聞
金文
半紙
芹乃栄(せりすなわちさかう)
七十二候
1/5〜1/9ごろ
ハガキ
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春の七草のひとつ芹が生え始めるころ、の意。
木洩れ日抄 31 「今を生きる」とはどういうことか
2018.1.6
人間は、いうまでもなく、今という時間だけを生きるもので、過去に生きることもできなければ、未来に生きることもできない。生きるということ自体が、今という時間を規定しているとさえいえる。
それなのに、人はことさら「今を生きよう」と言う。そんなことを声を大にして言わなくても、現実として「今を生きている」のに。
どうしてそういうことになるのか。
それは、人間というものが、過去にとらわれ、未来に不安を感じて、地に足のつかない生き方をせざるをえないからである。
早い話が、今、ご飯を食べながら、明日の朝は寒いだろうなあ、仕事に行きたくないなあなどと考えたり、今、寝床に入りながら眠ろうとしているのに、10年前の恥ずかしい出来事に身をよじらせたりする。「今」はその時、意識されない。
じゃあ、「今」をはっきりと意識するにはどうすればよいのかといえば、明日のことは考えず、昨日の恥は忘れるということしかない。けれども、それは土台不可能なことである。
明日のことを考えなくてよいのなら、手帖なんていらいないし、カレンダーも無用だ。昨日の恥を忘れられるくらいなら、人類はとっくの昔に幸福になれていたはずだ。
生きて、食べていかなければならない限り、明日のことは考えなければならず、感情をもって生きている以上、昨日の恥から逃れることなんてできない。
「今を生きよ」ということは簡単だが、それで人生がバラ色になることは決してないのは、その言葉を、「過去や未来にとらわれずに今を生きよ」と解釈してしまうからだ。
そうではなく、「今を生きる」ということは、明日のことを思い煩い、昨日のことに悔恨のほぞを噛む、その時間を生きるということである。それ以外に生きる方法はない。
「今」は、いうまでもなく、「過去」と「未来」の間にある、というか、あると仮定されている虚構の「時間」にすぎない。そんな時間を生きることなんて所詮できるわけがないのである。
改めて確認しよう。今を生きるということは、過去を忘れ、未来を考えないことではなくて、取り返しのつかない過去と、不安に押しつぶされそうになる未来の両方を、この生身に引き受けることだ。
それで人生がバラ色になるわけではないが、そういう覚悟をしたとき、はじめて虚構の「今」が、現実として立ち現れるのではないか。よく分からないが、そんな気がする。
小寒
二十四節気
1/5ごろ
半紙
金文
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今年は明日が「小寒」で、いわゆる寒の入りです。
もう、とっくに「寒中」ですけどね、実感としては。