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「失われた時を求めて」を読む 2 不眠の夜 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その2

2023-04-27 10:25:36 | 「失われた時を求めて」を読む

「失われた時を求めて」を読む 2 不眠の夜 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その2

2023.4.27


 

 私は両頬をそっと優しく枕の美しい頬におしあてる。枕はふっくらとみずみずしく、まるでわれらが少年時代の頬のようだ。マッチをすって、懐中時計をみる。やがて夜中の十二時だ。それは病人が、やむなく旅に出て知らないホテルに泊まるはめになり、発作で目覚めたとき、ドアの下に一筋の光を認めて嬉しくなる瞬間である。ああ、よかった、もう朝だ! しばらくすれば使用人も起きてくるので、呼び鈴をならせば、助けに来てくれるだろう。楽になれると思うと、苦痛に耐える気力が湧いてくる。はたして足音が聞こえた気がする。足音は近づき、ついで遠ざかる。そしてドアの下に見えていた一筋の光は消えてしまう。じつは真夜中で、ガス灯を消したところなのだ。最後の使用人も立ち去り、一晩じゅう、手当も受けず苦しまなくてはならない。

 

 不眠の夜は、文学者にとって、いわば「必須」であるかのようだ。

 不眠とはほとんど無縁のぼくにしても、一年に何度かは、なかなか眠れない夜もある。その時、暗やみの中に聞こえる、たとえば、新聞配達のカブのエンジン音、始発の京急電車の走りぬける音などは、なぜか一種の「安堵感」を呼び起こす。病人でなくても、なぜか、ほっとするのだ。それほど、夜というものは、得体の知れない、不可知の領域のものなのかもしれない。

 プルーストの語るこの不眠の夜の苦しみは、ぼくの中では、とうぜんのように、リルケの「マルテの手記」の冒頭の部分を呼び起こす。

 「マルテの手記」の刊行は、1910年、「失われた時を求めて」の「スワン家のほうへ」の刊行は1913年だから、ほぼ同時代。プルーストは「マルテの手記」を読んでいたのだろうか。

 


 窓をあけたままで眠らなければならないのが閉口である。電車がベルを鳴らして轟々と部屋を通りぬける。自動車が僕の寝ている上を走り去る。どこかでドアが大きな音でしまる。どこかで窓ガラスが割れて落ちる。その大きな破片がからからと笑い、小さな破片が忍び笑いをする。そして、不意に反対の方角からうつろなこもった音が家の内部で聞こえる。だれかが階段をのぼって来るのだ。いつまでものぼって来る、来る。僕の部屋の前へ来た。いつまでも前に立っていて、そして、通りすぎる。そして、再び街路だ。娘の甲高い声がする、「いいえ、お黙り、もうたくさんよ。」電車が血相を変えて走って来て、娘の声をひいて走りすぎる。すべてをひきつぶして行く。だれかが叫んでいる。人々が走って行き、足音が入り乱れる。犬がほえる。なんという喜びだろう、犬だ。夜明け近くには鶏さえも鳴いて、なんともいえない安堵をおぼえる。そして、僕は不意に眠りこむ。

(リルケ「マルテの手記」岩波文庫版・望月市恵訳)

 


 こちらは、パリでの経験を書いているようだから、ぐっと都会的な猥雑な世界だ。けれども、「安堵」は、同じように訪れる。

 リルケは、「夜の物音」を列挙しながら、更に、「もっと恐ろしい音」について語る。

 

 これは夜の物音である。しかし、そういう音よりももっと恐ろしいものがある。それは静けさだ。大きな火事のときにも、同じようにひっそりとして緊張の極に達する瞬間がときどきあるようだ。ポンプの噴出がやみ、消防夫ははしごをのぼるのをやめ、だれもが息をひそめてたたずんでいる。頭上の黒い蛇腹が音もなくせり出し、高い壁が、立ちのぼる火柱の前で黒々と音もなく倒れ始める。だれも息をひそめ、首をちぢめ、仰向いて目をむきながら立ち、すさまじい結末を待っている。この都会の静けさはそれに似た静けさである。

 


 都会の夜の「静けさ」が孕んでいるもの。それはおそらく「死」だ。リルケは、この後、「死」について長く語っていく。

 いっぽう、プルーストは、この夜について、「夢」について、緻密に書き続ける。

 


 ふたたび眠りこむと、ときおりいっとき浅く目覚めることはあっても、それは羽目板がひとりでにきしむ音を聞いたり、目を開けて暗闇の万華鏡を見つめたり、意識に一時的に射した薄明かりを頼りに、すべての家具が、つまり寝室全体が眠りこけるのを味わったりする時間にすぎない。私にしても、そうして眠る一切のほんの一部にすぎないから、すぐにその無感覚の世界に舞い戻り、それと一体になる。あるいは眠っているうちに、永久にすぎ去ったわが原始時代に苦もなく戻ってしまうことがあり、幼稚な恐怖のあれこれに身をすくめる。たとえば大叔父に巻き毛をひっぱられる恐怖などは、巻き毛が切り落とされた日に──私にとっては新たな時代のはじまりの日に──雲散霧消していたはずである。ところが眠っているあいだはこの事件のことを忘れていて、大叔父の手から逃れようとしてようやく目が覚める。すぐにその事件は想い出すのだが、それでも念のため、頭をすっかり枕でおおってから夢の世界に戻るのだ。

 


 不眠といっても、まったく目が冴えているわけではなく、そこに浅い眠りが混じりこみ、いわば「夢うつつ」の状態となる。そうした「夢の世界」へ、プルーストは入り込んでいくのだ。

 「私にしても、そうして眠る一切のほんの一部にすぎないから、すぐにその無感覚の世界に舞い戻り、それと一体になる。」という部分は、注目に値する。
部屋の中の一切の家具は眠りこけ、自分も、その家具の一部にすぎない、という感覚。個人的な肉体が解体し、「自分」がなにかおおきなものと一体化するという感覚は、先日読んだばかりの山野辺太郎の小説「こんとんの居場所」にも出てくる。山野辺の場合は、睡眠ではなくて、あくまで覚醒時の体験として語られるのだが、それがそのまま壮大な「夢」あるいは「荘子の夢」につながっていくわけだが。

 こうした夢の世界で、「私」は、苦もなく「永久にすぎ去ったわが原始時代」に戻ってしまう。「永久に過ぎ去った」とはいえ、それは消滅したわけではない。それはぼくらの意識の深層(?)に、体積しているのだろう。それも、死んだ化石としてではなく、生き生きとした、いわば生命体として。それは、何かをきっかけにして、意識の表層に浮上してくる。あるいは、意識を覆ってしまう……。

 不眠の夜がもたらす「恩恵」は限りなく豊かだ。

 

 

 

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