北方領土のソ連領有が不当であることは明らかである。それは、大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などの領土不拡大の方針に反するものであった。カイロ宣言には「右同盟は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非ず、又領土拡張の何等の念をも有するものに非ず」とある。そして、そうした考え方を基に、日本に対して「…1914年の第1次世界戦争の開始以後に於いて日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満州、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より窃取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り日本国は又暴力及貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」と迫るものであった。
にもかかわらず、アメリカは先の大戦末期に、ソ連に対日戦参戦を求め、その代償として『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』という内容を含んだ「ヤルタ協定」を締結した。だから、ソ連が敗戦間近の日本に宣戦を布告し、アメリカの求めに応じて参戦することによって、あっという間に千島列島を占拠した。アメリカがどんな言い訳をしようと、それが北方領土問題の始まりである。
北方領土返還を求める日本の外務省は、北方領土がロシアによって不法占拠されていると主張しながら、ヤルタ協定やその後の日本の返還運動に対するアメリカの介入(「ダレスの脅し」などとして知られる)をほとんど問題とせず、アメリカのアジア戦略に沿う主張を展開しているようである。しかし、ヤルタ協定はもちろんのこと、その後の冷戦下における北方領土をめぐる米ソ取引も、大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などに反するものである。そういう意味で、北方領土問題は、ロシアだけの問題ではなく、アメリカの問題でもあり、両国に大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などの趣旨を踏まえ、法に則った対応を求める必要があると思う。
下記は「東アジア近現代通史 【7】アジア諸戦争の時代」(岩波書店)の中の「北方領土問題と平和条約交渉」原貴美恵からの抜粋であるが、北方領土に関わるアメリカのアジア戦略を、様々な資料をもとに具体的にとらえている。たとえば、アメリカは、ミクロネシア信託統治の施政国となったが、国連安保理の常任理事国五カ国を「直接関係国」とするよう迫ったソ連の主張を受け入れなかった。千島をバーゲニング・カードとして、アメリカを唯一の施政国とすることをソ連に認めさせたというのである。まさに表向きの主張に反する裏取引といえる。
また、アメリカが作成した平和条約案では、最終的に日本が放棄する領土の帰属先の記載を意図的に消し、処理領土について、帰属先は明記されなかったという。それは、中・ソを意識したアメリカの狡賢いともいえるアジア戦略によるものであろう。
さらに、サンフランシスコ講和会議で、ソ連代表グロムイコは、『…領土処理については、他にも台湾や南沙諸島の帰属先が「中国」と明記されず、故意に最終処理が未定にされている。沖縄・小笠原諸島の処理は信託統治を口実にこれらの島を米国の管理下に置き、日本から分割するもので不法である。その他にも、条約は日本の軍国主義再建の危険を伴うものである。草案は外国占領軍の撤退について何等規定もしていないだけでなく、外国の軍事基地在留を保障し、防衛の名をかりて日本の侵略的軍事同盟を規定し、また米国極東軍事ブロックに日本参加の道を開いている。さらには、「平和条約ではなく、極東における新しい戦争の準備のための条約である…』と演説したという。アメリカの強引なアジア戦略が、北方領土問題の解決を難しくしていることを痛感せざるを得ない。
米ソ冷戦が終結したとはいえ、日本がアメリカとの同盟関係を強化し、北海道をはじめとして、様々な場所で日米共同軍事演習を実施し、時には日米韓合同軍事演習なども行う現状では、北方領土の返還交渉は進まないのではないかと思う。やはり、軍縮を進め、東アジア全体をできるだけ非軍事化することによって、緊張関係を緩和する方向で、日本が米ソをはじめ近隣諸国に働きかけることが、北方領土問題の解決につながるのではないかと考えさせられる。
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「北方領土問題と平和条約交渉」
原貴美恵
ミクロネシア信託統治と千島
1947年4月、国際安全保障理事会は、旧国際連盟の日本委任統治領ミクロネシア(南洋)について、米国を唯一の施政国とする国連の戦略的信託統治下に置くこと、すなわち米国による独占支配を決定している。ここでも千島がカードとして巧みに利用された。
先のヤルタ会談で米英ソ三首脳は、信託統治制度の基本条項を含んだ国連憲章の草案にも同意していた。そこでは、信託統治は、①従来の国際連盟委任統治地域、②敗戦国から分離される地域、③施政国が自発的にこの制度下に移行させる地域に適用することになっていた(FRUS:TheConferences at Malta and Yalta 1945.p.859、これはその年の10月24日に採択された国連憲章の第77条となる)。だが、米国にとってミクロネシアは戦時中から沖縄・小笠原と共に戦略的要所であり、特にミクロネシアは終戦の翌年から核実験場として使用されており、米軍部はその所有あるいは恒久的独占支配を求めていた。それゆえ、国務省では併合という形を避けてそれを信託統治制度の中で実施する案を模索した。そして、1946年11月、トルーマン大統領が次のような発表を行うに至った。
米国は、旧日本委任統治諸島及び第2次大戦の結果としてその責任を負う如何なる日本の諸島も、施政国として信託統治領に置く準備をしている[FRUS.1946.I..p674]。
ソ連は当然これに反発した。プラウダは、米国の試みは「将来の戦争準備と関連しかねない」、と太平洋を「アメリカの湖」に変えようとしていると報じ、「赤い艦隊」誌は米国の計画を「米帝の野望、防衛というには程遠い」と非難した[ibid.,pp679-682]。ソ連は、信託統治協定には米国だけでなく国連安保理の常任理事国五カ国を「直接関係国」とするよう何度も迫った。しかし米国は、平和条約での千島処理はこの件でのソ連の出方次第であるとして、千島をバーゲニング・カードとして再び持ち出したのである。ソ連の千島併合は既に合意済みであり「別問題」であるとするソ連に対し、米国はそれは平和会議での最終決定を待つ非公式合意であり、ソ連占領地を棚上げして米占領地だけが管轄と査察を受けるという「ダブル・スタンダード(二重基準)」には同意しない、と応酬した[ibid.,p691]。ソ連はそれなら両者とも平和条約の中で決定すべきだとしたが、米国は信託統治協定の適用範囲をミクロネシアに限って提出することにし、結局ソ連も国連安保理事会で米提案を支持するのである[原 2005.176ー182頁]。
この交渉で中心的役割を果たしたのは、当時国連信託統治委員会の米国代表を務め、後に,、対日平和条約の起草でも活躍するジョン・フォスター・ダレスであった。交渉は1946年10月から始まった国連総会の舞台裏で行われたが、同時期に米国国務省内に対日講話委員会が作られ、平和条約草案の作成が始まっている事から、米政府内でも当初は信託統治協定と平和条約は近い時期に成立が予測されていたと思われる。ソ連が米国の信託統治案に合意したのも、平和条約での千島列島処理を近い時期に期待して取引したつもりいたのだろう。しかし、結論からいえば、信託統治協定は翌47年4月に可決されたものの、平和条約の調印はそれから4年5ヶ月も後のことであった。
米国主導の条約起草
米国で作成された初期の平和条約草案は、連合国間の協調と日本に対する「厳格な平和」を特徴としていた。草案は長大で詳細なもので、領土条項では戦後日本の新しい国境線が緯度・経度を用いて克明に記載されており、それを示した地図も添付され、また「歯舞・色丹」や「竹島」といった個々の島名も帰属先も明記されていた。内容は連合国間の戦中合意を大まかに踏襲するものとなっており、全体として、初期草案は「将来に係争が残らない事」を特に配慮していた。
しかし、冷戦の激化に伴い米国のアジア戦略における日本の重要性が増し、その防衛と「西側」確保が最重要課題の一つとなると、対日講和は「厳格」から「寛大」なものへと変容していく。米政府内や関係国との折衝を経て、ダレスの下で仕上げられた草案の内容は、初期のものとは随所で異なり、条文は「シンプル」になり、諸々の問題が曖昧にされた。締結された平和条約には、千島・南樺太のほか、台湾や朝鮮に対する日本の領土放棄が規定されているが、初期草案に見られたような処理領土の厳格な範囲や、戦後の新しい国境線についての規定はなくなっていた。
千島・南樺太については、朝鮮戦争勃発後に一時「国連の決定を受諾する」という内容の案が一時浮上したが、これは朝鮮処理案が波及したものだった。結局、それが廃案となったのも、朝鮮戦争の展開が(米国に不利になり)その採用を難しくしたのに加えて、国連で領土を処理すると英国が中華人民共和国を承認したため台湾が中国に渡り共産化することが懸念された、すなわち台湾処理が影響したためでもあった。結局、千島・南樺太と台湾については、初期草案にあった「ソ連」や「中国」という帰属先の記載が消え、最終的には、すべての処理領土について帰属先は明記されなかった。
千島については、平和条約が起草されていく過程で、その定義とその処理に関する問題が発生していた。大戦中から進められていた米政府内での対日領土処理検討では、大西洋憲章がその導きの星となっていたが、ヤルタ協定の存在が公表されると、その矛盾を解消するために様々な打開策が検討された。度重なる検討が行われ、日本への「零」「二島」「四島」返還を想定した様々な条約案が作成された。だが、結局、「シンプル」に仕上げられた条項では「千島」の定義もその帰属先も未定にされてしまう。
この千島と南樺太の帰属先「ソ連」が消えたのは、講和会議の三ヶ月前に作成された1951年6月草案である。同年の5月案までは、ソ連は参加しさえすれば千島と南樺太を得ることが出来るようになっていた。帰属先を明記しないという案は、5月案が作成される前から中華民国やカナダ政府によって提案されていた。中華民国は、4月24日付覚書で、台湾とほうこ島については日本による放棄のみが記されているが、南樺太と千島列島についてはソ連という帰属先が記されている点を指摘し、整合性を持たせるために、これらも、放棄のみの表現に置き換えるよう要求した。カナダ政府も5月1日及び18日付の覚書で、領土処理における合意欠如という状況に鑑み、「個々の領土が差別的に処理されたと非難されることのないように」、全ての領土処理に一貫性をもたせることを提案した[FRUS.1946.I.pp1058-1062]
当初、この点に関して米国の反応は否定的であった。6月1日に国務省が作成した見解では、この方式は各領土間の事情のちがいが考慮されていない、台湾処理について条約中で合意するのは無理だが、ソ連が条約当事国になれば、千島・南樺太に対する法的権利を問題にする根拠はないとしていた。しかし更なる検討が重ねられた末、先の提案は採用されることになる。6月5日、ダレスはロンドンにて、日本の千島・南樺太の放棄のみを記し、台湾処理と整合性を持たせる旨提案している[ibid.,p1106-1107]。この理由として、前の草案では、ソ連に「直接利益」を与える形になっており、国内的に上院での批准が困難であることを挙げていた[FO371/92554;FJ1022/376.PRO]。当時は、ソ連の講和会議欠席が予想されていた。ソ連は条約を承認しなくても島の占領は続けるであろうから、これらの島の主権が日本に留まれば、日本と安保条約を結ぶ米国には不都合な状況が出てくる可能性がある[FO371/92547;FJ1022/376.PRO]。日ソの離反は望ましいが、それが米ソ直接武力衝突にエスカレートする事態は避けなければならない。それ故、日本にこれらを放棄させる一方、帰属先も故意に未定にしておいたのである。[和田、1999、213-214頁]米国はこの処理に心理的効果も見越していた。すなわち、日本の領土かも知れない島々をソ連が占領していることに対して、日本人は否定的な感情を持つ一方、米国は同情的態度を見せることで、日本人から好感を得るという効果である。
平和条約の共同起草国である英国は、1951年初期までヤルタ協定遵守の姿勢を持っていた。しかし、米側の説得により米国案を受諾し、6月8日の米英会談ではソ連という帰属先の削除が決定された[FO371/92556.PRO]。千島・南樺太に関しては、この結果作成された6月14日付草案が講和会議で調印された最終草案となる。
サンフランシスコ講和会議
ソ連は米国による対日平和条約の準備に大きな不満を持っていた。その具体的な問題点については、メディアを通して、あるいは再三にわたり公式覚書を送って米国政府に指摘していた。その立場は、領土処理はカイロ、ポツダム宣言及びヤルタ協定に基づきすでに決定済みである、というものであった、1951年6月10日のソ連の覚書には、「領土問題についてソ連が提案するのは唯一つ、すなわち上述した国際合意の公正な遂行を保障することだけであある」と記されていた。しかし、ダレス自身が9月3日のニューヨークタイムズ紙上で答えているように、最終草案はポツダム宣言のみに則したものであった(NewYork Times.1951.9.3)
大方の予想に反してソ連は講和会議に出席した。朝鮮では7月10日に休戦に向けた話し合いが開始されていた。中国は講和会議に招待されなかったが、ソ連は講和会議を棄権するより代表を送り込んで米英草案を批判し、公の席で自国の立場を説明して条約案の修正を迫る道を選んだ。9月5日の第2総会で、ソ連代表グロムイコは長い演説をぶちまけている。そこでは、米英草案が、ヤルタ協定で保障されていたはずの千島・南樺太のソ連割譲について矛盾している点を指摘し、訂正案を提示した。領土処理については、他にも台湾や南沙諸島の帰属先が「中国」と明記されず、故意に最終処理が未定にされている。沖縄・小笠原諸島の処理は信託統治を口実にこれらの島を米国の管理下に置き、日本から分割するもので不法である。その他にも、条約は日本の軍国主義再建の危険を伴うものである。草案は外国占領軍の撤退について何等規定もしていないだけでなく、外国の軍事基地在留を保障し、防衛の名をかりて日本の侵略的軍事同盟を規定し、また米国極東軍事ブロックに日本参加の道を開いている。さらには、「平和条約ではなく、極東における新しい戦争の準備のための条約である」として、米国草案を厳しく非難した[日本外務省・ロシア連邦外務省 1992、2001、121頁]
ソ連の講和会議出席およびグロムイコの演説にもかかわらず、米英草案は修正されなかった。講和会議は結局、開催国である米国によって選ばれ招待された国々による調印式典でしかなかった。平和条約の内容に不満を持つソ連は調印を拒否した。よって日ソ間には平和条約は締結されることなく、領土問題はここで棚上げにされ、二国間の平和交渉は1955年にようやく始まることになる。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
にもかかわらず、アメリカは先の大戦末期に、ソ連に対日戦参戦を求め、その代償として『千島列島は「ソヴィエト」連邦に引渡さるべし』という内容を含んだ「ヤルタ協定」を締結した。だから、ソ連が敗戦間近の日本に宣戦を布告し、アメリカの求めに応じて参戦することによって、あっという間に千島列島を占拠した。アメリカがどんな言い訳をしようと、それが北方領土問題の始まりである。
北方領土返還を求める日本の外務省は、北方領土がロシアによって不法占拠されていると主張しながら、ヤルタ協定やその後の日本の返還運動に対するアメリカの介入(「ダレスの脅し」などとして知られる)をほとんど問題とせず、アメリカのアジア戦略に沿う主張を展開しているようである。しかし、ヤルタ協定はもちろんのこと、その後の冷戦下における北方領土をめぐる米ソ取引も、大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などに反するものである。そういう意味で、北方領土問題は、ロシアだけの問題ではなく、アメリカの問題でもあり、両国に大西洋憲章や連合国共同宣言、カイロ宣言などの趣旨を踏まえ、法に則った対応を求める必要があると思う。
下記は「東アジア近現代通史 【7】アジア諸戦争の時代」(岩波書店)の中の「北方領土問題と平和条約交渉」原貴美恵からの抜粋であるが、北方領土に関わるアメリカのアジア戦略を、様々な資料をもとに具体的にとらえている。たとえば、アメリカは、ミクロネシア信託統治の施政国となったが、国連安保理の常任理事国五カ国を「直接関係国」とするよう迫ったソ連の主張を受け入れなかった。千島をバーゲニング・カードとして、アメリカを唯一の施政国とすることをソ連に認めさせたというのである。まさに表向きの主張に反する裏取引といえる。
また、アメリカが作成した平和条約案では、最終的に日本が放棄する領土の帰属先の記載を意図的に消し、処理領土について、帰属先は明記されなかったという。それは、中・ソを意識したアメリカの狡賢いともいえるアジア戦略によるものであろう。
さらに、サンフランシスコ講和会議で、ソ連代表グロムイコは、『…領土処理については、他にも台湾や南沙諸島の帰属先が「中国」と明記されず、故意に最終処理が未定にされている。沖縄・小笠原諸島の処理は信託統治を口実にこれらの島を米国の管理下に置き、日本から分割するもので不法である。その他にも、条約は日本の軍国主義再建の危険を伴うものである。草案は外国占領軍の撤退について何等規定もしていないだけでなく、外国の軍事基地在留を保障し、防衛の名をかりて日本の侵略的軍事同盟を規定し、また米国極東軍事ブロックに日本参加の道を開いている。さらには、「平和条約ではなく、極東における新しい戦争の準備のための条約である…』と演説したという。アメリカの強引なアジア戦略が、北方領土問題の解決を難しくしていることを痛感せざるを得ない。
米ソ冷戦が終結したとはいえ、日本がアメリカとの同盟関係を強化し、北海道をはじめとして、様々な場所で日米共同軍事演習を実施し、時には日米韓合同軍事演習なども行う現状では、北方領土の返還交渉は進まないのではないかと思う。やはり、軍縮を進め、東アジア全体をできるだけ非軍事化することによって、緊張関係を緩和する方向で、日本が米ソをはじめ近隣諸国に働きかけることが、北方領土問題の解決につながるのではないかと考えさせられる。
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「北方領土問題と平和条約交渉」
原貴美恵
ミクロネシア信託統治と千島
1947年4月、国際安全保障理事会は、旧国際連盟の日本委任統治領ミクロネシア(南洋)について、米国を唯一の施政国とする国連の戦略的信託統治下に置くこと、すなわち米国による独占支配を決定している。ここでも千島がカードとして巧みに利用された。
先のヤルタ会談で米英ソ三首脳は、信託統治制度の基本条項を含んだ国連憲章の草案にも同意していた。そこでは、信託統治は、①従来の国際連盟委任統治地域、②敗戦国から分離される地域、③施政国が自発的にこの制度下に移行させる地域に適用することになっていた(FRUS:TheConferences at Malta and Yalta 1945.p.859、これはその年の10月24日に採択された国連憲章の第77条となる)。だが、米国にとってミクロネシアは戦時中から沖縄・小笠原と共に戦略的要所であり、特にミクロネシアは終戦の翌年から核実験場として使用されており、米軍部はその所有あるいは恒久的独占支配を求めていた。それゆえ、国務省では併合という形を避けてそれを信託統治制度の中で実施する案を模索した。そして、1946年11月、トルーマン大統領が次のような発表を行うに至った。
米国は、旧日本委任統治諸島及び第2次大戦の結果としてその責任を負う如何なる日本の諸島も、施政国として信託統治領に置く準備をしている[FRUS.1946.I..p674]。
ソ連は当然これに反発した。プラウダは、米国の試みは「将来の戦争準備と関連しかねない」、と太平洋を「アメリカの湖」に変えようとしていると報じ、「赤い艦隊」誌は米国の計画を「米帝の野望、防衛というには程遠い」と非難した[ibid.,pp679-682]。ソ連は、信託統治協定には米国だけでなく国連安保理の常任理事国五カ国を「直接関係国」とするよう何度も迫った。しかし米国は、平和条約での千島処理はこの件でのソ連の出方次第であるとして、千島をバーゲニング・カードとして再び持ち出したのである。ソ連の千島併合は既に合意済みであり「別問題」であるとするソ連に対し、米国はそれは平和会議での最終決定を待つ非公式合意であり、ソ連占領地を棚上げして米占領地だけが管轄と査察を受けるという「ダブル・スタンダード(二重基準)」には同意しない、と応酬した[ibid.,p691]。ソ連はそれなら両者とも平和条約の中で決定すべきだとしたが、米国は信託統治協定の適用範囲をミクロネシアに限って提出することにし、結局ソ連も国連安保理事会で米提案を支持するのである[原 2005.176ー182頁]。
この交渉で中心的役割を果たしたのは、当時国連信託統治委員会の米国代表を務め、後に,、対日平和条約の起草でも活躍するジョン・フォスター・ダレスであった。交渉は1946年10月から始まった国連総会の舞台裏で行われたが、同時期に米国国務省内に対日講話委員会が作られ、平和条約草案の作成が始まっている事から、米政府内でも当初は信託統治協定と平和条約は近い時期に成立が予測されていたと思われる。ソ連が米国の信託統治案に合意したのも、平和条約での千島列島処理を近い時期に期待して取引したつもりいたのだろう。しかし、結論からいえば、信託統治協定は翌47年4月に可決されたものの、平和条約の調印はそれから4年5ヶ月も後のことであった。
米国主導の条約起草
米国で作成された初期の平和条約草案は、連合国間の協調と日本に対する「厳格な平和」を特徴としていた。草案は長大で詳細なもので、領土条項では戦後日本の新しい国境線が緯度・経度を用いて克明に記載されており、それを示した地図も添付され、また「歯舞・色丹」や「竹島」といった個々の島名も帰属先も明記されていた。内容は連合国間の戦中合意を大まかに踏襲するものとなっており、全体として、初期草案は「将来に係争が残らない事」を特に配慮していた。
しかし、冷戦の激化に伴い米国のアジア戦略における日本の重要性が増し、その防衛と「西側」確保が最重要課題の一つとなると、対日講和は「厳格」から「寛大」なものへと変容していく。米政府内や関係国との折衝を経て、ダレスの下で仕上げられた草案の内容は、初期のものとは随所で異なり、条文は「シンプル」になり、諸々の問題が曖昧にされた。締結された平和条約には、千島・南樺太のほか、台湾や朝鮮に対する日本の領土放棄が規定されているが、初期草案に見られたような処理領土の厳格な範囲や、戦後の新しい国境線についての規定はなくなっていた。
千島・南樺太については、朝鮮戦争勃発後に一時「国連の決定を受諾する」という内容の案が一時浮上したが、これは朝鮮処理案が波及したものだった。結局、それが廃案となったのも、朝鮮戦争の展開が(米国に不利になり)その採用を難しくしたのに加えて、国連で領土を処理すると英国が中華人民共和国を承認したため台湾が中国に渡り共産化することが懸念された、すなわち台湾処理が影響したためでもあった。結局、千島・南樺太と台湾については、初期草案にあった「ソ連」や「中国」という帰属先の記載が消え、最終的には、すべての処理領土について帰属先は明記されなかった。
千島については、平和条約が起草されていく過程で、その定義とその処理に関する問題が発生していた。大戦中から進められていた米政府内での対日領土処理検討では、大西洋憲章がその導きの星となっていたが、ヤルタ協定の存在が公表されると、その矛盾を解消するために様々な打開策が検討された。度重なる検討が行われ、日本への「零」「二島」「四島」返還を想定した様々な条約案が作成された。だが、結局、「シンプル」に仕上げられた条項では「千島」の定義もその帰属先も未定にされてしまう。
この千島と南樺太の帰属先「ソ連」が消えたのは、講和会議の三ヶ月前に作成された1951年6月草案である。同年の5月案までは、ソ連は参加しさえすれば千島と南樺太を得ることが出来るようになっていた。帰属先を明記しないという案は、5月案が作成される前から中華民国やカナダ政府によって提案されていた。中華民国は、4月24日付覚書で、台湾とほうこ島については日本による放棄のみが記されているが、南樺太と千島列島についてはソ連という帰属先が記されている点を指摘し、整合性を持たせるために、これらも、放棄のみの表現に置き換えるよう要求した。カナダ政府も5月1日及び18日付の覚書で、領土処理における合意欠如という状況に鑑み、「個々の領土が差別的に処理されたと非難されることのないように」、全ての領土処理に一貫性をもたせることを提案した[FRUS.1946.I.pp1058-1062]
当初、この点に関して米国の反応は否定的であった。6月1日に国務省が作成した見解では、この方式は各領土間の事情のちがいが考慮されていない、台湾処理について条約中で合意するのは無理だが、ソ連が条約当事国になれば、千島・南樺太に対する法的権利を問題にする根拠はないとしていた。しかし更なる検討が重ねられた末、先の提案は採用されることになる。6月5日、ダレスはロンドンにて、日本の千島・南樺太の放棄のみを記し、台湾処理と整合性を持たせる旨提案している[ibid.,p1106-1107]。この理由として、前の草案では、ソ連に「直接利益」を与える形になっており、国内的に上院での批准が困難であることを挙げていた[FO371/92554;FJ1022/376.PRO]。当時は、ソ連の講和会議欠席が予想されていた。ソ連は条約を承認しなくても島の占領は続けるであろうから、これらの島の主権が日本に留まれば、日本と安保条約を結ぶ米国には不都合な状況が出てくる可能性がある[FO371/92547;FJ1022/376.PRO]。日ソの離反は望ましいが、それが米ソ直接武力衝突にエスカレートする事態は避けなければならない。それ故、日本にこれらを放棄させる一方、帰属先も故意に未定にしておいたのである。[和田、1999、213-214頁]米国はこの処理に心理的効果も見越していた。すなわち、日本の領土かも知れない島々をソ連が占領していることに対して、日本人は否定的な感情を持つ一方、米国は同情的態度を見せることで、日本人から好感を得るという効果である。
平和条約の共同起草国である英国は、1951年初期までヤルタ協定遵守の姿勢を持っていた。しかし、米側の説得により米国案を受諾し、6月8日の米英会談ではソ連という帰属先の削除が決定された[FO371/92556.PRO]。千島・南樺太に関しては、この結果作成された6月14日付草案が講和会議で調印された最終草案となる。
サンフランシスコ講和会議
ソ連は米国による対日平和条約の準備に大きな不満を持っていた。その具体的な問題点については、メディアを通して、あるいは再三にわたり公式覚書を送って米国政府に指摘していた。その立場は、領土処理はカイロ、ポツダム宣言及びヤルタ協定に基づきすでに決定済みである、というものであった、1951年6月10日のソ連の覚書には、「領土問題についてソ連が提案するのは唯一つ、すなわち上述した国際合意の公正な遂行を保障することだけであある」と記されていた。しかし、ダレス自身が9月3日のニューヨークタイムズ紙上で答えているように、最終草案はポツダム宣言のみに則したものであった(NewYork Times.1951.9.3)
大方の予想に反してソ連は講和会議に出席した。朝鮮では7月10日に休戦に向けた話し合いが開始されていた。中国は講和会議に招待されなかったが、ソ連は講和会議を棄権するより代表を送り込んで米英草案を批判し、公の席で自国の立場を説明して条約案の修正を迫る道を選んだ。9月5日の第2総会で、ソ連代表グロムイコは長い演説をぶちまけている。そこでは、米英草案が、ヤルタ協定で保障されていたはずの千島・南樺太のソ連割譲について矛盾している点を指摘し、訂正案を提示した。領土処理については、他にも台湾や南沙諸島の帰属先が「中国」と明記されず、故意に最終処理が未定にされている。沖縄・小笠原諸島の処理は信託統治を口実にこれらの島を米国の管理下に置き、日本から分割するもので不法である。その他にも、条約は日本の軍国主義再建の危険を伴うものである。草案は外国占領軍の撤退について何等規定もしていないだけでなく、外国の軍事基地在留を保障し、防衛の名をかりて日本の侵略的軍事同盟を規定し、また米国極東軍事ブロックに日本参加の道を開いている。さらには、「平和条約ではなく、極東における新しい戦争の準備のための条約である」として、米国草案を厳しく非難した[日本外務省・ロシア連邦外務省 1992、2001、121頁]
ソ連の講和会議出席およびグロムイコの演説にもかかわらず、米英草案は修正されなかった。講和会議は結局、開催国である米国によって選ばれ招待された国々による調印式典でしかなかった。平和条約の内容に不満を持つソ連は調印を拒否した。よって日ソ間には平和条約は締結されることなく、領土問題はここで棚上げにされ、二国間の平和交渉は1955年にようやく始まることになる。
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