真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

独ソの一方的条約破棄と日本の対ソ参戦準備

2009年01月09日 | 国際・政治
 1945年8月8日、ソ連は突然日ソ中立条約の破棄を宣言し、日本に対し宣戦を布告しました。そして9日午前零時を以って戦闘を開始し、南樺太や千島列島及び満州国等へ侵攻したのです。この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃であったといいます。私は子どもの頃から、ソ連の条約違反を非難する言葉を何度も耳にしてきました。しかしながら、日本と同盟関係にあったドイツも、ソ連との不可侵条約を破ってソ連に侵攻しました。また、日本も御前会議で、情況が有利に進展した場合日ソ中立条約があるにもかかわらず参戦する計画を立てていたことが分かっています。自国軍の都合で、相手国との合意なしに条約(約束)を破棄し侵攻する、それが戦争(殺し合い)なのだと思います。関連部分を「国際スパイゾルゲの真実」NHK取材班下斗米伸夫(角川文庫)より抜粋します。
---------------------------------
               第二章 日本情報を送れ

 バルバロッサ作戦

 情況はさらに進展していく。1940年12月9日、ゾルゲの新たな電報が、モスクワに届いた。
「ドイツから来日した軍人はみな、ソビエトの政策に影響を与える目的で、ドイツはルーマニアを含めた東部国境に約80個師団を配備していると話している。もしソビエトがドイツの利益に反する行動に積極的に出れば、ドイツはすでにバルト諸国で行われたように、ハリコフ、モスクワ、レニングラードの線にそって領土を占領することができよう」
 確実な政策決定を示す情報ではないものの、ドイツがソビエトを攻撃するというゾルゲから送られた電報は、ソビエト指導部を驚かせた。
 電文を受け取った赤軍参謀本部の書き込みには、「再確認の必要あり」「疑わしい電報」など、内容に疑いの目を向ける書き込みがなされている。不可侵条約を締結したドイツが、そう簡単にはソビエトを攻めることはないと考えていたソビエト指導部の、当惑した様子がうかがえる。

 しかし、この時期ドイツでは、ソビエト侵攻計画への準備命令がヒトラーによって発令されていた。「バルバロッサ作戦」である。
 スイス国境に近い南ドイツの町フライブルク。この町は、かつて、パプスブルク家の支配下にあったことで栄え、古い街並みが残されている。
 この町に、ドイツの連邦軍事資料館がある。ここにはドイツの軍事史に関する一次資料が保管されている。近代的な高層建築の研究棟と3棟の資料保管庫が、敷地内には設けられている。
 1940年12月18日、ヒトラーより発せられた総統指令第21号「バルバロッサ作戦」の実物は、この軍事史料館の特別金庫の中に保存されていた。


 総統兼国防軍最高司令官
                             総統司令部1940年12月18日

 指令第21号「バルバロッサ作戦」
 ドイツ国防軍は、対英戦終了以前にもソビエト連邦を電撃戦により蹂躙する準備を進めるべし。(バルバロッサ作戦)


 (略)

 指令書には、国境周辺のソビエト空軍基地を占領し、ドイツ領土への攻撃を不可能にすること、またウラル地方の工業地帯を空軍に寄って攻撃することが記されている。さらにこの目的を実行するために、部隊に対して細かい作戦面の指示も行われている。

・・・

 10ページにおよぶ、この「バルバロッサ作戦」の指令書は、薄い黄土色の紙に黒いインクでタイプされている。文末にはあのヒトラー直筆のサインが記されている。そして何人かの司令官が、これを読んだ確認のために、指令書のスペースにサインを書き込んでいる。それは赤や青や緑のインクを使って書かれているため、資料そのものに何か不気味な華やかさが感じられた。
 この指令書が、全世界をさらに激しい戦争に巻き込んでいったのである。


 ゾルゲは、この指令の直後に、日本においてすでにヒトラーの計画に気づいていたことになる。さらに、翌41年(昭和16)3月、ゾルゲはドイツから送り込まれた伝書使の言葉をモスクワに報告する。
「将来日本をソビエトに対する圧力として使うという考えが、ドイツ国内、とくに軍部内でかなり強まっている」というのである。日本がソビエトを背後から脅かす役割を果たすように、ドイツ側が期待していることを伝えている内容である。ソビエトはこうした情勢を受けて、日本との関係改善を急いでいた。1941年4月13日、モスクワにおいて松岡、モロトフ両外相による日ソ中立条約の締結がそれである。


----------------------------------
               第三章 動き出したゾルゲ諜報網

  松岡外相、対ソ攻撃を言明


・・・ 

 日独伊三国同盟と日ソ中立条約をともに締結した松岡外相は、独ソ開戦の可能性を、最後まで低く考えていた一人だが、いったん戦争が現実のものとなったあとは、日ソ中立条約より三国同盟を優先させて対ソ参戦を強硬に主張したことで知られている。オットがドイツ本国へ送っていた電報によると、6月22日、対ソ開戦を伝えたオットに対して、松岡は個人的見解とことわりながらも、日本は中立をつづけることはできないと言ったという。また6月25日の会見では、松岡はオットに自分は対ソ参戦を主張する派であると明言したという。どちらも、警察訊問調書でのゾルゲの発言と符合するように思われる。
 当時松岡外相の秘書官だった加藤俊一氏は、この点に関して、興味深いエピソードを語ってくれた。
「ソ連の大使が来ました。スメターニンという、ぼーっとした男でしたけど、それがやって来て、今度は大変なことになったと言うんですよ。
独ソ不可侵条約というものがあるのに、ヒトラーは奇襲をしてきた。けしからんって言ってね。そして日本は中立条約というものがあるんだから、これを厳重に守ってくれということを言うわけですよ。
 そうすると、松岡さんは、日本はソ連との間に中立条約を作った。しかし、三国同盟というのもあるんだと。どっちのほうが日本にとって重要かというと、それはこの二つが衝突しなければよい。
衝突した場合には、三国同盟のほうが優先するんだよと言ったんですよ。そのときのスメターニンの顔といったら、ほんとうに体を震わせてね、ガタガタ体を震わせて帰っていきました」
 ・・・(以下略)

----------------------------------
  7月2日、御前会議

 1941年(昭和16)7月2日、宮中東一ノ間で、「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」を議題に御前会議が開かれた。

・・・

 最終決定をみた「情勢ノ推移ニ伴ウ帝国国策要綱」は、その方針説明の中で、自存自衛の基礎を確立するため「南方進出ノ歩ヲ進メ、又情勢ノ推移ニ応ジ北方問題ヲ解決ス」と述べ、南北両面に備えることを示している。そして「要綱二」で、既定の諸方策に従って「南方進出ノ態勢ヲ強化ス」として南部仏印進駐を決め、そのためには「対英米戦ヲ辞セズ」とされた。独ソ戦に関しては、「要領三」で次のように記されている。
「独ソ戦ニ対シテハ三国枢軸ノ精神ヲ基調トスルモ、暫クコレニ介入スルコトナク、密ニカ対ソ武力的準備ヲ整エ、自主的ニ対処ス。コノ間モトヨリ周密ナル用意ヲ以テ外交交渉ヲ行ウ
。独ソ戦ノ推移帝国ノタメ有利ニ進展セバ、武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北辺ノ安定ヲ確保ス
 つまり、独ソ戦に対しては不介入の立場をとり、その間にソビエトに対する軍事的準備を整える。そして、もし情況が日本に有利に進展した場合のみ、対ソ参戦する、と確定されたのである。

 ・・・(以下略)


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 張作霖爆殺の真相 奉天総領... | トップ | 満州事変に至る周辺事情と問... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事