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日本近代文学の森へ 279 志賀直哉『暗夜行路』 166 「信じる」ということ 「後篇第四 十五」 その2

2025-04-12 14:16:33 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 279 志賀直哉『暗夜行路』 166 「信じる」ということ 「後篇第四 十五」 その2

2025.4.12


 

 謙作は、昨晩、お由が天理教の創始者のような「生神様」になる夢を見たとお由に語った。すると、お由は、竹さんの父親が天理教にのめり込み、竹さんが子どものころに家をつぶしたこと、それでも竹さんは、「感心な人」で、「村でもあの人は別ものらしいです。」という。謙作が、「何所か老成したような所がある。それだけに若々しい所も少いが」と言うと、お由は、「お父さんに家をつぶされたのは竹さんが子供の時ですからね、それだけでも大変なのに近頃また、人にもいえない苦労があるらしい噂です」と言う。

 朝食のときに、お由は、その竹さんの苦労を話しだす。印象的なエピソードである。

 

 「へえ、そんな人なのかな。──それはそうと、昨日から手伝に来てるんですか?」
 「いいえ。お母さん、頼まんかったらしいです」
 彼が朝飯の膳についた時、お由は竹さんの人にもいえない苦労というのを話した。
 竹さんには三つ年上のまだ子供を産まない嫁がある。生来の淫婦で、竹さん以前にも、以後にも、また現在にも一人ならず、情夫というような男を持っている女だった。そして竹さんは亭主と呼ばれるだけの相違で、事実は何人かの一人に過ぎなかった。それを承知で結婚した竹さんではあるが、やはりそのため大分苦しんだ。人からは別れろといわれ、自分でも幾度かそれを考えた。しかし竹さんには何故か、この女を念(おも)い断(き)る事が出来なかった。意気地がないからだ、そう思い、また実際それに違いないが、竹さんはどうしてもこの女を憎めなかった。
 絶えず面倒な事が起った。それは竹さんを入れたいわゆる三角関係ではなく、竹さんを除いたそういう関係で、面倒が絶えなかったのである。竹さんは女の不身持よりもこの面倒を見る事に堪えられなくなった。さりとてきっぱり別れようとはしなかった。
 「それはお話にならんですわ。男が来て嫁さんと奥の間にいる間、竹さんは台所で御飯拵えから汚れ物の洗濯までするというのですから。時には嫁さんに呼びつけられ、酒買いの走り使いまでするというのですから」
 「少し変ってるな。それで竹さんが腹を立てなければ、よっぽどの聖人か、変態だな。一種の変態としか考えられない」
 謙作は竹さんを想い浮べ、そういう人らしい面影を探して見たが、分らなかった。しかし彼にもそういう変態的な気持は想像出来ない事はなかった。
 「竹さん自身はどういってるんです」
 「自家(うち)のお母さんなどには何か愚痴をいってるらしいです」
 「うむ」
 「もう諦めてるんでしょう」
 「諦められるかな」
 「どうせ、そういう嫁さんらしいです。で、それは諦めても狭い土地の事で、人のロがうるさいから、一つはそれで山に来ているらしいんです」
 「苦労した人と聴けばそんな所も見えるけど、現在そういう事がある人とはとても考えられませんね。よく松江節を唄いながら木を割っているが、そんな時の様子が如何にも屈託なさそうで羨しい気がした」
 「時々は沈んでいる事もありますわ」
 「そう。それが本統だろうけど、あの人の顔を見て、そんな事があろうとは全く想像出来なかった」
 「誰だって」お由は急に笑い出した。「顔だけ見て、その人が間男をされているかどうかは、分らんでしょうが」
 「そうだ。それは正にそうだ」謙作も一緒に笑った。
 「其所で私の顔を見て、あなたはどう思う。そういう事があると思うか、どうですか」
 「ハハハハハハ」

 


 謙作は竹さんを「変態的」だと突き放して見ているが、その一方で、「しかし彼にもそういう変態的な気持は想像出来ない事はなかった。」と考える。どんなにひどい仕打ちにあっても、自分が多くの「情夫」の一人に過ぎないことを分かっていても、自分の家に「情夫」が上がり込んで奥の座敷で妻とむつみ合っていても、洗濯したり、洗い物をしたりしている──お由に言わせれば「お話にならん」状況でも、竹さんに「別れる」という選択肢はない。どうしても、この妻を思いきることができない。そんな男を身近には知らないが、それでも謙作は、そういう「変態的な」気持ちは、「想像出来ない事はなかった」という。

 今ではまず使われないが「淫婦」という言葉が、竹さんの妻に使われているが、『暗夜行路』には、この「淫婦」に属するような女が、初めのほうにたびたび登場する。「栄花」とか、「まむしのお政」とかいった女である。特に栄花は、彼女を登場人物にして謙作は小説を書こうと思ったりするのである。

 芸者遊びに浸っていたころの謙作にとっては、栄花は、淫蕩ではあっても、魅力的な女性だったわけで、竹さんの気持ちもそういう意味では、分からなくもないといったところだったのだろう。

 それにしても、謙作は、その話を聞いて、そうかあ、竹さんってそんな苦労を背負っているのかあ、とてもそんなふうには見えないなあと言うわけだが、田舎者のお由に笑われてしまう。「誰だって、顔だけ見て、その人が間男をされているかどうかは、分らんでしょうが」

 この言葉は、まさに庶民感覚といったもので、落語の「紙入れ」みたいなものだ。誰がどんなことをするかわかったもんじゃないというのは、普通に人間生活を送っている人間にとっては常識というか前提のようなものだ。謙作は、まさに「一本取られた」といった感じで、「そうだ。それは正にそうだ」と懸命に(と思える)笑ってごまかすが、どんなに人間心理の奥まで探っている文学者でも、庶民感覚にはかなわないということなのかもしれない。

 それなら、自分はどう見えているのか? 自分が、「間男」されたマヌケな男とこのお由に見えているだろうか。ふとそんなことを思って、お由に聞いてみるが、笑ってごまかされしまう。当たり前だが、わかりはしないのだ。

 こんな山奥で、松江節(註)なんかうたって、木を割っている平凡極まる男にも、一編の小説になりそうな「苦労話」がある。しかもその「苦労」たるや、自分の悩んでいる「苦労」など屁でもないほど深刻なものだ。謙作は、自分の悩みなど、微々たるものではないかと、この時、ふと思ったかもしれないが、謙作の思いは直子へと向かう。

 

 この時謙作はふと、留守を知ってまた要が衣笠村を訪ねていはしまいかという不安を感じ、胸を轟かした。しかし直子が再び過失を繰返すとは思えなかった。──思いたくなかった。そしてそう信じているつもりではあるが、それでもまだ何所かに腹からは信じきれない何か滓のようなものが残った。
 あの女は決して盗みをしない、これは素直に信じられても、あの女は決して不義を働かない、この方は信じても信じても何か滓のようなものが残った。女というものが弱く、そういう事では受身であるから、そう感ぜられるのか、それとも彼の境遇がそういう考え方をさせるのか分らなかった。が、とにかく、直子にはもうそういう事はあり得ない、彼は無理にも信じようとした。ただ、要の方だけはその時は後悔しても、若い独身者の事で自分の留守を知れば心にもなく、また訪ねたい誘惑にかられないとはいえない気がするのであった。お栄という女がもう少し確(しっか)りし、かつ賢い女ならとにかく、人がいいだけで、そんな事には余り頼りにならないのを彼は歯がゆく思った。

 

 
 相変わらず、直子を「許せる」かどうか、「信じることができる」かどうかというところにとどまっている。あくまでも、これは謙作自身の問題で、直子の側に立つことができないのだ。

 直子を信じても、信じても、「何か滓のようなもの」がどうして残るのか。その「滓」とは何なのか。「信じきれない」と言ってしまえばいいようなものだが、「滓」が残ると言う。そこにリアルがある。

 「信じる」とか「信じられない」とかいったことは、あくまで心の問題で、同時にそれは「言葉」の問題でもある。「信じる」と言い切ったところで、それで、本当に自分の心の中を説明し尽くしたことにはならないのだ。直子はもう絶対に過ちを犯さないと「信じる」と自分に言ってみても、自分の心の中にはその言葉では言い尽くせない「何か」が残る。かといってそれが「信じることができない」という言葉によって表されるわけでもない「何か」なのだ。

 ちょうどそれは、ビンの中の白ワインのようなもので、上澄みがきれいに澄んでいても、ビンの底に「滓のようなもの」が沈んでいて、ちょっとビンを揺らすと、その「滓のようなもの」がふわっと浮いてきて、ワインを濁らせてしまう。(そんな白ワインがあるかどうか知りません。あくまで比喩です。)

 謙作は、直子を「信じることができない」わけではない。けれども、彼の「信じる」は、常に不安定なのだ。その不安定さを「滓」という比喩が表現しているように思える。比喩というものは、言葉が掬い得ないものを指示することができる。「詩」が、比喩を多用するのも、そのためだろう。

 ところで、「女というものが弱く、そういう事では受身であるから、そう感ぜられるのか」といったくだりは、いまではアウトだろうけど、そういう「通念」がかつて(今も?)あったということは確かだ。また「独身者」に対する「偏見」も垣間見える。そして、ここでも「お栄」に対する不満が出てくる。「賢い女ならとにかく、人がいいだけ」というのも、あんまりだよね。

 「十五」は、これで終わる。


------------------------

【註】松江節について、ChatGPTに聞いてみたら、こんな回答が得られました。


「松江節(まつえぶし)」は、島根県松江市を中心に伝わる日本の伝統的な民謡の一つです。松江の地域文化や風情を表現しており、地元ではお祭りや踊りの際によく歌われたり踊られたりします。

以下のような特徴があります:

🎵 松江節の特徴
起源:江戸時代から伝わるとされ、武家文化や茶の湯文化が盛んな松江らしい、雅(みやび)な雰囲気を持つ節です。
歌詞:宍道湖の夕景や松江城、堀川など、松江の名所や自然の美しさを歌詞に取り入れたものが多いです。
踊り:松江踊り(松江おどり)という盆踊りのスタイルもあり、松江節に合わせて優雅に踊るのが特徴です。
行事での活用:松江水郷祭や観光イベントなどで披露され、地元の人々や観光客に親しまれています。

🎵 松江節の代表的な歌詞(一例)

松江名所は 城山さまよ
櫓(やぐら)太鼓に 月が出る
松江しぐれか 城山しぐれ
粋な殿さん 誰じゃいな


この歌詞は、松江城(別名:千鳥城)や、宍道湖に映る月、そしてしっとりと降る雨(松江しぐれ)など、松江の情緒あふれる風景を描いています。

 


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日本近代文学の森へ 278 志賀直哉『暗夜行路』 165 名文 「後篇第四 十五」 その1

2025-03-05 10:08:57 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 278 志賀直哉『暗夜行路』 165 名文 「後篇第四 十五」 その1

2025.3.5


 

 その晩、謙作は夢を見た。

 

 その夜、謙作は妙な夢を見た。
 神社の境内は一杯の人出だ。ゆるい石段を人に押されながら登って行くと、遠く石段の上に大社造の新しい社(やしろ)が見える。今、其所(そこ)で儀式のような事が始まっている。しかし彼は群集に隔てられ、容易に其所へは近寄れなかった。
 石段には参詣人の腰ほどの高さに丸太を組んで板を敷いた別の通路が出来ている。儀式が済むと生神様(いきがみさま)が其所を降(くだ)って来るという事が分っていた。
 群集がどよめき立った。儀式が済んだのだ。白い水干(すいかん)を着た若い女──生神様が通路の端に現われた。そして五、六人の人を従え、急足(いそぎあし)に板敷の上を降って来た。身動きならぬままに押され押され少しずつ押上げられていた彼はこの時、もっとぐんぐん其方ヘ近寄って行きたい衝動を感じた。
 生神様は湧立つ群集を意識しないかのように如何にも無雑作な様子で急いで板敷の路を降って来る。それは今鳥取から帰っているお由だった。彼はそれを今見て知ったのか、最初から知っていたのか分らないが、とにかくその女の無表情な余り賢い感じのしない顔は常の通りだった。そしてそれは常の通りに美しくもあった。なおそれよりも生神様に祭上げられながら少しも思いあがった風のないのは大変いいと彼は思った。彼はお由が生神様である事に少しも不自然を感じなかった。むしろこの上ない霊媒者である事を認めた。
 お由はほとんど馳けるようにして彼の所を過ぎて行った。長い水干の袖が彼の頭の上を擦って行った。その時彼は突然不思議なエクスタシーを感じた。彼は恍惚としながら、こうして群集はあの娘を生神様と思い込むのだ──そんな事を考えていた。
 夢は覚めた。覚めて妙な夢を見たものだと思った。群集は前日の団体が夢に入って来たに違いない。ただあの不思議なエクスタシーは何であろう。そう考えて、夢ではそう感じなかったが、今思うと、それには性的な快感が多分に含まれていたように思い返され、彼は変な気がした。そんな事とは遠い気分でいるはずの自分がそんな夢を見るのはおかしな事だと思った。

 

 また、「変な気がした。」なんて言っている。

 謙作がお由を、美しいと思い、隣の部屋に寝るといったお由に不埒な期待を抱いたからか、この夢の中の「不思議なエクスタシー」は、「そんな事とは遠い気分でいるはずの自分がそんな夢を見るのはおかしな事だと思った。」などととぼけているが、読者からすれば、「変」でも「おかしな事」でもない。それなのに、どうして、とぼけるのだろう。

 謙作は、自分の中に巣くう「性欲」を直視したくないのかもしれない。直視したって、どうなるというわけでもないのだが、謙作がこんな山奥にまで来ることになったのも、人間の「性欲」のせいである。その「性欲」が引き起こした事件に、謙作がそれこそ不思議なほどイライラして、(といっても、妻の不義にイライラしない方がよほど不思議なわけなのだが)走り出した列車に乗ろうとしていた妻をホームに突き落とすというあるまじき振る舞いを生んでしまった。その結果として、妻との関係がこじれてしまい、その生活に耐えらなくなって、自分を変えるために山奥までやって来たのだ。謙作はここで生まれ変わるつもりなのだ。

 それなのに、目の前に現れた娘に好感を抱き、夢にまで娘が出てきてしまい、あろうことか、「性的快感」「エクスタシー」を感じてしまう。これじゃ、なんにもならないじゃないか、という謙作の気持ちを、「とぼける」という心理的態度で打ち消そうとしているのだろうか。

 さて、その翌日。

 

 翌朝(あくるあさ)、軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。彼は起きて、自ら雨戸を繰った。戸外(そと)は灰色をした深い霧で、前の大きな杉の木が薄墨色にぼんやりと僅(わずか)にその輪郭を示していた。流れ込む霧が匂った。肌には冷々(ひえびえ)気持がよかった。雨と思ったのは濃い霧が萱(かや)屋根を滴となって伝い落ちる音だった。山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。庫裏(くり)の方ではもう起きているらしかった。彼は楊枝と手拭(てぬぐい)とを持って戸外へ出た。そして歯を磨きながらその辺を歩いていると、お由が十能(じゅうのう)におき火を山と盛って庫裏から出て来た。
 「夜前(やぜん)は彼方(むこう)へ寝て往生しました。団体の人たちが騒ぐので、やや児が眠られんのですわ」
 「少しは聴えたが、此方(こっち)はそんなにもやかましく思わなかった」
 「よっぽど引越ししょう思うて来て見ましたが、ようやすんでられる風じゃでやめました」

 


 相変わらず、素晴らしい自然描写だ。名文である。

 丸谷才一は、「名文」とは何かを定義して、「君が読んで感心すれば、それが名文である。」(『文章読本』)と身も蓋もないことを言っているが、そのことを書く前に、志賀直哉の文章(『焚火』)を引用することを忘れてはいない。

 名文の定義は、その後にくるオマケみたいなもので、ちゃんとこんなふうに言っている。

 

 名文から言葉づかいを学ぶなどと言へば、人々はとかく、大時代な美文、虚しい装飾、古人の糖粕をなめる作文術を連想しがちなやうである。しかしわたしがここで言ひたいのは美文がどうのかうのといふやうなことではなく、もつと一般的な事情にすぎない。落ちついて考へてもらひたいのだが、われわれはまつたく新しい言葉を創造することはできないのである。
 可能なのはただ在来の言葉を組合せて新しい文章を書くことで、すなはち、言葉づかひを歴史から継承することは文章を書くといふ行為の宿命なのだ。それゆゑ、たとへば志賀直哉の、

 

 こう言ってから、志賀の『焚火』を引用して、それを「達意で平明な写生文」だとするのだ。引用されているのは、次の部分である。


 Kさんは勢よく燃え残りの薪(たきぎ)を湖水へ遠く抛(はふ)った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了(しま)ふ。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた。Kさんが後に残つたおき火を櫂で上手に水を撥ねかして了つた。
 舟に乗つた。取りの焚火はもう消えかかつて居た。舟は小鳥島を廻って、神社の森の方へ静かに滑つて行つた。梟の聲が段々遠くなつた。


 この『焚火』の一文は、名文の一例として丸谷ならずとも、たびたび引かれているが、こうした「達意で平明な写生文」が『暗夜行路』の至る所に見られることは、さんざん書いてきたことでもある。

 まずは、朝の目覚め。「軒に雨だれの音を聴きながら眼を覚ました。」と聴覚による描写だ。今の建物に住む者にとってはため息が出るほど羨ましい状況だ。(子どものころ、こんなことがあったかもしれない。)

 「彼は起きて、自ら雨戸を繰った。」と書いて、自分が我が家ではなくて、旅の宿にいることを示す。我が家なら、謙作はそんなことは自分ではしないはずだからだ。

 そして、次には、視覚による描写がくる。澄んだ墨色でさっと描かれた水墨画のような光景が広がるかと思うと、「流れ込む霧が匂った。」と嗅覚に訴え、「肌には冷々(ひえびえ)気持がよかった。」と触覚を刺激する。

 「雨と思ったのは濃い霧が萱(かや)屋根を滴となって伝い落ちる音だった。」と書くことで、そこにゆるやかな時間の流れを感じさせ、雨から霧へのイメージの転換をしたあと、「山の上の朝は静かだった。鶏の声が遠く聴えた。」と聴覚に戻る。この「音」で、空間が横へ奥へと、ぐっと広がる。

 その空間の中に、そこに住む人々の暮らしを「庫裏(くり)の方ではもう起きているらしかった。」と点描するのだが、これは、聴覚と視覚の融合だ。庫裏のほうから聞こえてくる炊事などの音、そして、そこから立ち上る煙。

 五官で、ここにないのは味覚だけだが、朝の食事を予感させる「庫裏」の様子から、近未来の「味」が期待されていると考えれば、五官総動員で描かれているといっていい。

 実に見事なもので、これはもう、情景描写というのはこう書くものですよ、というお手本のようなものだ。昔の作家たちは、志賀の文章を書写したものだとよく言われるが、それも頷ける話である。

 さて、そこへお由がやって来て会話が始まる。「謙作の夢の中のお由とは大分異(ちが)っていた。」とあるが、当たり前である。こんな当たり前なことをわざわざ書くというのは、謙作がまだ妄想的な夢から覚めきっていないからだろう。

 それはそうと、そのお由との会話が、謙作がここでよく話し込むことのあった屋根屋の「竹さん」という若者の意外な一面を浮かび上がらせることになる。

 

 


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木洩れ日抄 114  「近代」は乗り越えられるか、あるいは「芸術」の役割────劇団キンダースペース第46回本公演『カッサンドラたち』を観て

2025-02-28 11:11:58 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 114 

「近代」は乗り越えられるか、あるいは「芸術」の役割────劇団キンダースペース第46回本公演『カッサンドラたち』を観て

2025.2.28


 

 原田一樹は、劇団創設以来一貫して「近代」を問題にしてきた。特にキンダーのオリジナル演劇様式「モノドラマ」では、そのほとんどが日本の「近代文学」だった。それは、「近代」の「迷妄」に翻弄され、傷つき、そこから何とかして脱却しようともがき苦しんできた文学者たちに思いを馳せ、「近代」の核心へと迫り、乗り越えるヒントを得ようとした試みに他ならなかった。

 原田は、今回の公演パンフレットで、「近代」について、「近代は私たちに『承認』『収入』『成功』といった呪縛をもたらした。」と簡潔に記している。それに続いて「近代に限らない。『歴史』が世に語られてから、記載されないものに意味はないし、意図的に抹消されもした。そんな人々のどれほどあったことか。」と述べる。つまり「近代」は、あるいは「近代の価値観」は、何も産業革命から始まったわけでもなく、明治維新から始まったわけでもない。人類の誕生以来、それは「あった」のだ。「あった」が故に、その価値観に傷つき、抗い、破れ、消されていった人々もまた「あった」のだ。原田はさらに「ギリシャ悲劇の昔から、芸術の役割は声を持たない声を探し出して記述することでもある。と、いうことを、やっと最近、中島敦から学んだ気がする。」と言う。

 「芸術の役割」をこれほど鮮明に語った言葉に出会ったことはない。そうか、原田一樹は、この「役割」を一生かけて演劇というジャンルで追求してきたのだと、思い当たって、胸を突かれる思いがした。

 『カッサンドラたち』は、三つの「話」で構成されている。第一話「現在と数百年後」、第二話「カッサンドラとトロイア戦争」、第三話「ネウリのシャク」の三話だ。このうち、第二話は、ホメロスの叙事詩を、第三話は中島敦の「狐憑」を元としている。第一話は、原田のオリジナルだが、その最後の台詞には、シンボルスカの言葉が援用されている。

 この三つの話に共通するのは、「何かに憑かれた者」が、滅びていく、あるいは他者によって抹殺されていくということだ。第一話の統合失調症は、昔は「狐憑き」と呼ばれていたと言われるし、中島敦の『狐憑』の最後には、ホメロスについての言及がある。

 この「何かに憑かれた者」は、世間とは異質の言葉を語り、行動する。それは時として「予知」の能力となる。その「予知」は、来るべき未来への警鐘であり、それ故に「現在」への「否」である。これじゃダメなんだ、こんなことじゃいけないんだ、という「否」は、ほぼ抹殺されてきたというのが、「歴史」の真実だ。いつだって、「不都合な真実」は、時の権力者や、大衆によって抹殺され、「怖ろしい未来」がやって来る。そのことを、実は誰もが知っている、あるいは感じている。それにも関わらず、抹殺は続く。

 ここまで辿れば、だれでも、この『カッサンドラたち』は、まさしく「現在の話」であることが深く納得されるだろう。今なのだ。現在只今が、この状況なのだ。「やって来る!」という言葉によって始まるこの芝居の描きたいことは、この状況そのものなのだ。

 ただ、原田の作劇術は、そのことを政治家のような生な観念的認識では語らず、緻密・周到な構成によって、舞台に今まで観たこともないような真に演劇的な時空を作りだした。

 レイヤーという言葉がある。訳せば「層」とか「階層」とかいうことになるが、コンピュータでの画像編集などでは、「画像の透明シート」のことで、このレイヤーを重ねることで、複雑な画像を作りだすことができる。たとえば、海の写真と、花の写真を二つのレイヤーとして重ねれば、海に咲いている花のような不思議な画像ができる。

 『カッサンドラたち』の三つの話は、それぞれが、この透明なレイヤーと考えると分かりやすい。複数の話が同じ芝居に、順番に、あるいは交互に進行するという芝居は珍しくない。しかし、この『カッサンドラたち』は、順番にでもなく、交互にでもなく進行する。そういう部分もあるのだが、時として、「同時に」進行する。舞台の上手と下手に、あるいは、奥と前に。そして、驚いたのは、そのレイヤーの中の人物のセリフが、対話のように、交互に語られるという場面だ。

 そのとき、時空が一瞬破られ、現代の人間と古代ギリシャの神々が、対話するかのようにセリフを語っている。この芝居の不思議な時空を、うまく説明することは不可能だが、ぼくには、衝撃的な体験だった。

 透明レイヤーの一番下には、おそらく「人間」の「本質」がある。それは時として強欲で、残虐で、時として美しい。古代の人間がどんな価値観を持っていたか、分かるものでもないが、人間の精神の中に、美しいものがなかったとは言い切れない。それは数知れない多くの「芸術」(当時は「芸術」とは認識されていなかったとしても)の存在が証明してくれるだろう。

 その上のレイヤーには「近代」がある。このレイヤーが一種の「フィルター」となって、原田の言う「承認」「収入」「成功」といった価値観をえげつなくも表面に押し出し、それに反する価値を見えなくしてしまっている。すべてが「金」の問題に還元される現代こそ、このフィルターが最高度に作用している結果といっていい。

 三つの話は、こうした根底にあるレイヤーの上に、それぞれが上になったり、下になったりしながら、舞台に現れる。重なるレイヤーは、「透明」であるがゆえに、さまざまな「化学反応」を起こし、今でもない、過去でもない、不思議な時空を現前させる。その現れ方が得も言えず絶妙で、美しく、ぼくは正直「我を忘れた」。

 それにしても、この芝居を演じた役者・スタッフの苦労が偲ばれる。リアルにセリフを言うのではなく、まるで虚空にむかって言葉を投げ出すような発語。その言葉を受け止める空間と時間を作り出す、音楽と照明。それらによって、時空を越えた「言葉の交響」が可能となった。そして、その舞台にすっくと立つ役者たちの姿のギリシャ彫刻のような美しさ。見事としかいいようがない。

 劇団創設40周年をむかえて、原田は「俺は何をしてきたんだろう」と呟く。これだけの仕事をして来た人にこんなことを呟かれたら、ぼくみたいになんにもしてこなかった人間は、立つ瀬がないけれど、「私たちは私たちの言葉で、言葉ではいいつくせない何かを目指すほかはない。はじめから不可能が予定されている。(中略)だとしても、今日一日の生活を始めるのだ。瞬間、瞬間に始め、一日一日に。たとえ始めることの中に滅ぶのが運命であったとしても。.....」と言われると、ぼくのような者でも勇気が出る。芝居を続けるというのが、そういうことだとしたら、ぼくらの「生活」もそうあらねばならぬと思うからだ。

 瀬田ひろ美によって語られる最後のセリフ、「でも私には、大事ではないことが大事なことよりも大事ではないなんて、どうしても思えないの。」というシンボルスカの詩を元にした言葉は、原田が、それこそ生涯を掛けて芝居に集中してきた理由そのものだろう。

 芸術はいつも大事にされ敬愛されてきたわけではない。むしろ、「大事ではない」として無視され、時に敵視され、時に弾圧されてきた。戦時下ではいうまでもないことだが、つい最近のコロナ禍においても、どれほど芸術が「不要不急」の親玉みたいに扱われてきたかは記憶に新しい。

 近代の行き着いた果てのような、金に支配されている現代の世界で、たとえ「はじめから不可能が予定されて」いようとも、その「大事ではない」とされる芸術の営為を「瞬間、瞬間に始め」ていこうという原田の決意は限りなく尊い。

 劇団キンダースペースが、今後とも、その歩みを着実に進まれんことを心から願っている。

 


《公演チラシ》

 

《公演パンフレット》

 

「未来という呪縛」


キンダースペースは創立40年になる。1985年に20代後半の初期メンバーが集まって始めた。正確には今年が41年目。先日ふと「俺は何をしてきたんだろう」と呟いたら、そんなことはいわないで、とたしなめられた。それも当然で、公演毎の赤字とアトリエの維持、劇団の存続に休みなく身を削っている方からすれば何のための苦労だといいたくなる。
「何をしてきたんだろう」が思わず漏れたのは、創立時の目論見と現在の落差の実感による。そもそもどんな目論見があったのか心もとない。あえて眼をつむった気もする。目論見を立てると「世間のニーズ」や「経営」や「功成り名遂げる」から自由になれない、それでは「演劇」を志す意味がない。といいつつ、これは負け犬の遠吠えではとも思う。近代は私たちに「承認」「収入」「成功」といった呪縛をもたらした。近代に限らない。「歴史」が世に語られてから、記載されないものに意味はないし、意図的に抹消されもした。そんな人々のどれほどあったことか。
ギリシャ悲劇の昔から、芸術の役割は声を持たない声を探し出して記述することでもある。と、いうことを、やっと最近、中島敦から学んだ気がする。
「何をしてきたんだろう」はまた毎度毎度脚本でのたうち回り、俳優たちに負担をかけ自分でも心底疲れ果てて吐いた言葉でもある。難儀の理由の半分は分かっている。「近代」の迷安を取り上げたい自分が、抜き差しがたく「近代人」だからだ。もちろんこれは宿命だ。私たちは私たちの言葉で、言葉ではいいつくせない何かを目指すほかはない。はじめから不可能が予定されている。
ギリシャ神話もまた死すべき人間の無力を訴える。それでも人は「予知」を求める。カッサンドラの物語が見せるのは不都合な「予知」は抹消されるということだ。ならば「予知」は意味がない。けれど人は「予知」を求めてやまない。目論見を立ててもっと上を目指す。つまりは未来に呪縛されたがる。
だとしても、今日一日の生活を始めるのだ。瞬間、瞬間に始め、一日一日に。たとえ始めることの中に滅ぶのが運命であったとしても。……というのもまたある小説から学んだ。キンダースペースの40年もきっとこういう風に積み重ねられてきた。一人一人のメンバーの、目前のするべきことへの集中と、ともかくやるんだという意思。その中にこそ劇団も創作も存在する。物書き一人の迷妄と呪縛の自覚だけでは何も進まない。この先どれだけ続けられるか、仲間がいれば、また一日を始めたい。
本日のご来場に心より感謝申し上げます。
原田一樹

 

 

 

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 277 志賀直哉『暗夜行路』 164  不味い米と美しい娘  「後篇第四 十四」 その2

2025-02-16 20:50:51 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 277 志賀直哉『暗夜行路』 164  不味い米と美しい娘  「後篇第四 十四」 その2

2025.2.16


 

  彼は大山の生活には大体満足していたが、ただ寺の食事には閉口した。彼は出掛けに食料品を送る事を断った位で、粗食は覚悟していたが、其所まで予期出来なかったのは米の質が極端に悪い事だった。彼はそれまで米の質など余り気にする方ではなかったが、食うに堪えない米で我慢していると、いつか減食する結果になり身体が弱ってくるように思われた。
 寺の上(かみ)さんは好人物で彼の世話をよくした。山独活(やまうど)の奈良潰を作る事が得意で、それだけはうまかった。

 

 「食うに堪えない米」とは、どんな米なのか。現代の都会の人間からすると、田舎の米はうまいだろうと思いがちだが、この時代には、やれコシヒカリだの、ユメピリカだのといった米があるはずもなく、貧しい地方では、質の悪い米しか作れなかったのだろう。炊き方が悪かったとも考えられるが、カマドで炊いたのだろうから旨いはずで、それより、何日も前に炊いた米を温め直したのかもしれない。「炊きたて」というわけにもいかなかったのだろう。こうした当時の食料事情というのは、なかなか分からないものである。

 山独活の奈良漬けというのは、確かに旨そうだ。ぼくは奈良漬けはあんまり好きじゃないけど。しかし、これしか旨くなかったということは、他にいったいどんなものが供されたのだろうか。


 鳥取へ嫁入った寺の娘が赤児を連れて来ていた。十七、八の美しい娘だった。座敷へは余り入って来なかったが、彼の窓の下へ来てよく話した。
 「やや児のような者にやや児が出来てどうもなりません」娘はこんな事をいって笑った。人からいわれたのをそのまま真似していっているとしか思われなかった。母親一人で忙しく働いているのに娘はいつも赤児を抱いてぶらぶらしていた。謙作はこの娘に対して別に何の感情をも持たなかったが、娘がよ<窓の外へ来て立話をして行く気持には、娘ながらに、既に人妻となったという事で男を恐れなくなったのだと思った。そして彼は直子の過失も直子がまだもし処女であったら、あるいはああいう事は起らなかったのではなかろうかと考えたりした。


 「娘ながらに、既に人妻となったという事で男を恐れなくなったのだと思った。」とあるのは、なんでもないようなことだが、ちょっとハッとする。当時は、「人妻になる」ということは「処女を失う」ことに他ならなかったのだから、「処女である」ということが「男を恐れる」原因となる。「処女を失う」ことは、「お嫁にいけなくなる」ことを直接に意味していたからだ。今ではまるでバカバカしいことではあるが、時代というのはオソロシイもので、あの田山花袋の『蒲団』では、女弟子に惚れてしまった先生が、その女弟子に彼氏ができたとき、女弟子に「処女の喪失」が起きていないかということを、まるで気が狂ったように執拗に問い詰める場面がある。場面があるどころじゃない。それが主題かと思われるほど執拗である。つまりは、それほど、「処女であること」が「結婚」にとって、大問題だったということだ。

 だから、というわけでもないが、謙作が「直子の過失も直子がまだもし処女であったら、あるいはああいう事は起らなかったのではなかろうかと考えたりした。」というのは、「ああいうこと」が、「人妻の過失」であるにもかかわらず、「もし処女であったら」というような矛盾した仮定をしてしまうというのも、直子が人妻となって処女を失ったから、男に対してルーズになったのかもしれないと思ってしまったからだろう。

 道徳的に考えれば、「人妻」となったからこそ、「ああいうこと」をしないように自分を律していくべきだということになるのだろうが、謙作の頭の中では、「処女性」が大きなウエイトを占めるから、こうした矛盾が生じてしまうのではなかろうか。


 ある日、寺の上さんが手紙を持って謙作の所へ相談に来た。四、五十人の団体の申込みだった。
 「どうしましょう」
 しかし謙作には分らなかった。
 「炊事は出来るんですか」
 「出来ん事はありません」
 「そんなら引受けたらどうですか。──もっとも私はなんにも手伝えないが」
上さんはなお迷うらしく少時(しばらく)考えていたが、遂に引うける事に決心した。そして独言のように、「お由(よし)がもう少し役に立っといいんだけど」といった。
 「赤ちゃんがいるから……それより竹さんをお頼みなさい」
竹さんというのは麓の村の屋根屋で、大山神社の水屋の屋根の葺きかえに来ている若者だった。板葺の厚い屋根で、山の木で、その折板(へぎ)から作ってかかるので一人為事(しごと)では容易な業ではなかった。寝泊(ねとまり)食事は寺の方にしてもらって、その労力を奉納するのだという話だった。謙作はこの人に好意を持ち、仕事をしているところで、よく話込むことがあった。
謙作は引受ける返事の端書を書かされた。
 二、三日して謙作は机に椅(よ)り、ぼんやりしていると、下の路から上さんが「来ました、来ました」とせかせか石段を馳登(かけのぼ)って来た。
 如何にも大事件らしいその様子がおかしかった。珍らしくもなさそうな事を何故こんなに騒ぐのかと思った。しかしいつもは和尚も働くらしく、上さん一人ではそれは大分重荷だったに違いない。上さんは午後になって何度か坂の上まで見に行ったが、今、四、五十人の人がぞろぞろ河原を渡って来るのを見、そんなに興奮しているのであった。
 間もなく団体の連中が着くと、寺の方は急に騒がしくなった。謙作は手伝えるものならば手伝ってやりたいと思ったが、出来ないので、そのまま散歩に出た。
 日が暮れ、彼が還って暫くして漸(ようや)く晩飯が赤児を抱いた娘の手で運ばれた。
 「自分でつけるから構いませんよ」
 「どうせ何もしないんですから」そして娘は笑いながら、「今夜は旦那さんの傍(わき)に寝させてもらいます」といった。
 謙作はちょっと返事に困った。勿論傍というのはこの離れの玄関の間の事だろうとは思ったが、きっと蚊帳などは足りなくなっているに違いないので、多少まぎらわしい気もするのであった。
 その夜、謙作はいつものようにして寝た。娘はそれきり顔を出さなかった。それで当り前なのだが、彼は娘が何故不意にそんな事をいい出したか不思議な気がした。


 謙作が滞在した「蓮浄院」という寺は、実在した寺である。「蓮浄院は、江戸時代中期に建てられた大山寺の支院のひとつで、以前は宿坊・旅館業として運営されていたが、平成2年に住職が亡くなった後は、旅館業も廃業。平成8年に無人となってからは、老朽化が進んでいた。」(「だいせん議会だより 第5号」 ここでの「質問」の中に、「志賀直哉の暗夜行路執筆の地、蓮浄院は…」とあるが、間違いである。「執筆の地」ではなくて「滞在の地」である。)ということだが、その後、改修などをめぐってゴタゴタがあり、改修も進まないうちに大雪で建物は崩壊。どうやら、現在は「蓮浄院跡」となっているらしい。

 志賀直哉は松江在住のころ、ここに10日間ほど滞在したことがあり、その記憶を頼りに『暗夜行路』の部分を書いたと言われている。その執筆は、滞在してから24年ほど後なので、やっぱり志賀直哉の記憶力というのはすごい。

 四、五十人もの客を受け入れることができるというのだから、相当大きな宿坊だったのだろう。神奈川県の大山(おおやま)も、「大山詣で」で有名だが、こちらの大山(だいせん)も、「大山参り」が盛んだったわけである。

 この寺のお上さんの慌てぶりが面白い。坂の上から「四、五十人の人がぞろぞろ河原を渡って来るのを見」たという描写も短いながら、鮮明だ。

 それにしても、この「お由」という娘。どうも気になる。志賀が「不思議な気がした」と書くときは、注意しなくてはならない。「お由」が、「今夜は旦那さんの傍(わき)に寝させてもらいます」と言ったのは、どういう意味だったのか、謙作は、「不思議」に思うのだが、謙作は、そこに性的なニュアンスがを嗅ぎ取っているのだ。

 「勿論傍というのはこの離れの玄関の間の事だろうとは思ったが、きっと蚊帳などは足りなくなっているに違いないので、多少まぎらわしい気もするのであった。」というのも、なにがどう「まぎらわしい」のか、よく分からない。蚊帳が足りないので、娘が、自分の蚊帳に入れてくれとでも言ってくるのかと思い、それはヤバいとか思ったのだろうか。そんな不埒な想像をちょっとでも巡らしたため、その晩、娘が顔を出さなかったのを「それで当り前なのだが」と書く。つまり、謙作は、「当たり前じゃないこと」を期待、といってはいいすぎだけど、ちょっと頭をかすめたということなんじゃないだろうか。そういえば、この娘が登場したとき、「十七、八の美しい娘だった。」と書いている。「美しい娘」というだけでは、別に「客観的」な記述かもしれないが、場合によっては「主観的」な記述ともいえる。だから、とっさに、言い訳のように「謙作はこの娘に対して別に何の感情をも持たなかったが」と書くことになるのだ。この「別に何の感情をも持たなかった」という記述が、この晩の謙作の「不埒な想像」への言い訳(?)になっているのかもしれない。

 とにかく、この辺りは、謙作の感情というか、生理というか、そんなものが、微妙に揺れ動き、なかなか面白いところである。

 この謙作の感情・生理の微妙な揺れは、その晩に見た夢となって具体的な形をとる。それは次の「十五」の冒頭から語られることになる。

 

 


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日本近代文学の森へ 276 志賀直哉『暗夜行路』 163  「自然」の美しさ  「後篇第四 十四」 その1 

2025-01-09 14:07:01 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 276 志賀直哉『暗夜行路』 163  「自然」の美しさ  「後篇第四 十四」 その1 

2025.1.9


 

 謙作は、常連院に腰を据えることとなった。


 永年、人と人と人との関係に疲れ切ってしまった謙作には此所(ここ)の生活はよかった。彼はよく阿弥陀堂という三、四町登った森の中にある堂へ行った。特別保護建造物だが、縁(えん)など朽ち腐れ、甚(ひど)く荒れはてていた。しかしそれがかえって彼には親しい感じをさせた。縁へ登る石段に腰かけていると、よく前を大きな蜻蜓(やんま)が十間ほどの所を往ったり来たりした。両方に強く翅(はね)を張って地上三尺ばかりの高さを真直ぐに飛ぶ。そして或る所で向きを変えるとまた真直ぐに帰って来る。翡翠の大きな眼、黒と黄の段だら染め、細くひきしまった腰から尾への強い線、───みんな美しい。殊にその如何にもしっかりした動作が謙作にはよく思われた。彼は人間の小人(しょうじん)、───例えば水谷のような人間の動作とこれと較べ、どれだけかこの小さな蜻蜓の方が上等か知れない気がした。二、三年前京都の博物館で見た鷹と金鶏鳥(きんけいちょう)の双幅(そうふく)に心を惹れたのも要するに同じ気持だったろうと、それを憶い出した。
 彼は石の上で二匹の蜥蜴(とかげ)が後足で立上ったり、跳ねたり、からまり合ったり、軽快な動作で遊び戯れているのを見、自らも快活な気分になった。
 彼はまた此所に来て鶺鴒(せきれい)が駈けて歩く小鳥で、決して跳んで歩かないのに気がついた。そういえば烏は歩いたり、跳んだりすると思った。
 よく見ていると色々なものが総て面白かった。彼は阿弥陀堂の森で葉の真中に黒い小豆粒のような実を一つずつ載せている小さな灌木を見た。掌(てのひら)に大切そうにそれを一つ載せている様子が、彼には如何にも信心深く思われた。

 

 荒れはてた阿弥陀堂、さまざまな生きものたち、それらは、「人と人と人との関係に疲れ切ってしまった謙作」(「人と人と人との関係」と「人と」の3回の繰り返しは、最初誤植かと思ったが、そうでもないらしい。かなりの破格。)の心にしみこんだ。これを「癒やし」というのは昨今のはやりだが、できるだけこの「癒やし」という言葉を避けたい。なんでもかんでも「ああ、癒やされる〜」と言ってしまうことで、繊細な人間と自然とが交流し、交感するような感じが抜け落ちてしまうような気がするからだ。


 志賀直哉という人は、自然観察をほんとうに細かく観察する人だ。その観察を正確に描写するのも得意なことは、今まで何度も言ってきたとおりだ。名作『城の崎にて』が生まれる所以である。

 ここに出てくる「蜻蜓(やんま)」は、その描写からオニヤンマであることがわかる。オニヤンマが、林の中などを、同じコースで何度も往復するのは有名なことだが、志賀はそれを何度も見て来たのだろう。そのオニヤンマの習性を描きながら、眼の色、体の模様、体の線・形を、「みんな美しい」とする。普通の作家は、トンボが飛んでいるところを描写することはあっても、点景どまりで、そのトンボにここまで神経を集中することはないし、それを「美しい」とも言わない。まして、それを人間と比較して、オニヤンマのほうが人間より「よほど上等だ」とまでは書かないし、思わない。ところが、謙作は、京都の博物館の絵に感動したのも、もとはといえば、こうした「自然」への感動があったと回想するのだ。
 

 トカゲのじゃれ合い(おそらく交尾の行動だろう)、そしてセキレイの観察。確かに、セキレイは、ハクセキレイでもキセキレイでも、地上ではぴょんぴょん跳びはねない。すばやく歩くのだ。長い距離を移動するときは、鳴きながら、波形に飛んでいく。

 余計な話だが、鳥には、地上では、「歩く」鳥と、「跳ねる」鳥がいる。「歩く=ウオーキング」「跳ねる=ホッピング」というが、身近なスズメなどは、決してウオーキングしない。いつも、ホッピングだ。もっと身近なハト(ドバトでも、キジバトでも)は、絶対にホッピングしない。いつもウオーキングだ。これがカラスになると、ハシブトガラスは、あまり地上を歩かないが、ハシボソガラスは、よく歩くし、ときどきホッピングもする、というように、鳥の行動というのも、種類によってずいぶん違うのだが、その辺のところを、志賀直哉は、しっかり見ている。鳥好きのぼくは、感動してしまう。

 ついで書いておけば、「葉の真中に黒い小豆粒のような実を一つずつ載せている小さな灌木」というのは、ハナイカダであろう。葉の上に実がなるおもしろい木だが、それを、「掌(てのひら)に大切そうにそれを一つ載せている様子が、彼には如何にも信心深く思われた。」と書くのも、心ひかれるところである。

 謙作は、今まで自分が生きてきた「人間関係」の世界と、この自然を対比して、自然の「美しさ」に圧倒される。それは何も珍しいことでもなく、新奇なことでもない。ごく一般に、多くの人間が感じ続けてきたことだ。

 けれども、どうして、自然は「美しい」のだろうか。なぜ「オニヤンマ」は「水谷のような人間」より「上等」なのだろうか。この水谷とオニヤンマとの比較をもう少し詳しく読むと、オニヤンマの「如何にもしっかりした動作」が「人間の小人(しょうじん)、────例えば水谷のような人間の動作」と比較されていることが分かる。この「動作」というのは、言葉としてはなんらかの「行動」を意味するだろうが、しかし、もう少し広くとると「有りよう」とか「姿」とかいうところまで意味するとも言える。

 オニヤンマは、太古の時代から、ずっと変わらず(もちろん幾多の進化を遂げたわけだろうが)、同じ形、色、線を保持して、堂々と同じ行動を繰り返す。そこに一点の迷いもない。体の黒と黄色の模様を恥じて、緑にしたいとか、同じ道を往復するのに飽きて、上下運動に切り替えるとかもしない。確固とした存在なのだ。

 それにくらべて、水谷のような小人は(いや小人でなくとも、たとえば謙作自身でも)、いつもおどおど周囲を気にして、右往左往している。絶世の美人でも、眉間に皺を寄せ、将来を悲観することもあるだろう。そこには「如何にもしっかりした動作」がないのだ。そして、それこそが、人間の人間たる所以なのだ。だから最初から勝負にならない。自然を前にした人間は、いつも圧倒され、畏怖するしかない。自然は、いつも、いつまでも「美しい」のだ。

 自然と人間を対比するとき、どうしても「雄大な大自然」と「ちっぽけな人間」の対比になりがちだが、謙作は、ちいさなトンボや、トカゲや、セキレイに、「自然」の美を発見し、それを「小人たる人間」と対比的に語るのだ。

 大山に行って悟る、というストーリーの中で、この「小さな自然」への眼差しは、注目に値する。

 

 人と人との下らぬ交渉で日々を浪費して来たような自身の過去を顧み、彼は更に広い世界が展(ひら)けたように感じた。
 彼は青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。彼は三、四年前自身の仕事に対する執着から海上を、海中を、空中を征服して行く人間の意志を讃美していたが、いつか、まるで反対な気持になっていた。人間が鳥のように飛び、魚のように水中を行くという事は果して自然の意志であろうか。こういう無制限な人間の欲がやがて何かの意味で人間を不幸に導くのではなかろうか。人智におもいあがっている人間は何時(いつ)かそのため酷い罰を被る事があるのではなかろうかと思った。
 かつてそういう人間の無制限な欲望を讃美した彼の気持は何時かは滅亡すべき運命を持ったこの地球から殉死させずに人類を救出そうという無意識的な意志であると考えていた。当時の彼の眼には見るもの聞くもの総てがそういう無意識的な人間の意志の現われとしか感ぜられなかった。男という男、総てそのため焦っているとしか思えなかった。そして第一に彼自身、その仕事に対する執着から苛立ち焦る自分の気持をそう解するより他はなかったのである。
 しかるに今、彼はそれが全く変っていた。仕事に対する執着も、そのため苛立つ気持もありながら、一方遂に人類が地球と共に滅びてしまうものならば、喜んでそれも甘受出来る気持になっていた。彼は仏教の事は何も知らなかったが、涅槃(ねはん)とか寂滅為楽(じゃくめついらく)とかいう境地には不思議な魅力が感ぜられた。

 


 『暗夜行路』には、何ヶ所かに飛行機が出てくる。この小説が書かれた当時は、飛行機が驚きをもって迎えられた時代だからだろうが、この飛行機が「文明」の象徴のようにここでは扱われている。

 「青空の下、高い所を悠々舞っている鳶の姿を仰ぎ、人間の考えた飛行機の醜さを思った。」という対比である。現代の人間が、こんなふうに感じることはほとんどないだろう。けれども、謙作は(志賀直哉は)、「人間の考えた飛行機」を「醜い」という。それは、人間の欲望が作り出したものだからだ、というのだ。

 「かつての」謙作は、飛行機などの文明は、人類を滅亡から救うための「無意識的な意志」の表れだと思っていたが、それがまったく変わってしまって、「人類が地球と共に滅びてしまうものならば、喜んでそれも甘受出来る気持になっていた」とまでいう。


 この激しい気持ちの変化は、やや唐突の感があるが、長い謙作の苦悩の中で、徐々に醸成されてきたのだろう。仏教への関心も、そうした経緯の中で、生まれてきたものだろう。

 厳しい戒律的なキリスト教から離脱した謙作にとっては、当然の関心の行方だったともいえる。

 それにしても、「男という男、総てそのため焦っているとしか思えなかった。」という部分には、「時代」の雰囲気を強く感じる。少なくとも当時のエリート男性は、なんとかして、世界を救わなければならないと真剣に思い詰めていたのかもしれない。


 彼は信行に貰った『臨済録』など少しずつ読んで見たが、よく分らぬなりに、気分はよくなった。鳥取で求めて来た『高僧伝』は通俗な読物ではあったが、恵心僧都(えしんそうず)が空也上人(くうやしょうにん)を訪ねての問答を読みながら彼は涙を流した。
 「穢土(えど)を厭い浄土を欣(よろこ)ぶの心切(こころせつ)なれば、などか往生を遂げざらん」
 簡単な言葉だが、彼は恵心僧都と共に手を合せたいような気持がした。
 彼は天気がよければ大概二、三時間は阿弥陀堂の縁(えん)で暮らした。夕方はよく河原へ出て、夏蜜柑位の石を河原の大きい石にカ一杯投げつけたりした。《かあん》と気持よく当って、それが更に他の石から石と幾度にも弾んで行く。それがうまく行った時は彼はわけもない満足を覚えながら帰って来るが、どうしても、うまく行かない時は意地になって根気よく投げた。

 


 禅に凝っている兄の信行から貰った『臨済録』を読んで、「よく分らぬなりに、気分はよくなった」というのも、謙作らしい感想である。「気分」こそ、謙作の心の「軸」だからだ。恵心僧都と空也上人の問答を読んで「涙を流した」のも、「恵心僧都と共に手を合せたいような気持がした」のも、そこに宗教的真実を探り当てたというよりは、みな「気分」の問題である。

 「気分」の問題だからといって、謙作の態度を責めているのではない。人間はどうしたら「気分」よく生きていけるかということは、考えてみれば、いちばん大事な問題なのかもしれない。

 河原の石を投げて、大きい石に「気持ちよく当たった」ときの「わけもない満足」以上の「生きる喜び」は、人生にはないのかもしれない。そういう喜びがありさえすれば、人間はなんとかこの世に生きていけるのかもしれない。

 

 

 

 

 


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