しばらく前、朝日新聞の社説に、国際社説担当・村上太輝夫氏の「言論統制のパラドックス」と題する文章が掲載されました。中国の言論統制の厳しさを指摘し、17世紀英国の詩人ミルトンの「我々の願う自由は国に何の不平もないことではありません」「不平が自由に聞かれ、考慮され、すみやかに改められるとき、このとき賢明な人々が求める最大の自由があります」という言葉で、締めくくっていました。
でも私は、村上氏が大事なことを考慮されていないと思いました。
それは、くり返し他国のクーデターや政権転覆を実行し、関与してきたアメリカが、その対外政策や外交政策を反省し、再び同じ過ちをくり返さないという約束をしない限り、アメリカに敵視されている国は、言論を統制し、守りを固めざるを得ないのではないかということです。
「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から抜粋した下記の文章に、
”アメリカ政府は既にアルベンス打倒の意を決していたが、まずグアテマラ側でアルベンス政権を崩壊に導く陰謀を成功させるのに頼りになる人物を捜さねばならなかった。グアテマラ革命当時アルベンスに退けられ、不遇をかこつ旧軍人の中から、アメリカ政府はカスティージョ・アルマスを選んだ。アメリカが望んだのは親米的軍人で、権力志向の強いウビコ・タイプの独裁者であった”
とあります。しっかり言論を統制し、守りを固めないと、倒され、搾取・収奪される国に陥るということです。
ラテンアメリカでは、さまざまな国で軍事クーデターや政権転覆がありましたが、アメリカは共産主義的傾向や社会主義的傾向を持つ政権、あるいはアメリカの搾取・収奪を受けつけない政権を倒すために(グアテマラではアルベンス政権)、周到な計画を立て、実行してきたのです。そしてそれは、ラテンアメリカだけではないのです。
同書には、下記のような記述もあり、単なる想像ではないことがわかります。
”そしてアルマスの補佐官タラセナ・デ・ラ・セダの回想によれば、その数日後CIAはアルベンス打倒軍の総司令官にカスティージョ・アルマスを選んだ、とある。同年10月15日アルマスはニカラグアのソモサの息子タチートへの書簡の中で、「『北の友人』との計画は我が方に凱歌があがった。間もなく非常に具体的側面に突入するはずである。そして必ずや我々すべてが望む勝利を手中にするだろう」と歓喜に満ち溢れて述べている。そして事が決行された場合には、ソモサ一族がアルマスに対してあたたかい支持を与えてくれるよう期待して手紙は終わっている。
1953年10月、新駐グアテマラ・アメリカ大使ジョン・ピューリフォイが着任した。アルベンス政権を崩壊させるのがそのディプロマティック・ミッションの一つであった。そしてCIAグアテマラ支部も動きはじめた。ピューリフォイ新大使がグアテマラ着任前に既にCIAとの直接の秘密のチャンネルができていた。大使は大使館のスタッフにもアルベンス打倒の計画に就いては話さなかった。すべては大使とCIAグアテマラ支部の間で隠密に進行していった。”
そして、ツイッター(https://twitter.com/Ultrafrog17/status/1675916699428876288)
には、ゼレンスキー大統領がアメリカのCIAとともに、現在ロシア領となっているクリミアを取り戻すまで、ウクライナ戦争を続けることで合意しているという、下記のような文章があるのです。
”Zelensky is now straight up admitting to directly working with the CIA.
He just told CNN that there will be no victory in Ukraine until they retake Crimea, that he and the United States CIA withhold no secrets together, and there is no situation where there can be peace unless they retake Crimea!”
早期に停戦すると、アメリカの目的が達成できないので、クリミアを取り戻すまで、ウクライナの勝利はないなどということにしたのだと思います。ウクライナ戦争を主導しているのが、アメリカであることを物語っているように思います。ウクライナの多くの人たちは、クリミアを取り戻すまでウクライナ戦争を続けることなど望んではいないと思います。
2024年大統領選の民主党指名候補争いへの出馬を表明したロバート・ケネディ・ジュニア氏(ジョン・F・ケネディ元大統領のおい)は、アメリカがウクライナ戦争やコロナのパンデミックに関わって、さまざまな秘密工作を実行していると指摘しています。
だからメディアは、アメリカのプロパガンダや中国、ロシアの悪口のような報道ばかりではなく、アメリカの主張や政策の問題点、秘密工作の現実なども指摘し、きちんと本質をとらえて、平和が実現されるような報道に徹してほしいと思います。そうしないと台湾海峡でも軍事衝突が発生するのではないかと思います。
下記は、「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から、とびとびに「アルペンスの農地改革──農地改革第900法」、「急ぎすぎた改革」、「民主主義の終焉」のなかの「かたくななアメリカの中米政策」を選んで抜萃しました。
アメリカという国の対外政策や外交政策の現実が、よくわかるのではないかと思うからです。
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第一部 独裁から”束の間の春”へ
アルペンス政府と農地改革
アアルペンスの農地改革──農地改革第900法
アルペンスは大統領に就任するとかれの政府の最重要政策として財政の安定と経済発展をかかげ、半封建的、半植民地的現状を脱却するため「ともに働き、より多くの富を得て、持たざる者(かれらはグアテマラ国民の大多数を占めるものたちだった)に配分しなければならない。そのためには農地改革が不可欠である」と宣言した。
アルペンスはアレバロにもまして熱烈なナショナリストで、外国資本に依存することを嫌った。しかし当時グアテマラに投資していたのはアメリカの民間資本だけで、世界銀行も既にアレバロの時代にあまりにも巨額なローンを驚き、融資を拒否していた。アルペンスは農地改革によってまず増産を図り、国の資源を開発し、よって公共事業に着手し、グアテマラのインフラストラクチャーの近代化を推進しようとした。これは大事業でありアルベンスの在任期間という短い時間で達成できるものではない。
しかしアレバロに比べ、より実践的で精神主義に拘らないアッルベンスは、ただちに農地改革法案を作成、呆気にとらえられている議会にこれを提出し、1952年6月17日、農地改革第900法は承認された。
この法律の趣旨はきわめて明快で民主的なものである。
まず、672エーカー以上の個人所有未開墾地は没収され、224以上672エーカー未満の未開墾地に関しては、その三分の二が耕作されていない限り没収される。224エーカー未満の個人所有地は所有が許された。
一方国有農場はすべて解放され農民に配分される。個人所有者から没収された未開墾地は個人農民に配分され終身保有が許され、その死後は受益者の家族が土地の保有を継承することができる。解放された国有農場に関しては受益者一代のみの保有が許される。個人所有地の受益者は25年毎に年間生産価格の3パーセントを元の土地所有者へ補償として支払い、一代受益者は5パーセントを政府に支払う、というものであった。
国有地の分配は1952年8月に始まった。そしてそれから1年6カ月のうち改革は急速に進行していった。
アメリカ政府は当初アルベンスの大統領就任を好意的に見ていた。元エリート軍人でリアリストの理論家アルベンスならアレバロよりもっと巧妙に制服組の前任者たちの路線を継承するであろうと思っていた。アルベンスの農地改革についても、はじめはその影響を過小評価していた嫌いがある。しかもアメリカ政府自身第二次世界大戦終了後、日本で画期的な農地改革を遂行した実績があった。 しかし中米の他の国々はこの農地改革を憂慮していた。グアテマラの農地改革が成功すれば、いずれも土地配分の著しく不公平な中米各国の大地主階級にとって、杞憂に終わる問題ではない。とりわけニカラグアのアナスタシオ・ソモサは、もしグアテマラでこの改革が成功すれば、その影響は早晩ニカラグアにも波及するものとして警戒を強めた。メキシコの見方は異なっていた。メキシコは自己の農地改革の体験に基づき、グアテマラが農地改革を立案、実施したことを評価した。没収の対象となった個人所有未開墾地には、アメリカのユナイテッド・フルーツ社のバナナ・プランテーション予定地も含まれていた。これが後にアルベンス政権の命取りになった。
急ぎすぎた改革
大土地所有者やUFCOなどアメリカ企業からの土地の没収、インフラストラクチャー建設のためのナショナル・プロジェクト、労働組合育成保護などの政策を、アメリカ政府はすぐさま東西対立の図式にあてはめ、共産主義の影響、アルベンス政権の左傾化ととらえたが、アルベンスは資本主義的経済成長を推進し、それに国家管理を加えただけで、マルキシズムの教義にのっとった革命を目指したものではなかった。1944年から1954年までのたった十年間ではあったが民主主義の時代、とりわけアルベンスの政権下、グアテマラ社会は民主主義に向かって推移し、社会経済改革が遂行されただけのことである。一つの社会階級の滅亡の上に新しい支配階級が出現するという社会主義的改革は行われなかった。
アルベンスの改革に反対したのは大土地所有者だけで、はじめは軍もナショナリズムを鼓舞する改革には賛成であった。というよりも、多くが中産階級の出自である軍人は、農地改革には直接の利害関係がなく、むしろ無関心であった。しかし土地の分配を受けてはじめて個人小地主となった農民にとって、農地改革は神の恩寵の具現であり、突然降って湧いてきた恵に有頂天になった。
しかし、アルベンスはかれの敵たるものの脅威の大きさを無視していたのか、それとも過小評価していたのか、この改革はいかにも急ぎ過ぎであった。
アメリカ政府とカスティージョ・アルマス
アメリカ政府は既にアルベンス打倒の意を決していたが、まずグアテマラ側でアルベンス政権を崩壊に導く陰謀を成功させるのに頼りになる人物を捜さねばならなかった。グアテマラ革命当時アルベンスに退けられ、不遇をかこつ旧軍人の中から、アメリカ政府はカスティージョ・アルマスを選んだ。アメリカが望んだのは親米的軍人で、権力志向の強いウビコ・タイプの独裁者であった。
1953年9月20日、カスティージョ・アルマスは亡命先のホンジュラスの首都テグシガルパからニカラグアのソモサに手紙を送り、「北の政府(アメリカ)が我々に計画を進展させよと友人を介して通知してきた。この決定の重大さに鑑み、私は直接確認するべく直ちに機密文書を送ったがまだ返答を受け取っていない。しかしわたしは前述の事項が確認されたものと了解している」と述べている(『威嚇されるグアテマラ民主主義』アルマスの手紙)。
そしてアルマスの補佐官タラセナ・デ・ラ・セダの回想によれば、その数日後CIAはアルベンス打倒軍の総司令官にカスティージョ・アルマスを選んだ、とある。同年10月15日アルマスはニカラグアのソモサの息子タチートへの書簡の中で、「『北の友人』との計画は我が方に凱歌があがった。間もなく非常に具体的側面に突入するはずである。そして必ずや我々すべてが望む勝利を手中にするだろう」と歓喜に満ち溢れて述べている。そして事が決行れた場合には、ソモサ一族がアルマスに対してあたたかい支持を与えてくれるよう期待して手紙は終わっている。
1953年10月、新駐グアテマラ・アメリカ大使ジョン・ピューリフォイが着任した。アルベンス政権を崩壊させるのがそのディプロマティック・ミッションの一つであった。そしてCIAグアテマラ支部も動きはじめた。ピューリフォイ新大使がグアテマラ着任前に既にCIAとの直接の秘密のチャンネルができていた。大使は大使館のスタッフにもアルベンス打倒の計画に就いては話さなかった。すべては大使とCIAグアテマラ支部の間で隠密に進行していった。
1953年12月16日アルベンスとピューリフォイ大使は夕食をともにし、数時間に亘って話し合った。このとき、アルベンスの妻マリアが通訳の任に当った。彼女の回想によればアルベンスはかなり英語が理解できた。しかしアルベンスに考える時間を与えるには通訳が入った方が好都合であった。
すでにアメリカ大使とグアテマラ政府の関係は修復できないほど冷却していたので2人の会談は儀礼的域を出るものではなかった。そして会食の雰囲気はとうてい和やかなものとはいえなかった。2日後、大使は国務長官ジョン・フォスター・ダレスにアルベンスについてのリポートを送り、アルベンスは共産主義者ではない旨述べている(1953年12月18日ピューリフォイ、国務省への書簡No522)。
民主主義の終焉
かたくななアメリカの中米政策
それにしてもアルベンス政権は、なぜこのような敗北で終焉を迎えねばならなかったのだろうか。アレバロからアルベンスへ引き継がれたグアテマラの改革と民主主義の芽生えは、アメリカの時の大統領アイゼンハワーによってことごとく摘み取られてしまった。事実アイゼンハワー政府の対グアテマラ政策は常軌を逸していた。ワシントンのこうしたグアテマラに対する異常な態度は、駐グアテマラ大使ピューリフォイの誣告(ブコク)によるものでも、UFCOの要求によるものでもなく、ましてや当時吹き荒れていたとされるマッカーシー旋風によるものでは勿論なかった。それは民主党、共和党を問わずアメリカに深く根差した中米及びカリブ諸国に君臨するという、かたくななヘゲモニーの伝統の発露であった。
アメリカの中米政策の非妥協性は一時1930年代の後半にフランクリン・D・ルーズベルトの善隣外交によって緩和されたものの、その後もトルーマン、アイゼンハワー両政府によって継承された。そしてトルーマンもアイゼンハワーもグアテマラとの関係を「本国と植民地」という概念でしかとらえていなかった。
トルーマン政府はアレバロを嫌悪していた。しかしアレバロの時代アメリカは、グアテマラにそれほどの関心を払ってはいなかった。その後アルベンスが登場した。そしてアルベンスの犯した「罪」はアメリカにとってアレバロの比ではなかった。アメリカのジャーナリストたちは頻繁にグアテマラを取材し、グアテマラにおける反米共産主義の浸透、革命政権によるアメリカ企業への迫害について書き立てた。「鉄のカーテンがグアテマラを覆った」、「ソ連に管理された中米の独裁政権」などの見出しが当時のアメリカの新聞を飾ったが、ジャーナリストたちの多くは無知で、自国中心主義で、東西冷戦構造のパラノイア(偏執病)に犯されていた。それがまたアルベンスにとって不運でもあった。
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