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詩歌の森へ (16) 中原中也・憔悴

2018-10-05 11:51:22 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (16) 中原中也・憔悴

2018.10.5


 

   憔悴

 

    Pour tout homme, il vient une époque
    où l'homme languit. ──Proverbe.
    Il faut d'abord avoir soif……
         ──Cathrine de Médicis.

 

私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きれば愁〈うれ〉はしい 平常〈いつも〉のおもひ
私は、悪い意志をもつてゆめみた……
(私は其処〈そこ〉に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶はなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面を、にらめながらに過ぎてゆく


昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる

昔私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない


それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ

ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ

真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ

あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!

 

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ

山蔭の清水のやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐれば愉しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……


さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂〈わら〉はれないですむだらうか、とかと

要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤〈もつと〉もと感じ
一生懸命郷に従つてもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに

さうしてこの怠惰の窗〈まど〉の中から
扇のかたちに食指をひろげ

青空を喫〈す〉ふ 閑〈ひま〉を嚥〈の〉む
蛙さながら水に泛〈うか〉んで

夜よるは夜よるとて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。


しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。

そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑〈をくづ〉が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞えてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、

あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭〈の〉がれるすべがない!


 

 中也の詩には、こういう長いものが結構あって、それがまた魅力的だ。

 冒頭のエピグラム(だっけ?)はフランス語で、最初の二行がことわざで、「誰でも疲れるときがくる」という意味らしい。次の一行は、カトリーヌ・ド・メディシスが語った言葉で、「まず喉の渇きを……」ということらしいが、ネット情報なので、確かなことは分からない。

 別にこういうのはなくてもいいように思うのだが、あると、かっこいい。中也はランボーの詩を訳しているくらいだから、こういうのは得意だったのだろう。ぼくも、昔、詩を書いていたころ、こういうことしてみたかったけど、結局ダメだった。

 「昔私は思つてゐたものだつた/恋愛詩なぞ愚劣なものだと けれどもいまでは恋愛を/」ゆめみるほかに能がない」とか、「あゝ それにしてもそれにしても/ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!」なんて、詩の表現というよりも、中也の肉声を聴く思いがする。

 こうした自嘲的な表現は、人によっては、何を甘ったれたこと言ってやがるだ、という反発を生むだろう。もっと、前向きに生きていかなきゃダメじゃないかと腹立たしく思う人もいるだろう。

 でも、エピグラムにあるように「誰でも疲れるときがくる」(ほんとにこの訳でいいのか?」)ことも確かだ。疲れはて、焦り、絶望し、もう何にも信じられない、何にもしたくないって思うことは、誰にだってある。そういうときに、「夜よるは夜よるとて星をみる/あゝ 空の奥、空の奥。」とか、「あゝ 空の歌、海の歌」とかいう詩句がふっと心に浮かんだら、ちょっと気分が軽くなるのではなかろうか。

 詩にはそういう「効用」もある。

 「だった」とか、「…せぬ」とかいった、いわゆる「常体」を使ってきたところへ、最後の連になって、「懐疑の小屑が一杯です。」「生き生きしもするのですが」「おもふのですが」という「敬体」表現が出て来る。そこに肉声が感じられるわけだが、こうした方法は、たぶん、宮沢賢治からの影響だろう。中也はまだ無名の(というか死ぬまで無名に等しかった)賢治の詩を愛読していたことはよく知られている。(この方法は、朔太郎もよく使っている。)

 それはそれとして、最後の3行のなんという素晴らしさ。


あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭〈の〉がれるすべがない!


「ぼくは美の核心をしっている」なんて!

 「美の核心」は、「知って」いても、言葉にはならないだろう。「知った」と思った瞬間に、手のひらからこぼれ落ちていってしまう。そんな瞬間が、ぼくらにはなんども、なんども、ある。

 「美」は、「きれい」ということではまったくない。そんなこととはまるで関係がない。「美」は、生命そのものの輝きであり、生きる意味そのものだ。「美の核心」を「知った」まではいかなくても、「触れた」と感じたとき、ぼくらは、生きていることの意味と喜びを知るのだ。

 中也の人生は、みじめなものだったと思われている。親友の小林秀雄に恋人を奪われ、その小林は、中也が死んだとき、「中也はドブネズミのように死んだ」と書いた。たとえ親愛の情をこめたにせよ、かつての親友にかける言葉ではない。

 けれども、中也の人生が「みじめ」だったかどうかなど、他人には所詮分からないことだ。彼は懸命に生き、そして「美の核心」を知りながら、嘆きのうちに死んでいった。そして、多くの愛すべき詩を残した。どこが「みじめ」だろうか。

 こうした中也の長い詩を、教師になって二年目に扱ったことがある。その授業のことは今でも忘れられない。授業に関するエッセイを依頼されたとき、『詩の授業』と題して、こんな文章を書いたことがある。興味があるかたは、どうぞお読みください。


高校生と近代詩高校通信・東書・国語・262号 (1986.5.1発行)


 

 

 


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詩歌の森へ (15) 中原中也・頑是ない歌

2018-10-04 20:09:44 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (15) 中原中也・頑是ない歌

2018.10.4


 

  頑是ない歌


思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ

雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しようぜん)として身をすくめ
月はその時空にゐた

それから何年経つたことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜よるの
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我(が)ン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ

考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

考へてみれば簡単だ
畢竟(ひつきやう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ

 

     『在りし日の歌』所収



 中原中也の詩は、突然、こころの表面に浮かんできて、気がつくと口ずさんでいる。そして、なんども口ずさむことになる。

 『サーカス』の「ゆや〜ん、ゆよ〜ん」とか、『春の日の夕暮れ』の「トタンがセンベイ食べて」とか、なんの脈絡もなく浮かんでくる。
そういうなかでも、やっぱりこの詩の中の「思へば遠く来たもんだ」がいちばん多い。

 さっきも、ポストに行ったかえり、夜空を見上げたら、ふとこの句が浮かんだ。「今では女房子供持ち/思へば遠く来たもんだ/此の先まだまだ何時までか/生きてゆくのであらうけど」とまでは覚えてないが、うろ覚えで口をつく。

 「思えば遠くへ来たもんだ」というフレーズは、「遠くへ」だけが違うけど、武田鉄矢の歌のほうを思い出す人のほうが多いだろう。まあ、この詩は元歌といっていい。

 中也の詩というのは、どこか俗謡っぽくて泥くさいものがけっこう多い。立原道造と比較すると、その差は歴然で、立原のはどこまで行っても、お坊ちゃんの域をでない。どこまで行っても上品さを崩さない。いつもアイロンかけた白いシャツを着ているようなイメージだ。

 中也は、ぜんぜん違う。ボロボロの服を着て、泥まみれになって生きている。そういう点では、岩野泡鳴にも一脈通じるところがありそうだ。

 ちょっと冗長で、だれたところもあるけれど、それがまた「酔っ払い感」を醸し出していていい。とくに、「さりとて生きてゆく限り/結局我がン張る僕の性質(さが)/と思へばなんだか我ながら/いたはしいよなものですよ」というあたり。神童と言われた中也のなんとも言いようのない挫折感と自己憐憫。中也の面目躍如だ。

 ぼくは、中也と比べようもない凡人にすぎないけれど、中高時代に徹底的に「頑張る」ことを叩き込まれたので、こうして70歳になんなんとしている現在においても、「結局我(が)ン張る僕の性質(さが)」に共感を禁じ得ない。そういうところが、われながら、「いたわしい」。(笑)





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詩歌の森へ (14) 三好達治・雪

2018-08-28 12:04:52 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (14) 三好達治・雪

2018.8.28


 

   雪

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。

        

            三好達治

 

 三好達治の『測量船』という詩集は、高校時代から大好きだった。ぼくみたいな、もともと理系志望の人間にとっては、国語の授業だけが、ただ一つの文学への入口だったわけで、理系(生物系)進学を諦めた後、途方にくれたぼくを文学部へと誘ってくれた国語の先生たち(「お前、文学部へ行け!」と言ったというのではなくて、授業を通して文学へと導いてくださったという意味で)には、ほんとうに感謝している。もちろん、文学に目覚めかけたぼくの前には、根っからの文学好きの友人がたくさんいて、ぼくは、彼らを文字通り目標にしてぼくなりにケナゲに頑張ったものだ。

 「頑張る」というのもなんか変だけど、こんな本を読んだよ、とだけ言うにも、彼らを前にしては、非常に勇気が必要だった。いつでも、けなされるんじゃないか、バカにされるんじゃないかという不安なしに、彼らと文学の、あるいは映画の話を出来たためしがなかった。そして、実は、それは今もまったく同じなのであって、ぼくは、何についても、「自信をもって」モノを言えたためしがない。

 なんだ、自信たっぷりに書いているエッセイだってあるじゃないかと言う人もいるかもしれないけど、それはあくまで「演技」である。いつも語尾が「ではないかと思う。」「ではないだろうか。」「そうではないとはいいきれない。」などといった自信なさげな、後で言い訳できそうな、そんな言い方ばかりのエッセイなんて、役人の答弁みたいでイライラするではないか。といいつつ、そんな自信なさげな、逃げ道ばっかり用意している言い方をけっこうしているのが実態なのだが、それでも、時には、「である。」「なのである。」などとキッパリ断定してみることもあるのだ。

 そう「キッパリ断定」したからといって、そのことをぼくが信じて疑わないというわけではない。いちおうそう断定してみることで、自分の意見もはっきりと見えてきて、もし、後で読むようなことがあれば、その時、その断定が間違いだったら、間違いだと、はっきり分かるという寸法だ。

 現役のころに、小論文の指導をしたことがあるが、そのときも、どっちみち君たちの知識や経験では、何一つ断定できはしないんだ。だけど、今、そう思うなら、思い切って断定してみようよ。そうしなきゃ、いつまでたっても意見なんて書けないよ、みたいなことを言ったような気がする。(こういう「気がする」は、記憶に自信がないからで、断定をさけているわけではありません。)

 前置きが長くなったが、この三好達治の詩である。かつてはこの詩がよく中学校あたりの教科書によく載っていたわけだが、これを授業で扱おうとすると、大変なのだ。

 大分前に書いたぼくのエッセイだが、ここに引用してみたい。題は「眠らせたのは誰か」。書いたのは2002年6月。


 国語の教師になって三十年近くになるが、「国語教育」の専門書というものは、どうも恐ろしくてあまり覗いたことがない。ところが先日、国語科の研究室に、ある国語教育学者らしい人の著作集がドサッと置かれていた。若い教師が興味を持って注文したらしい。せっかくなので、何冊かを手にとってページを繰ってみた。
 「○○論文の誤りは、○○なところにある。」「○○氏は引用もせずに私の論文を批判しているがけしからん。」などといった穏やかでない言葉が、チカチカと目に入ってくる。やっぱりこわそうなトコロである。国語の授業の方法論や、教材の是非などをめぐって口角泡をとばすような激論が「国語教育界」では日々闘わされているのだろう。
 中には目を疑うような議論もある。
 目次に「眠らせたのはだれか。」というヤクザ映画みたいなタイトル。何ごとかと思えば、三好達治の有名な『雪』という題の詩についての論争である。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。

 たった二行のこの詩は、中学校の教科書などによくとられてきたので、どこかで誰もが読んでいるのではないかと思う。静かに雪が降り積もる中、スヤスヤと眠る子どもの姿が印象的な詩で、谷内六郎の絵のような趣がある。そんな静けさとか、子どものあどけなさが感じ取れればいい詩なのだが、これを教室で扱うと、大混乱。
 それは教師の「誰が太郎や次郎を眠らせたのでしょう?」という心ない質問から始まる。しなくてもいい質問である。やれ雪だ、母親だ、いや父親だ、違う、作者だと、収拾がつかないことになる。収拾をつけようとすると、一編の論文ができるというわけである。
 驚くべきことに、この本で初めて知ったのだが、教室では「眠らせたのは母親である。」と教える先生が多いというのだ。そばにいた若い国語教師も、そう言えば昔そんなふうに習った記憶があるという。
 冗談じゃない、雪に決まってるじゃないかとぼくは思うのだが、中には文法的にこの詩を解析して、主語は母親以外に考えられないと結論づける学者もいるらしい。しかし谷内六郎なら、その絵の中にわざわざ母親の姿を描くだろうか。そんな野暮なことはしないよ、と彼はいうだろう。どうしても母親のイメージが必要なら、母親の形をした小さい雪をたくさん描くだろうなと、彼は言うだろう。
 詩の授業はむずかしい。せめて生徒の詩の心を眠らせないようにしたいものだ。



 これを書いてから既に16年経っていて、国語教育もずいぶんと変化した。最近では、テーマを決めて話し合うというような、いわゆるアクティブラーニングが盛んだから、さしずめこの詩などは、討論の材料にはもってこいなのかもしれない。

 「誰が太郎と次郎を眠らせたのか?」どころではない、「太郎と次郎は兄弟なのか?」「兄弟だとして、何歳ぐらい違うのか?」「なぜ『太郎の屋根』『次郎の屋根』というように区別するのか。」「『太郎の家の屋根』とどうして言わないのか?」「区別している以上、二人は隣同士の子どもなのではないか。」「それならどうして太郎と次郎というような名前なのか。」などと、きりもなく討論の材料は出て来る。

 実際には、こんなテーマで討論やらディベートなんかをするわけはないが、少なくとも、16年以上前に、「誰が太郎や次郎を眠らせたのでしょう?」という教師が問いかける現場というのはあって、そこで恐ろしいことだが、なんらかの「結論」が出たらしいのである。

 その結論の一つが「眠らせたのは母親である」というヤツだ。

 解釈に「正解」はないが、それにしても「眠らせたのは母親である」というのは、16年経った今でも、間違いだと確信している。

 文法的にどうこういうまえに、どうして子どもを寝かしつけるのが「母親」なのか、という問題もある。父親かもしれないじゃないか。両親がのっぴきならない用事で海外に出かけたためにその子どもを預かった叔父夫婦かもしれないじゃないか、なんて言い出したらきりがない。

 つまり、「誰が眠らせたのか」という問いそのものが間違いなのだ。

 詩は「理由を問う」ものではない。あくまで味わうものだ。秋の虫が鳴いているのを聞いて、「あの虫はなぜ鳴いているのか?」と問うのは、科学の問題で、そう問うことで、すでに「詩」から離れている。(もちろん、その科学の答えから、「詩」が生まれるということもありうるけれど。)この詩を「味わう」ということは、この詩が描いている情景、それも視覚だけでなく、あたりの「静けさ」といった聴覚から、野外の「寒さ」といった触覚までを含めての「情景」の「中」に「わが身」を置いてみる、ということだ。そこで何を感じるかは、それぞれの自由である。「なぜ?」を封じて、この詩の中で「生きる」こと。それ以外に、詩を味わう手立てはないのだ。と断定しておく。

 

 

 

 

 

 


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詩歌の森へ (13) 高浜虚子・遠山に日の当りたる枯野かな

2018-08-24 10:57:43 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (13) 高浜虚子・遠山に日の当りたる枯野かな

2018.8.24


 

遠山に日の当りたる枯野かな

   高浜虚子

 

 
 前回、こがね虫の句についての、村松友治先生の解釈にいちゃもんをつけたけれど、村松先生とは面識がなかったものの、その本の編者の尾形仂先生とは、大学時代にちょっとだけ面識があった。

 当時尾形先生は、東京教育大の教授だったが、紛争で荒れる大学時代に、運良くその講義を聴くことができたのだ。講義は、鷗外の歴史小説がテーマで、内容はよく覚えていないが、濃い眉毛の美男だなあとそんなことばかりに感心していたことはよく覚えている。

 思えばあの頃は、教育大にはそうそうたる国語学者、国文学者がそろっていた。尾形仂、小西甚一、峯村文人、鈴木一雄、中田祝男、馬淵和男、そして分銅淳作。このどの先生の講義も、出たことは出たのだが、なにしろ一年半にもわたって大学がロックアウトしていたので、じっくりと講義に連なったり、ゆっくりお話しを伺うというような機会は、鈴木先生をのぞいてはなかったのだ。

 肝心の卒業論文の指導教官だった分銅先生とも、結局、30分ぐらいしか直接お話しをすることもなく、卒論を書き終わっても、その批評すら伺うことはなかった。

 なんてことを書き連ねていくと、涙がにじんできそうなくらい、無念の思いに沈みかかる。誰を恨むわけでもないし、結局は自分が選んだ道だから、これはこれでよかったのだと思っているが、それにしても、もうちょっとマジメに学問に取り組めばよかったという後悔がいつまでたっても残っているのだ。

 紛争の嵐の中で、学生運動にはどうしてもなじめなかったのに、変に生意気な意識だけは根付いてしまって、国文学のような学問が、重箱の隅をつつくようなくだらない学問に思えてならなくなってしまい、それよりは、高校の教壇で生きた生徒とぶつかり合うのが、オレの道だと思い込んで、学問を捨てた。

 教師をしながら、コツコツと学問的な研究をつづける人も多かったが、ぼくは、それもしなかった。一度捨てた学問に未練たらたらというのが嫌だったのかもしれない。それでいて、教師の仕事にも、いつまでたっても馴染めないままに、ダラダラと42年も続けたその挙げ句、退職して暇になって初めて、「重箱の隅をつつくような」学問に、大きな魅力を感じているのだから、まったくぼくの人生、わけがわからない。

 そんなわけで、前回は、村松先生の解釈に、「重箱の隅をつつくような」いちゃもんをつけてみたのだが、それもちっとも「学問的」ではなく、素人の「感想」でしかないことはもちろんだ。といって、反省しきりというわけでもなく、やっぱり「こがね虫が自分でどこかへ突き当たって落ちた。」という表現は「変」だなあという感想に変わりはない。偉い学者でも、変なことを言わないとは限らないし、本格的な論文じゃない場合、手を抜くというわけではなくとも、急いで書いたために意を尽くさないということもおおいにあるわけだ。学者もひとりの人間である。完全を望んではいけない。

 で、今回の、虚子の代表作のことになるが、もう一度村松先生の説明を引いておきたい。


《鑑賞》この句を、今は辛くとも行く手に光明がある、というような人生観的なものに解しては月並みになるが、日の当たった遠山を見て虚子の胸中に生じた暖かい感情を無視して単にことがらの報告のみと解してはつまらない句となる。
虚子は自己の代表句としてこれを揮毫している。26歳にしてこの鉱脈を掘り当てたのは虚子の幸福であった。枯淡静寂のうちにほのかに暖かみのある、虚子その人らしい句である。
《補説》虚子の長男の年尾(としお)が、この句を、春もそこまで来ていて、季節の移り変わる様子が読み取れ、一種の人生観めいたものが想像される、と説明してきたと言うと、虚子は〈そこ迄言ふのは月並的だね。人生観といふ必要はない。目の前にある姿で作ったものが本当だ。松山の御宝町のうちを出て道後の方を眺めると、道後のうしろの温泉山にぽっかり冬の日が当たっているのが見えた。その日の当っているところに何か頼りになるものがあった。それがあの句だ〉と言ったという(『定本虚子全集第一巻』解説)。


 上から目線で申し訳ないけど、この「鑑賞」は素晴らしい。「人生観的なものにしては月並みになる」、つまり前回のぼくの言い方では「観念の抽象じゃつまらない」ということになる。しかしまた「単にことがらの報告のみと解してはつまらない句になる」。つまりは、具体的な事物そのものが持つ魅力(姿、匂い、音などの感覚的なものから、背景の歴史など)を十分味わいつつ、その表現の背後にある「感情」も深く味わうこと、これが、俳句の、ひいては、詩歌の、さらには小説の味わい方ということになるだろう。

 今回、この《補説》で、句の中の「遠山」が、道後の温泉山だということを知ったのだが、それを知っているのと知らないのでは、この句の味わいもまた全然異なってくる。

 ぼくは今まで「枯野」のイメージに引きずられて、箱根の仙石原みたいな広大な「枯野」を思いえがいていたのだが、道後の町なかの景色だということになると、その広大な自然が消えてしまう。それはちょっと残念な気がする。

 町中といったって、東京なんかと違ってぎっしりと家が密集していたわけではないだろうから、「枯野」はあったわけだし、「枯野」からどんな広さの野原をイメージするかは、人ぞれぞれということになるわけだが、それがちっちゃな原っぱだとは、あんまり思わないだろう。

 それは、もしかしたら、「枯野」の語が、すぐに芭蕉のあの有名な「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を思い起こさせるからかもしれない。芭蕉の「枯野」が、家の近くの原っぱであるはずはないからだ。そして、ひょっとしたら、虚子の心の中にも無意識のうちに、この芭蕉の句の「枯野」が浮かんでいたのかもしれない。

 こんなことを暇にまかせて書き連ねていると、なんだかとても幸せな気分になる。何よりも、一銭もかからないことが、その「幸せな気分」を何倍にもしてくれる。







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詩歌の森へ (12) 高浜虚子・金亀虫(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな

2018-08-23 15:29:59 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (12) 高浜虚子・金亀虫(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな

2018.8.23


 

金亀虫(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな


   高浜虚子

 

 虚子のこの句を知ったのは、いつのことだったろうか。中学生のころの、国語の教科書に載っていたのではなかったろうか。初めて知って以来、忘れられない句となった。

 この句のだいたいの意味は、「部屋の中に飛び込んできたコガネムシをつかまえて、窓の外へ放り投げたら、虫は闇の中に消えていき、庭の闇の深さを感じた。」といったところだろう。たとえば、『俳句の解釈と鑑賞事典』(尾形仂編・旺文社1979刊)では、この句担当の村松友次は、次のように解説している。


《句解》こがね虫が自分でどこかへ突き当たって落ちた。それを、窓から外の闇へ向かって力まかせになげうった。こがね虫を投げこんだがために窓外の闇の深さが実感として感じられる。
《鑑賞》明治41年8月11日「俳諧散心」(日盛会)、第11回、34歳の作である。
 こがね虫を窓の外へ投げるというようなことは日常よくあることである。そういう日常的な行動をとらえながら、〈闇の深さ〉という一語でかすかにではあるが、形而上の世界を連想させる。
 この人間を取り巻いている暗黒というものは、人知をもってはかることのできぬ、深いものである。しかもそれがごく日常的な行動に直接につながって、窓の外に深ぶかと存在しているのである。俳句のおもしろさの一つの典型である。


 日常のすぐ近くにある「闇」を、卑近な行動を描く中で見事に浮き彫りにしたということで、この句を高く評価しているわけで、それがまあ標準的な解釈なのだろうが、ぼくは、どうにも納得がいかない。

 まず、《句解》にある「こがね虫を投げこんだがために窓外の闇の深さが実感として感じられる。」というところ。これでは、「なぜ、こがね虫なのか?」が分からない。確かに、「こがね虫が自分でどこかへ突き当たって落ちた。」というようなことは夏の夜にはよくあることだろう。(「自分でどこかへ突き当たって落ちた。」というのは、変な解説だけど。)多くの虫は、光に向かってくるから、暗い庭から家の灯りめがけて飛び込んできて、ふすまかなんかにぶつかって、畳の上に落ちる、ということはよくあるわけで、これは実際に起きたことだろう。そのこがね虫を、手でひろいあげて、窓の外に捨てた。村松さんは「力まかせに」と書いているが、別にそれほど力を入れなくてもいいことで(入れたっていいが)、とにかく、投げた。で、村松さんは「こがね虫を投げこんだがために窓外の闇の深さが実感として感じられる。」と説明するわけだが、やはり、じゃあ、投げたのが、「こがね虫」じゃなかったら、「闇の深さ」は実感されなかったのかという問題が生じるのである。

 食べようとして落としてしまった饅頭を庭に投げたら(まあ、そんなことはしないだろうが)、「闇の深さ」は感じられなかったのだろうか、という問題である。そんなことはバカバカしい屁理屈で、これが「こがね虫」という夏の季語だから、俳句になるんじゃないかと言われるかもしれないが、ぼくが言いたいのは、そういうことではない。

 これは、やはり「こがね虫」だからこその「実感」なのだ。つまり、こがね虫は、饅頭とちがって、羽根があるので、投げられたあと、「飛んだ」のだ。ここがこの句の「肝」である、とぼくは確信している。(村松さんは、たぶん、こがね虫が「飛んだ」とは考えなかったので、わざわざ「力まかせに」と書いたのだろう。そうしないと「闇の深さ」が出ないからだ。しかし、こがね虫は「飛ぶ」とすれば、ぽいっと投げたっていいわけで、むしろそのほうが「捨て方」としては自然だ。もちろん、虚子がこがね虫が大嫌いだったら別だけど。)

 庭に饅頭を投げた場合、数秒しないうちに、ガサッとか、ゴソッとかいう音が聞こえてくるはずだ。投げたのが石で、それが庭石に当たったのなら、コツッという音が聞こえるはずだ。けれども、このこがね虫は、投げられた瞬間、羽根を広げ、飛んだので、何秒たっても落ちた音がしない。つまり「手ごたえ」がないのだ。

 こがね虫は、暗い闇の中に飛んでいってしまった。ひょっとしたら、ブーンという飛ぶ音がかすかに聞こえたかもしれない。けれども、眼前には、まっくらな庭があるばかり。姿の見えないこがね虫が、そのまっくらな庭の「闇」をどこまでも広げていく。そこに虚子は、ちょっと驚いたのだ。

 ぼくは、初めてこの句を読んだときに、たぶん、そう感じた。(「たぶん」と言うは、ひょっとしたら、国語の授業で、先生がそういう説明をしたかもしれないと思うからだけど、今となっては確かめようがない。)それは、昼間だけど、つかまえたこがね虫(あるいは別の甲虫類)を投げたことがあるからだ。手を放れた虫が、空中にさっと羽根を広げて軽々と飛んでいく様を、なんども見たからだ。

 虚子がこの句を作ったとき、その素朴な驚きをそのまま詠んだのではなかろうか。「形而上の世界」を垣間見たと思ったわけではないだろう。日常のすぐ近くにある「闇」の発見、といった「読み」「解釈」は、あとからのもので、虚子の驚きとはなんの関係もないんじゃなかろうか。

 俳句に限ったことではないが、俳句は特に言葉が少ないので、さまざまな「解釈」が可能となるし、それがまた魅力なのだが、あまり深読みすると、本来の素朴な面白さを見失ってしまうこともあるのだ。「深読み」は、時として、具体的な事物を捨象して、観念の抽象に陥る危険がある。

 少なくともぼくにとっては、この句における「形而上の世界」なんてどうでもいい。むしろ、夏の庭の闇に消えてゆくこがね虫の羽音と、手のひらにかすかに残ったこがね虫の匂いと、あたり一面にすだく虫の声と、うっとうしいほど茂る草木の匂いと、その隙間をぬって吹いてくる涼しい風、そんなものを「いつまでも」感じていたい。

 

 

 


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