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日本近代文学の森へ 247 志賀直哉『暗夜行路』 134 BGMとしての「魔王」 「後篇第三  十九」 その2

2023-08-17 10:46:59 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 247 志賀直哉『暗夜行路』 134 BGMとしての「魔王」 「後篇第三  十九」 その2

2023.8.17


 

 国から出て来た直子の母が台所口の柳を鬼門の柳だといって、切(しき)りに植替えたがった。謙作は母と一緒にそういう御幣を担ぎたくなかったが、たびたびいわれ、それを植替えさした。
 彼がそれより何となく気になっていたのは、赤児の誕生の日の夜、前からの約束で末松らと三条の青年会館に演奏会を聴きに行った、其所で彼はシューバートのエールケー二ヒを聴いた、その事だった。彼は前から曲目をもっとよく見ていたら、この演奏会ヘ行かなかったろう。この嵐の夜に子供を死神にとられる曲は今の場合、聴きたくなかった。しかし彼は何気なく行って、誕生の日に聴くには如何にも縁起の悪い曲を聴くものだと思った。彼はちょっと厭な気持になった。

 

 赤ん坊の丹毒は、蜂窩織炎を起こすに至り、事態はいよいよ切迫してきた。

 こういうとき、やっぱり、色々迷信めいたことが気になるもので、直子の母の「鬼門の柳」もその一端だろうが、一説によると、鬼門に柳を植えるのは、むしろ鬼門除けとしてということもあり、地方によって異なるのかもしれない。

 問題は、謙作の聴いた「シューバートのエールケー二ヒ」つまり「シューベルトの魔王」である。このあたりの数ページが、高校時代の現代国語の教科書に載っていたのだ。たぶん、角川書店の教科書だったように思う。それを読んで、どう思ったのか記憶にないが、ただ、「シューベルトの魔王」のイメージだけが強烈に残った。そのとき、その曲を聴いたという覚えもないし、「暗夜行路」を読破した覚えもないが、しかし、「志賀直哉の書いた『暗夜行路』には、『シューベルトの魔王』が出てくる。」という「知識」だけは、数十年経っても失われていなかった。

 知識偏重の教育というのが批判されて久しいけれど、そして、もちろん「偏重」はいけないに決まっているけれど、「教育」あるいは「学校教育」でなければなしえないことに、「知識を与える」があることも間違いない。高校の授業がなければ、ぼくは、生涯、志賀直哉も、「暗夜行路」も、シューベルトも、「魔王」も、なにもかも知らないままであったかもしれない。

 そういうものを「教養」というつもりはないが、「教養」の大半を占めるのは、やはり「知識」だろうと思う。

 教科書での「暗夜行路」のきわめて「不十分」な読書が、今の、「暗夜行路」の精読のきっかけになっていることも、また確かなことだ。

 さて、その「魔王」を聴いた場面はこうだ。


 若いコントラルトの唄で、その晩の呼び物だったが、謙作には最初から知らず知らずの悪意、反感が働いていた。彼にはその曲を少しも面白いとは感ぜられなかった。総て表現が露骨過ぎ、如何にも安っぽい感じで来た。それはただ、芝居がかりに刺激して来るだけで、これだけの感じなら、文学のままで沢山だと思った。シューバートのこの音楽は文学を文学のまま、より露骨に、より刺激的に強調しただけで、それは音楽の与えられた本統の使命には達していない曲だと彼は考えた。
 ゲーテの詩までが彼には気に入らなかった。それは本統に死を扱った深味のある作ではなく、芸術上の一つの思いつきだという気がした。比較的若い時の作に違いないと思った。この点メーテルリンクの「タンタジイルの死」の方が彼には好意が持てた。
 寺町を帰って来る時、水谷が充奮しながら、
 「エールケーニヒは素敵でしたね」といった。
 「あれはやはりいいね」末松が答えた。末松は自身では何もやらなかったが、好きで、音楽の事は精しかった。末松は黙っている謙作の方を向いて、
 「あの曲はシューバートの中でも最もいいものだと思うよ」といった。
 謙作は返事をしなかった。彼は音楽の事では余り明瞭(はっきり)した事をいいたくなかった。いうだけの自信がなかった。そして、彼は二重廻しのポケットの中で丸めていたプログラムを何気なく道へ落した。厄落し、そんな気持で……。
 彼はこんな事を気にしたくなかった。気にしても仕方なく、気にするほどの事ではないと思った。勿論それは直子にも話さなかった。そして自分でも忘れていたが、今、赤児にこんな病気になられると、誕生日にエールケーニヒを聴いた事が讖(しん)をなしたというような気もされるのだ。

(注:「讖をなす」= 予言をする。未来の吉凶・運不運などを説く。)

 

 「シューベルトの魔王」を子どもの誕生の日の夜に聴いたことが、すでに子どもの死を「予言」していたという感じ方は、ばかばかしいことだが、しかし、「鬼門の柳」を気にする直子の母とまた同じレベルの迷信深さに謙作もまた捉えられていたということだろう。

 ここには一種の音楽批評があるわけだが、印象批評に終始している。「音楽の与えられた本統の使命」とは何なのかについての言及がまったくない。ゲーテに対する批評のほうが、まだ、芯がある。これは、謙作が(たぶん、志賀直哉自身も)音楽についての理解に自信がないということだ。それを率直に書いているのが面白い。

 こういった志賀直哉の率直さに、共感する。ぼく自身、文学への理解には自信がないが、音楽については、さらにそれを上回る自信のなさを自覚しいてるからだ。

 それはそれとしても、この「厄落とし」を最後に、もう、「魔王」は出てこない。それが不思議だ。

 というのも、ぼくが高校時代に読んだかすかな記憶のなかでは、謙作は子どもが死にそうだという不安のなかを、夜の道に出て、医者の元へと急ぐのだが、その謙作の頭の中に「シューベルトの魔王」の歌が、鳴り響くというシーンが確かにあるからだ。そこがすごく劇的だった。映画みたいだった。

 けれども、今回読んでみると、そんなことはぜんぜんなくて、子どもが生まれた日に、「魔王」を聴いたことが、「縁起が悪い」という印象を持って不快だったというだけのことだったのだ。

 文学というものは、実に勝手なイメージを読者のなかに生み出すものだ。しかし、ほんとうにそれが「勝手なイメージ」であろうか。

 子どもが重病になったとき、その子の誕生の日に、「魔王」を聴いたことを思い出し、「縁起が悪い」と思ったということだけが書かれているが、しかし、「思い出した」のは、「魔王」を聴いたという「事実」だけではなくて、当然、その時「魔王」の音楽そのもが、謙作の頭のなかによみがえったはずだ。とすれば、子どもの死に直面しかかっている謙作の頭のなかには、ずっと「魔王」の音楽が鳴り響いていたのではなかろうか。あるいは、子どもが泣き止まなかったその日から、いやな予感とともに、この「魔王」がかすかに流れていたのかもしれない。そして、それがここに来て、一挙にクライマックスに達したとみることもできる。そう考えると、ぼくが頭の中に描いていたイメージは、あながち「勝手な」ものでもなく、志賀直哉の意図したものであったのかもしれない。

 小説には、BGMはないが、ここにはBGM的効果がたしかにある。

 

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