マレーシアの人たちは、当初「アジア人のためのアジア」を唱えて、東南アジアに進出してきた日本軍に期待したようである。その言葉通り、日本軍が西欧列強諸国からアジアを解放してくれると信じのだ。しかし、しばらくすると、イギリス人の座を奪った日本の支配が、イギリスによる支配より残酷なものであり、日本軍が、日本軍自身の目的を達成するために、マレーシアの国民を利用しているのだと気づいて抵抗するようになっていったという。強制的に泰緬鉄道(「死の鉄路」と呼ばれているという)建設工事に動員された労働者はおよそ10万人にのぼり、帰国できなかった人も多いようである。マレーシアを占領した日本軍は、華僑による中国援助を阻止するため、特に中国人に対して厳しく、疑わしい中国人はみな処刑したといわれている。日本に敵対した最大組織の反日マラヤ国民軍MPAJAのメンバーが中国人が中心だったということも頷ける。殺害された中国人は、10万人以上であるという。
戦後のマレーシア・シンガポールを相手とした日本の戦争賠償・被害者補償は、「血債」協定とよばれているが、その内容は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務である。そのことに関して、下記に”これで「血債」として虐殺されり障害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。”とあるが、まったく同感である。
日本の戦争賠償に関して、サンフランシスコ講和条約は、その第14条a項に
”日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される。”
と明記した。
そのため、日本の賠償は大幅に軽減され、アジア諸国の戦争被害の実態に見合うものとはならなかった。そればかりでなく、冷戦に対応するためのアメリカのアジア戦略により、日本の経済復興が重視され、賠償の内容が「役務、生産物供与、加工賠償」という支払い方式にされた。極東における安全保障体制確立を優先させるアメリカの政策によって、日本のアジア諸国に対する賠償支払いの額や方式が、アジア諸国の要求するものとかけ離れたものになったといえる。アジア諸国は様々な抵抗を試みたが、通らなかったようである。
そうした日本の賠償は、「商売」であり、形を変えた「貿易」であるといわれた。また、当時の吉田首相は、「むこうが投資という名を嫌がったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」と語ったという。日本の戦争賠償は、結局、日本のアジア諸国に対する再進出の足がかりとなった。その結果、アジア諸国の戦争被害者に対する個人補償は、完全に切り捨てられた。戦争被害者の間に「怨念」を残すことになったといわれるのはそのためである。
日本の経済復興が実現し、冷戦後、日本が経済大国となって、湾岸戦争に130億ドルもの拠出をするようになると、アジア諸国の戦争被害者が補償を求めて声を上げ始めたというが、当然のことではないかと思う。
下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、マレーシア・シンガポールの「個別の賠償条約、経済協力協定の締結」の部分を抜粋したものである。
-------------------------------------------------------------------
第2章 日本の戦後処理の実態と問題点
第3 日本政府による賠償と被害者への補償
2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結
(6)マレーシア、シンガポール
① マレーシア
1962年1月にシンガポールのイーストコーストの宅地造成地で、日本軍の占領中に日本軍によって虐殺された華僑の人骨が大量に発見され、これがマレーシアに波及したのがいわゆる「血債問題」であった。マレーシア華僑は、日本製品の不買運動をして問題解決を日本政府に迫り、マレーシア政府が交渉の末、1967年9月21日にクアラ・ルンプールで「血債協定」を締結するに至った。
☆ 「血債協定」日本国とマレーシアとの間の1967年9月21日の協定
第1条 日本国は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本
人の役務を無償で供与する。
3 生産物及び役務は、まず外航用の新造貨物船2隻の建造のために当てら
れるものとする。
第2条 マレーシア政府は、第2次世界大戦の間の不幸な事件から生ずるすべて
の問題がここに完全かつ最終的に解決されたことに同意する。(要約)
この協定に基づいて、同額相当の外航貨物船2隻が1972年5月6日に供与されたが、これで「血債」として虐殺されり障害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。
② シンガポール
1962年1月にイーストコーストの宅地造成現場で日本軍の占領中に日本軍によって虐殺された華僑の人たちの人骨が大量に発見された。これに端を発し、中華総商会の手で続々と華人の人骨が発掘され、「殺人は命で、血債は血で償え」という対日賠償の要求が高まった。日本製品の積みおろし拒否、暴徒による襲撃など、シンガポールの日本人社会に大きな衝撃を与えた。その後、「マラヤとの合併によるシンガポール独立」を求める運動の中で、1963年9月16日にマレーシア連邦が成立し、血債問題の日本との交渉担当者が同連邦のラーマン首相(マレー人)に変更されたが、1965年のシンガポールの独立を経て、1967年9月21日にシンガポールで日本政府との間で「血債協定」の調印に至った。
☆ 「血債協定」日本国とシンガポール共和国との間の1967年9月21日の協定
第1条 日本国は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本
人の役務を無償で供与する。
第2条 シンガポール共和国は、第2次世界大戦の存在から生ずる問題が完全か
つ最終的に解決されたことを確認し、かつ、同国及びその国民がこの問題
に関していかなる請求をも日本国に対して提起しないことを約束する。
この協定に基づいて、1972年3月までに造船所建設、人工衛星地上通信基地建設、港湾クレーンなどの品目が供与されたが、これらの供与は、「血債」として虐殺されたり傷害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事全文と各項目へリンクした一覧表があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。青字が抜粋部分です。
戦後のマレーシア・シンガポールを相手とした日本の戦争賠償・被害者補償は、「血債」協定とよばれているが、その内容は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務である。そのことに関して、下記に”これで「血債」として虐殺されり障害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。”とあるが、まったく同感である。
日本の戦争賠償に関して、サンフランシスコ講和条約は、その第14条a項に
”日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分ではないことが承認される。”
と明記した。
そのため、日本の賠償は大幅に軽減され、アジア諸国の戦争被害の実態に見合うものとはならなかった。そればかりでなく、冷戦に対応するためのアメリカのアジア戦略により、日本の経済復興が重視され、賠償の内容が「役務、生産物供与、加工賠償」という支払い方式にされた。極東における安全保障体制確立を優先させるアメリカの政策によって、日本のアジア諸国に対する賠償支払いの額や方式が、アジア諸国の要求するものとかけ離れたものになったといえる。アジア諸国は様々な抵抗を試みたが、通らなかったようである。
そうした日本の賠償は、「商売」であり、形を変えた「貿易」であるといわれた。また、当時の吉田首相は、「むこうが投資という名を嫌がったので、ご希望によって賠償という言葉を使ったが、こちらからいえば投資なのだ」と語ったという。日本の戦争賠償は、結局、日本のアジア諸国に対する再進出の足がかりとなった。その結果、アジア諸国の戦争被害者に対する個人補償は、完全に切り捨てられた。戦争被害者の間に「怨念」を残すことになったといわれるのはそのためである。
日本の経済復興が実現し、冷戦後、日本が経済大国となって、湾岸戦争に130億ドルもの拠出をするようになると、アジア諸国の戦争被害者が補償を求めて声を上げ始めたというが、当然のことではないかと思う。
下記は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から、マレーシア・シンガポールの「個別の賠償条約、経済協力協定の締結」の部分を抜粋したものである。
-------------------------------------------------------------------
第2章 日本の戦後処理の実態と問題点
第3 日本政府による賠償と被害者への補償
2 個別の賠償条約、経済協力協定の締結
(6)マレーシア、シンガポール
① マレーシア
1962年1月にシンガポールのイーストコーストの宅地造成地で、日本軍の占領中に日本軍によって虐殺された華僑の人骨が大量に発見され、これがマレーシアに波及したのがいわゆる「血債問題」であった。マレーシア華僑は、日本製品の不買運動をして問題解決を日本政府に迫り、マレーシア政府が交渉の末、1967年9月21日にクアラ・ルンプールで「血債協定」を締結するに至った。
☆ 「血債協定」日本国とマレーシアとの間の1967年9月21日の協定
第1条 日本国は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本
人の役務を無償で供与する。
3 生産物及び役務は、まず外航用の新造貨物船2隻の建造のために当てら
れるものとする。
第2条 マレーシア政府は、第2次世界大戦の間の不幸な事件から生ずるすべて
の問題がここに完全かつ最終的に解決されたことに同意する。(要約)
この協定に基づいて、同額相当の外航貨物船2隻が1972年5月6日に供与されたが、これで「血債」として虐殺されり障害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。
② シンガポール
1962年1月にイーストコーストの宅地造成現場で日本軍の占領中に日本軍によって虐殺された華僑の人たちの人骨が大量に発見された。これに端を発し、中華総商会の手で続々と華人の人骨が発掘され、「殺人は命で、血債は血で償え」という対日賠償の要求が高まった。日本製品の積みおろし拒否、暴徒による襲撃など、シンガポールの日本人社会に大きな衝撃を与えた。その後、「マラヤとの合併によるシンガポール独立」を求める運動の中で、1963年9月16日にマレーシア連邦が成立し、血債問題の日本との交渉担当者が同連邦のラーマン首相(マレー人)に変更されたが、1965年のシンガポールの独立を経て、1967年9月21日にシンガポールで日本政府との間で「血債協定」の調印に至った。
☆ 「血債協定」日本国とシンガポール共和国との間の1967年9月21日の協定
第1条 日本国は、29億4,000万3,000円の価値を有する日本国の生産物及び日本
人の役務を無償で供与する。
第2条 シンガポール共和国は、第2次世界大戦の存在から生ずる問題が完全か
つ最終的に解決されたことを確認し、かつ、同国及びその国民がこの問題
に関していかなる請求をも日本国に対して提起しないことを約束する。
この協定に基づいて、1972年3月までに造船所建設、人工衛星地上通信基地建設、港湾クレーンなどの品目が供与されたが、これらの供与は、「血債」として虐殺されたり傷害を負った被害者らの損害を賠償したことになったのであろうか。大いに疑問がある。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事全文と各項目へリンクした一覧表があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。青字が抜粋部分です。
コメント、ありがとうございます。
>鉄道工事で駆り出された労働者が10万人とありますが、これは間違えです。
とありますが、泰緬鉄道の工事は、工作機械不足のため突貫工事による人海戦術であった上に、日本軍によって強く「迅速さ」を要求されたため多くの労働者が集められたといいます。日本軍人や連合国の捕虜に関しては、かなり正確な人数が把握されているようですが、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシアその他から集められたいわゆる「ロウムシャ」と呼ばれた労働者は、募集のみならず、強制連行もあったと言われており、正確な人数はわからないのだと思います。だから、戦後に問題となった犠牲者数などは、日本側と関係国とは大きく食い違いが出る結果になっています。
したがって、
>駆り出された労働者は約3万人でマレーシア側の記録では行方不明者約5千人と記載されています。
というのは、どういう調査結果に基づくものか、どこに記載されているのか、お示しいただければありがたいと思います。
私の記事は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から抜粋したものですが、日本やマレーシアの歴史家の資料を利用しているためか、”建設工事に動員された労働者はおよそ10万人にのぼり、帰国できなかった人も多いようである。”と断定ではなく、推測の文末表現になっています。
また、
>華僑を虐殺とありますが華僑を処刑した理由は華僑のゲリラ活動により軍の施設や日本人への虐殺が相次ぎ粛清に向かったのです。
とのことですが、日中全面戦争で苦しんでいた日本軍は、華僑による中国援助を阻止するため、特に中国人に対して厳しく、疑わしい中国人はみな処刑したといわれています。そして、それはマレーシアのみならず、中国本土やインドネシアなどでも同様でした。だから、”華僑のゲリラ活動により軍の施設や日本人への虐殺が相次ぎ粛清に向かった”というのは、日本軍の言い逃れの側面があるのではないかと思います。
コメント、ありがとうございます。
>鉄道工事で駆り出された労働者が10万人とありますが、これは間違えです。
とありますが、泰緬鉄道の工事は、工作機械不足のため突貫工事による人海戦術であった上に、日本軍によって強く「迅速さ」を要求されたため多くの労働者が集められたといいます。日本軍人や連合国の捕虜に関しては、かなり正確な人数が把握されているようですが、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシアその他から集められたいわゆる「ロウムシャ」と呼ばれた労働者は、募集のみならず、強制連行もあったと言われており、正確な人数はわからないのだと思います。だから、戦後に問題となった犠牲者数などは、日本側と関係国とは大きく食い違いが出る結果になっています。
したがって、
>駆り出された労働者は約3万人でマレーシア側の記録では行方不明者約5千人と記載されています。
というのは、どういう調査結果に基づくものか、どこに記載されているのか、お示しいただければありがたいと思います。
私の記事は、「日本の戦後補償」日本弁護士連合会編(明石書房)から抜粋したものですが、日本やマレーシアの歴史家の資料を利用しているためか、”建設工事に動員された労働者はおよそ10万人にのぼり、帰国できなかった人も多いようである。”と断定ではなく、推測の文末表現になっています。
また、
>華僑を虐殺とありますが華僑を処刑した理由は華僑のゲリラ活動により軍の施設や日本人への虐殺が相次ぎ粛清に向かったのです。
とのことですが、日中全面戦争で苦しんでいた日本軍は、華僑による中国援助を阻止するため、特に中国人に対して厳しく、疑わしい中国人はみな処刑したといわれています。そして、それはマレーシアのみならず、中国本土やインドネシアなどでも同様でした。だから、”華僑のゲリラ活動により軍の施設や日本人への虐殺が相次ぎ粛清に向かった”というのは、日本軍の言い逃れの側面があるのではないかと思います。
駆り出された労働者は約3万人でマレーシア側の記録では行方不明者約5千人と記載されています。
また、戦時中シンガポールはマレーシアの一部でありシンガポールに対してマレーシアと同額の賠償金を支払う事に対してマレーシア側から異論が出ていました。
華僑を虐殺とありますが華僑を処刑した理由は華僑のゲリラ活動により軍の施設や日本人への虐殺が相次ぎ粛清に向かったのです。
どこから持って来た情報か判りませんが、この記事は、どうもプロパガンダ的な要素がベースと成っているようです。