名護市辺野古の新基地建設現場で死傷事故がありました。また、沖縄では、米兵による未成年の少女に対する性的暴行事件がありました。こうした悲しい事件が延々と続くことは、日本人には耐え難いことです。
でも、事件に向き合わない日本政府の姿勢が明らかになっています。
今年3月に起訴された事件では、政府から県へ情報提供がされなかったというのです。そして、同種の事件が他にもあったというのです。政府は、再発防止の措置など考えていないということではないか、と私は思います。
この件に関し、小林外務報道官は、
「常に関係各所への連絡通報が必要であるという風には考えておりません」
などと述べたことが報道されています。平然とこうしたことが言えるのは、沖縄の人たちの人命や人権を蔑ろにしているからだ、と私は思います。
だから私は、こうしたことをなくすために、現実を直視し、総合的に情勢を認識して対応する必要があると思います。「見たくないものは見ない」、という姿勢では、こうしたことをなくすことはできないと思うのです。
現在も、国際社会の声を無視するかたちで、ウクライナ戦争が続き、パレスチナのガザを巡る戦争も拡大傾向にあります。
また、2023年度から5年間の防衛費を総額43兆円とすることは、国会はもちろん、閣議での議論もない岸田首相の「独裁的」決定でした。そして、それに基づく政府の「防衛力整備計画」は、円安や資材高などの影響で装備品の単価が跳ね上がり、既に計画額より8000億円以上超過する恐れがあるといわれています。
そんな莫大なお金を費やして、着々と、アメリカの戦略に基づく「台湾有事」作戦の準備が進んでいるのだと思います。悪質な企みだと思います。
だから、「見たくないものは見ない」という姿勢では、悲惨な戦争はなくせないと思うのです。人を疑うことはよいことではありませんが、権力を握る者や軍人のことばは、やすやすと信じてはいけないと思います。
下記の「日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ」(河出文庫)からの抜粋文のなかで、著者の青山透子氏は、
”あの晩、目撃した子どもたちの小さな目は、未来に向けられている。
私たちは誠実で嘘偽りのない子供たちの文章を読みながら深く、深く考えなければならない。32年後の今は、彼らが思い描いた未来と言えるのだろうかと自問自答しなければならない。特に長い間、為すべきことを為してこなかった関係者は心の底から詫びなければならない。
あの日、あの時の記憶。それは地元の子どもたちのみならず、この事故に関わった人々の記憶に残り、受け継がれていくのである。”
と書いています。日航123便の墜落は、圧力隔壁が壊れて、垂直尾翼を吹き飛ばした、というような単純な整備ミスによる事故などではないのです。恐ろしいことですが、そこには目を背けてはいけない数々の事実があるのです。
また、俄かに信じ難いことですが、同じように、下記のような報道にも目を向ける必要があると思います。
世界中を震え上がらせたテロ集団(ISIS)は、”アメリカが供給した武器、アメリカが訓練した戦闘員、ワシントンDCの銀行から送られた資金を使って、イラク第二の都市を征服し、スンニ派イスラム教徒の住民を恐怖に陥れた”、というのです。
The notorious terror group used US-supplied weapons, US-trained fighters, and funding sent from banks in Washington, DC, to conquer Iraq’s second-largest city and terrorize its Sunni Muslim inhabitants.
そしてその狙いは、シリア東部とイラク西部のスンニ派多数派地域に、これらの過激派勢力による国家を樹立させ(イスラム国)、シリアを、地域の主要な支援国であるイランから領土的に孤立させることだったというのす。「ザ・クレイドル」の関係者が、モスルを訪れた際の住民との議論を綿密に検討する と、この集団を最終的に破壊すると言った当時のアメリカ大統領バラク・オバマのことばや対応は、まったくの欺瞞であったというのです。
思い出すのは、1979年、ソ連のブレジネフ政権が、政権転覆の危険が迫っているアフガニスタンの社会主義政権を支援するため、ソ連軍を侵攻させた時、アメリカのカーター大統領が、ソ連の武力侵攻を批判するだけでなく、ソ連を「悪の帝国」と呼び、経済制裁を発動するとともに、まさに、”アメリカが供給した武器、アメリカが訓練した戦闘員、ワシントンDCの銀行から送られた資金”をアフガニスタンの反政府勢力「ムジャヒディン」 に提供したのです。その中枢にいたのが、アルカイダのウサマ・ビン・ラディンだったことは、いろいろな人が指摘していることです。「ムジャヒディン」に武器や資金の提供を行ったアメリカ合衆国中央情報局 (CIA) のこの計画に対するコードネームは、サイクロン作戦(Operation Cyclone)と呼ばれているということです。
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第3章 『小さな目は見た』というもう一つの記録。
1 上野村小学校中学校の文集が語る235名の目撃証言
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その他にも、小学五年生のS・M君は、ニュースでジャンボ機墜落報道があった時に、外で飛行機が追っかけっこしているぞ、と父親に言われて見たら、電気のついた飛行機が二機飛んでいた、と書いている。こちらはニュース速報後であるから、これは公式発表のファントム二機の可能性が考えられる。当日少なくとも墜落前に二機、墜落後に二機、合計四機のファントム機が飛んでいたということになるのではないか。
墜落場所については父母と具体的な話をしている子どもが多い。例えば小学校六年生のE・Kさんは7時30分頃、『自分の家の上が何かうるさくなったため、外に出て見るとヘリコプターが何機も飛んでいた。夏期講習に行ってる兄からの電話で、飛行機が長野県北相木村に墜落したと聞き、びっくりした。夜中一時頃に姉がNHKに電話をして「絶対に日航123便は上野村に墜落していますよ」と伝えたところ、NHKの人が「はい、ありがとうございましたと」言った』とまで記述している。これは大変重要なことである。『次の日、姉はやっぱり私の言ったとうりに上野村だったじゃないと言いました』とも書いている。
他の地元民も報道機関に電話しているが、テレビでは別の地名を報道し続けていた。小学校三年生でも、大人と地図を見ながら、『スゲノ沢に落っこちた』と書いている。
当日、ドカーンという音が聞こえるほどの距離で、その前後に飛行機や自衛隊機を目撃し、さらに五機以上の多数のヘリコプターも目撃している。ぐるぐる回り、右から左へいったりきたり、という表現も多数ある。墜落した場所はお父さんが20年前に植林した場所だ、という子どもいて、その日のうちに上野村だとわかって現地に行く用意をしている。これでなぜ上野村という地名が墜落現場として挙がらなかったのだろうか。子供たちの目はしっかりと見ていたのである。
さて中学校の生徒87名はどんな目撃情報を記しているのだろうか。
それの目撃者は63%とこちらも多い。墜落現場については、中学校一年生のT・N君が『お父さんが営林署の山に落ちたのかなと言いながらテレビを見ると、三国山とかブドウ峠とか言ってるので、実際に行ってみた。「どうもあの辺は木谷だなあ」と言っていた』と記している。そして『車のラジオでは長野県北相木村付近だと言っていたので、あまりラジオあてにならない』と書いている。ヘリコプターが山の陰に消えたりしているので、『もうこの時は、上野村だと思った。一刻も早く見つかって、生存者を確認してもらいたいとずっと思っていた』と、墜落地名不明の報道にもどかしさを感じている。さらに『学校がはじまって千羽中鶴を作り、航空史上最大ということがとてもショックだった』と書いている。
中学校の文集には、ヘリコプターの数も、三機、十機と見た数を具体的に記述している。場所も木谷、時計山、御巣鷹山の方といった地名が出てくる。親戚や近所の人たちの会話、さらに場所について電話しているという記述もある。
墜落前に見たものとして小学校でも記述があったが大きい飛行機と二機のジェット機が目撃されている。中学校三年生のY・K君である。
『その日はやたら飛行機の音がしていた。父ちゃんがおかしく思って外に出て行って、「おいY、、飛行機が飛んでいるぞ。来てみろ」と言ったので行ってみた。飛行機は大きいような飛行機と小型のジェット機が二機飛んでいた。5分以上も経っているのに、さっきからぐるぐる回ってばかりいた。外に居ると蚊に刺されるので家の中に入った。そしてテレビを見ていたら「キロリン、キロリン」と音がして、なおいっそうテレビに注目した。ニュース速報で大阪行き日航ジャンボジェット機123便が、レーダーから消えましたと書いてあった』とある。
これも大きい飛行機と二機の小型ジェット機である。二機はファントム機に間違いないが、大きい飛行機はアントヌッチ氏が後ほど手記を書いたように、墜落地点を探しにきたC─130の輸送機ではないか、という説もあるが、アントヌッチ氏は自衛隊の飛行機は見なかった、ということである。二機のファントム機と日航機による追いかけっこ状態だと推定さっる。
墜落現場となった村でしっかりと目撃されていた事実が書いてあるこの文章を残した意義は大変大きい。しかもどこか遠い国の出来事ではない。ましてや戦争でもなく、平時のこの日本において、群馬県の山中にある農村の子供たちが見たものである。
目撃情報の重要な点を整理してみると次のようになる。
1 墜落前に大きい飛行機と小さいジェット機二機が追いかけっこ状態であった。
2 真っ赤な飛行機が飛んでいた。
3 墜落前後、稲妻のような閃光と大きな音を見聞きした。
4 墜落場所は上野村と特定できて報告したにもかかわらず、テレビやラジオでは場所不明または他の地名を放送し続けていた。
5 墜落後、多数のヘリコプター、自衛隊の飛行機、自衛隊や機動隊の車どなどを目撃した。
6 ヘリコプターは墜落場所をサーチライトのような強い明かりで照らしながら、多数行き来していた。7 煙と炎上がった山頂付近をぐるぐると回りながら何かをしている何機ものヘリコプターがブンブン飛でいた。
これで墜落場所が不明だった当時はしかたがなかったとメディアも政府も言い張ることができるのだろうか。逆に何らかの作為があったと思われても仕方がない。
子どもたちの父親には山を管理する営林署で仕事をしていた人も多い。数十年前の山火事で焼失した部分に新しい木を植林した父親もおり、その植林した木によって落合さんら四名は生還することができたということに感慨深い思いを抱いている子供もいた。文中に一番多く名前が出てきたのは、生存者の川上慶子さんで『助かって本当に良かった。お父さんもお母さんも妹も死んじゃったって悲しいだろうが、頑張って生きてほしい』と自分と同じくらいの年齢の子ども達にとって最も身近に感じたようであった。そして次のようなことばが一番重い。
「(前略)人の命、命というものはいくら高いお金を出しても買えません。お願いします。一生のお願いです。もうこんな惨酷な事故はおこさないでください。お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、友達、親友を亡くした人はどうするんですか。この事故で助かった人達、これからどうするんですか。『一生懸命生きてください。なくなった人のためにも。これが私のたのみです』」(原文、ママ 小学六年生M・Nさん)
あの晩、目撃した子どもたちの小さな目は、未来に向けられている。
私たちは誠実で嘘偽りのない子供たちの文章を読みながら深く、深く考えなければならない。32年後の今は、彼らが思い描いた未来と言えるのだろうかと自問自答しなければならない。特に長い間、為すべきことを為してこなかった関係者は心の底から詫びなければならない。
あの日、あの時の記憶。それは地元の子どもたちのみならず、この事故に関わった人々の記憶に残り、受け継がれていくのである。
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