真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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満州事変に至る周辺事情と問題の論文

2009年01月09日 | 国際・政治
 田母神前航空幕僚長の更迭の理由は、空幕長という立場にありながら、政府見解と異なる論文を無断で発表したということであり、文民統制下の組織として問題があるということである。しかし、論文に事実ではないと考えられる内容が含まれていることは、具体的にはあまり問題にされていない。たとえば彼の論文には「我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている」とある。それが事実に反することは、少し調べればすぐに分かることだと思う。たとえば、関東軍の謀略工作であった柳条溝事件勃発の際の朝鮮軍の越境も、条約はおろか、政府の不拡大方針をさえふみにじる独断的行動であった。当時の朝鮮軍参謀神田陸軍中佐の下記の証言も、それを裏付けるものであるといえる。また、満州事変そのものも、起こるべくして起こった侵略的軍事行動であったといえる。張学良の易幟は、日本の特殊権益を守り拡大しようとする政府や日本軍、とりわけ関東軍の姿勢と対立していたことを示している。そうしたことと関わる証言や事実をいくつか「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)より抜粋する。
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               柳条溝事件の真相
 社会不安と「国防」思想

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 鈴木禎一(当時参謀本部軍事課員・中佐)談
 「軍事的側面からみると、列強の植民地政策は盛んになり、ことにソ連の脅威から日本を守るために『国防』という考えが新しく出てきた。政治家は、国防ということに関してはなにもわからなかった。第1次世界大戦で、武器の飛躍的進歩がみられ、わが国でも急速に軍の近代化をはからねばならなかった。また大戦中多くの観戦武官を欧州の戦場に送り、研究させた結果、若い将校たちの間に、不勉強な幹部を馬鹿にする風潮が生まれ、幹部またこれを押さえることができなかった。ここに下剋上の風潮がおきた。

 近代的軍備拡張の要請と同時に、出てきたのが戦後の軍縮の問題。これに不況がからんで官吏の減俸問題や農村の疲弊が著しく、社会不安のもととなった。ことに軍では兵隊の供給源を農村に仰いでいるため、農村の不安は直接国防の不安もつながる。このため青年将校は次第に既成の政治体制に不信と反感を抱き、昭和初年にかけて国家改造思想が生まれてきた。荒木教育総監本部長より、青年将校の思想善導に当たるよう命を受け、今田新太郎など青年将校を家に呼んで話したりしたのも、このころだったと思う」
 このような国内情勢から人々の眼は満蒙にに向けられ、国防国家を建設して満蒙問題を解決し、”日清、日露戦争の尊い血であがなった特殊権益”を守りぬこうという風潮が強まっていった。


 危機に立つ日本の生命線

 1929年(昭2)、蒋介石が、旧軍閥の打破と中国大陸の中央集権化をめざして北伐の進撃を開始すると、各地で民族主義の勃興がみられ、排日運動の火の手は全中国に広がっていった。28年(昭3)張学良は易幟を行い、満州に青天白日旗をひるがえし、激化した排日は抗日、蔑日へと進展していった。
 張学良の易幟は
(張学良が、北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石率いる国民政府の旗である青天白日旗に旗を換え、国民政府に従うことにしたことを指す)日本側に危機感を醸成したが、日本を最も刺激したのは満鉄包囲線の建設と胡廬島の築港問題であった。胡廬島は大連に対抗して、東部・西部・中部大線の鉄道網の起点、終点をなすもので、新鉄道網によって、北満の大豆なども、満鉄を避けてトウ昮線ー四トウ線ー打通線のルートで南満に運ばれるようになった。満鉄の経営は苦境に陥っていた。日本の対満投資の63パーセントを占める満鉄の収入は、30年度(昭5)には前年度の三分の一を下まわるという、創業以来の不成績を洮残した。
 こうした情況にたいして、軍部や政友会はもちろん幣原外交を非難したが、毎日や朝日などの大新聞も、満蒙の収益擁護を強硬に主張しはじめた。
 この逼迫した日中関係の中で在満邦人は「我が権益の前途を気遣い此の侭にて経過すれば満鉄の金州半島内部への後退も遠からず」(当時関東軍参謀中野良次『満州事変の真相』みすず書房刊『現代史資料』=続満州事変)という危機感を抱いていた。平和外交では満州問題は解決のチャンスは到来しない。ことここにいたれば、つくり出すしかない、という気持ちであった。関係者たちは、みんな何かがおこることを望んでいた。事変勃発後、満鉄3万の社員が、軍同様の働きをした理由もそこにあった。


 山口重次(当時満鉄営業課員)談
 「満人側の日鮮人迫害や鉄道侵害事件などが年中行事化していた。奉天鉄道事務所管内だけでも、1年間の被害は30万を越え、電話線を切られたり、線路をはがされたり、はては日本守備兵が拉致される事件までおこった。
 総領事は『厳重抗議』をしたというきまり文句を繰り返すだけで、『厳重抗議』は370件もたまっていた。軍も傍観しているだけだった。だから日本人会で、青年連盟の岡田猛馬君が『関東軍は刀の抜き方を忘れたか。腰の軍刀は竹光か』と名演説をぶって全満をうならせたものだ。そして、在満邦人は、”国民外交”と称して直接行動をはじめるようになった。


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 神田正種(当時朝鮮軍参謀・陸軍中佐)談
 「席上、満州問題が討議されたが、結局、小磯、永田が主流の中央部では、満州問題解決の目標を昭和10年におき、それまでに国政を革新し、国防国家体制を整備し、軍備拡張を行おうという考えであった。その手始めに軍が中心となって満州問題の解決の必要性を国内にPRしようというものであった。
 積極的政策という点では異存はなかったが、時期尚早を唱えたり、杉山次官など、やや躊躇を示したりで、早期解決の手段は講じられないことがわかった。
(陸軍中央では「満蒙問題解決方策の大綱」で、向こう1年は隠忍自重し、万一に紛争が生じたときは、局部的に処置することに留めると結論していた)解散後、二次会場に残ったわれわれ部課員は『中央の命を待っていたのでは到底だめだから、出先でやってしまえ。やったあとはおれ達が頭を働かす』ということでわかれた」
 このように中央と現地軍の間には、著しいズレがあった。関東軍は現地情勢に危機感を持ってのぞみ、だれの意見にも耳を傾けた。


・・・

 同年7、8月ごろのものと思われる関東軍参謀本部の「情勢判断ニ関スル意見」には、満州問題解決について、中央とはあまりにもかけはなれた強硬論につらぬかれていた。
 その「説明」の部分には
 「(2)一挙解決何故ニ不利ナルヤ、満蒙ノ解決ハ第三国トノ開戦ヲ誘起スヘク我
    勝テハ世界思潮ハ問題ニアラサルヘシ

  (3)好機会ノ偶発ヲ待ツハ不可ナリ機会ヲ自ラ作ルヲ要スとある。

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 神田正種談
 「関東軍は満州問題の前面解決のために、朝鮮軍を糾合して二軍協同の軍事行動によって中央を引っ張ろうとしていた。そこで関東軍の決起が中途で挫折し、その謀略がもれれば陸軍だけでなく国家の重大事となる。そこで私はいま国を救う道は戦果を拡大することだと司令官に朝鮮軍の独断越境をお願いした。そのかわり、朝鮮統治のために間島くらいお礼にもらってもよいと思った」
 かくて21日、林軍司令官は中央部に
「関東軍ハ吉林方面ニ行動ヲ開始スルニ至リ著シク兵力ノ不足ヲ訴ヘ朝鮮軍ノ増援ヲ望ムコト切ナル重ネテノ要求ヲ接受シ義ニ於テ忍ビズ在新義州混成旅団ヲ越境出動セシム」と通知し、ついに独断越境を開始した。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。

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1 コメント

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岡田猛馬の子孫です。 (水谷 雄次)
2010-08-16 23:44:46
岡田猛馬の子孫です。
祖父の事でくわしい話がありましたら
ご連絡願います
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