今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

天地の日

2010-02-19 | 記念日
日本記念日協会の今日・2月19日の記念日に、「天地の日」があった。
記念日の由来をみると、「1473年のこの日に、ポーランドの天文学者で地動説を唱えたコペルニクスが誕生したことから、天文愛好家などが制定した日。」とあった。
ニコラウス・コペルニクスは、ポーランド生まれの天文学者であると同時に、教会では律修司祭(カノン)であり、知事、長官、法学者にして占星術師であり、医者でもあったという。
彼は、当時主流だった地球中心の宇宙観(天動説)に対して、近代的な、天文学の端諸となる地動説宇宙太陽を中心として回転しているとする説)を唱えた天文学者である。
コペルニクスは、幼くして両親を亡くしたことから、母方の叔父(律修司祭。カノン)に養育された。その叔父は、彼が司祭になることを望んでいたことから、ルネッサンス期のイタリアの諸大学に留学し、哲学・カノン・法律などを修める傍ら、ボローニャ大学で、天文学者ドメーニコ・マリーア・ノヴァーラに出会い、その弟子となったことから、古代ギリシアの天文学者アリスタルコスの唱えた太陽中心説に触発され、このモデルを用いた方が、クラウディオス・プトレマイオス (エジプトの天文学者・地理学者)。『アルマゲスト』で天動説を唱える)の天動説よりも実際の惑星の運動を良く説明出来ると考えた。
天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。ただし、コペルニクスもまたプトレマイオス以来の伝統に則って、惑星は完全な円軌道を描くものと考えていたので、その点については従来の天動説と同様であり単にプトレマイオスの天動説よりも周転円の数を減らしたに過ぎないものであったらしい。しかし、このことにより、実際には、惑星は楕円軌道を描いていることを、ヨハネス・ケプラーにより発見(「ケプラーの法則」)、更に、アイザック・ニュートン万有引力の法則の発見に繋がり、彼らによって、コペルニクスの計算の優れていることが証明された。
コペルニクスの主著『天体の回転について』は、アリストテレス以来の地球中心の宇宙観(以下参考の※:「旅研・世界歴史事典データベース[宇宙観]」参照)に対して、太陽中心の地動説を初めて主張したことから、世間からも教会からも烈しい攻撃を受け、出版は、1543年に死期を迎えるまで許されなかった(彼自身は完成した書物を見る事無く逝ったと言われている)そうだ。又、「科学の父」と呼ばれるガリレオ・ガリレイは科学の問題について教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することに寄与するが、それゆえに敵を増やし、異端審問で地動説を捨てることを宣誓させられ、軟禁状態での生活を送ることになるが、1616年、ガリレオに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスのこの『天体の回転について』もローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、聖書に反するとされたためであるが、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになったという経緯があるそうだ。この著書は、単に天文学の革命であるにとどまらず、中世的な世界観全体に対する革命の書であり,近代科学の出発点となったものと評価されている。
人類と宇宙のかかわりは、文化と歴史と同じだけ長い。これからも、人類が生き続ける限り、宇宙とのかかわりは、これまでよりも深く、決定的な役割を人類の未来に果たすことになるだろう。宇宙は、いわば、人間の精神活動の出発点であり、神話、宗教、芸術、科学などは、宇宙を温床として生まれてきたといえる。なかでも占星術をよそおって誕生したといえる天文学は、いつも未知のものに接する運命にあり、古くは、神、霊、神秘的なものと深く関わりながら育ってきた。
およそ、150億年前ビッグバンの大爆発で開闢(かいびゃく。天地のはじまり)した宇宙は、その爆発の勢いで現在も膨張を続けており、膨張する際に、物質が希薄になり冷えるに連れて、簡単な元素が生まれ、銀河系やが生まれ、星の内部では簡単な元素から複雑な元素が作られ、周りに放出された。それらの元素を材料に太陽や地球が形成され、そこで生命が誕生し、進化して人類に至った(ここ、又、以下参考の※:SDSS の膨張する宇宙参照)。
遥か昔に、の満ち欠け、天体の規則正しい運行に気づいた人々は、やがて、宇宙の舞台裏に、人間の意志や眺望が及ばない力・・・つまり、「」・・・の存在を信じるようになった。自分達の生活を支配する天体や自然物を、そのまま崇拝した原始的な宗教、天体などを擬人化(衛生参照)してそこに自分達の感情やふるまいを投入した神話などが、やがて、体系化し発展した。『旧約聖書』の創世記(前6世紀)では、宇宙は全知全能の唯一の神が創ったもので、神の意志と計画が組み込まれ、表現されているとされた。キリスト教のそんな宇宙観が、理性で宇宙を解釈しようというギリシャの哲学的宇宙観と結びついて、近代の宇宙論に発展してきた。
キリスト教のような超経験的で超現世的な信仰が、経験的な学術と融合して科学的な宇宙論となりえたのは、実は、コペルニクスもケプラーも、ニュートンも宇宙は神の手になるものであり、宇宙の探求はそのまま神の計画を探求することだと信じていたからであるといわれており(週間朝日百科「日本の歴史」132)、たとえば、ケプラーも、天文学者・数学者であると同時に占星術的な仕事に関わっており、神が創ったこの宇宙がどのように成り立っているかを突き止める中で、惑星の運動の法則である「ケプラーの法則」なども導きだされたといわれている。そのようなことから、ケプラー以前の天文学者たちは、必ずホロスコープ(占星術における各個人を占うための天体の配置図。 Yahoo!百科事典参照)が書けたという。しかし、文化が急速に進展したこの数百年の間に、天文学も飛躍的に進歩した。
月は地球を回っている1つの衛星で、結構大きいために地球の進化に大きく影響を及ぼしてきた。たとえば地球の自転軸が安定して、気候が安定したのも月のおかげだと言われている。そのような、月や惑星の運行を説明することからニュートンが万有引力の法則を見つけ、これに基づいて宇宙の現象を数理で説明できることが可能となり、太陽系の秩序を全宇宙に広げる事を可能にした。そして、今や、太陽系では地球だけが知的生物をもっつことが明らかになっているが、銀河系だけでも2千億個の星があり、別な太陽系には地球と同じ様な知的生物が存在している可能性はないわけではない。今人類は、宇宙開発の進歩により、地球以外での星への移住まで計画するほどになっている。映画の世界じゃないが、いずれ、ET(地球外生命)との遭遇・・・ということにも・・・。
(画像は、2003年における地球から見た火星の逆行現象。Wikipediaより)
旅研・世界歴史事典データベース[宇宙観]
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B331L100.HTM
※:SDSS
http://skyserver.sdss.org/edr/jp/
三菱電機サイエンスサイト DSPACE
http://www.mitsubishielectric.co.jp/dspace/moon/interview/1_b.html
世界を変えた書物「工学の曙文庫」所蔵110選 [天球の回転について ]
http://www.kanazawa-it.ac.jp/dawn/154301.html
秘密の小部屋『旧約聖書』の「創世記」を歴史書として読む 〔その 一〕
http://homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kakurega-9seishiyo-1.htm
ニコラウス・コペルニクス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9
天地創造 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E5%89%B5%E9%80%A0
アリスタルコスの地動説
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/alstalcos/alsutalkas.html
スローン・デジタル・スカイサーベイ(SDSS)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%82%A4
萌え解説本:星座やブラックホールを美少女に擬人化
http://mainichi.jp/enta/mantan/graph/book/20090602/
ET - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ET
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html

まんかい(万回)の日

2010-02-17 | 記念日
日本記念日協会で、今日・2月17日の記念日を見ると、「まんかい(万回)の日」と言うのがあった。
記念日の由来を見ると、“1993(平成5)年の今日、TBSラジオ「秋山ちえ子の談話室」が1万回目を迎えたことに由来する。放送開始は、1957(昭和32)年。折々の話題を35年以上も続け、満開の花のごとく人々に愛されていることの意味も記念日名にはある。現在も放送中。”・・・とあった。
日本の暮らしを女性の肉声で語り続けて半世紀以上。秋山ちえ子の声が戦後初めて電波に乗ったのは、終戦の日 から、3年ほどしか経過しておらず、日本は、まだGHQの占領下にあり、検閲が厳しかった1948(年昭和23)年、NHKラジオの「婦人の時間」であった。1950(昭和25)年からは、「私の見たこと、聞いたこと」を担当、全国を駆け巡るルポ(ルポルタージュ)を7年間、テレビでも活躍し、1961(昭和36)年には、「ゆく年くる年」の司会役も勤めた。
「秋山ちえ子の談話室」は、かって、TBSがKR(ラジオ東京)の名称だった時代に、1957(昭和32)年9月2日、週5回の「昼の話題」として放送を開始。1970年に『秋山ちえ子の談話室』(TBSラジオ月曜~金曜)に改称。1993(平成5)年2月17日に1万回を数えたというので、今日の記念日が設定されたわけであるが、その後も日々同一番組としての長寿記録を更新してきた。2002(平成14)年10月4日放送を終了・放送回数は実に計12,512回に及んだ。同一人物が同一番組を45年間にも渡って送り続けたのは世界的にも稀有な例である。2002(平成14)年に帯番組終了後も、週1回(日曜日)続編「秋山ちえ子の日曜談話室」として続いていたが、それも、2005(平成17)年10月2日をもって終了。57年間のラジオの仕事に区切りをつけた。こののラジオ番組の回想録「風の流れに添って(ラジオ生活57年)」が2005(平成17)年10月2日の放送最終日に講談社より出版されている(以下参考の※:asahi.com BOOK参照)。
戦後初期からの1975(昭和50)年の女性評論家個人の暮らしの視座から世界の動きを見極め、放送を通して耳から聴いて分る平易な言葉を通して、明快な事実とそこにこめられた人間の思いを語り伝えてきた。
1948(年昭和23)年に、NHKラジオのリポーターになり、女性放送ジャーナリストの草分けとして、国内外を駆け回り、外国では必ず公園や市場へ行き、片言の英語で家族連れに話しかけ、仲良くなったという。「それでわかったことは、国が違っても、普通の人々の暮らしは何も変わらないということ。ブツブツ文句を言いながら働いて、休日やお祭りにはうれしくなって楽しんで、それが終わればまた働いて……。戦争で死んでいくのは、そういう普通の人々」・・であることに気づき、戦争の悲惨さを伝えること。障害者など「取り残される人」がいない社会を目指すこと。この二つをライフワークと定め、地道な活動を続けてきた・・・のだ。・・・と彼女はいう(以下参考の※:YOMIURI ONLINE:「お 肉」 秋山ちえ子さん参照)。
秋山ちえ子の談話室では、普段テレビや新聞などの大メディアでは埋もれてしまいがちな疑問・怒り・話題を主婦、そして女性の視点で聴取者に送り続け、電波を用いたジャーナリズムを貫き通した。この番組での功績が認められ、1991年に菊池寛賞を受賞している。
彼女は、1970(昭和45)年よりから2002(平成14)年の32年に渡り、毎年終戦記念日の8月15日に、戦時下に餓死させられた『かわいそうなぞう』の話(土家由岐雄作ノンフィクション童話)を紹介・朗読し続けてきた。実話に基づくこの童話は、戦争の悲惨さと「二度と戦争をしてはいけない」というメッセージ、憲法九条の大切さを訴えている。
この『かわいそうなぞう』の話は、童話集の『愛の学校・二年生』(1951年東洋書館)に収録・発表された後、1970(昭和45)年8月、金の星社より「おはなしノンフィクション絵本」として出版されたものであるが。彼女により、広く紹介され、番組終了後は『大沢悠里のゆうゆうワイド』に移り放送されているという。この童話は世間に広く知らしめられたことになり、1998(平成10)年には100万部発行。2005(平成17)年までの発行部数は220万部を超えるという。又、アニメ化され、英訳化されたこの話は世界中の子供たちが戦争と平和を学ぶ手がかりともなった。
当時は、55年体制化でもあり、平和を語ることはイデオロギーで色分けされやすい時代であったが、彼女の語り口は誰をも納得させるものであった。そのような時代を含めて、彼女は、長期間にわたる息の長い仕事の中で、「継続は力なり」を実践している。
(画像は、1977年夏、この年の8月15日にも「かわいそうな象の話」を読んだ。TBSスタジオ「秋山ちえ子の談話室」スタジオでの秋山ちえ子。アサヒクロニクル「週間20世紀」女性の100年より)
参考:
※:YOMIURI ONLINE:「お 肉」 秋山ちえ子さん
http://www.yomiuri.co.jp/gourmet/food/shinagaki/20060206gr09.htm
※:asahi.com BOOK: 風の流れに添って―ラジオ生活五十七年 [著]秋山ちえ子
http://book.asahi.com/review/TKY200511290264.html
継続は力なり
http://homepage2.nifty.com/keizoku_ha_chikara/index.htm
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
秋山ちえ子の談話室 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E3%81%A1%E3%81%88%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%AB%87%E8%A9%B1%E5%AE%A4
ルポルタージュ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5
国際女性デー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E3%83%87%E3%83%BC
万 - ウィクショナリー日本語版
http://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%87

幸せを売る男

2010-02-15 | ひとりごと
皆さん、昨日のバレンタインは素敵な贈り物を貰いましたか。
私の年になると、ネットのお友達からはいろいろと贈り物をいただいたが、家人からはもうくれないよ。もう・・いいでしょ・・て感じ・・(^0^)
らららららら・・・ららららららん♪
冒頭の画像は、私の貯金箱のコレクションより、「幸せを売る男」。
昔、喫茶店のテーブルの片隅にこんな貯金箱を置いてあったのを覚えています。
貯金箱の中にお金を入れるとオルゴールの曲で幸せを運んでくれます。
すべての人に幸せを!
以下で私の大好きな歌手だった越路吹雪の「幸せを売る男」を聞ける。
YouTube-越路吹雪「幸せを売る男」
http://www.youtube.com/watch?v=97Vrxu4zU9s

小説家・山本周五郎 (『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』) の忌日

2010-02-14 | 人物
今日・2月14日は小説家・山本周五郎 (『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』) の1967(昭和42)年の忌日である。
山本周五郎(本名:清水三十六(さとむ)は、1903(明治36)年6月22日山梨県北都留郡初狩村(現・山梨県大月市初狩町下初狩)にて、馬喰(Yahoo!百科事典参照)や繭の仲買をしていた父清水逸太郎、母とくの長男として誕生したが、4歳のとき、初狩村が明治40年の大水害で壊滅的被害を受け、一家で東京の北豊島郡王子町に住むことになるが、1910(明治44)年には、現横浜市西区久保町へと転居し、1916(大正5)年、横浜市立尋常西前小学校を卒業し、東京木挽町(現銀座)にあった質店の山本周五郎商店(きねや質店)に徒弟として住み込み、洒落斎(しゃらくさい)を雅号としていた店主・山本周五郎から深い影響を受けたようだ。三十六(周五郎)は小学校4年生の頃受持ちの先生から「君は小説家になれ」と言われ、小説家を志望するようになったようで、通学を希望していたが、家の事情が許さなかったようだ。店主は以後、三十六が文壇に自立するまで、物心両面にわたってよき庇護者であったという。しかし、彼が20歳のとき、関東大震災 (1923年=大正12年9月1日発生)によって山本周五郎商店も被災し解散となり、その後、三十六は、友人を頼りに神戸の須磨で約5ヶ月ほど生活していたらしい。1924(大正13)年 1月中旬、神戸より帰京。翌年春頃、帝国興信所(現:帝国データバンク)文書部に入社し、1926(大正15)年4月、23歳のときに『須磨寺附近』が「文藝春秋」に掲載され、これが文壇出世作となる。この時より、三十六(以下三十六を周五郎という)は、恩人の山本周五郎をペンネームとするようになったする説があるようだが、このペンネームは以前にも使用していた形跡があり定かではないという。
題材となった須磨寺は神戸市須磨区にある真言宗須磨寺派大本山であり、山号は上野山(じょうやさん)。宗教法人としての公称は福祥寺である。886(仁和2)年に光孝天皇勅願寺として聞鏡上人が創建したとされる。源平合戦ゆかりの寺として知られ、一の谷の合戦で源氏方の熊谷次郎直実に討たれた平敦盛の首塚や、源義経が腰掛けたとされる「義経腰掛松」があり、敦盛愛用の「青葉の笛」など多数の寺宝を有する古刹である。この寺の境内には多くの句碑や歌碑があるが、仁王門前の放生池に架かる太鼓橋“龍華橋”を渡った左手に山本周五郎『須磨寺附近』の碑(冒頭の画像参照)がある。この石碑の表面には、『須磨寺附近』の冒頭部分が刻まれている。
「須磨は秋であった。…ここが須磨寺だと康子は云った。池の水には白鳥が群れを作って遊んでいた。雨がその上に静かに濺(そそ)いでいた。池を廻って、高い石段を登ると寺があった。…『あなた、生きている目的が分りますか』『目的ですか』『生活の目的でなく、生きている目的よ』」
上記碑の若干の補足をすると、高い石段を登ると寺があった。…の次には「舞台の背景」のように意図を持って配置したような濃密な風景描写がある。
「そこには、義経や敦盛の名の見える高札が立ててあった。それは何処へ行っても必ず在る、松だの小沼だのに対する伝説が書かれているのだ。・・中間略・・・寺の前から裏山へかけて、八十八ヶ所の地蔵堂が造られてある、二人はその方向へ進んだ、が最早夕闇が拡がり出して、木樹の蔭には物寂しい影が動き始めた。」・・・・・。そして、康子が傘を広げようとしながら清三の顔を見て言ったのだ。・・・『あなた、生きている目的が分りますか』・・・と、また、『生活の目的でなく、生きている目的よ』・・・と。
こう念を押された主人公の清三とは、周五郎自身のことであり、周五郎(山本周五郎の本名“清水三十六”からとったものだといわれている)にとって、康子が清三に問いかけたこの言葉こそが、彼が生涯を文学に賭けた命題であった。関東大震災の後、横浜の小学校時代の旧友4人のうちの1人である桃井達雄の長姉、じゅんの嫁ぎ先木村家(神戸市須磨区離宮前町。Google地図⇒ここ)に下宿し、観光ガイド誌「夜の神戸」に勤務していた(その発行会社は神戸市栄町通にあったらしいといわれている)一時があった。この木村じゅん宅寄宿時の体験を元に書かれたものが『須磨寺附近』であるが、この木村じゅん(山本周五郎より9歳年長らしい)が作中の青木康子のモデルになっているという。「康子」のモデルとなった木村じゅんは彼にとって終生心の壁画から剥落することのない、あこがれの女人像であったらしい。一般に“神戸もの”といわれる作品には、当作品の他『陽気な客』(1949年)『豹』(1933年)の三篇に登場する女性はすべて彼女がイメージされているようだ(詳しくは、以下参考の※:「花を巡る文学散歩(神戸市HP)」又、※:「『須磨寺附近』山本周五郎-花四季彩」参照)。
須磨寺にある周五郎の『須磨寺附近』の碑の裏面には、彼が世の中の人へ残した遺書と思われる真筆(脇にある解説板にそう説明が記されている)を写したものが刻まれている。
「貧困と病気と絶望に沈んでゐる人たちのために幸ひと安息の恵まれるように」
周五郎は、日本の女性のあり方を描くと同時に日本の家、主婦の姿を大衆的な視点から掘り起こした連作『日本婦道記』(ここ参照)が、1943(昭和18)年第17回直木賞に、江戸時代に仙台藩で起こったお家騒動「伊達騒動」に新しい解釈を加えて描いた『樅ノ木は残った』が、1959(昭和34)年に毎日出版文化賞に推薦されるも受賞を辞退。「沖の百万坪」と書いた千葉県の浦安の漁場は埋立てにより沖へ沖へと遠ざかっていった。著者の体験をモチーフにして、ノン・フィクションに見せかけた精妙なフィクションであり、周五郎風理想郷を、浦安を借りて表現したとものだと云われる『青べか物語』(以下参考の※:「青べか物語」や※:「「青べか物語」と吉野屋|浦安の釣り船「船宿 吉野屋」」など参照)も、1961(昭和36)年、文藝春秋読者賞に推薦されるが、これも受賞を辞退するなど、生前「賞」とつくものはすべて受賞を辞退し、孤高の作家と言われた。文学碑の建立も「石工を連れて行ってぶち壊す」とその一切を拒否したといい、今日全国にある周五郎の文学碑はすべて没後に建立されたものだそうで、当然、この須磨寺にある碑もそうである(1983年建立。1984年4月除幕式)。
「私は、自分が見たもの、現実に感じることの出来るもの以外は(殆ど)書かないし、英雄、豪傑、権力者の類いには、まったく関心がない。人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足やよろこびのなかに、より強く私はかんじることができる。『古風』であるかどうかは知らないが、ここには読者の身近にすぐみいだせる人たちの、生きる苦しみや悲しみや、そうして、ささやかではあるが、深いよろこびがさぐりだされている筈である」と周五郎は書いているそうで(アサヒクロニクル「週間20世紀)、山本周五郎の作品には英雄や豪傑は登場しない。寛文事件(伊達騒動)を扱ったもので、代表作の1つでもある樅の木は残った』では、極悪人として描かれることの多い原田甲斐も、そのようなヒロイックな存在ではなく、人間としての苦しみや悩みをもち、社会的な枠の中にあって、それに抗しながらギリギリの生き方を貫いた人物、悪名を負って藩を救った人物として描かれている。彼が描く人物は、岡場所に春をひさぐ(売る)女性や社会の下積みになってその日その日を生きる人々、封建社会の枠組みの中で人間でありたいと願う下級武士などであり、いずれの作品にも共通して見られる1つの特徴がある。それは、政治の中核にいる権力者ではなく、権力者によって収奪され、あえいでいる人々の姿を描いていることだ。『日本婦道記』でも、日常的なものから出発し、生きることの尊さ、きびしさに光をあて、夫の目にふれないところで払われる妻の努力に視点をあてている。しかし、ある時点から、一握りの幸せさえ奪おうとする「政治」へのメカニズムにもメスを入れるようになった。権力を濫用したとして悪名高い老中筆頭・田沼意次を、実は幕府の財政再建に尽くしたという視点から描いた『栄花物語』、反骨の医師、「赤ひげ」こと新出去定を主人公にした『赤ひげ診療譚 』などがある。山本周五郎が50才を過ぎて書かれたという、長編3部作(『樅の木は残った』『虚空遍歴』『ながい坂』)の最後の作品『ながい坂』(ここ参照)もお家騒動の渦中にあって人間の生き方に取り組む三浦主水正を描いている。良いも悪いも、善も悪も、幸運・不運も現実にあるものとしてとらえた彼の作品は、面白いだけでなく、読んだものを泣かせる作品が多い。
世界的に名の知られた日本を代表する映画監督・黒澤明は、周五郎の作品の愛読者であったそうで、『日日平安』、『赤ひげ診療譚』、『季節のない街』、『雨あがる』の4作品が映画化された。
1962年公開の黒澤明監督の時代劇映画「椿三十郎」は、元々、かつて黒澤組のチーフ助監督であった堀川弘通の監督作品として黒澤が執筆した、『日日平安』の脚本をベースにしたものだったそうだ。この『日日平安』は周五郎の原作に比較的忠実に、気弱で腕もない主人公による殺陣のない時代劇としてシナリオ化されたが、制作会社である東宝側が難色を示したため、この企画は実現ししなかった。その後、1961年4月公開『用心棒』の興行的成功から、東宝側から「『用心棒』の続編製作を」との依頼をされた黒澤が、陽の目を見ずに眠っていた『日日平安』のシナリオを大幅に改変し、主役を腕の立つ三十郎に置き換えて『椿三十郎』としてシナリオ化したものだそうだ。黒澤は『日日平安』の主役にはフランキー堺小林桂樹を想定していたようである。「椿三十郎」で小林が演じた侍の人物像には「日日平安」の主人公のイメージが残っているという。1965年公開の黒澤監督映画「赤ひげ」は、『赤ひげ診療譚』を元に、2年の歳月をかけて映画化した黒澤ヒューマニズム映画の頂点ともいえる名作である。赤ひげをを演じる三船敏郎 を主演にすえているが、実質的な主人公は加山雄三演じる保本登であった。
『季節のない街』(ここ参照)を原作にしたものが、1970年公開、「どですかでん」であるが、この映画では、それまでの三船敏郎とのコンビによる重厚な作品路線から一転、頭師佳孝を主役に抜擢しての貧しくも精一杯生きている小市民の日常を明るいタッチで描いた作品と言われるが、黒澤映画は殆ど見ている私もこの映画は見ていない。映画の興行成績は悪く、この映画のために、以降、黒澤は「デルス・ウザーラ」(ソ連・日本の合作映画)を挟んで10年間にわたって日本映画界の中心から遠ざかることになった。又、2000年公開の「雨あがる」(監督:小泉堯史)は、周五郎の同名の短編を元に、黒澤が、脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入り1998(平成10)年9月6日脳卒中により死去。映画は黒澤監督の事故によってラストシーンのみを残して未完となっていたが、黒澤組スタッフとゆかりのものたちで編成された「雨あがる」製作委員会(制作プロジェクト)と、脚本執筆中も助手として起居を共にしていた助監督の小泉堯史が監督のノートをもとに制作プロジェクトと相談しつつ完成させたもの。主役の三沢伊兵衛役を、寺尾聰 が演じ、強い剣豪でありながら仕官のできない心根の優しい浪人を好演した。映画は、第24回日本アカデミー賞などを受賞している。しかし、黒澤の『どですかでん』以後の娯楽性よりも芸術性を重視した作品に対しての作品については評価は分かれ、否定的な見解も出されている。
周五郎は、権力や馴れ合いやヤクザ者が大嫌いで、貧しく、また弱い立場にある人、苦しむ人、それでも健気に困難に立ち向かっていく人たちを愛した。読者から認められればそれでよしということで、直木賞をはじめ賞の類はいっさい辞退しているが、映画では、やはり、娯楽性がないと興行的には大変だ。娯楽性よりも芸術性を重視したものは、小説を読む方が良いだろうね~。娯楽時代劇映画が好きな私などには、周五郎作品を基に作られた映画では、「青葉城の鬼」(1962年、監督:三隅研次 。『樅の木は残った』原案。主演:長谷川一夫)、「五辧の椿」(1964年、監督:野村芳太郎。同名小説が原案。主演:岩下志麻)、「斬る」(1968年、監督:岡本喜八。『砦山の十七日』が原案、主演:仲代達矢、高橋悦史ら) 「どら平太」(2000年、監督:市川崑. 『町奉行日記』が原案。主演:役所広司)それに、「冷飯とおさんとちゃん」(1965年、監督:田坂具隆。 『ひやめし物語』、『おさん』、『ちゃん』が原作。主演:中村錦之助 )などが面白かったな~。
周五郎の死後、功績をたたえて、山本周五郎賞がつくられた。
山本周五郎の映画のことなら、※:「山本周五郎 - goo 映画」を、作品のことなら以下参考の※:「山本周五郎作品館」で映画と原作の関係など参照されると良い。
(画像は、須磨寺の山本周五郎の文学碑 )
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小説家・山本周五郎(『樅の木は残った』『赤ひげ診療譚』) の忌日:参考

2010-02-14 | 人物
参考:
※:花を巡る文学散歩(神戸市HP)
http://www.city.kobe.lg.jp/life/town/flower/around/bungakusanpo.html
※:『須磨寺附近』山本周五郎-花四季彩
http://www.eonet.ne.jp/~hanashikisai/bunngaku2.html
※:青べか物語
http://www005.upp.so-net.ne.jp/shigas/HOMPG646.HTM
※:「青べか物語」と吉野屋|浦安の釣り船「船宿 吉野屋」
http://www.funayado-yoshinoya.com/yoshinoya9.html
山本周五郎作品館
http://homepage3.nifty.com/yamashu-kan/
※:山本周五郎 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/100127/
兵庫文学館/兵庫県ゆかりの作家・山本 周五郎
http://www.bungaku.pref.hyogo.jp/cgi-bin/jousetsu/sakka.cgi?id=181
山本周五郎の名言・格言/世界の名言・癒しの言葉・ジョーク
http://becom-net.com/wise/yamamotosyuugorou.shtml
須磨寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%AF%BA
須磨区観光協会
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/
bostalgia神戸うた(歌・唄・詩)「神戸の歌」No4須磨・須磨寺 
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/yousan/song%20of%20kobe.htm