日本近代文学の森へ 244 志賀直哉『暗夜行路』 131 「丹毒」という病気 「後篇第三 十八」 その3
2023.6.8
いかにも頼りなさそうな医者は、不得要領の診断をして帰っていったが、赤ん坊は、夜中泣き続ける。夜明けを待って謙作は、K医師の自宅に行き、往診を頼む。
一時間ほどしてK医師は来た。半白の房々とした口髭を持った大柄な人で、前夜の見すぼらしい医者とは見るから何となく頼りになった。医者は挨拶もそこそこに赤児の今までの経過に就いて色々訊ねた。赤児は丁度乳を飲んで泣止んでいる時だったが、医者がちょっと手を額に当てると直ぐ泣き出した。医者は手を離し、泣いている赤児を凝(じ)っと暫く見ていた。その顔をまた直子は寝たまま上眼使いに凝っと見詰めていた。
「とにかく、身体(からだ)を一つ拝見しましょう」医者がいった。
看護婦は障子を閉めてから、赤児を受取り、小さい蒲団に寝せて、何枚も重ねてある着物の前を開いた。
「それでよろしい」医者は近寄って、胸から腹、咽(のど)、それから足まで叮嚀に調べ、二つ三つ打診をしてから、自身で臍(へそ)の緒の繃帯(ほうたい)を解き、大きな年寄らしい手で下腹を押して見た。赤児は火のつくように泣いた。
「ちょっと背中の方を出して下さい」
看護婦は袖の肩から赤児のいやに力を入れて屈(ま)げている小さな手を一つずつ出して、裸の赤児を医者の方に背中を向け、横にした。赤児は両手を担ぎ、両足を縮めて、力一杯に無闇と泣いた。腹を波打たせながら泣く、その声が謙作には胸にこたえた。直子は怒ったような妙に可愛い眼をして黙ってそれらを見ていた。
医者は叮嚀に背中を調べた。そして尻から一寸ばかり上に拇指(おやゆび)の腹ほどの赤い所を見附けると、なお注意深く其所(そこ)を見ていたが、やがてこごんだまま、顔だけ謙作の方へ向け、
「これです」といった。
「何ですか」
「丹毒(たんどく)です」
「…………」
直子は眼を閉じ、そして急に両手で顔を被(おお)うと寝返りして彼方(あっち)を向いてしまった。
「丹毒」という病名は、今ではあまり聞かないから、もう過去の病気かとなんとなく思っていたのだが、調べてみると、「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」と同じ(?)病気だということで、それなら、よく聞く。つまり、力士がよくかかるからだ。「蜂窩織炎で休場」というのはよくあることだ。なかなか難しい病気らしい。
この「丹毒」という病名は若いころから知っていたが、それは、まさに、この「暗夜行路」を読んだからだ。高校の「現代国語」の教科書に、「暗夜行路」の一部が載っていて、その一部というのが、この子どもの死を描いた部分だったのだ。そのとき、「丹毒」という病名が強烈に印象に残った。しかし、印象に残っただけで、特にその病気について詳しく調べることもなかったというわけだ。
志賀直哉は、大正3年(1914年)結婚する。大正5年6月に、長女慧子が生まれるが、生後一ヶ月半ほどで腸捻転のため死亡。大正8年6月、長男直康が生まれるが、生後37日に、丹毒のため死亡している。当時、赤ん坊が無事育つということが、いかに大変なことだったかがよく分かる。
この赤ん坊の病気と死は、長男の死亡の経験をもとに描いたことは間違いないだろう。そうでなくては、これほど精細な描写はできない。フィクションというのは、そう簡単なことではない。
医者は、早く手当をすれば心配なくすむだろうというが、謙作は不安に駆られる。しかし、医者に聞くのはおそろしい。
謙作は明瞭した事を訊くのが恐ろしかった。彼はそういう不安と戦いながら、それでもやはり訊かずにはいられなかった。
「どうでしょうか」
「せめて生後一年経っておられるとよほど易(らく)なのですが──しかし早く気が附いたから、どうか食い止められるかも知れません」
医者はなお、丹毒は大人の病気としてもかなり困難な病気で、まして幼児では病毒と戦ってしまいまで肉体がそれに堪えられるか否かで分れるのだから、とにかく栄養が充分でないといけないという事、それには母乳に止まられる事が何よりも恐しく、出来るなら、母親だけ赤児の泣声の聴こえぬ所へ離しておきたいものだといった。
医者は、母乳が命綱だから、母親の健康を保つために、母親に安心感を与えることが大事だとアドバイスするのだが、謙作には、そんなことは不可能に思えた。自分が不安なのに、妻に安心感を与えるなど、できるわけがない。それができれば苦労はない。
「ええ」そう答えたが、謙作にはそれが不可能な事に思われた。医者が、どうにか食い止められるかも知れないといっている、それも信じられなかった。医者自身そう思っていないとしか考えられなかった。
「幼児の丹毒といえば普通まあ絶望的なものになっているんじゃないですか」謙作は弱々しい気持になってこんな事をいった。
「さあ、そうも決まりますまい。が、とにかくなかなか困難な病気です。蜂窩織炎(ほうかしきえん)、それから膿毒症とまで進まれたら、これはどうも致し方ありますまいな。しかしそうせん内に出来るだけ―つ手を尽して見ましょう」
謙作は黙ってちょっと頭を下げた。
「蜂窩織炎」という病名が、ちゃんと出てくるのでびっくりした。
いずれにしても、幼児の病気というものは、心配なもので、ぼくのような心配性の人間には、なかなか厳しい。実は、こういう話を読むのも辛いというのが、本音なのだ。
けれども、ここをすっ飛ばすわけにはいかないので、丁寧に読んではいるのだが、まあ、引用はほどほどにしておきたい。とにかく、発病から、死亡に至る経緯を、こと細かに書いているので、興味があれば、原典にあたっていただきたい。