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100のエッセイ・第10期・95 怒りをかう日々、あるいはリアリティのありか

2016-08-29 13:49:56 | 100のエッセイ・第10期

95 怒りをかう日々、あるいはリアリティのありか

2016.8.29


 

 このところ立て続けに人の怒りをかっている。それも共通して「リアリティ」のありかについてのぼくのいい加減な発言に原因があるらしい。昔から人を怒らせるような失礼千万な発言ばかりして周囲に多大なる迷惑をかけてきたぼくであるが、こんなに高級なテーマで怒りをかうなどということは、実に珍しいことで、それだけでもありがたいと思わなければならない。ぼくのような自己中の人間は、人に怒られでもしなければ成長しない。

 そのひとつが、『シン・ゴジラ』のことで、もともと特撮ものをほとんど見たこともなければ、『エヴァンゲリオン』も名前だけは知っているものの、見たことがないから監督の庵野さんのこともまったく知らないぼくが、『シン・ゴジラ』を見て、よせばいいのに批評家ぶって、〈ここには「死者」がでてこないことによって、妙な「リアリティの希薄さ』が生じている〉なんてことを、フェイスブックに書き込んだものだから、「ゴジラ」をこよなく愛する友人から、何をわけわかんないこと言ってんだ! って感じで、もろに怒られてしまった。

 まあいくらトンチンカンなぼくとても、映画の画面に「死体」が出てこないからリアリティがない、なんてことを思っているわけではなくて、ぼくが感じた「妙な『リアリティの希薄さ』」は、あの3月11日に、テレビで生の映像として見ていた津波、逃げ惑う車、流される家、その映像の持っていた「質感」とどこか符合するということだったのだ。津波だけではない、その後の、津波被害の惨状、原発への海水の放水などの映像、さらに遡れば9.11のあの映像までもが重なるのだが、そのどれもが、極めて「リアル」なはずなのに、「どこか映画みたい」という感想をもたらさないではいられない「妙な『リアリティの希薄さ』」があったように思うのだ。

 それをそこまで書かないで中途半端で終わってしまったのがよくなかったのかもしれない。でもそうやって怒られてみると、そもそもリアリティって何なのだろうかというこのところずっと思っている問題がちっとも解決していないことに気づくのだった。現実があまりにひどいと、リアリティを失うものなのだろうか。そこで失われたリアリティとは何なのだろうか。そもそもリアリティとは何なのだろうか。そんなことを、ひっきりなしに考えつづけた。

 そんな折も折、映画好きの集まるBARに出かける機会があって、ほとんど初対面の人たちと映画について言いたい放題話すという珍しい体験をした。相手が見ず知らずの人であることをいいことに、ぼくはほとんどタガが外れて、恥も外聞もない「旅の恥はかき捨て」状態になった。『シン・ゴジラ』のことも話題にはなったが論争にはならず、話はやがて小津安二郎へ移った。

 ぼくは小津は大好きだが、昔から最後の作品『秋刀魚の味』だけはどうしても素直にいいと言えない。

 この映画に登場する東野英治郎扮する元教師の描き方に耐えられない思いを見るたびにするからだ。出世した教え子たちが、先生を招いて宴会をするのだが、食卓に出た「ハモ」を先生は名前は知ってはいるが食べたことがないのだと言い、「これがハモですかあ〜」と言って感激して食べる。先生がへべれけになって帰ることになり、飲み残した「ダルマ」のボトルをお土産にもらって一人の教え子に付き添われて帰った後(ダルマをあんまり先生がおいしそうに飲むから、教え子が酒が残っているボトルを土産として持たせるわけだが、それを喜ぶ先生がまた惨めにぼくには思えるのだ)、残った教え子が「アイツ、ハモを食べたことがないんだ。」と微妙な笑みを浮かべて言う。何度見てもこのシーンに、傷つく。嫌だなあと思う。残酷な描き方だなあと思う。このシーンを見たがために、ぼくは長いこと教え子たちと飲むことをなるべく避けてきたと言っても大げさじゃないような気がするくらいだ。小津の映画は暖かいというけれど、この映画にはどこか底知れない「残酷な目」が感じられる。小津の底知れない「暗さ」「孤独」がある、というふうに感じてきたのだ。

 というようなことをしゃべったら、昭和20年生まれのBARのマスターの怒りをかった。もっとも、お互い飲んでいるし、目は笑っていたから、どこまで本気が分からないが、そんなことはないんだ、そんな批判は間違っているといって、まくしたてる。「孤独があるだあ、何言ってやがる、そんなこと言ったら、小津の映画はどことったって孤独だよ、人間が孤独なんて当たり前のことじゃねえか。そんなこといってオレを説得できると思ってんのか。そんなレベルで小津の批判なんかするな!」ってすごむ。

 すると、マスターに加勢する人が出てきて、「『あいつハモ食ったことないんだぜ』っていうセリフはねえ、先生を馬鹿にしてるわけじゃないよ。ああいう言い方で親しみを表しているんじゃないか。それが今時の映画やドラマの歯の浮くようなセリフと根本的に違うところ。そこが小津さんの素晴らしいところなんだ。なんでそんなことも分かんないんだっ!」 と詰め寄る。

 何しろこの人たちは、どうやら映画については趣味を超える知識と体験のあるほとんど映画のプロといってもいい人たちのようで、ちょっと映画が好きっていうレベルのぼくみたいな半端なヤツが太刀打ちできる相手ではないと判断したけれども、どうせ乗りかかった舟だ、ここはいっちょういけるとこまで行ってみようと、「窮鼠猫を噛む」状態で反撃してみた。

 それはそうかもしれないけど、ぼくがそう感じるんだからしょうがないでしょ。ぼくは42年間教師をやってきて、こういう惨めさをずいぶん味わってきたし、最近では明治の文学史を知れば知るほど、どれだけ「教師」という職業が、「尊敬に値しない」ものとして人々に認識されてきたかってことが嫌というほどわかるんですよ。いくら小津の映画だからといって、そういうことを感じちゃいけないってことはないでしょ! 映画を見て、何をどう感じようとそんなこと見る者の勝手でしょ! って言い返した。

 結局、酔っ払いの言い合いだから何の結論もないままに、話は終わってしまったが、ここでも、「リアリティ」の問題があったのではないかと思うのだ。映画の一部にほの見える「小津のどうしようもない絶望的な孤独感」があったとして、そこに「リアリティ」を感じ、そこにざらっとした感触を感じ、自分の感情に重ね合わせて、「ああ、嫌な感じだなあ。」と思うのは、決して小津への批判ではない。「曲がりくねった共感」なのかもしれない。

 うまく言えないけれど、「リアリティ」を感じるというのは、自分の感情に直接触れたと感じるということではないのだろうか。そういう意味では、あの教え子の言葉に、ぼくはまさしく「リアリティ」を感じてきたのだし、それがたとえ「嫌な感じだなあ」という非共感的感情を伴うものだとしても、だからこそ、あの映画は、ぼくの「感情に直接触れたと感じる」ところのある映画なのだとも言えるわけだ。「好きだ」とは言えないかもしれないが、「リアリティ」のある映画としていつまでの心に残っているだとも。

 あるいはこうも思う。そこまで人間を残酷に見つめた果てに、そんな感情を超えた人間の真実が描かれる、その「真実」こそが小津映画の「リアリティ」なのかもしれないと。そしてこうも思う。ぼくの「リアリティ」の理解は、すごく感情に偏っているのではないか、ちっとも社会的な「現実」が視野に入っていないんじゃないか、と。

 そんなことを、映画を見る目の成長を夢見てウジウジと考える日々である。

 


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100のエッセイ・第10期・94 楽しい勉強

2016-08-18 16:45:49 | 100のエッセイ・第10期

94 楽しい勉強

2016.8.18


 

 このところずっと伊藤整の『日本文壇史』(全18巻)を読んでいる。講談社学術文庫版を数年前に「自炊」したのをiPadで読んでいるのである。一日に50ページほどを読むのだが、たいていは、朝目覚めてからベッドの中で読んでいる。寝ぼけていると、ときどきiPadが顔の上に落ちてくるので怖いが、いまのところ怪我をするには至っていない。

 この『日本文壇史』は、単行本が栄光学園の図書館にあるのを見て以来、何十年もの間、いつか読みたいと思いつつ、こんな晩年になってようやく読むことになったわけだが、今更ながら「遅きに失した」感が否めない。もし、もっと若い頃に読んでいたら、授業で文学史を扱うときに、もっとずっとおもしろい説明ができたのにと思うからだ。おもしろいどころではない。もっと正確に説明することができたはずだ。

 例えば、明治文学史のひとつのトピックたる「言文一致」だが、ぼくの授業では、せいぜい二葉亭四迷やら山田美妙やらが実験的に試みたんだけど、なかなかうまくいかなかったんだよねえ、ぐらいで終わってしまっていた。ところが実際にはそんな薄っぺらなものではなく、口語体の文章は、もっともっと広範な動きの中で、紆余曲折を経て徐々に浸透し、完成していったのだということが、『日本文壇史』を読むと手にとるようにわかる。分かったところで、そんな事情を文学史の授業でえんえんとしゃべれるものではないから、むしろ知らなかったほうがよかったのかもしれない、なんて無責任で不埒なことを考える老人でぼくはあるわけだが、それにしても、この本を読んでいて(今、第7巻を読んでいるところ。尾崎紅葉が死んだ明治36年あたりだ。)とにかく驚くのは、明治の文学を作り出した文学者たちの異様なまでの若さだ。

 ぼくがかつての高校での文学史の授業で名前を知った文学者は、ほとんどみな20代で大活躍なのだ。尾崎紅葉なんか、硯友社の親分として文壇に君臨し、紅葉に可愛がられるか嫌われるかで、大きく文学者として生きる道が左右されてしまうというほどの大物だが、その紅葉が次第に衰え、時代は新たな展開を迎えるなんて頃、紅葉は30代なのだ。そして、多くの弟子に囲まれて、死んだ時、紅葉は満35歳なのだ。そんなことは、紅葉がいつ生まれいつ死んだかということが文学史の本に書いてあるのだから、「知らなかった」はないのだが、何となく、紅葉がたった35歳で死んだとは思えないでいたということだろう。明治という時代も若いが、人間も若かったのだと、毎朝感嘆しきりである。

 日本の近代文学は、明治30年代になって始まるというのが、どうやら定説のようだなんていうもの、今までの不勉強をさらけ出すような情けない言いぐさだが、今まで不勉強だったぶん、今の「勉強」が楽しくて仕方がない。

 57歳の秋、突然書道を習い始めて、その翌年、栄光学園での「研修制度」を初めて使うことにして(それまで、海外研修やら国内研修やら、とにかく研修というものが嫌で一切その権利を行使しなかったのだ。)、副校長に、書道教室に通う費用を「研修」として認めて出してほしいと申請したところ、当時の副校長はオチャメな人だったから「山本先生、研修というのは、生徒に還元できないとこまるんですよ。」と言ってニッコリ笑った。58歳で書道の研修をして、60歳で定年なら生徒に還元しようがないじゃないかという冗談である。(筋としては、冗談ではない。)もちろん、その申請はめでたく承認されて、書道教室の月謝1年分を支給されたわけだが、確かに、その「成果」はほとんど生徒に還元されはしなかった。(少しは、したのである。)

 まあ、研修ともなれば、そして学校がその費用を負担するとなれば、学校としてはそれなりの「見返り」を求めるのは当然のことだが、しかし、何かを「学ぶ」ということは、本当はなんの見返りも求められない、純粋な喜びであるはずで、自分で学んだことをどこへ還元しようもない退職後の「学び」は、楽しければそれでいいわけである。

 教師をしている頃は、これを勉強しなければ、生徒にちゃんと教えられないなんて義務感から学ぶこともあるにはあったが(あまり多くはなかったが、という意味です)、そういう義務感のないところに、ほんとうの楽しみはある。生徒だって、試験に出ると思うから勉強が嫌なのであって、試験さえなければ、きっと勉強は楽しくなるはずだ。といって、彼らが定年になるのを待つわけにもいかないし。困ったものだ。

 

 


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100のエッセイ・第10期・93 ピエロの哀歓

2016-08-06 12:11:00 | 100のエッセイ・第10期

93 ピエロの哀歓


2016.8.6


 

 記憶力が弱いというのが、ぼくのおおきな弱点である。特に人の名前を覚えられない。従って、生徒の名前も覚えられない。教師としては致命的な欠点である。

 カラオケは好きだが、歌詞を見ずにちゃんと歌えない。カラオケは歌詞を見て歌うのが前提だからいいけど、これではのど自慢には出られない。

 だから、教師になって以来、長いこと演劇部の顧問をしてきたが、生徒たちが、ちゃんとセリフを覚えてくるのが不思議でならなかった。演技について、ああだこうだと指導してきたくせに、じゃあ、お前がやってみろと言われたら、ぐうの音もでなかったに違いない。もちろん、生徒は思いやりがあるから、そんなことを言ってきた者はいないのだが。

 栄光学園で演劇部を創部して15年目、1998年の「栄光祭」の公演のために、当時高1の部員だった東畑開人君(今は気鋭の心理学者として活躍中だ)が、1本の戯曲を書き下ろした。題して『待ちくたびれた白雪姫』(たしか東畑君がつけた題は「ピエロ」だったはずだが、ぼくが、それじゃつまんないとケチをつけてこの題にしたように思う)。

 お話は、「白雪姫」のパロディ。白雪姫は森の中で7人の小人に守られてひたすら王子を待っていたのだが、ぜんぜん王子はやってこない。そのうち、7人の小人のうち6人が老衰で死んでしまい、残った1人が白雪姫のそばで王子の来るのを待っていた。ある日(ここから芝居は始まる)、サーカスのピエロをやっていた若者が、サーカス団からはぐれてしまい、森の中に迷い込んできて、今は老人となってしまった小人と出会った。小人は、ピエロの青年に事情を話し、とにかく姫に接吻してやってくれ、そうすれば姫と結婚できる。はやくしないと姫が腐ってしまうからと頼みこむ。ピエロは喜んで承知して、眠っている姫に接吻すると、姫はようやく眠りから覚めるのだが、これが小生意気な女で、自分を起こしてくれたのが王子様じゃなくて、ピエロだと知ると、ピエロなんかと結婚する気はないと結婚を拒絶。ピエロはあえなく振られてしまう。そこへ現れたのがカッコいい王子。姫は喜んで結婚式を挙げるのだが、式を挙げたとたん、魔法がとけて(かかって?)、姫はみるみるうちにバアサンになってしまう。それを見た王子は、オレはこんなババアと結婚する気はないと逃げてしまう。泣き崩れる姫に、ことの次第を木陰から見ていたピエロが駆け寄り、ぼくは君がどんなにバアサンになったって、愛しているよと告げる。喜んだ姫はピエロと結婚する。その時、また魔法がとけて(かかって?)姫はまた若く美しい姫になり、二人は仲良く暮らしたのでした、という筋である。

 この戯曲を読んだとき、その卓抜な発想と、軽妙なセリフに驚嘆し、これは「栄光祭」で成功間違いなしと思った。それから、2ヶ月ほどの練習を積み重ね、芝居は順調な仕上がりを見せ、いやがうえにも期待が膨らんでいたとき、忘れもしない、本番の土曜日を前にした水曜日の夜、ぼくの家に一本の電話が入った。何と、ピエロ役のY君が、急性の腸炎で入院してしまったというのだ。これではとうてい土曜日の初日に間に合わない。

 翌日木曜日の朝、部員を集めて、事情を話した。いくらなんでも裏方の部員をいきなり主役のピエロにはできないから、役の入れ替えをしよう。セリフの少ない役に裏方の部員をまわせばいい。それくらいしか選択肢はないように思われた。いや、もう一つの有力な選択肢は、公演の中止である。その方がより妥当な選択肢に思えた。けれども、これだけみんなで一所懸命に練習してきた芝居を中止することは絶対にしたくないとぼくは思った。

 役の入れ替えは絶対に無理だ。それまで自分のセリフで一杯一杯だった者が、たった2日で別の役をできるわけがない。といって、中止は絶対に嫌だ。それならどうする。

 結論はひとつしかなかった。オレがやる。

 こう格好つけて言うのは簡単だが、最初に書いたように、ぼくは何10年と歌い続けてきた都はるみの「涙の連絡船」の歌詞でさえ覚えられない人間である。3月に卒業したばかりの自分のクラスの生徒に4月に町でばったり会って、ところで君の担任は誰だったの? というトンマな質問をすでに25歳にして発した人間である。修学旅行の引率で自由行動から旅館に帰ってきた自分のクラスの生徒に向かって、担任は誰だ? と聞いた人間である。そういうほとんど記憶能力に重大な欠陥があるとしかいえない人間が、1時間になんなんとするこの芝居の主役を、たった2日の練習で出来るかどうか、そんなこと、考えるまでもないではないか。

 けれども、その時のぼくの頭には、そうした客観的な事情など一切浮かべる余地がなかった。この芝居を中止にはできない。そのためにはオレがやるしかない。そのシンプルきわまりない思いだけが頭を支配していたようだ。ぼくには、ときどきこうしたことが起きる。何かをやるとなったら、それ以外のすべてのことが、頭の中から消えてしまうのだ。そのことで、どれだけ今まで周囲に迷惑をかけてきたのかしれないのだが、それがプラスに働くことがごく稀にあるのだ。

 まあ、いきなり主役を(主役、主役と調子に乗って強調しているが、本当の主役が誰であるかは、作者の東畑君に聞くしかない。話を単純にするためにこうしておくだけです。)やるといっても、2ヶ月も演出をしてきているので、何となくだいたいのセリフは頭に入っていた。だから後はそれを相手に会わせて正確に言えればいいのだし、演技の方は、演技経験がないけれど、まあ演出するときに、こうしろああしろと、それなりに「模範演技」をやってきたので、何とかなる、と考えたのだと思う。

 しかし、それからの2日間は、大変だった。文字通り、寝ても覚めてもセリフを覚えるのに必死だった。ICレコーダに、すべてのセリフを自分のところだけを「空白」にして録音し、それをクルマの中でも家でも聞いた。お風呂の中でも、セリフを呟いた。挙げ句の果てには、夢の中でも練習していた。これは誇張ではなく、ほんとうのことだ。
金曜日の夕方にゲネプロ(本番どおりの通し稽古)をやったような気がする。そこでは、間違いだらけだったと思うけど、それでも、何とか最後まで行けそうな感じにまでなっていたように思う。けれども、部員たちはぼくの芝居を見て、満面に不安を浮かべ、何度も「ちゃんとセリフ覚えてきてくださいね!」と念を押した。大丈夫、まかせておけ、って言ったかどうか忘れたが、その夜もただただセリフを呟き続けた。

 そしてとうとう土曜日の本番。ピエロの衣装を着て、ぼくがいちばん嫌いなメークをやけっぱちになって、自分で塗りたくり、見るも哀れなピエロができあがった。

 幕があがった。ぼくは、その時、49歳。恥ずかしいという感覚はなかった。不思議なことに不安もなかった。できるような気がした。そして、実際に、最後までほとんどセリフを間違えずに演じ切った。

 翌日の日曜日にもう一度公演があった。その時には、アドリブをいえるほど、落ち着いていた。舞台の脇へ行って、オシッコをする場面があるのだが、そこでは、「あ~あ、最近キレがないなあ。」なんてクスグリを入れて、客席の前で見ている同級生の教師にひそかに受けたりした。

 日曜日、中学以来の熊井という中学以来の親友が娘を連れてやってきた。(彼の息子が栄光にいて、東畑君と同級生だった。同級生の熊井は、ぼくらをおいて先に逝ってしまった。)まだ小学生だったその娘に、「おじちゃんがこれから講堂でお芝居をやるから見てね。」と言っておいたら、殊勝にも彼女は見てくれたのだが、芝居の後、その娘に、「どうだった? おじちゃんは?」って聞いたところ、その娘は一言「おじちゃん、体が重い」。

 え? そうだったのか? って驚いて、すぐにビデオを見たら、若者のピエロのはずが、自分では若々しく演じたはずが、あろうことか、全身から「オジサン」が立ち上っている。その無残な姿と動きに、思わずぼくは、キャッと叫んで目を背け、ビデオを止めた。それ以来、二度とそのビデオを見ていない。

 けれども、それは、ぼくが「自分をほめたい」と思った、たった二つの体験のうちの「もうひとつ」なのである。


 




ピエロのぼくと、小人(脚本)の東畑君




白雪姫の衣装が豪華。



カーテンコール




演劇部室の裏庭で記念撮影。

みんな、ほぼ放心状態。

ぼくは、特にぐったりしてるなあ。


 

 


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100のエッセイ・第10期・92 「road」貼り

2016-07-24 10:13:04 | 100のエッセイ・第10期

92 「road」貼り

本文を読んでから、よく目を凝らしてご覧ください。

2016.7.24


 

 顧みて人に誇れることのあまりに少なく、忸怩たる思いばかりがつのる我が人生だが、たった2つだけ、かの有森裕子のごとく「自分を褒めてやりたい」と思ったことがある。そのひとつを書いておく。

 栄光学園が創立50周年を迎えたのは1997年、ぼくが48歳のときだった。ぼくはその創立50周年記念行事の実行委員となり、記念誌の発行を担当することとなった。創立40周年の時も記念誌を発行したのだが、それは写真を中心としたアルバムのようなものだったので、今回は文章中心に学園の歴史をまとめようということになった。

 ぼくはその当時DTP(「デスクトップ・パブリッシング」コンピュータ製版のこと)に凝っていて、何でもかんでも版下をパソコンで作成して本やら冊子やらを作るのに熱中していた。ちょうどそのころ、ぼくが在学中から使っていた『中学生の古典』という学校独自の教科書の改訂の必要に迫られていて、その教科書の版下も手がけていたのだが、この記念誌の版下もぼくがやることにしてしまった。

 本や冊子を作ろうとした場合、いちばん金のかかるのがこの版下作成で、ものにもよるが、だいたい1ページ3000円ぐらいはかかる。それが例えば200ページの本だとすれば、それだけでざっと見積もっても60万円はかかる寸法である。それをぼくがパソコンでやってしまえば、その分はタダだから、1冊あたりの単価も相当安くなるわけだ。自分でヤリマスって言い出したんだから、金を払えとはいえないが、まあ、完成の暁には金一封ぐらいは出るだろうぐらいの気持ちだったかどうか知らないが(ちなみに、一銭もでませんでした。)、全部自分で版下を作ったんだという自己満足が得られればそれでよかったのだ。だから、このことについて「自分を褒めてやりたい」なんて思っているわけではない。

 1997年の4月頃だったろうか、およそ3年の歳月をかけたぼくを含めて4人の記念誌編集委員の努力が実り、299ページの記念誌『より高く』5000部が完成し、印刷所から納入されて天にも昇る気持ちでいた日の翌日の朝、学校へ行くと、編集委員の一人の若い教師が「山本先生、見つけちゃいましたよ。」と言う。「え? どうしたの?」って聞くと、誤植があったというのだ。まあ、299ページもの本に一つや二つの誤植があったとしても当然だし、たいしたことじゃないと一瞬思ったが、その誤植の箇所と内容を聞いて思わず絶句した。校正には万全を期したつもりでいたのに、とんだ落とし穴があったのだ。

 記念誌は「歩みをたどって」「思い出とともに」「今、そして…」という3部構成になっていて、その各章ごとに扉をつくり、そのそれぞれの扉に、よせばいいのに、学園で長く歌われてきた英語の歌詞を掲載したのだ。その第3章の扉には「We are building a road」という勇ましい歌を配したのだが、こともあろうに、その「road」のスペリングが間違っているというのだ。あわててそのページを見ると、なんと、「road」とあるべきところが「rord」になっているではないか。まるで英語を習いたての中学生のような間違い。しかも、ご丁寧に、この歌詞には、題も含めて3回も「road」が出てくる。ぼくが歌詞をタイプするときにコピペしたので、3ヶ所とも全部間違っている。

 文章の中に出てくる言葉に誤植があったとしても、まあ気づかなければそれまでだが、いちばん目立つ扉に、余白を十分にとって配置してある英語の歌詞に、こんな初歩的な、幼稚なミスがあるとなれば、とんだ恥さらしだ。

 で、問題はここからだ。これを放置できないことは確かだから、とるべき対策としては、正誤表を配るか、修正するしかない。しかし正誤表などを挟み込んだら、わざわざこちらの無知無学を宣伝するようなものだ。これは修正するしかない、そう思った。

 修正するといっても、修正液を塗ってその上から手書きなんてみっともないことは絶対にしたくない。そんなことしたら精魂込めた版下作成が台無しだ。これはもう、上から貼るしかない。幸い、自分で作った版下だから、まったく同じフォント(字体)で、字間・行間もまったく同じにプリントすることができる。修正箇所をよく見ると、2枚のシールを作れば、3ヶ所の修正をすることが分かった。つまり、1冊につき、2枚のシールを当該箇所に貼るという作業をすればいいのだという結論が出たわけである。

 しかしである。本は5000冊ある。5000冊の本がどのくらいの量になるかは、見たことのない人にはちょっと想像がつかないだろう。その本の当該ページを広げて、そこに2枚のシールを手で、しかも正確に貼るという作業が果たして制限時間内に出来るだろうか。

 記念誌が納入されたのが4月、記念式典は6月21日。式典の前に、様々な関係先に送付することもあるだろうから、1ヶ月ほどしかないことになる。しかも、こっちは授業がある身の上。どうすればいいのか。事務の人などに依頼して数人でやれば、可能かもしれない。どうしようもなければ生徒を動員するという手もある。けれども、ぼくは、自分のミス(つまり「road」を「rord」と恥ずかしくも打ち間違えたのは、他でもないこのぼくなのだ)の尻ぬぐいを他人に押しつけることだけは絶対に嫌だった。自分でやるしかなかった。

 次にぼくが考えたのは、どうやって時間を作るかということだった。

 中学校の国語の教科書に、井上ひさしの『握手』という小説が載っていた時期がある。それを授業で教えた時、その中に出てくる「ルロイ神父」(イエズス会の神父である)の「困難は分割せよ」という言葉がその時頭に浮かんだ。「そうだ分割だ!」

 それからぼくは、1冊の本に2枚のシールを貼るという作業(*注)に何秒かかるかを計った。そして、5000冊に貼るのに要する総時間を計算して割り出した。次に、およそ1ヶ月の間にそれを成し遂げるには、1日に(休日はもちろん除いて)どれくらいの時間をかければいいかも計算した。その結果は詳しく覚えていないが、1日にせいぜい1時間をその作業にさけば、1ヶ月ほどで達成できることが分かったのだ。

 次に、規則を作った。

1 どんなに忙しくても、決めた時間は必ず作業をすること。(1日サボると、ついついそれが度重なるものだから。)

2 どんなに興に乗っても、決められた時間以上は作業をしないこと。(興に乗ったらやるという形になると、興が乗らないときにはやらないということになりかねないから。)

3 休日出勤は絶対にしないこと。(これは元々のぼくの数少ないポリシーだから。)

4 誰の助けも借りず一人でやること。(誰かと一緒にやると、ついその人に頼る気持ちが出てくるものだから。)

 これをほぼ忠実に守った。作業の1日目に、件の若い教師が手伝ってくれたけど、やはりその後の手伝いは断った。同じ編集委員だとしても、自分のミスの尻ぬぐいはさせたくなかったし、仕事は楽になっても気兼ねの方がストレスになりそうだったということもあったようだ。

 その頃使われなくなって倉庫のようになっていた穴蔵のように暗い地下の部屋(知る人ぞ知るの、昔の購買部があった部屋)に、5000冊を運んでもらって、来る日も来る日も、シールを貼り続けた。最初はいくらやっても、山のように積まれた本の山はいっこうに減る気配すらなかったが、それでも「計算」を信じて、貼り続けた。別に辛いとも思わなかった。慣れというものはオソロシイもので、だんだんとスピードもアップしてきた。挙げ句の果てに、この作業を「ロード貼り」と勝手に名付け、「線路は続く〜よ〜、ど〜こまでも〜。」なんて鼻歌交じりでやるようになった。そして、とうとう、ほとんど「計算」通り、5000冊全部にシールを貼り終えたのである。

 そのとき、生まれて初めて「自分を褒めてやりたい」と思ったのだった。


 


(*注)この「シール」についての作業の詳細は以下のごとし。まず、A4用紙に、びっしりと「road」「road road to」という文字列をプリンターで印刷する。次に、この紙の印刷していない面、つまり裏側にスプレー糊を吹き付けて乾かすと大きなシールになる。次にこの糊のついた紙を、裁断用のマットの上に印刷面を上にして貼り付ける。次に、それを当該箇所の大きさにカッターでカットする。その上で、そのカットされた部分をピンセットでつまみ、当該箇所に貼り付ける。この作業も含めて1冊あたりにシール2枚を貼る時間を計るわけである。たぶん、20秒ぐらいだったと思う。だんだんスピードアップしたが。



 

問題の扉ページ




表紙



目次



ぼくの編集後記

ここでも自慢してる。


 

 

このデータだけは記念に残しておきたかった。

まだInDesignが出る前の

Page Maker

懐かしい。

ちなみに、このうち、学校のものはプリンターだけである。

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・91 ゴマメの歯軋り

2016-07-10 16:05:27 | 100のエッセイ・第10期

91 ゴマメの歯軋り

2016.7.10


 

 大西巨人の『神聖喜劇』をなんとか読了して、今は、伊藤整の『日本文壇史』を読み始めたところである。『神聖喜劇』以前は、ずっと海外の長編小説を読んできて、それなりにおもしろかったのだが、やはり、ロシアなりフランスなりに暮らしたこともない外国人のぼくにとっては、いまいち分からないところも多々あり、議論の深刻さに見合うだけの、こちら側の共感という部分においては隔靴掻痒の感を免れなかった。

 それが『神聖喜劇』となると、いわば、「日本人とは何か」「日本という国家とは何か」といった根本的な問題をするどく突き詰めているわけだから、戦後70年経った今でも(いや、昨今のきな臭い政治状況にあればこそか)、いちいち胸に突き刺さるものがあった。

 

「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。」ないし「軍ハ天皇親率ノ下二皇基ヲ恢弘シ国威ヲ宣揚スルヲ本義トス。」が軍隊諸法規の根元に不動の最上法源として厳存する限り、私の内部の(おそらくブルジョア法治主義の限界あるいは当代国家権力にたいする合法闘争の限界についての認識の類に由来せるはずの)恐怖もしくは憎悪は、消え失せるはずがなく、消え失せることができない。しかもこの最上法源が実存する以上、この領域(軍隊)に行なわれているのは、ブルジョア法治主義以前また以下の特種の法治主義でしかなく、この領域を支配しているのは、ブルジョア制定法以前または以下の特種の制定法でしかない。それならば、この最上法源にたいして、この領域の法治主義•制定法主義にかかわる私のあれこれの固執もどれそれの拒絶も、ついにただ「鱓(ごまめ)の歯軋り」に過ぎぬのではなかろうか。

『神聖喜劇』第4巻・384p(光文社文庫版)

 

 要は、天皇をいただく軍隊である以上、何を言ったって、どう反抗したって、所詮「ゴマメの歯軋り」でしかないという主人公東堂太郎の認識は、今の日本人にまったく無縁のものではありえない。戦時中の悪夢とはとっくの昔に縁を切ったはずなのに、なんのことはない、70年も経った今、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」という文言が、自民党の憲法改正案「前文」に飛び出してくる始末である。つくづく嫌になる。

 まあ、ぼくなどは、かの大学紛争時代の全共闘世代のど真ん中で、しかも、その「闘争」に加わらず(加われず)、そのことで、周囲の友人たちからさんざん非難もされ、ののしられ、ほんとに立つ瀬もない大学時代を送ってきた超ノンポリの人間だから、今更どの面さげて政治問題(ぼくにとっては、むしろ「感情の問題」なのだが)に口出すのかと言われたらそれこそグウの音もでやしない。

 けれども、ヘルメット被って、ゲバ棒もって、教授を「お前呼ばわり」してつるし上げたその同級生が、卒業すると、舌の根も乾かぬうちに寝返ってしまうのを苦々しく思いつつも、ゲバ棒持たなかった罪滅ぼしというわけでもないけれど、その後の教師のとしての生き方の中で、とにかく権力側にはつくまいとぼくなりにがんばってきたことは確かである。

 『いちご白書をもう一度』なんて歌を歌って、よくもぬけぬけと「体制側」に寝返っていけたものだ、恥ずかしくないのかって、当時のぼくは思ったし、『いちご白書をもう一度』を、もし当時の全共闘のヤツがカラオケなんかで歌ったら、一発ぐらい殴ってやりたい気分は今でもある。それほど、あの頃のことは、深い傷としてぼくの中に残っている。

 しかし、それとても、あまりにセンチメンタルな愚痴にしかならない話で、「ゴマメの歯軋り」ですらない。今日の参議院選挙の結果は、まるで目に見えるかのようで、そうなったらもうほんとに「世捨て人」として生きるしかないとすら思う。というか、とっくの昔から「世捨て人」であったわけだが。

 『神聖喜劇』は、昭和17年のたった3日間の出来事だが、『日本文壇史』は、明治の文学史すべてを覆う。その最初の明治10年前後の日本の状況のなんたる混沌。そうした混沌とした状況の中に次々と登場する「そうそうたる面々」は、みなまだ10代である。その10代の「子供」がすでに学校で教鞭をとっていたりする。恐るべき早熟の時代である。そうした時代の空気に触れると、18で選挙権が与えられた(というか、意図的に与えた)なんてことで大騒ぎしていること自体、時代の退廃をしか感じない。

 さっきテレビを見たら、午前中の投票率が13パーセントとか。前回より低いらしい。今頃、あちこちの観光地は人でごった返しているだろうし、もうすぐ大相撲中継も始まる。選挙速報は、大はしゃぎの特番ばかりだろう。まったく憂鬱の極みである。

 こんな柄にもない文章は、書くのよそうかとも思ったが、今、この時でなければ書けない一瞬の感慨であることは確かなので、後の反省材料として書きとどめておく。

 

 


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