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日本近代文学の森へ (165) 志賀直哉『暗夜行路』 52 もたれ合い 「前篇第二  五」 その2

2020-08-18 10:36:34 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (165) 志賀直哉『暗夜行路』 52 もたれ合い 「前篇第二  五」 その2

2020.8..18


 

 謙作は高松から屋島に行くことにした。「志度寺」行きの電車は、屋島経由である。今の「琴電志度線」だろうか。乗ってみたい電車だ。

 

 屋島へ行く事にして、俥で電車の出る処へ向う。志度寺(しどじ)行きの電車に乗る。彼が乗った電車は空いていたが、帰って来る電車はどれも一杯の客だった。それは市の新聞社と電車の会社とが一緒になって、屋島で宝探しとか、芸者役者の変装競争とかいう催しをした、その帰り客だった。彼が屋島で下りてからもまだ帰り客がゾロゾロと通った。鬱金木綿(うこんもめん)の揃いの手拭を首へかけたり鉢巻きにしたりした番頭小僧の連中、芸者を連れた酔漢、帽子のリボンから風船玉を上げている子供連れの男、十日戎(とおかえびす)のほい駕籠のような駕籠に乗った連中、書生、駅員、その他荷をかついだ縁日商人等、種々雑多な連中が大概は赤い顔をして、疲れた身体を互にもたれ合って、帰って来た。彼は一人それらの連中とは全く異った気持で擦れ違いに歩いて行った。が、彼の心は淡い情緒を楽しんでいた。子供の頃、亀井戸の藤見、大久保の躑躅(つつじ)見、それでなければ駒場の運動会の帰途(かえり)、何かしらそういう漠然とした淡い情緒が起っていた。平地の塵埃(ほこり)っぽい処から、漸く坂道にかかる頃から帰り客も段々疎(まば)らになって行った。彼は松林の中の坂道を休み休み静かに登って行った。高松からずっと続いている塩浜が段々下の方に見えて来た。塩焼きの湯気が小屋の屋根から太い棒になって、夕方の穏やかな空気の中に白<立っている。それが点々と遠く続く。彼の物憂い沈んだ気分もさすがに慰められた。

 


 この一段落で一気に書かれた屋島の光景は、まるで昨日見た光景のように細かく鮮やかに書かれているのだが、実際には10年も後になって書いているのである。こんな光景は、フィクションでは書けないから、実際の体験をもとにしていると考えるべきだろうから、やはり10年経って思い出して書いていると考えるのが妥当だろう。志賀直哉は写真を撮ったわけでもなく、細かいメモをとったわけでもないのに、過去の出来事を実に事細かに思い出して書くことができたらしい。「暗夜行路」のクライマックスとも言うべき大山の描写などもそうした驚異的な記憶力によって書かれたということは、有名なことだ。

 こうしたまるで写真を見るような描写によって、書かれてから100年(!)もたった今でも、ぼくらは当時の風俗を目の当たりにすることができるのだ。

 それにしても、こうした賑わいは、今はほんとうに姿を消してしまった。コロナ禍がなくても、それはもうとっくに失われた世界だったのだ。
この頃の人々というのは、一目でそれが「芸者」なのか「番頭」なのか「書生」なのかが分かるような格好をしていた。それぞれの人がその人間の「輪郭」をくっきりとさせていた。それは自ずと社会の中での「階層」を顕わにするものだっただろうが、人間の「種々雑多」性を、人々に明示していたともいえる。

 今は、町を歩いていても、ひとびとはみな一様に見える。その実体は実は多種多様なのだが、その違いが見えない。しかし、それはみんなが平等になったということではなく、恐ろしいほど格差と分断は進んでいるのだ。

 「種々雑多な連中が大概は赤い顔をして、疲れた身体を互にもたれ合って、帰って来た。」という社会は、格差は顕わでも、分断は見えない。いやむしろ、格差を超えて、「もたれて合って」いるように見える。今はその逆だ。みな似たように見えるが、ひとりひとりは孤独なのだ。
高松だけではなく、東京もまた、そうした社会だった。「亀井戸の藤見」「大久保の躑躅見」「駒場の運動会」と並ぶが、それがいたるところにあったのだろう。そして、そこには「多種多様」な人間が、「もたれ合って」暮らしていたのだろう。

 もっともその「もたれ合い」というのは、必ずしも美しい「助け合い」ではないだろう。喧嘩したり、軽蔑したり、悪口言ったりしただろうが、それでも、それを含めての「もたれ合い」であり、それは分断からはほど遠かっただろうと思うのである。

 高松から屋島に続く「塩浜」の描写も素晴らしい。そうした光景に、謙作の病んだ気持ちも次第に慰められていくのだった。

 しかし、その「慰め」も束の間、謙作のこころにまた憂鬱が忍び込んでくる。


 彼が上の平地へ上(あが)った頃は、其処にはもうほとんど人影もなく、折(おり)の壊れ、蜜柑の皮、そんなものが落ち散っているばかりだった。絵葉書や平家蟹の干物を売る小さい家が店をしまいかけていた。彼は歩いている内に自然に、下の方に海を望む、小松林の中の宿屋の前へ出た。一組帰り遅れた客が離れの一つで騒いでいたが、女中たちは忙しく後片づけに立働いている所だった。
 彼は海を見下す、崖の上の小さな風雅作りの離れに通された。右の方に夕靄(ゆうもや)に包まれた小豆島が静かに横たわっている。近く遠く、名を知らぬ島々が眺められた。遥か眼の下には、五大力(ごだいりき)とか千石船とかいう昔風な和船がもう帆柱に灯りをかかげて休んでいる。夕闇は海の面(おも)から湧き上った。沖から寄せる《うねり》の長い弓なりの線が、それでも暗い中に眺められた。──とにかくいい景色だった。が、彼の心は不思議にそれを楽しまなかった。

 


*注

【十日戎のほい駕篭】大阪市今宮、兵庫県西宮で、正月十日に芸者が花で飾った駕篭に乗って蛭子神社に参詣する。宝恵(ほえ)駕篭。
【五大力】五大力船の略。伝馬船(てんまぶね)よりやや大きく内海に用いる。

 

 

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