真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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明治維新 敗戦への歩みの始まり NO5

2019年06月07日 | 国際・政治

 1868年1月3日(慶応3年12月9日)突然発表された王政復古の大号令は、将軍徳川慶喜の辞職はもちろん、京都守護職・京都所司代を廃止し、幕府を廃止するとともに、摂政・関白をも廃止するものでした。その内容や決定過程は、山内容堂が小御所会議で、”此度之変革一挙、陰険之所為多きのみならす、王政復古の初に当つて兇器を弄する、甚不詳にして乱階を倡ふに似たり”と指摘した通り、全く陰険で正当性のないものだったと思います。摂政・関白を廃止したのは、摂政二条斉敬や親幕派の賀陽宮朝彦親王(中川宮)の存在が、討幕派の計画の遂行に邪魔であるという手前勝手な理由によるものだったことは否定できないと思います。

 王政復古の大号令が、大久保利通を中心とする薩摩と岩倉具視を中心とする討幕派公家が画策した策謀であったことは、下記資料1の書翰などで明らかではないかと思います。一五〇の書翰に”今般御発動に就ては機密を肝要とし”とあることで、計画が秘密裏に進められていたことがわかります。公議に基づくものではないのです。
 また、”摂政尹宮抔へ漏洩等も難図誠に御大事の御事と奉苦心候”とあることで、摂政二条斉敬や尹宮(親幕派の賀陽宮朝彦親王・通称中川宮)を無視して計画を進めようとしていたことがわかります。
 同じように、一五四の「王政復古に関する建言書」に”三卿へ御断決被為在候様”とあります。中山卿・中御門卿・正親町三条卿等の同意を取り付けるように依頼するものですが、計画の遂行が一部の人間によるものであることがわかります。
 一六三の書翰には”推て御参朝にて右御運ひ相付候様奉願候”とあります。王政復古の計画が大久保利通の主導するものであったことが窺われます。

 当時、大久保利通は頻繁に岩倉具視とやり取りをしていますが、王政復古の大号令はもちろん、小御所会議における大久保利通の発言も合意済みであったと思います。見逃せないのは、話し合う以前に、仲間内で結論が決定されており、もし同意が得られなければ、武力を行使するということで、一連の計画が進められていったことです。まさに、大久保利通を中心とする薩摩と岩倉具視を中心とする討幕派公家によるクーデターです。
 その内容や決定過程が、あまりにひどいものであったために、新政府樹立後の最初の三職会議(小御所会議)でも出席者の合意が得られず、西郷隆盛の指示があって決着に至ったことは、浅野張勲の「小御所会議の事」という文章の中に、”此時西郷吉之助は軍隊の任に当りたれば、此席に居らざりしが、薩土の議論衝突せしを聞き、唯之れあるのみと短刀を示したり”とあることで、明らかだと思います(「幕末維新史料叢書4 逸事史補 松平慶永 守護職小史 北原雅永」(人物往来社)。

 大久保利通を中心とする薩摩と岩倉具視を中心とする討幕派公家が画策したクーデターで新政府を樹立した人たちが、その後どんな政治を行ったかは、紀尾井坂において、大久保利通を暗殺した島田らがもっていた「斬姦状」で、その概略を知ることができると思います。
 実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名ということですが、彼らは有司専制の罪として、五つの罪を挙げています(下記資料2)。
〇 公議を杜絶(トゼツ)し、民権を抑圧し、以て政事を私(ワタクシ)する、其罪一なり
〇 法令漫設(マンセツ)、請託(セイタク)公行恣(ホシイママ)に威福(イフク)を張る、其罪ニなり
  法令をころころ変え、官吏の登用などで不正があるということだと思います。
〇 不急の土木を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費(トヒ)する 其罪三なり
〇 慷慨(コウガイ)忠節の士を疏斥(ソセキ)し、憂国敵愾(テキガイ)の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成する、其罪四なり
  不正を憎み、国家に盡そうとする士を排斥して、内乱のきっかけをつくりだしているということだと思います。
〇 外国交際の道を誤り、以て国権を失墜する、其罪五なり

 だから、明治維新以後、日本の政治は”やくざ化”したのであり、敗戦に至る歩みが始まったのだと思わざるを得ないのです。
 下記資料1は、「大久保利通文書」日本史籍協会編(東京大学出版会)から、資料2は、「自由党史(上)板垣退助監修 遠山茂樹・佐藤誠朗校訂(岩波文庫)から抜粋しました。

資料1 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一五〇 岩倉公への書簡 慶応三年十二月七日

【按】大号令渙発ヲ尾越両侯ニ内示ノ時機ニ関シ岩倉公ニ建言シタルモノナリ
尾越へ御内諭急速との儀後藤言上之趣意尤には御座候へ共兎角今般御発動に就ては機密を肝要とし意外の御英断人心戦栗仕候程ニ御威光拡充不仕候ては
朝廷の御基礎確立仕候儀万々無覚束奉存候然るに尾越を以御発表未然ニ幕中の周旋致さしめ候ては所謂帷幄(イアク)中の秘籌密策を通し候同様且は如何の辺より摂政尹宮(通称に中川宮)抔へ漏洩等も難図誠に御大事の御事と奉苦心候最早幕を私疑致し候儀は固より於公論無之況乎尾越ニ於寸毫不疑候得共
皇国之御存亡ニ相係候成否之際ニ付ては機事之密なるを
以て主と致し候外無御座幕にも渋沢其外之俗論あり尾にも正論而已にも無之甚以可恐次第に御座候古今事を発するに臨み敗亡を取候例不少既に明日迄之處種々懸念仕候次第も有之実に不安寝食焦思痛心罷在候此段後藤之説を拒候道理に相当如何ニ奉存候得共全左に無御座不可止之至情奉申上候及直談候こと当然に御座候得共是は四卿之御決断ニ被為在候事にて私共より御評議を動し候様ニては甚奉恐入候儀ニ付幸中卿も御出被為在ニ付御熟評御決議是非明日遅方尾越云々之御運相成様山卿正卿へ早々御封中を以被為示候様万々奉誠禱候全四卿御決議ニて
朝廷上之御都合辺明日遅方之方ニ御決被為在候ては於後藤其上可奉申上筋合無御座候此旨至憂之餘奉言上候謹言
        十二月七日                     大 久 保 一 蔵
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一五四 王政復古に関する建言書 慶応三年十二月八日
【按】岩倉公ニ提出セシモノニテ徳川氏ノ処置ニツキ中山・中御門・正親町三条卿等ノ決断ヲ促シタルモノナリ

今般以
御英断
王政復古之御基礎被召立度御発表ニ付ては必一混乱を生し候哉も難奉図候得共二百有余年之太平之旧習に汚染仕候人心ニ御座候得は一動干戈候て返て天下之眼目を一新中原を被定候御盛挙と可相成候得は戦を決候て死中活を得之
御着眼最急務と奉存候乍然戦は好て不可成事ハ大条理上ニ於て不可動者ニ可有御座候然るニ無事にして
朝廷上の御尽力貫徹大政官代三職之公論ヲ以大政を議せられ候日ニ至候ては戦より亦難とすべく従古創業守成之難易議論難定俊傑之士ニおひても後世識者之評を免れ不申候况乎衰体の今日ニては詳考深慮
御初政之一令を御誤不相成儀第一之御事ニ奉存候就ては徳川家御処置振之一重事大略之御内定奉伺候處尾越をして真ニ反正謝罪之道を為立候様以
御内諭周旋を被
命候儀実ニ至当且寛仁之
御趣意奉感伏候全体
皇国今日之危ニ至候事大罪之幕ニ帰れるハ不待論して明なる次第ニて既に先々十三日云々
御確断秘物之 御一条迄被為及候御事ニ御座候此末之處如何様之論相起候共諸侯ニ列し官位一等を降領地を返上
闕下ニ罪を奉謝候場合ニ不至候ては於公論相背天下人心固より承伏可仕道理無御座候間右ニ
御内議ハ断として寸分
御動揺不被在尾越之周旋若不被行候節は
朝廷寛大之
御趣意を不奉公論ニ反し真之反正為らざるもの顕然候得は早々
朝命断然右之通り
御沙汰可相成儀ト奉存候右
御定議より下ツテ之
御処置は公論条理上ニおひて更ニ有御座間舗若寛大之名被為付
御処置其当を被失候得は
御初政ニ條理公論を御破り相成候筋ニて
朝権不相振ハ論ずる迄も無之必昔日之大患を可生儀相違無御座候若
御趣意通真之反正を以実行擧り謝罪之道相立候上ハ無
御顧念御採用可相成事は勿論ニ御座候前條預御尋問尚修理太夫趣意を奉し評決之形行奉申上候一点之私心を以大事を不可論ハ兼而奉言上通ニ而
候間宜舗
御熟考外
三卿へ御断決被為在候様
御示談千祈萬禱仕候頓首謹言
    十二月八日                               岩下佐次右衛門
                               西 郷 吉 之 助
                                                                       大 久 保 一 蔵
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一六三 岩倉公への書翰 慶応三年十二月廿三日
【按】岩倉公ノ疾ヲ推シテ参朝アランコトヲ促シタルモノナリ
越前侯ヨリ下参輿中ㇸ示談之趣華城一條時日遷延今日ニ至リ候儀ハ實ニ大罪無申訳次第此上ハ両條
朝命ヲ奏して尾越下坂致し必死尽力に及フヘク其上奏せさるこのハ親藩と雖も断して討つより外無之事ニ候乃て右
御沙汰相降候様尽力頼むとの趣御座候就いては 御沙汰振の處御大事にて辞官且領地返獻の文字明瞭御達不被為在候て難相済只今正三卿へ奉伺候處 御沙汰相成候得共御前御参朝不被為在との御事候由承申候得共右の次第に付ては推て御参朝にて右御運ひ相付候様奉願候甚御無理トハ奉存候得共尾越よりも昨日よりの続合有之トカ申し頻りに御前の御参朝を奉願由ニ相聞候御前御一人様の故を以テ相決不申候も如何ニ奉存候別て大幸の機会御座候ニ付既ニ今朝云々御大決も被為在候御事ニ御座候間願くハ御参朝にて断然ト朝命の御運相成候様奉願参殿奉申上度候處尾越より御使差立候トの事故態ト此段不願恐以紙面言上仕候謹言
    十二月廿三日                    大 久 保 一 蔵  
資料2--------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第三編 愛国社の興起
                     第三章 国会開設の建白
民間党の苦楚
 今や政府は驕陽(キョウヨウ)の勢を以て天下に蒞(ノゾ)み、大久保の声望、隆々として中外に震ひ、復た何物の怖るべきを見ず、軽薄(ケイハク)の士庶、争ふて万歳を頌(ショウ)し、且つ民権党を擠陷(サイカン)するに
朝敵国賊等の文字を以てし、公議の聲杜絶して隻響(セキキョウ)だもなく、群衆之に和して自由を口にする者を蛇蝎(ダカツ)の如く憎忌(ゾウキ)するに至る。当時立志社の刊行せる雑誌の如き、京阪の書賈(ショコ)、之を店頭に陳列するを峻拒せしを見るも、亦た以て其一斑を想察するに難からず。此の如くして政府は実に巨獄の坤軸(コンジク)を抜くと同じく、其盛運凡そ幾十百年の長きに亙る乎をも知るべからざるが如かりき。太平の象宛(アタ)かも洋々乎('コ)たり、寧ろ料(ハカ)らや禍は不虞(フグ)より起り、良巫(リョウブ)の子却(カエツ)て多く鬼(キ)に死し、聰明(ソウメイ)の士却て多く壅蔽(ヨウヘイ)に躓(ツメズ)者くあらんとは。
是歳(コノトシ)五月十四日の早暁、時の実権者たる参議兼内務卿大久保利通は、参朝の途、紀尾井坂清水谷の畔に於て、飛刃空を破つて来り 忽ち首を路傍に授く。腥血(セイケツ)地を染て紅なり。年四十九。刺す者は誰ぞ、曰く石川県士族島田一郎、長連豪、脇田功一、杉本乙菊、杉村文一、島根県士族浅井壽篤の六人、而して懐にする所の斬杆状(ザンカンジョウ)、其理由を條陳(ジョウチン)し、辞気頗る矯激(キョウゲキ)を極めたり。報、東西に伝はり、満朝愕然咸(ミ)な色を失す。蓋し島田、長等は嘗(カツ)て愛国者の会合に参し、国政改革の志を同ふせり。其所謂斬杆状中記する所、主として公議を杜絶し、民権を抑圧するを以て第一罪に数え、専ら木戸、大久保を排せしを見れば、其意西郷の事に、大久保の政略に反対するに在りしが如し。一旦時勢に激し、方向を惨竅(ザンキョウ)の行動に誤る。而して両(フタツ)ながら倶に斃れて徒に國殤(コクショウ)を醸せしは、何等の恨事(コンジ)ぞや。世を挙(コゾ)つて之を惜む。

                         斬姦状
 石川県士族島田一郎等、叩頭昧死(コウトウマイシ)、仰で 天皇陛下に上奏し、俯して三千有餘萬の人衆に普告す。一良等今ま我 皇国の時状を熟察するに、凡そ政令法度(ハット)、上(カミ)
天皇陛下の聖旨に出ずるに非ず、下衆庶(シュウショ)人民の公議に由るに非ず、独り要路官吏数人の臆断専決する所に在り。夫れ要路の職に居り、上下の望に任ずる者、宜しく国家の興廃を憂(ウレウ)る、其家を懐(オモ)ふの情に易(カ)へ、人民の安危を慮(オモンバカ)る、其身を顧る<の心>〔者〕に易へ、志忠誠を専にし、高速バス行節義を重じ、事公正を主とし、以て上下に報対すべし。然り而して、今日要路官吏の行事を親視するに、一家の経営之れ務めて、其職を尽す所以(ユエン)を計らず、一身の安富之れ求めて、其任に敵(カナ)ふ所以を思はず。狡詐貪婪(コウソドンラン)、上を蔑(ベツ)し下を虐(ギャク)し、遂に以て無前(ムゼン)の国恥(コクチ)、千載(センザイ)の民害を致す者あり。今其罪状を條挙する左の如し。曰く、公議を杜絶(トゼツ)し、民権を抑圧し、以て政事を私(ワタクシ)する、其罪一なり。曰く、法令漫設、請託公行恣(ホシイママ)に威福(イフク)を張る、其罪ニなり。曰く、不急の土木を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費(トヒ)する 其罪三なり。曰く、慷慨(コウガイ)忠節の士を疏斥(ソセキ)し、憂国敵愾(テキガイ)の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成する、其罪四なり。曰く、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜する、其罪五なり。公議は国是を定むる所以、民権は国威を立つる所以なり。今ま之を杜絶し、之を抑圧するは、則ち国家の興起を疎隔(ソカク)するなり。法令は国家の大典、人民の標準なり。今ま之を漫施(マンシ)するは、則ち上王綱(オウコウ)を蔑棄(ベッキ)し、下民心を欺誣(キブ)するなり。国財は人民公供の貲用(シヨウ)、以て天下の要急に備ふるなり。今ま之を徒費するは、則ち民の膏血(コウケツ)を洩亡(エイボウ)するなり。慷慨忠節の士、憂国敵愾の徒は、則ち国の元気にして、其興廃の係る所以の者なり。今ま之を疏斥し、之を嫌疑するは、則ち国家の衰廃を求むるなり。国権は国の精神にして、其独立を致す所以の者なり。今之を失墜する、則ち国家の滅亡を招くなり。凡そ此の五罪、是れ其上を蔑し、下を虐し、以て国家を紊(ミダ)るの最も大なる者なり。今又其事実を<詳明する別紙に録する所の如し。其餘細大凡百の罪悪に至ては悉く枚挙(マイキョ)す可らず>〔詳挙せざる可らず〕而して粗々(ホボ)天下衆庶の指目する所と為るを以て、今復之を具載(グサイ)せず。夫れ今日当路姦吏輩(カンリハイ)の罪悪已に如斯(カクノゴトシ)。是を以て天下囂々(ゴウゴウ)、物情紛々、或は切論風議、以て其非曲を指責し、或は抗疏建白、以て其姦邪(カンジャ)を排斥す。而して姦吏輩猶反躬悔悟(ハンキュウカイゴ)の意なく、益暴を振ひ、虐を恣(ホシイママ)にし、罰を設け、刑を制し、以て論者を執囚(シツシュウ)し、議者を拘束し、遂に天下の志士憂国者をして、激動沸起(フッキ)せしむるに至る。則ち 勅命を矯め、国憲を私し、王師を弄し、志士憂国者を目するに、反賊を以てす。甚しきに至ては、隠謀密策を用ひて、以て忠良節義の徒を害せんと欲す。而て事敗るゝに及では、則ち天下の民命を駆り、闔国(コウコク)の武備を盡して、之を滅し、以て其跡を掩(オオ)ふ。西郷、桐野等、世に<在るに>有ては、姦吏輩大ひに畏憚する所あり。未だ其私曲を極むるを得ず。今や彼徒既に逝(ユ)くを以て、姦吏輩復た顧慮する所なし。是を以て更に其暴悍(ボウカン)を
肆(ホシイママ)にし 転(ウタタ)其姦兇(カンキョウ)を逞ふし、内は以て天下を翫物(ガンブツ)視し人民を奴隷使し、外は以て外国に阿順し、邦権を遺棄し、遂に以て 皇統の推移、国家の衰頽 生民の塗炭を致すや、昭々として掌に指すが如し。一良等一念此に至る毎に、未だ曾て流涕(リュウテイ)痛息せずんばあらず。昨年西南の事起るに会し一良等固より西郷等非望を図るの反賊に非ずして、而して事端の起る姦吏輩の隠謀に由るを審(ツマビラカ)にし、且西郷等若(モ)し亡びば、国家前途の事遂に已むを知る。故に其名分条理を唱へ、其正邪曲直を鳴し、遥かに起て彼の徒を助け、以て姦吏輩の罪悪を討せんと欲す。<而して>遂に機宜(キギ)を得ず。事務不可なる者あり、以て其志を遂る能はず。既にして而して思惟す、今姦吏輩の亡状如斯、苟も此の輩をして猶其職に在り、久しく政事を執らしめば、将来国家の事状 復た測る可らず、今の計を為す者、速かに姦吏を斬滅し、上は国害除き、下は民苦を救ひ、以て四方の義気を振起し、天下の衰運を挽回(バンカイ)するに在りと。乃ち議を転じ、策を移し、以て斬姦の事を謀る。因て当時姦魁(カンカイ)の斬るべき者を数ふ。曰く、木戸孝允、大久保利通、岩倉具視、是れ其最も巨魁<たる者>、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良の如き亦許す可らざる者、その他三条実美等数名の姦吏に至ては、則ち斗筲(トショウ)の輩算(カゾフ)るに足らず。其根本を断滅せば、枝葉随て枯落(コラク)す。然れども一良等、同士の者寡少なるを以て、数名の姦魁(カンカイ)挙げて以て之を誅する能はず。故に先づ孝允、利通、両巨魁中其一を除かんと欲す。而して図らず孝允疾を以て死す。蓋し皇天其大姦を悪(ニク)み、既に其一を冥誅(メイチュウ)し、又一良等をして其一を斬戮(ザンリク)せしめ、以て二兇を併せ亡ぼすなり。故に一良等、今に天意を奉じ、民望に随ひ、利刃を振ふて以て大姦利通を斃(タオ)す。其餘の姦徒、岩倉具視以下の輩に至ては、想ふに天下一良等の事を挙るを観て、必ず感奮興起(カンフンコウキ)して、以て遺志を継ぐ者あり、此輩應(マサ)に不日斬滅を免れざるべし。臣一良等頓首頓首仰で
天皇陛下に白(モウ)し、俯(フ)て闔国(コウコク)人<衆>〔民〕に告ぐ。一良等既に事忍びざるに出で、敢て一死以て国家に盡す。前途政治を改正し、国家を興起するの事は、即ち
天皇陛下の明と闔国人衆の公議に在り。願くば明治一新の 御誓文に基づき、八年四月の詔旨に由り、
有司専制の弊害を改め、速に民会を興し、公議に取り、以て 皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷(ビチュウ) 以て貫徹するを得、死して而して冥す。故に決死の際、上下に俯仰し、聊か(イササ)か卑意を陳ず。併せて姦吏の罪悪を状し、以て 聖断に質(タダ)して、而して公評を取る。一良等感激懇迫(コンパク)の至に堪へず。叩頭昧死(コウトウマイシ)、謹言
   明治十一年五月十四日
                                石川県士族
                                 島田 一良
                                 長 連 豪
                                 杉本 乙菊
                                 脇田 巧一
                                 杉村 文一
                                島根県士族                           
                                 浅井 壽篤 

 

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