Yoz Art Space

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木洩れ日抄 108 おもしろい絵を……

2023-12-28 21:13:44 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 108 おもしろい絵を……

2023.12.28


 

 姚小全先生(ぼくが、6年ほど前から師事している中国書画の先生)曰く、「上手な絵ではなく、おもしろい絵を描きなさい」。字もまた同じ。上手な字は「お習字」で、決して「芸術」ではない、とも。「手が震える老人のような線で、字も、絵もかけ。」と中国ではよく言われるそうだ。

 先生自身が目指しているのは、とにかく「趣ある絵」であり、字だ。それで、いつも先生は悩んでいる。悩んでいる姿をいつも生徒の前にさらしている。これは、最高の教育だ。何に悩んでいるのか、それが分かれば、生徒の目標が自ずとできる。

 人物の顔に色をつけるとき、少量の絵の具を筆につけて、「塗る」のはダメで、水分たっぷりの絵の具をつけて「染める」こと。そうする絵が「うるうるしく」なるという。先生は日本語がかなり上手だが、なかなか覚えられない言葉もある。それが「みずみずしい」という言葉で、何度かお教えしたがダメで、いつも「うるうるしい」と言う。分かるからそれでいいんだけど、初めて習う人は面食らう。

 「すぐろい線を描きなさい」という言葉を、習い始めて数年間、どういう意味だろうとずっと考えていたが、ある日、「すぐろい=するどい」だと気づいて、そう伝えたら、そうそう、そうだよということで、長年の胸のつかえがおりたこともある。しかし、言葉が分からないということは、そう悪いことでもなくて、分からないからその言葉が気になり、忘れっぽいぼくでも、いつでも覚えている。「すぐろい線を描かなくちゃ」って思うわけだ。そう思うと、先生の声まで聞こえる気がする。

 賛を描くときも、上手に書いてはダメ。そうすると、字が目立ってしまって絵を台無しにしてしまう。枯れ木が描かれている絵なら、その枯れ木のような線で、字も書くこと。字と絵が調和するようにすること。落款も、読めなくたっていい。趣深く、おもしろく書くことが大事なんだ。

 あるとき、高齢の(といっても、ぼくより少し年上にすぎなわけだが)生徒さんが描いた絵に、その方の奥さんが賛を書いてきたことがあった。その奥さんというのは、個展をするほど書歴の長い人で、とても上手に書いてあったのだが、それを見て、先生の言う意味がはっきり分かった。絵と書が完全に分離してしまっていていたのだ。旦那さんの絵を、奥さんの達筆が、「台無し」にしてしまっていた。つまり、書と絵の雰囲気があまりに違いすぎたのだ。

 ことほどさように、絵と書は、むずかしい。ぼくは書が決して上手ではないのだが、それでも、先生は、あなたの書は「慣れすぎている」から、そこから抜け出さなければダメだと言う。

 じゃあ、下手にかけばいいのかと思って、いい加減にかくと、「もっと気をいれろ」とおっしゃる。「気を入れて」しかも「下手にかく」なんて、どうやったらできるの? 

 あなたは教師だったから真面目。だからダメなんだ、と言われてこともある。これじゃ身も蓋もない。教師としては決して真面目じゃなかったのだけれど、「根が真面目」なことは確かだ。家内に頼まれたことなど片っ端から忘れまくって、年中叱られているような男のどこが「真面目」なのかという話だが、「真面目」の方向性が違うのだろう。

 むずかしいなあ。絵を描くにしても、字を書くにしても、あるいは写真を写すにしても、どこか枠にはまっていて、自由になれない。奔放になれない。これはぼくの生まれつきの性格というよりは、中高時代の「悪しき教育」のせいだとしかいいようがない。

 なにしろ、徹底的な規則づくめの生活指導で、そこから逸脱することなんか許されなかった。といっても、平気で逸脱するヤツも当然いたわけだが、小心者のぼくには懸命に規則に従うしか生きる道はなかったのだ。そのくせ、昆虫採集に熱中しだした中3のころからは、「勉強すべし」という規則を破りまくったわけだが、それでも心の中に染みついた「規則を守るきまじめさ」は、拭いようもなく、成人してからも、そこからなんとか自由になろうとして絶望的な「努力」をしたものだ。しかし、そんな「努力」をすること自体、矛盾してるとしかいいようがない。まあ、それでも、卒業して50年以上も経った今では、長年のボケにも磨きがかかって、すっかり「いい加減なジジイ」に成り果てているけれど、それでもなお、紙に向かって字や絵をかくとなると、その「まじめさ」がフツフツと指先からよみがえってくるというアンバイだ。

 今更うらんでもしょうがないが、そういう「教育」を教師として極力しないようにしてきたことも確かなので(ほんとか?)、それがせめてもの救いであろうか。「救い」かどうかは別としても、ぼくは人に「押しつけること」が大嫌いだったので、そうなるしかなかったのだ。ということは、結局、教師失格だったということであろう。

 とにかく、来年は、「芸術方面」では、自由・奔放を心掛けたい。「生活方面」では、真面目であろうとするしか道はない。なんだかどっちも無理な気がしてしかたがないのだが。

 

 


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木洩れ日抄 107 キンダースペース「モノドラマアンソロジー もう一人の私」を観て──新しい「モノドラマ」へ

2023-10-17 15:48:35 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 107 キンダースペース「モノドラマアンソロジー もう一人の私」を観て──新しい「モノドラマ」へ

2023.10.17


 

 キンダースペースの「モノドラマ」は、今や成熟のときを迎えた。もう25年もやってきたという。ほんとうに、すごいことだ。

 「モノドラマ」では、当初から日本の近代文学を取り上げてきたのだが、今回初めて海外文学を扱い、更に、原田一樹のオリジナル脚本まで含まれた。しかも、全6本に共通するテーマを設定し、それが今回は「近代」だった。画期的である。

 演技もまさに成熟してきている。ぼくは今回Aプロしか見ることができなかったが(Bプロも見たかった。残念。)、丹羽彩夏、関戸滉生、瀬田ひろ美の3人は、経験年数はあれ、それぞれの「成熟」を成し遂げている。それは演技の成熟であると同時に、演出の成熟であることはいうまでもない。この二つを分かつことはできない。いくら演出が成熟していても、演技がそれを体現しなければ「演出の成熟」を観客は実感できないからだ。そういう意味で、「モノドラマ」は、ほんとうに意味での「成熟」を成し遂げたのだ。

 だからこそ、「踏み越え」は必然だったのだと思う。海外文学へ、そして、オリジナルへ、と。

 丹羽彩夏の「夏の葬列」(山川方夫作)。のっけの発声から素晴らしい。よく通る声、輪郭ただしい美しい発音。その声が、舞台に夏の海と、葬列と、空襲をくっきりと浮かびあがらせ、そして、男の内面のドラマを精密に描きだす。白と、青と、赤の色彩が、まぶしい。舞台には、切り取られた海と、芋の蔓しか存在しないのに。

 何もないところに、生々しい「物体」あるいは「現実」を、現出させるのが、演劇の大きな魅力であり力だが、「モノドラマ」は、その極北だ。能・狂言の世界に近いが、舞台に立つのがたった一人という点で、それを凌駕する。

 関戸滉生の「ある統合失調症患者の証言」(原田一樹オリジナル脚本)。関戸の演技の見事さは、毎度のことだが、今回はとくに素晴らしかった。「モノドラマ」では、何人かの人物を描き分けることが必要になるが、この芝居は、「独白」であり、今までの「モノドラマ」っぽさはない。しかし、この「独白」は、「ある友人」の話として、友人の独白として始まり、最後は、これは自分の話なのだという結末に至るよくあるタイプの流れなのだが、それが「統合失調症」という病の患者の話であるという事情から、演ずるのがじつに困難な芝居となっている。

 まず、役者が話し始めるとき、役者は、「健常者」として話し始める。やがて「友だち」から聞いた話だとして、「友だち」の代わりに話し始める。その「友だち」の独白は、次第に狂気を帯びてくるのだが、その「統合失調症患者の世界」が孕む歓喜と恐怖が、あまりに見事に描かれたために、ぼく自身までその世界に連れ込まれていくような恐怖さえ感じたほどだ。

 それは、この芝居の最初に、「私」がこの「友人」の話をしたと思ったのは、「私」もまた、なにかのきっかけがあれば、「友人」と同じような体験をしたかもしれないと思ったからです、というセリフがあったからだといえる。このセリフによって、観客であるぼくもまた、この「友人」の体験を自分もしたかもしれないという思いを持ったのだ。さすがは、原田さんだ。

 「狂気」と「正常」の間を揺れ動く一人の人間を演じ分けるのは、とても難しいことだ。とくに「狂気」と「正常」が、実はそれほど隔絶したものではなく、境を接しているのだというのが、この芝居の核心なので、その「間」を、微妙に、しかも、正確に演ずる力が試される。そしてそれができなければ、この芝居は成立しない。この困難を、関戸は見事に乗り越え、おそらく作者の想像を超えた世界を現出してみせたはずだ。拍手である。

 瀬田ひろ美の「エドワード・バーナードの転落」(サマセット・モーム作)。これは一転して、1人の女と2人の男が登場して、錯綜したドラマを展開する、別の意味で難しい芝居。成熟しない俳優がこれを演じたら、何がなんだか分からなくなってしまうだろう。

 登場するのは、男と女だ。女はまだいいとしても、男は、個性のまったく違う二人。この三者をどう演じ分けるか。ベテランの瀬田は、大げさに声色を使うことも、身振り・表情に特別な差異を設定もせずに、セリフと単純化された所作で、対処する。

 亡くなった落語家の小三治が、師匠の小さんから教わったことに、「了見」ということがあったという。よけいな技術は要らないんだ、ただその「了見」になればいい、というのだ。つまりは、演じる人物そのものにこころからなりきればいい、そうすれば、自然とその人を演じることになるんだということだ。これは、簡単そうで難しい。難しいが、これしか、ない。

 瀬田ひろ美が、小さんや小三治に匹敵していると言っているわけではもちろんないが、その域に近づいていると言ってもいい。それでも言い過ぎなら、このまま精進して、近づいていってほしいと言っておきたい。

 さて、テーマたる「近代」は。

 パンフレットで、原田一樹は、「作家あるいは表現者は、この社会や自分の暮らす生活圏の事象に違和や不安を覚え、作品化したり外部表明する衝動を覚える」と言う。その「違和」や「不安」の大元に、「近代」が横たわっているということだろう。その「近代」は、ふたたび原田の言葉を借りれば、「文明の発祥以来『人』が抱えつづけ、いまだに私たちを追い詰めるモノの姿」として感じられる。それはおそらく「近代」の奥にある「モノ」なのだろう。原田が追い続けてきた日本の「近代文学」こそ、その「モノ」との格闘の壮絶たる「戦跡」にほかならない。

 山川方夫「夏の葬列」は、まさに「近代」が生んだとしかいいようのない戦争が、一人に人間の一生に深い傷を与え続けているという現実。しかも、「今」もなお、その傷が増殖しつづけているという途方もない現実を描いている。

 「統合失調症患者の世界」は、人間が「近代」を生きてこなければその世界に生きていたかもしれない「もう一つの現実」を示唆しているともいえる。「近代的価値」が、どんなに人間をゆがめてきたかを痛切に反省させらる。

 「エドワード・バーナードの転落」には、「反近代」がもっとも分かりやすい形で描かれている。「エドワード・バーナード」の人生を「転落」と規定することこそが「近代的価値」だからだ。

 新しい領域に踏み込んだ「モノドラマ」。これからの展開を心から楽しみにしている。

 


 

【パンフレットより】

 

★もう一つのモノドラマ

 

 「モノドラマ」をレパートリーの一つとしてから25年が経ちました。元々はこの小さい空間での発表に相応しく、朗読や一人芝居といった既存のものではないスタイルの模索からたどり着いた表現の形です。一人芝居との違いは、小説でいうと「地の文章」にあたる会話以外も含め、俳優が「語る舞台」であるという事ですが、これは一人の演者による演劇空間の創出として独自のものと考えています。
 題材は、ほぼ全て日本の近代文学の短編から取り上げ、俳優の「今」の身体による近代の再発見という試みでもありました。実はこれまで、能登や我孫子、熊本市など地方に出かけての公演も最多となっています。近年では、年2回のワークショップやワークユニットの年間の修了公演など、俳優スキルアップのための実践としてもたびたび試みています。
さて、今回の「もう一人の私」では、これまでの「モノドラマ」の創作法とスタイルをいくつか踏み越えようとしています。まず、6本のうち半数、海外文学(翻訳)を取り上げたという事。初の書き下ろしとして文学以外の題材を試みたという事。もう一つは、6本が共鳴し合うことで生まれるイメージを、これまで大きくくくっていた「近代」というものに置き換え、真ん中に置いたという事です。
 作家あるいは表現者は、この社会や自分の暮らす生活圏の事象に違和や不安を覚え、作品化したり外部表明する衝動を持ちます。その感受の角度や、表現の仕方にはもちろん個々の「違い」があります。しかし同時にそこには、その人が世界的な文豪であれ一人の患者であれ、共通する「何か」もまたあるはずです。この「何か」の奥に、文明の発祥以来「人」が抱えつづけ、いまだに私たちを追い詰めるモノの姿があるのではないでしょうか。
 ただ、全ての芸術は「これこそ、その正体だ」と、答えを出す事を賢明にも避けてきました。この「答え」もまた、人を追い詰めると知っているからです。私たちが願うのは、観客席の上空に、その「何か」が見え隠れする事です。本日はご来場ありがとうございました。ご感想をお聞かせください。

原田一樹

 

 

 

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 106 締めくくり

2023-08-28 13:09:23 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 106 締めくくり

2023.8.28


 

 平野謙は、「わが戦後文学史」の「はしがき」をこんな風に書いている。これを平野が書いたのは、昭和41年(1966年)のことだ。ちなみに、平野謙は、昭和53年(1978年)に亡くなっている。70歳だった。 


 戦後二十年間の歳月がとびさったことは、恩えば夢のような事実である。ほとんど戦慄的な事実だ。まだ一カ月にならぬから、つい先だってといってもいいわけだが、私は五十八回の誕生日を迎えた。もう二年たつと、私は還暦を迎える勘定になる。これも戦慄的な事実である。二十年前のいまごろ、私は故郷にあって島崎藤村論の原稿を書きついでいたか、書き終えていたはずだが、《近代文学》創刊号のために執筆していた自分のすがたを思うと、つい昨日のような気がする。しかし、あれから確実に二十年の歳月がすぎさったのである。そして、私自身も確実に変ってしまった。思いもよらぬ変りかたともいえるが、また、かくなり果つるは理の当然ともいえる。その歳月の意味をもう一度私なりに追体験することは、わが貧しい生涯の締めくくりとして、まんざら無意味でもあるまい。これからあとどれだけ生きられるか、とにかく死がそんなに遠くない地点までやってきている今日ともなれば、そんなことでもするより、私一個としてはもはや締めくくりようもないのである。
 わが貧しい生涯と書いたが、単なる修辞として、私は書いたのではない。ほとんどジダンダ踏む思いで、私は書くのである。昨今、しきりに思うことだが、小人珠をいだいて罪ありというような言葉にひっかけていえば、小人珠をいだいて罪なしというのがおれの生涯じゃなかったか、という気がする。これだけでは他人に通じにくかろうが、私のうぬぼれもこめて、そんな気がする。無念である。そこで、せめて我流戦後文学史でも書きのこしておこうか、ということにならざるを得ない。では、どんなふうに書くか。小説でいえば私小説ふうに書く。それよりない。つまり、この私が主人公となるわけである。自己中心の戦後文学史。江見水蔭にもそんな文学史があったはずだが、私もあのテでゆくしかない。ただし、私自身を主人公にするといっても、この貧弱な私をことごとく正面に押したてるという意味ではない。私の興味のある、私の関心をひく戦後文学の現象を、もう一度追体験してゆく、というほどの意味である。すべての文学現象にまんべんなくつきあって、客観的に精確な戦後文学史を書きあげるのではない、というくらいの意味である。それ以外に、目下のところ具体的なプログラムはない。


 この文章をつい最近、つまり、73歳も残りわずかとなった最近読んで、「戦慄した」わけではないが、いたく共感した。といっても、戦後を代表する文芸評論家の述懐にぼくのごとき者が「共感した」というのもおこがましいが、共感したんだからしょうがない。

 平野は、「戦後二十年間の歳月がとびさったことは、恩えば夢のような事実である。」というが、ぼくの場合は、「生誕73年の歳月がとびさったことは、恩えば夢のような事実である。」としかいいようがない。そして、「もう4年経つと、喜寿を迎える勘定になる。これも戦慄的な事実である。」といったアンバイである。

 平野の場合は、これはもうれっきとした文芸評論家であり、名をなした人であるから、いくら「貧しい生涯」だと言っても、彼がそう思っているというだけのことで、ハタではそうは見ないから、ヘタをすれば、嫌みになってしまうところだが、案外素直に読めてしまうというのも、ことの「大小」はともかくとして、人間が自分の生涯を振り返ってみて、「貧しい生涯だった」と思わないほうがよほど変わっているからであって、それゆえ、平野の思いには普遍性があるのである。

 それでも、平野の場合は、「自己中心の文学史」なんぞを書けるだけ、「貧しさ」も「ちゅうくらい」なのであって、それと比較するのもおろかなことだが、ぼくの場合は、何にも書くことがない。「自己中心の○○」の○○にあたるものが何にもない。あるとすれば「自己中心のぼく」だけであって、それじゃ意味がない。ぜんぜん意味がないわけじゃないけれど、限りなく意味がない。

 しかし、お前のこれまで書いてきた「エッセイ」とかいうヤツは、まさに、「自己中心のぼく」でしかなかったじゃないかと突っ込まれれば、ハイと答えてしょんぼりするしかないわけである。

 だから、ここだけは平野と同列に、「ほとんどジダンダ踏む思いで、私は書くのである」し、「小人珠をいだいて罪なしというのがおれの生涯じゃなかったか、という気がする」わけである。「小人珠をいだいて罪あり」というのは、「身分不相応なものを持ったために災いを招いてしまうというたとえ。」ということであって、したがって、「小人珠をいだいて罪なし」というのは、「せっかく身分不相応なものを持っていたのに、災いも招くまでもなく無駄に過ごしてしまった」というほどの意味になるだろうか。

 昨今の、さまざまな実業家や政治家の「不祥事」を見るにつけても、「小人珠をいだいて罪あり」の感を免れないが、それでも、せっかくの才能を「有意義に」使ったからこその「不祥事」であるわけで、まあ、「罪なし」で、出世したり、金持ちになるヤツなんてそうそういないだろうから、それはそれとして、「貧しい己」を顧みるにつけても、自分が「小人」であることは間違いないとしても、果たして抱いていたのは「珠」と呼ぶにふさわしいものであったかは、はなはだ疑わしい。平野流に「うぬぼれをこめた」としても、「何か珠らしきものはもっていたはずだ」と思うのが精一杯で、その精一杯をもってしても、「罪なし」であることは疑えない。平野にならって言えば「無念である」。

 平野謙は、「わが戦後文学史」を書いて、人生の「締めくくり」としたわけだが、さて、ぼくの場合、何をもって「締めくくり」とすればいいのだろうか。見当もつかない。見当もつかないということは、結局「締めくくる」ほどの人生でもないということだろう。あるいは、「締めくくる」ことができないほど、バラバラでとりとめもない人生であったということだろう。まあ、人生、終わったわけじゃないから、いそいで「締めくくる」ことなどないのだが。

 

 


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木洩れ日抄 105 Nikon Zfcの功徳、あるいは「デキる人」

2023-08-19 20:52:08 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 105 Nikon Zfcの功徳、あるいは「デキる人」

2023.8.19


 

 書道の師匠、越智麗川先生とその仲間の先生のグループ展が今日から開幕。

 ぼくは、作品集を毎回作っているので、作品の撮影をしていた。書作品の撮影というのは、案外難しく、露出の設定やらなにやらが野外で撮るときとは全然違う。会場は野外よりは暗いし、照明も、ムラがある。おまけに、蛍光灯やLEDライトによるフリッカー(撮影ムラ)が生じやすいのでその対策も必要。さらに、なるべく、四角い作品を四角のまま撮りたい。といっても、それはたとえ三脚を据えて撮ったとしても(ぼくは、三脚は使わない)、撮ったままで、ゆがまず四角い写真はまず撮れない。で、どうするかというと、現像ソフト(ぼくの場合は、lightroom)での補正機能を使う。これは超便利で、ほぼボタン一つで、平行四辺形やら台形やらに写った写真が、四角くなる。魔法のようだ。

 撮影にあたっては、どのカメラにするかは、ちょっと迷う。なるべく高画質で撮るということなら、フルサイズのZ6がいいわけだが、小型の作品集なので、DX(APS-C)でも十分な画質が得られる。今回は、ちょっと迷ったが、Nikon Zfcにした。会場でこのカメラで撮るのは、ちょっとオシャレだと思ったからだ。

 撮り始めて間もなく、一人の紳士が「カメラは何をお使いですか?」と声を掛けてきた。「あ、これです。Zfcです。」と答えると、「ああ、Nikonですか。Nikonは最近、大型の一眼レフは撤退したんじゃなかったですか?」と言うので、「いいえ、まだ一眼レフは作っていますよ。」「あ、製産は、日本ではやめた、ということでしたね。」などと、思いがけず話がつながる。これは、相当「デキる人」だと思って、話し続けたら、話題が尽きず、カメラ、レンズ、写真雑誌、写真の思想など、かれこれ1時間ほど話し込んでしまった。横須賀に住んでおられるとのことで、田浦時代の栄光学園のこと(というか長浦湾のこと。彼は、ずっと長浦湾をとり続けているとのこと。)、はては大学紛争のことにまで話が及び、興味が尽ず、楽しい時間だった。なんでも、年齢は、ぼくより2歳年上とのことだった。

 この偶然の出会いのきっかけは、Zfcという、デジカメにしては珍しいレトロな外観を持ったカメラだった。これが当たり前のカメラだったら、きっと声を掛けられなかっただろう。Zfcを持って行ったのは正解だった。

 ほとんどカメラや写真の話で終わってしまい、その人が何を専門としている人なのか分からずじまいで、きっと写真家で、書にも興味があって来られたのだろうぐらいに思っていたが、別れたあと、あの方はいったいどういう方ですかと、師匠に聞いたところ、(師匠も、その仲間も、ぼくが親しく話しているので、その人と知り合いなのか? って不思議に思っていたらしい。)、なんと、偉い書の先生だということだった。ああ、知らなくてよかった。知っていたら、緊張してしまって、あんなに親しくお話しなんかできなかっただろう。でも、なんか、ため口まではいかないけど、ずいぶんと失礼な話ぶりだったかもしれないなあと反省である。

 写真についても「デキる人」だったが、書道に関しては「デキる人」どころじゃなかったわけである。

 

 

 


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木洩れ日抄 104 没入体験──「木枯し紋次郎」

2023-06-03 10:37:12 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 104 没入体験──「木枯し紋次郎」

2023.6.3


 

 先日、中島貞夫監督の「木枯し紋次郎」についてフェイスブックに投稿したら、近くに住む中学以来の友人Hが、これを見ろといってTV版のDVDを貸してくれた。

 市川崑劇場のこのシリーズをどれほど熱狂して見たことか。大学時代のことで、当時中高時代の友人と作っていた同人誌に、このHと、のちに京都に住み、中島貞夫と親交を深めた友人Kの三人で、「誰かが風のなかで」と題する座談会を載せたことがある。今読むと、発言しているのは、HとKばかりで、ぼくは相づちをうっているだけなのだが、とにかく、ぼくらの熱狂ぶりが伝わってくる。

 その中で、Kは、この中村敦夫の紋次郎が、当時の世相を反映して、思想的文脈で語られることが多いのに反発している。おもしろいので、ちょっと引用しておく。

 

K:たとえば映画を批評するのにね、まずあの監督はどうこういう──そんなことはありはしないんだよ。絶対。実際みたらね、たとえば、ジャン・ルイ・トランティニアン(注:コスタ・ガブラス監督「Z」で、予審判事を演じた。主演はイブ・モンタン。1969年。)がやってるとしたらね。
H:(喜色満面で)うん、うん。
K:そこでまずトランティニアンの扮するね、それにシビれてね、その役者としてのトランティニアンを混同した上でね、すばらしい、すばらしい、といっているうちにそこから本当のアレがわいてくるんだよ。
H:そうそうジャン・ルイ・トランティニアンがさ、サングラスをかけてさ、(笑い)検事をやってる、あれがいいんだよ。
K:そうなんだよ。だいたいいっさいの映画ってのはそっから出発するのにね。今のインテリみたいな所はね、その、映画俳優が好きですっていうと、ミーハー的だって軽蔑したりするような所がある奴がいるわけよ。全部がそうだとはいわないけど。それ全然意味ないわけ。まずミーハー的にワーワー騒いでさわいでね。ああすてきだ、キャーキャー言ってね。そうした上で、それをしゃべってくうちに又何かでてくる。それをしゃべる前からね、「ジャン・ルイ・トランティニアン? 関係ありませんね。だいたい『Z』という映画は──」としゃべるなんて、くだらないんだ。全然意味ないと思うよ。たとえば又、紋次郎のTV見てね、「ああ市川崑の映画です。あれはすばらしい。」って言うわけね。関係ないんだな。市川崑であろうと何であろうと紋次郎って人間がいてまずすばらしい、それから普通の神経としたらまず中村敦夫にいくじゃない。で、中村敦夫って何て素敵な俳優だろうってね。それからはじめてカメラがいい、音楽がいい、監督がすばらしいことやってるってわかってくるんであってね、それが逆の見え方をするってのは全然おかしい。


(同人雑誌「拙者 5号」1972)

 

 このKは、後に美学者(映画や演劇が専門)となったのだが、映画に対する基本的な姿勢は、今でもちっとも変わらない。

 そんなこんなを思い出しつつ、このDVD収録の2話を見たが、当時ぼくが繰り返しみてはため息ついたオープニング映像が、カラーで見られることに感動し、中村敦夫のすがすがしい若さに感動し、当時画期的と言われた泥まみれのチャンバラに感動したのだった。

 Kが言いたかったことは、映画は、まず、没入体験があって、しかるのちに、批評的意識が芽生えるものだ。最初から批評意識でガチガチに構えて見たら、見えるものも見えないということだろう。

 今おもえば、ぼくの場合は、幼い頃の映画体験は、東映の時代劇だったわけで、それはそれでものすごい没入体験だったのだが、その後、「暗黒の中学受験期」を経て、中学に入ったころには映画もあまり見なくなり、ひたすら昆虫採集に熱中していたので、こうした没入体験は久しくなかった。大学に入ってから、紛争のあおりを受けて、ものすごくヒマになってしまったので、映画や演劇を見まくったのだが、やはり、「文学部への新参者」意識が根深くあって、Kの言う「逆の見え方」になっていたのかもしれない。

 この年になって、ようやく、映画のほんとうの見方が分かってきたような気がする。

 


 

 


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