日本近代文学の森へ 279 志賀直哉『暗夜行路』 166 「信じる」ということ 「後篇第四 十五」 その2
2025.4.12
謙作は、昨晩、お由が天理教の創始者のような「生神様」になる夢を見たとお由に語った。すると、お由は、竹さんの父親が天理教にのめり込み、竹さんが子どものころに家をつぶしたこと、それでも竹さんは、「感心な人」で、「村でもあの人は別ものらしいです。」という。謙作が、「何所か老成したような所がある。それだけに若々しい所も少いが」と言うと、お由は、「お父さんに家をつぶされたのは竹さんが子供の時ですからね、それだけでも大変なのに近頃また、人にもいえない苦労があるらしい噂です」と言う。
朝食のときに、お由は、その竹さんの苦労を話しだす。印象的なエピソードである。
「へえ、そんな人なのかな。──それはそうと、昨日から手伝に来てるんですか?」
「いいえ。お母さん、頼まんかったらしいです」
彼が朝飯の膳についた時、お由は竹さんの人にもいえない苦労というのを話した。
竹さんには三つ年上のまだ子供を産まない嫁がある。生来の淫婦で、竹さん以前にも、以後にも、また現在にも一人ならず、情夫というような男を持っている女だった。そして竹さんは亭主と呼ばれるだけの相違で、事実は何人かの一人に過ぎなかった。それを承知で結婚した竹さんではあるが、やはりそのため大分苦しんだ。人からは別れろといわれ、自分でも幾度かそれを考えた。しかし竹さんには何故か、この女を念(おも)い断(き)る事が出来なかった。意気地がないからだ、そう思い、また実際それに違いないが、竹さんはどうしてもこの女を憎めなかった。
絶えず面倒な事が起った。それは竹さんを入れたいわゆる三角関係ではなく、竹さんを除いたそういう関係で、面倒が絶えなかったのである。竹さんは女の不身持よりもこの面倒を見る事に堪えられなくなった。さりとてきっぱり別れようとはしなかった。
「それはお話にならんですわ。男が来て嫁さんと奥の間にいる間、竹さんは台所で御飯拵えから汚れ物の洗濯までするというのですから。時には嫁さんに呼びつけられ、酒買いの走り使いまでするというのですから」
「少し変ってるな。それで竹さんが腹を立てなければ、よっぽどの聖人か、変態だな。一種の変態としか考えられない」
謙作は竹さんを想い浮べ、そういう人らしい面影を探して見たが、分らなかった。しかし彼にもそういう変態的な気持は想像出来ない事はなかった。
「竹さん自身はどういってるんです」
「自家(うち)のお母さんなどには何か愚痴をいってるらしいです」
「うむ」
「もう諦めてるんでしょう」
「諦められるかな」
「どうせ、そういう嫁さんらしいです。で、それは諦めても狭い土地の事で、人のロがうるさいから、一つはそれで山に来ているらしいんです」
「苦労した人と聴けばそんな所も見えるけど、現在そういう事がある人とはとても考えられませんね。よく松江節を唄いながら木を割っているが、そんな時の様子が如何にも屈託なさそうで羨しい気がした」
「時々は沈んでいる事もありますわ」
「そう。それが本統だろうけど、あの人の顔を見て、そんな事があろうとは全く想像出来なかった」
「誰だって」お由は急に笑い出した。「顔だけ見て、その人が間男をされているかどうかは、分らんでしょうが」
「そうだ。それは正にそうだ」謙作も一緒に笑った。
「其所で私の顔を見て、あなたはどう思う。そういう事があると思うか、どうですか」
「ハハハハハハ」
謙作は竹さんを「変態的」だと突き放して見ているが、その一方で、「しかし彼にもそういう変態的な気持は想像出来ない事はなかった。」と考える。どんなにひどい仕打ちにあっても、自分が多くの「情夫」の一人に過ぎないことを分かっていても、自分の家に「情夫」が上がり込んで奥の座敷で妻とむつみ合っていても、洗濯したり、洗い物をしたりしている──お由に言わせれば「お話にならん」状況でも、竹さんに「別れる」という選択肢はない。どうしても、この妻を思いきることができない。そんな男を身近には知らないが、それでも謙作は、そういう「変態的な」気持ちは、「想像出来ない事はなかった」という。
今ではまず使われないが「淫婦」という言葉が、竹さんの妻に使われているが、『暗夜行路』には、この「淫婦」に属するような女が、初めのほうにたびたび登場する。「栄花」とか、「まむしのお政」とかいった女である。特に栄花は、彼女を登場人物にして謙作は小説を書こうと思ったりするのである。
芸者遊びに浸っていたころの謙作にとっては、栄花は、淫蕩ではあっても、魅力的な女性だったわけで、竹さんの気持ちもそういう意味では、分からなくもないといったところだったのだろう。
それにしても、謙作は、その話を聞いて、そうかあ、竹さんってそんな苦労を背負っているのかあ、とてもそんなふうには見えないなあと言うわけだが、田舎者のお由に笑われてしまう。「誰だって、顔だけ見て、その人が間男をされているかどうかは、分らんでしょうが」
この言葉は、まさに庶民感覚といったもので、落語の「紙入れ」みたいなものだ。誰がどんなことをするかわかったもんじゃないというのは、普通に人間生活を送っている人間にとっては常識というか前提のようなものだ。謙作は、まさに「一本取られた」といった感じで、「そうだ。それは正にそうだ」と懸命に(と思える)笑ってごまかすが、どんなに人間心理の奥まで探っている文学者でも、庶民感覚にはかなわないということなのかもしれない。
それなら、自分はどう見えているのか? 自分が、「間男」されたマヌケな男とこのお由に見えているだろうか。ふとそんなことを思って、お由に聞いてみるが、笑ってごまかされしまう。当たり前だが、わかりはしないのだ。
こんな山奥で、松江節(註)なんかうたって、木を割っている平凡極まる男にも、一編の小説になりそうな「苦労話」がある。しかもその「苦労」たるや、自分の悩んでいる「苦労」など屁でもないほど深刻なものだ。謙作は、自分の悩みなど、微々たるものではないかと、この時、ふと思ったかもしれないが、謙作の思いは直子へと向かう。
この時謙作はふと、留守を知ってまた要が衣笠村を訪ねていはしまいかという不安を感じ、胸を轟かした。しかし直子が再び過失を繰返すとは思えなかった。──思いたくなかった。そしてそう信じているつもりではあるが、それでもまだ何所かに腹からは信じきれない何か滓のようなものが残った。
あの女は決して盗みをしない、これは素直に信じられても、あの女は決して不義を働かない、この方は信じても信じても何か滓のようなものが残った。女というものが弱く、そういう事では受身であるから、そう感ぜられるのか、それとも彼の境遇がそういう考え方をさせるのか分らなかった。が、とにかく、直子にはもうそういう事はあり得ない、彼は無理にも信じようとした。ただ、要の方だけはその時は後悔しても、若い独身者の事で自分の留守を知れば心にもなく、また訪ねたい誘惑にかられないとはいえない気がするのであった。お栄という女がもう少し確(しっか)りし、かつ賢い女ならとにかく、人がいいだけで、そんな事には余り頼りにならないのを彼は歯がゆく思った。
相変わらず、直子を「許せる」かどうか、「信じることができる」かどうかというところにとどまっている。あくまでも、これは謙作自身の問題で、直子の側に立つことができないのだ。
直子を信じても、信じても、「何か滓のようなもの」がどうして残るのか。その「滓」とは何なのか。「信じきれない」と言ってしまえばいいようなものだが、「滓」が残ると言う。そこにリアルがある。
「信じる」とか「信じられない」とかいったことは、あくまで心の問題で、同時にそれは「言葉」の問題でもある。「信じる」と言い切ったところで、それで、本当に自分の心の中を説明し尽くしたことにはならないのだ。直子はもう絶対に過ちを犯さないと「信じる」と自分に言ってみても、自分の心の中にはその言葉では言い尽くせない「何か」が残る。かといってそれが「信じることができない」という言葉によって表されるわけでもない「何か」なのだ。
ちょうどそれは、ビンの中の白ワインのようなもので、上澄みがきれいに澄んでいても、ビンの底に「滓のようなもの」が沈んでいて、ちょっとビンを揺らすと、その「滓のようなもの」がふわっと浮いてきて、ワインを濁らせてしまう。(そんな白ワインがあるかどうか知りません。あくまで比喩です。)
謙作は、直子を「信じることができない」わけではない。けれども、彼の「信じる」は、常に不安定なのだ。その不安定さを「滓」という比喩が表現しているように思える。比喩というものは、言葉が掬い得ないものを指示することができる。「詩」が、比喩を多用するのも、そのためだろう。
ところで、「女というものが弱く、そういう事では受身であるから、そう感ぜられるのか」といったくだりは、いまではアウトだろうけど、そういう「通念」がかつて(今も?)あったということは確かだ。また「独身者」に対する「偏見」も垣間見える。そして、ここでも「お栄」に対する不満が出てくる。「賢い女ならとにかく、人がいいだけ」というのも、あんまりだよね。
「十五」は、これで終わる。
------------------------
【註】松江節について、ChatGPTに聞いてみたら、こんな回答が得られました。
「松江節(まつえぶし)」は、島根県松江市を中心に伝わる日本の伝統的な民謡の一つです。松江の地域文化や風情を表現しており、地元ではお祭りや踊りの際によく歌われたり踊られたりします。
以下のような特徴があります:
🎵 松江節の特徴
起源:江戸時代から伝わるとされ、武家文化や茶の湯文化が盛んな松江らしい、雅(みやび)な雰囲気を持つ節です。
歌詞:宍道湖の夕景や松江城、堀川など、松江の名所や自然の美しさを歌詞に取り入れたものが多いです。
踊り:松江踊り(松江おどり)という盆踊りのスタイルもあり、松江節に合わせて優雅に踊るのが特徴です。
行事での活用:松江水郷祭や観光イベントなどで披露され、地元の人々や観光客に親しまれています。
🎵 松江節の代表的な歌詞(一例)
松江名所は 城山さまよ
櫓(やぐら)太鼓に 月が出る
松江しぐれか 城山しぐれ
粋な殿さん 誰じゃいな
この歌詞は、松江城(別名:千鳥城)や、宍道湖に映る月、そしてしっとりと降る雨(松江しぐれ)など、松江の情緒あふれる風景を描いています。