに、1891(明治24)年から1895(明治28)年まで長崎の居留地に住んでいたという。ロングは、姉サラから長崎の話を聞き、小説「マダム・バタフライ」を書いた(1897年)とされている。ただ、以下参考に記載の「あっと九州」によると、”その姉によれば、東山手の反対側に住んでいた「料亭で働く少女」ということだったが、具体的な名前などはない。一方、戦後、アメリカ軍が長崎に駐留していた頃、軍将校の住居として使われていたグラバー邸は「マダム・バタフライハウス」という愛称で呼ばれていた”という。有力視されていたのは、幕末に活躍したグラバーの妻、ツルである。ツルの位牌や墓にアゲハチョウの紋があり、ツルがモンシロチョウの紋の入った着物を着ていたことなどから「蝶々夫人のモデルはツルではないかというのである。
しかし、ちょっと、「蝶々夫人」の第1幕を思い出してみよう。アメリカ海軍の戦艦アブラハム・リンカーン所属の海軍士官ピンカートンは日本人の少女と結婚することになった。結婚斡旋屋のゴローが、長崎にきたピンカートンに、結婚後に暮らす丘の麓の家や、下女のスズキや下男を紹介して機嫌を取っている。そこへ駐長崎領事のシャープレスがやってくる。ピンカートンはここでアリア「ヤンキーは世界のどこへ行っても」を歌う。シャープレスは優しい心の男であり、ゴローが紹介した少女がこの結婚が永久の縁と堅く信じていることを思い出し戸惑う。だがピンカートンは、この結婚も一時の愛だとシャープレスの危惧を一笑に付すた。そこへ蝶々さんが芸者仲間とともに現れる。シャープレスが可憐なこの15歳の少女に身の上を問うと、実家は没落士族の家であると答え、父から頂いた切腹のための刀の入った箱を披露している。第2幕、結婚式から3年が過ぎた。ピンカートンは任務が終わり、アメリカ合衆国に帰ってしまった。彼は蝶々さんに「コマドリが巣を作る頃には帰ってくる」と約束していた。蝶々さんの忠実な下女スズキは彼は既にそれらを反故にしたのではと疑うが、ピンカートンを信頼する蝶々さんにとがめられる。 きっと夫は帰ってくると信じてやまぬ蝶々さんは、ここでアリア「ある晴れた日に」を歌うのであるが・・・。結局、ピンカートンは、アメリカ本国でアメリカ人女性と結婚。アメリカ人妻ケイトに自分の産んだ子供を渡すことを約束し、「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」と父の遺品の刀で自刃しようとするが、そこへ子供が走ってくる。蝶々さんは子供を抱きしめアリア「さよなら坊や」を歌い、子供に目隠しをし、日米の国旗を持たせ、そして、刀を喉に突き立てるのである。
当時の長崎では、洋妾(ラシャメン)として、日本に駐在する外国人の軍人や商人と婚姻し、現地妻となった女性が多く存在していたという。何もしらない蝶々さんは、自分がそんな慰み者の一時的な妻ではなく、ピンカートンの本当の嫁にしてもらったものと思っていたのであろうか?。
このブログの字数制限上、これ以上書けないので、この続きは以下をクリックしてください。参考もそこにあります。
クリック→ 続:『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』がミラノ・スカラ座で初演 された日
(画像は、蝶々夫人を演じる三浦環 。写真は、1930年代のものという。アサヒクロニクル「週刊20世紀」)


続:『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』がミラノ・スカラ座で初演 された日

2008-02-17 | 歴史
明治の長崎でそのような悲しい愛に生きた「蝶々さん」は誰か?。
先に、グラバーの妻、ツルさんがモデルではないかという説があることを書いたが、実は、「お菊さん」のモデルは「お兼さん」さんだという説が有力のようである。以下参考に記載の「歴史散歩/歌劇「蝶々婦人」のモデルは竹田の人」によると、実は「ツルさん」も「お兼さん」も大分県竹田の出だという。幕末から明治に入り西南の役のあった時代戦火で何もかも失った武家育ちの女性が生きてゆくことは大変なことだったろうが、お兼さんも家を焼かれ住む所もなにもなくして悲惨な運命をたどった人のようだ。同じ竹田出身でグラバーの妻となっていたツルさんの世話でお兼さんが7歳頃母おきんさんと長崎に行く事になったそうだが、長崎の生活は思うようにいかず、その後は男相手の商売だったのではないかと想像され、やがて母おきんさんは置き屋の女将になったと言う。そして、1885(明治18)年7~12月に、フランス海軍士官、ピエール・ロテイが「トリファント号」の艦長として来日。その間7月から8月約1ヶ月ほど長崎に滞在していたが、その時一緒に生活していた女性が、当時15歳とか18歳とか言われるお兼さんだったといわれているそうだ。言うところの一時的な日本人現地妻である。母おきんが置き屋の女将なら娘のお兼にそのようなことをさせても不思議は無いだろう。ロチがお菊さんと一緒に生活した家(長崎市十人町8-2)は、第二次大戦中の建物疎開で取りこわされたという。また、ロチの記念碑が長崎市諏訪神社の月見茶屋そばに建っているそうだ。
ピエール・ロチはペンネームであり、本名は、フランスの自然主義作家で、本名をルイス・マリー・ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie Julien Viaud)というそうだ。 ロチは長崎の街で過ごした経験をもとに、日本体験記『お菊さん(マダム クリザンテエム)』を書いたのは1887(明治20)年のこと。アメリカ人ロングがこのオペラ「蝶々夫人」の基になった戯曲「マダマ バタフライ」を発表(1898年)した実に、11年も前のことである。「お菊さん」は小説発表の10年後にアンドレ・メサジェによって同名のオペラ「お菊さん」 になりパリで初演されているという。ロチは長崎の仕事を済ませた後帰国。その後1900(明治33)年12月8日に再び長崎にきて4月1日まで滞在し、この時の模様を基に、『お梅が三度目の春』を著しているそうだ。しかし、この時お兼さんとは再会していないようだ。
ロチ36歳のときに、いかに退屈なひと夏を、長崎の郊外で、一人の憐れむべき日本の娘と過ごしたかをありのままに描いたのが『お菊さん』さんだという。その彼が同年11月、天皇誕生日を祝う鹿鳴館の夜会にも招かれている。その時の経験をもとに『江戸の舞踏会』を書いている。またこの2作を元に、芥川龍之介が、『舞踏会』(以下参考に記載の青空文庫舞踏会参照)を書いていることは、は前のブログ11月28『鹿鳴館落成の日』で書いたが、ロティにとって鹿鳴館の夜会は「公のどえらい笑劇」であり、きらびやかに着飾った女性たちはそこに「異国的美しいおどけを投げこむ」可愛い女であった。小説の『お菊さん』が、どんな内容ののものかはよく知らないが、長崎で1ヶ月あまり暮らした西欧先進国フランス人のロチの眼には鎖国を解いたばかりの日本人は「尾無し猿のやうな長い着物を着た」人間に映っていたようだ。当時の日本女性は小柄で顔がぼっちやりしたのが美人とされていたことを想像して考えると、西洋の洋服をきた彼女たちは、外国人の目からは不思議で滑稽な日本女性に映ったのは当然だろう。
19世紀後半の欧米で注目された日本美術は決して浮世絵だけではなく、浮世絵に継いで重要な制作上の多大なヒントを秘めたものとして陶芸と水墨画があってマネやロートレック、ゴーガンやマチス、マルケなどはそれぞれ異なる理由でこれらに強い関心を寄せていたという。中でも、ヴィンセント・バン・ゴッホは400枚以上の浮世絵を所有し、浮世絵を通じて日本を愛し、日本に旅行しようとさえ考えた。その彼が失望したのはピエール・ロチの『お菊さん』を読んで、東京はもはや江戸ではないと知った結果であるという。このことは、欧米の画家や文化人一般が19世紀後半に抱いた日本観と富国強兵にいとまのなかった明治期の日本との落差の大きさを示す象徴的な判断と言えそうだ。(週間朝日百科「日本の歴史)。しかし、日本人を猿視したロチであるが、欧米人の生活水準に匹敵する生活を日本人が過していることを印象づけることも鹿鳴館の夜会の目的の一つであったとするならば、そこでの衣装・物ごし・儀礼・ダンスなどが皇室や政府高官の命によつて、恐らく心にもなく、速成的に教へ込まれたものであろうと見透かしていたのであろう、それを必死に演じている鹿鳴館の女性たちにはかなり好感を示しているようだ。長崎で、一人の憐れむべき日本のムスメとどのように過ごしたかをありのままに描いた体験記『お菊さん』。以下参考に記載の「岡村喬生のオペラとちょっとした話・国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記」などを引用させてもらうと、当時の長崎は、”各国の船が入り乱れ、乗組員相手の商売のために黄色い小人たちが、籠や小箱などに靴、石鹸、急須、生きた蝉、厚紙を回す小鼠、いかがわし写真、などを売りに乗り込んで来るところからこの体験記は始まり、水兵たちは面白がって物売り女の顎をつまんで白い銀貨を撒き散らし、何でも買ってやるのである。「それにしても、まあ、この人間たちはいかに醜く、卑しく、グロテスクなことだろう! 私(ロチ)はせっかく結婚の計画までたてたけれども、だんだんと考えこんで興ざめてきた」。”そうだ。そして、”ロチが異国船乗り向け女性の周旋所・百花園でフランス語を話す洋服を着た勘五郎に女性の注文を出す前に、いち早く勘五郎は何人かの候補者たちの条件を並べ立てる)8日も後頃に来る下関の二人の年頃の娘を持つ男を待つか、一昨日ロシアの士官に取られてしまった可愛い子、月百円――当時の百円は凄い大金であるーーで教養のある金持ちの娘だが器量の悪い子。そして隣室で三味線を弾き客前で歌っていた子をロテイが所望すると、勘五郎はとんでもない、あれは芸者だと言って拒否する。””そして結局ロチは勘五郎が急に思い出したジャスミンという15歳の月18-20ピアストル(1ピアストルは2円だから36-40 円)の15歳の非常に可愛いらしい娘の所にその夜交渉に行かせることで満足する。”・・・ことになったそうだ。”ロチが雇った人力車の1時間の料金が10スウ/20銭だから、月40円のジャスミンの値段は人力車200時間分ということになり、今の日本の値段だとハイヤー1台を1ヶ月間契約するくらいのものだろう”・・という。今でもそうだが芸者は芸を売るのが仕事、体は売らないものである。ロチにとっては、お菊さんもまた、日本の風景や文化の一つに過ぎなかったし、お菊さん(お兼さん)もロチに対して、後にジョン・ルーサー・ロングによって著された『お蝶夫人』のような熱烈な恋心を持ち得なかったことだろう。
何でも、Tragedia Giapponese=日本の悲劇”。これがオペラ「マダマ バタフライ」に原作者がつけた副題であったそうだ。これは、“蝶々夫人の悲劇”・・というよりも、“一日本婦人の悲劇”と夫に裏切られ自殺して果てる主人公・日本女性の悲劇ではなく「日本の悲劇」と副題にしているようなのだという。1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたオペラ「マダム・バラフライ(蝶々夫人)」が、大失敗だったものを書き直して大成功したというが、それは、プッチーニがロチの書いた『お菊さん』を読み、長すぎた第一幕の日本を後進国として扱った侮蔑部分を削除したからだろうという。
(画像2枚中の最初のもの:、蝶々夫人を演じる三浦環 。写真は』1930年代のものという。アサヒクロニクル「週刊20世紀」。このページ続のもの:映画「蝶々夫人」〔1955年〕のパンフレット。画像の女優は、蝶々夫人役の八千草薫 )
参考
蝶々夫人 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%B6%E3%80%85%E5%A4%AB%E4%BA%BA
三浦環 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%92%B0
エンリコ・カルーソー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%BC
ある晴れた日に 歌劇『蝶々夫人』(プッチーニ)
http://www.worldfolksong.com/songbook/opera/onefine.htm
蝶々夫人 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24317/
長崎歴史散歩⑤ピエール・ロチと長崎
http://www.geocities.jp/kohithugi/history-05.htm
asahi.com:蝶々さんとピンカートン - トラベル「愛の旅人」
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200711090290.html 
あっと九州
http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m199605
発祥の地コレクション/鎮西学院発祥の地
http://hamad.web.infoseek.co.jp/hass-col/school/TinzeiGakuin.htm
「舞踏会」論―「海軍将校」が「ロティ」でない理由―
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/nichibun/computer2005/index/butoukai_nao.htm
岡村喬生のオペラとちょっとした話・国際改訂版「マダマ バタフライ」顛末記
http://blog.livedoor.jp/opera_okamura/
歴史散歩/歌劇「蝶々婦人」のモデルは竹田の人
http://www.h3.dion.ne.jp/~n_taketa/18901fu.html
「舞踏会」芥川龍之介(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/28_15270.html
アンドレ・メサジェ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%B5%E3%82%B8%E3%82%A7
プッチーニ:蝶々夫人
http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/puccini_madama_butterfly.html
【第204号】 ピエール・ロチと長崎
http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol204.html
フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B
YAMAHA音楽ひめくり・日本人初の世界的ソプラノ、三浦環誕生(1884~1946)
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19990222
[PDF] 文学を通して垣間見る日本の近代化
http://kite.meikai.ac.jp/japanese/meikainihongo/8/yun.pdf



「西南戦争」始る

2008-02-15 | 歴史
1877(明治10)年の今日(2月15日)「西南戦争」始る。
西南戦争とは、1877(明治10)年に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして不平士族たちが、士族の復権を目指して起こした反乱であり、2月4日「佐賀の乱」起るでも書いた、明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のものとされてきた。
明治6年政変によって下野した西郷は1874(明治7)年、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設。目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率するためと、県内の若者を教育するためであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れてるという点から、外征を行うための強固な軍隊を創造することが目的であった。やがてこの私学校はその与党も含め、県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長し、薩摩はあたかも独立国の体をなしていった。そのことから、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解(曲解)も本格化してきた。そして、地租改正作業のためおもむいた大蔵省官吏が県境で追い返されるということが起った。西郷立つの風評が流れ、政府は、1877(明治10)年、1月大久保の腹心川路利良大警視は(警察の長官)は、鹿児島県出身の警察官20数名を、帰省と称して帰郷させ、それぞれ私学校の党の離間工作やスパイ活動に従事させたことが発覚した。これが、西郷派への挑発となった。西郷派は陸軍大将西郷隆盛・少将桐野利秋・同篠原国幹の連盟で、「政府に尋問の筋あり、率兵上京す」との通告を発した。1877(明治10)年 2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による1番~5番大隊の閲兵式が行われた。翌・2月15日の今日、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発した。これが西南戦争の始まりである。以後順次大隊が鹿児島を出発。17日には西郷も桐野とともに発し、熊本鎮台が置かれていた熊本城を包囲したのは2月21日であった。
これに対して、政府側は薩軍が熊本城下に着かないうち(2月19日)、つまり、薩軍が動き出してわずか4日目にすでに、鹿児島県逆徒征討の詔を出し、正式に薩軍への出兵を決定、薩軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。薩摩士族は士気盛んで、過半は徴兵からなる政府軍を目して「土百姓兵に何ができるか」と豪語・楽観していたが、ついに熊本城は陥落せず、兵力・弾薬に不足する薩軍は逐次後退し、9月西郷は鹿児島の城山での最後の戦いの中で切腹した。(戦争の詳細など、以下参考に記載の「西南戦争の部屋」など見られると良い。)
通説では、西南戦争は、それ以前の神風連の乱秋月の乱萩の乱などとひとまとめにして、保守反動の士族の最後の反乱と決め付けていたが、実態は、かなり異なるもので、薩軍に加担した勢力には、当時の右から左までさまざまな層の人々が含まれ、それぞれが西郷を押し立てることで自らの意を充足させようと望んでいたようだ。その中でも、例えば、宮崎八郎(以下参考ニ記載の「西南戦争における西郷隆盛と士族」参照)ら熊本共同隊は、ルソーの『民約論』を信奉する民主主義者であり、最後まで西郷と行を共にした益田宗太郎(以下参考の「中津藩」参照)ら中津隊も、「人民天賦の権利」の回復(以下参考に記載の「天賦人権説」参照)をスローガンに薩軍へ参加している(「河伯洞往来 著者: 玉井史太郎」の94P~95P参照)。
又、西郷を比類なき偉人とした勝海舟や自主独立の「文明の精神」の持ち主として尊敬した福沢諭吉も、初めこの戦乱が西郷の意思でないと知らずに薩軍の上京を強く期待していた。仮に薩軍が勝利したとしても、西郷の資質と従軍した人達の構成からみて、その後に、政府が宣伝したような西洋文明否定・士族特権回復などを政策としたとは到底考えられない。徳富蘇峰も西郷を「超進歩主義者」とみなし、「近世日本国民史」の中で、薩軍敗北の結果、人々は武力によらず言論によって、政治を動かす方向へ向かったとして、「西郷は一身を犠牲にして民権者流を多量に生産し、民権論の勃興に貢献する結果になった」(大意)と書いているという(週刊朝日百科「日本の歴史」)
「明治6年の政変」は長い間、「征韓論政変」とよばれ、征韓(韓国への武力行使)派の西郷と非征韓派の大久保利通との対立と見られていたがそれは、少し違っているようであり、西郷の主張ははひしひしと南下してくるロシア帝国の圧力に日韓が協力して対抗すべく朝鮮国との国交を正常化し友好関係を固めることにあった。これは、むしろ、征韓論とは正反対の立場であった。政変後、政府に残留した内務卿大久保利通らは有司専制体制強化に努め、他方、下野した板垣退助・江藤新平らは、「民選議員設立建白書」を発表し、自由民権運動を開始して、政府に対抗した。江藤はその直後に勃発した佐賀の乱に巻き込まれて刑死する悲運にあっていた。そのことは、前に2月4日「佐賀の乱」起るで書いた通りである。自由民権運動には士族反乱も交錯していた。鹿児島に引退していた西郷は朝野(朝廷と民間。政府と民間。官民)両派から超然とした立場を保持していたが、その一挙一動は全国から注目されていたのである。
西南戦争後の日本帝国が隆盛に向かったため、西郷らは、保守反動として片付けられ、彼等の敗北が近代国家成立に必要なことだったとされてきた(※以下参考に記載の「明治・その時代を考えてみよう」の■地租改正から西南戦争へ「「台湾の役」について」参照)。
しかし、もし、西郷軍が勝利して政権をとっていれば、少なくとも民衆不在の政治、官僚専制、そして、西郷が強く否定していた無制限な軍備拡張などといったことは無かったかも知れないとする説もある。西郷が、明治5年の段階で「民選議院設立建白」の口火をきったことなどを考えると、恐らく早い時点で明治憲法よりもはるかに民主的な憲法や民法ができ、第二次大戦なしに我々の父祖の代から民主的社会制度が出来ていたかもしれない。
福沢諭吉が西郷を悼(いた)んで書いた『丁丑(ていちゅう)公論』 において緒言において、政府が専制になるのは当然の事とし、これに「抵抗する精神」の重要性を説く。さらに、「今、西郷(さいごう)氏は政府に抗するに武力を用いたる者にて、余輩(よはい)の考(かんがえ)とは少しく趣を殊(こと)にするところあれども、結局その精神に至ては間然(かんぜん)すべきものなし」、つまり「西郷隆盛は武力で政府に抵抗した点で、私とは考えが異なるが、その抵抗の精神においては非難すべきものはない」と述べて、武力で政府に反抗した点は評価しないにしても、西郷隆盛の「抵抗の精神」を賞揚している。また、政府が西郷の官位を剥奪した途端、新聞が一斉に非難を始めたことに対して、「新聞記者は政府の飼犬に似たり」と述べて、新聞の論調が誹謗中傷の一色になったことと、それに迎合する世論に対して反論する。
そして、本文において、「そもそも西郷は生涯に政府の顛覆(てんぷく)を企(くわだ)てたること二度にして、初には成(な)りて後には敗(はい)したる者なり」、すなわち「西郷は生涯に政府の転覆を2度企てて、最初の明治維新は成功し、2度目の西南戦争では失敗した者である」として、西郷を明治維新の功労者であって忠臣として賞賛し、同時に西南戦争の首謀者であって逆賊として非難することは、ダブルスタンダード(公平でない考え方、不当な区別)であるとする。最期に、「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国法厳なりといえども、豈(あに)一人を容るるに余地なからんや」、すなわち「西郷は偉大な人物である。国の法がいかに激しいものであっても一人の人物を受け入れる余地はなかったのか」と述べて、西郷の人物を惜しみ、いつかこの人物を起用する時もあったはずであると結んでいる。
現代の日本のいい加減な政治に対して、何も西郷のように、命を懸けなくても良いが、政治生命をかけてでも対抗してくれる人は出てこないものだろうかね~。民主党もその党首も余りあてにならないが・・・。それに、マスコミ・・マスコミはなんだかんだといいながら、何時の時代も政府に尻尾を振るのは変らないようだね~。それに迎合する世論・・・。日本人と言うのは何時まで経っても、何も変らない民族ということか???
(西南戦争・鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年画。フリー百科事典Wikipediaより)
西南戦争-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/西南戦争
士族の反乱
http://www.geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/5070/kindai/seinansensou.html
Category:士族反乱-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%A3%AB%E6%97%8F%E5%8F%8D%E4%B9%B1
西南戦争の部屋
http://seinan1877.hp.infoseek.co.jp/
[PDF] 西南戦争における西郷隆盛と士族
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48351/1/68_1.pdf
中津藩
http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kakuhan-page1/105.htm
天賦人権説
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M239R100.HTM
河伯洞往来 著者: 玉井史太郎
http://books.google.com/books?id=C3fAKxiq-_wC&pg=PA95&lpg=PA95&dq=%22%E4%BA%BA%E6%B0%91+%E5%A4%A9%E8%B3%A6+%E3%81%AE+%E6%A8%A9%E5%88%A9%22&source=web&ots=WwgKucMdsn&sig=TSmDIssBujQgeEo8VvcgYwSKJ1A#PPA96,M1
近世日本国民史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%B8%96%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%8F%B2
明治・その時代を考えてみよう
http://homepage2.nifty.com/kumando/index.html#top
明治憲法実録
http://www.geocities.jp/somohompo/meiken/index.html
政変は誰のために
http://www.asahi-net.or.jp/~bh3h-smjy/rekisi/mei6.htm