真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの中南米支配と日本の支配

2022年12月13日 | 国際・政治

 かつて、客観的な工業力をはじめとする国力の差を無視して鬼畜米英を煽り、絶大な犠牲を国民に強いたアジア太平洋戦争の指導者の多くは、敗戦後、いつの間にか日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(アメリカ)と手を結び、再び国民にさまざまな苦難を強いる政策を進めているように思います。

 下記のようなラテンアメリカの歴史をふり返ると、私は、昭和天皇が、米軍の沖縄駐留について”25年ないし50年あるいはそれ以上の長期”を求めたといういわゆる「天皇の沖縄メッセージ」も、ほんとうは、アメリカの意向を受け入れたに過ぎないものだったのではないかと想像します。
 天皇は、連合国軍占領下の日本において、総司令部司令官のダグラス・マッカーサーと11回にわたり会見を行っています。でも、天皇は1976年、その会見の内容について、”秘密で話したことだから、私の口からは言えません”と語り、また、1977年には、”マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした”、”男子の一言のごときことは、守らねばならない”などと述べて、会見の内容及びマッカーサー個人に対する感想などについては、明らかにしなかったといいます。だから、その時、米軍の沖縄駐留に関する「天皇の沖縄メッセージ」の件その他の重要事項が話し合われたのではないかと想像するのです。

 現在もなお、米軍が日本の法規に縛られない状態にあり、占領終結後も多くの特権を持ち続けているのは、かつての戦争指導層が、アメリカの意向を受け入れ、手を結ぶことにしたからだろう、と私は思います。
 アメリカが、中南米諸国やアジア諸国で、独裁政権を支援してきた政策は、日本では戦争指導層と手を結ぶということだったのだろうと思うのです。独裁政権と手を結び利益を共有してきたアメリカは、日本では戦争指導層と手を結び、お互いに利益を共有することにしたのではないかということです。

 現在日本は、周辺国による脅威の高まりを理由に、敵基地攻撃能力の保有防衛費の大幅な増額の方向に話しが進んでいるようですが、それは、日本防衛のためというより、中国を睨んだアメリカのアジア政策に基づくものではないかと思います。中国や北朝鮮(やロシア)が、日本に上陸侵攻し、軍事占領を目論むというようなことはほとんど考えられないことだと思います。中国も北朝鮮も、アメリカを恐れているのであって、日本の軍事占領など考えてはいないように思います。でも、アメリカの意向に沿って、危機が迫っているかのように騒ぎたて、敵基地攻撃能力の保有や防衛費の増額は避けられないことのような雰囲気をつくっていると思います。そして今、その増額分をどこから捻出するかという議論に集中しているようですが、私は、日本を東アジアのウクライナにしないために、アメリカの意図を見抜いて対応する必要性があると思います。その負担は、あまりに大きく、また、緊張を高め、危険を伴うことだと思うからです。

 下記は、「エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章」田中高氏編著(明石書店)から、アメリカのエルサルバドルやホンジュラスに対する関わり方を知ることのできる部分を抜萃しました。
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                     Ⅰ エルサルバドル

         第7章 長期化した軍事政権の背景──軍部派閥型政治が生んだ激しい政権交代

 1970年代後半、ラテンアメリカでは多くの国で軍事政権を経験した。この時期、民主制を維持できたのは、コスタリカ、コロンビア、ベネズエラなど数えるほどしかない。エルサルバドルの場合は、1931年にマルティネス将軍が大統領に就任してから、82年に制憲議会選挙により、銀行家のマガーニャ(Alvro Magana)が暫定の大統領職に就くまでのじつに半世紀にわたり、軍部(あるいは軍部出身者)が政権を握った。
 ラテンアメリカで特徴的な軍事政権による統治スタイルは、権威主義と呼ばれている。権威主義は通常三つのタイプに分類される。それは軍部官僚型、軍部派閥型、個人独裁型である。エルサルバドルの場合はこのうち、軍部派閥型に入ると理解されている。軍部派閥型の特徴は、経済発展が遅れていた国では、中間層出身の将校が、社会的・経済的地位の向上を政治的な手段によって実現する傾向が強くなる。将校たちはパトロン・クライアント関係(擬制的な親族関係を媒介とする温情的な主従関係)に基づく派閥を形成し、軍部内での権力伸長に努める。パトロン・クライアント関係で結ばれた仲間や部下に収入や地位を提供するために、派閥同士の政権争いが激化する、と説明されている。
 要するに、貧しい国の中間層出身者にとっては、軍人は社会的・経済的に上昇の見込める貴重な職業である。軍部内には、パトロン・クライアントで派閥が形成され、派閥間の抗争が繰り広げられる、ということである。たしかに軍部派閥型という類型で、エルサルバドルの軍事政権を分析すると、なるほど、とうなずける。大きな政治の流れを理解するには、権威主義の枠組みは明快である。ただエルサルバドルに固有の事情もたくさんある。
 この国の政治の舞台に、軍人が登場するのは、なんといっても1932年の大虐殺事件以後のことであろう。詳細は4章をご覧いただきたいが、マルティネス将軍は左翼勢力による反政府運動を徹底的な弾圧で乗り切った。ある意味でこれは危機管理の政権であった。さらに第二次世界大戦の勃発は、戦争遂行上の目的からアメリカをして、政治的な安定性を重視し、非民主的でも独裁政権を支持する
という方針に傾かせた。かくしてマルティネス政権は44年まで続く。問題はこのあとである。
 マルティネス政権以後の、政治の混乱ぶりはつぎのようである。政権を握ったのは、44年5月、イグナシオ将軍、同年10月、サリーナス大佐、45~48年、カストロ将軍、48~50年、国家評議会政権、50~56年、オソリオ少佐、56~60年、レムス中佐、60~61年、国家評議会政府、61~62年、軍民評議会政府、62~67年、リベラ大佐、67~72年、エルナンデス将軍、72~77年、モリーナ大佐、77~79年、ロメロ将軍。
 エルサルバドルの大統領の任期は5年である。そうすると任期を全うした大統領は数えるほどである。いったい何ゆえに、かくも激しく軍事政権が交代したのか。パトロン・クライアント関係に起因する権力争いという側面だけで説明しきれるものではないであろう。これ以外にもさまざまな要因があるはずである。
 もともとエルサルバドルの将校グループには、卒業年度によっては、タンドーナなどの士官学校同期生の横の強い結びつきがあるとされている。さらに将校の出身地の同郷グループが存在し、地方出身者と都会出身者ではっ人権の認識について微妙なギャップがある。政治的傾向としては、保守派、中間派、進歩派に分かれる三つのグループがある。もちろんこうしたグループに、パトロン・クライアント関係が存在するわけで、先に紹介した権威主義の説明はそのまま当てはまる。
 強調しておきたいのは、政権交代の循環性である。それはほぼ次のようなパターンである。(1)新政権による権力の集中、(2)国民の不満の増大とこれに対する弾圧、(3)軍内部進歩派グループの台頭、(4)クーデターの発生、(5)新政権による諸改革案の発表、(6)軍部内保守派の台頭、(7)保守派によるクーデターというパターンが繰り返されたのである。70年代にはこのような形の政権交代がもっとも典型的に起きたが、そのプロトタイプはすでに50年代、60年代から始まっていた。
 このような政権交代の循環性は、単なる権力争いというよりも、政策をめぐる対立、国民の不満の現出の仕方とその強さ、それに対する富裕層の対応などに左右されたといえよう。国民の不満の表れは、たとえば1960年に創設されたキリスト教民主党(PDC)が72年の大統領選で、同党のドゥアルテ(Jose Napoleon Duarte)候補が事実上勝利したにもかかわらず、軍の介入で亡命を余儀なくされた事件に象徴される。富裕層の最大の関心事は、国民全体の福祉ではなくて、自分たちの既得権をいかにして守るかであった。そのために軍部を支持した。
 民主化を求める動きを軍は徹底的に弾圧したが、国民の不満を緩和するための政策には、必ずしも消極的であったわけではない。79年にスタートした軍民評議会政権には、軍の改革派と左派勢力(そのなかには、FMLNのゲリラメンバーも含まれていた)が肩を並べて参加したのである。軍人のなかには、「上からの改革」に積極的に取り組もうとした人びともいた。さらにアメリカは、キューバ危機以来の反共政策の枠組のなかで、中米における左翼政権の出現を恐れていたから、軍事政権を容認した。日本を含む先進各国は、中米共同市場の進展のなかで投資先の安定を優先し、軍人たちに危機管理の役割を求めたのである。
 かくして軍事政権は長期に続くこととなった。軍人は軍内部=身内のクーデターについては、寛容であった。しかし軍から権力を剥奪させる動きには強く抵抗した。民主化を求める政治勢力には徹底して弾圧を加えた。軍は自分たちが支配下におく政党、国民融和党(PCN)をフルに使って選挙戦をうまく乗り切り、軍事政権を支えたのである。
 民主化を求める国民の声が実現するには、12年という年月と、数多くの尊い人的犠牲を払わなければならなかった。取り返しのつかない人命の損失。大黒柱を失い残された家族は経済的苦境に立たされた。満足に教育を受けることができなかった児童も多い。国立大学も閉鎖された。同じ国民が敵味方にわかれたので、それだけ憎しみも増した。橋や道路、送電線網などのインフラも破壊された。歴史上に「イフ」は禁物だろうが、遅くても60年代に民政移管に成功していたならば、エルサルバドルは現在よりもずっと発展していたことは間違いない、と思う。   (田中 高)
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                     Ⅱ ホンジュラス         
                   第19章 最初のバナナ共和国 
               ★巨大なアグリビジネスによる経済支配のはじまり★

 読者はバナナ・リパブリック(共和国)という言葉を耳にしたことがあるだろうか。英語の意味は「小国」とか「政情不安定の」、あるいはその国の政治家が腐敗していることをさす時に使われる。蔑称と言っても差支えないであろう。もともとバナナという言葉自身が、フルーツそのものを指す以外にも、性的なスラングだったり、東洋人への差別的な用語だったりする。さらにエスがついてバナナスとなると、頭がおかしい、熱狂するという具合にも使われる、
 じつはこのあまり有り難くない呼称を最初に冠されてしまったのは、他でもないホンジュラスであった。ホンジュラスの歴史はバナナのプランテーション栽培とそのために大挙してやってきたアメリカ人たち(とその資本)によって大きく「歪んで」しまった。さらにつけ加えると、アグリビジネス(ここでは農産品生産と加工、流通の多国籍企業という意味で使う)は、このバナナ・プランテーションと密接に結びついている。世界で最初にアグリビジネスがバナナ生産を大規模に開始したのは、ホンジュラスのカリブ海沿岸地方だった。ホンジュラスは20世紀初頭から第二次世界大戦が終るまで、世界最大のバナナ輸出国として君臨した。そういう意味ではホンジュラスという国は、アメリカ資本主義による多国籍企業が生まれ育った、重要な土地のひとつであるといっても過言ではないだろう。
 最初にホンジュラスで大規模なバナナ・プランテーションを操業したのは、ユナイテッド・フルーツ・カンパニー(UFC)という会社であった。UFCについてもう少し補足説明しておく。同社の設立は1899年である。コスタリカで大西洋岸のリモン港と首都サンホセを結ぶ鉄道建設に携わっていた、アメリカ人のマイナー・C・キース(Minor C.Keith)がUFC設立の主人公である。鉄道建設の資金難から、キースは鉄路周辺にバナナを植えることを思いつき、予想外の成功を収めた。彼はカリブ海を舞台にバナナビジネスで富を築いていた。アメリカ人の「ベーカー船長」の経営するボストン・フルーツ社と合併する道を選び、これがUFCとなる。当時は零細なバナナ業者が多数存在していた。そこでUFCは、これらの会社を吸収し、やがて巨大なバナナ帝国を築くことになる。
 ホンジュラスとUFCとの関係を見る上で欠かせないひとりの人物は、ゼムレー(Samuel Zemuray)である。ゼムレーの名前は「バナナ王」として歴史に刻まれている。15歳の時にニューオーリンズ港でバナナのたたき売りを見てすっかりこのフルーツのとりことなった彼は、やがてホンジュラスに渡る。彼はそこで成功を収める。当時のバナナ会社と時の政権は、いろいろな意味で利害関係にあった。中米各国は一様に社会資本の整備が遅れていた。とくにホンジュラスはその兆候が顕著であった。20世紀初頭、バナナの積み出し港であるラ・セイバからニューオーリンズまで船で3日間で行くことが可能であった。しかしこの港から内陸に位置する首都テグシガルパまで、ラマの背中に乗って一週間以上かかったのである。鉄道建設とそれに付随する電話線の架設が、中央政府の大事な課題であった。
 政府が自ら建設するだけの財政上の余裕はないので、政府は鉄道建設と引き換えに、さまざまな権利を委託した企業に譲許した。こうして鉄道建設の利権をめぐって、UFCとライバル関係にあったクヤメル・フルーツ社(後のスタンダード・フルーツ社)などが、政財界を巻き込んで競い合うという様相を呈するに至るのである。
 さて先に登場したゼムレーは、1923年にはバナナ運搬船などの会社を巧みに吸収しながら、スタンダード・フルーツ会社(SFC)を設立する。SFCはホンジュラスだけでなくニカラグアやパナマでも、バナナの生産やそれに関連する諸々の産業(鉄道建設とバナナボートの運行が重要だった)を展開する。歴史の皮肉としかいいようがないのは、UFCと激しいライバル競争を繰り広げていたゼムレーがその後、UFCの最大株主となり、1929年の大恐慌を経て、事実上の経営権を握ってしまったことである。そして同業他社への呵責容赦ない攻撃的な経営で、瞬く間にバナナビジネスを支配した。
 ホンジュラスのカリブ海側の中心都市であるラ・セイバに隣接したテラという港の周りには、アメリカから派遣されたUFC関係者のためのホテルや住宅、それに覆い囲むように造られた美しい公園やゴルフ場、プールなどがあり、さながら一大リゾート地帯の様相を呈している。以前は関係者以外立ち入り禁止で、大多数の住民の羨望と憎しみの的であったが、現在は一般の人間でも利用できるようになった。とはいえ料金は高く、庶民にはとてもアクセスできるものではない。利用者の多くは一部の富裕層か、外国人の観光客である。
 UFCはバナナ生産だけではなく、それに関連するさまざまな事業を瞬く間に手中に収めていった。生産地と港を結ぶ道路や鉄道、港湾施設、さらにホンジュラスからアメリカの消費地まで輸送するための高速船であるバナナボート網、加えて銀行などの金融機関の事実上の支配であった。こうしてバナナ帝国が築かれたのである。バナナは腐りやすいフルーツで、収穫から消費地に到達するのに、二週間以内でないと、商品価値がなくなってしまう。このあたりが、保存期間の長いコーヒーや藍、砂糖などのトロピカルプロダクツとの大きな違いである。バナナ生産とその流通組織の発達が、企業の近代マネージメントのスタートになったといわれる理由のひとつも、ここにあるといえよう。
 UFCなどのバナナのアグリビジネスが大規模生産を行ったのは、大西洋岸にバナナ生産適地を持つグアテマラ、コスタリカ、ニカラグアであった。幸か不幸かエルサルバドルは太平洋岸しか持たないので、中米では例外的にバナナ生産は行われなかった。そしてこのようなアグリビジネスがあまりにも巨大化して、最大の土地所有者になっただけでなく、各国の政治家も巻き込んだスキャンダルを生んだ。グアテマラでは1954年、社会改革路線を掲げたアルベンス(Jacobo Arbenz Guzmn)政権は、巨大化し事実上の経済支配者となっていたUFCの所有する土地の国有化を宣言した。これはグアテマラ革命と呼ばれている。これに反応したアメリカのアイゼンハワー政権は、CIAを使ってクーデターを起こし、親米派のカスティジョ・アルマス(Carlos Castillo Armas)政権を据えることに成功した。これ以後グアテマラの民主化は、大幅に遅れることになる。
 ホンジュラスの場合は、隣国グアテマラで起きたような、劇的な「革命」は起きなかった。むしろ穏健な社会改良型の政策を志向した。1950年代から80年代にかけて、軍事政権が続いたが、土地改革には比較的熱心に取り組み、ある程度の成果をあげた。この間、アグリビジネスは歴代政権の事実上のパトロンとして影響力を行使し、バナナビジネスの権益を守った。
 かくしてアメリカの巨大資本と現地政府が利害を共有し、国民の福祉向上などにはあまり配慮しない「バナナ共和国」が誕生した。ホンジュラスは今でも、この外国資本依存型の経済構造から抜け出せないでいる。くわしくは24章をご覧いただきたいが、この国の経済はまだまだ脆弱である。しかし、政府の確たる経済政策が打ち出されたことはなかった。かりに政策目標があったとしても、それを強力に推進するだけの行政府の力(ガバナンスともよばれる)は、残念ながらすこぶる弱体であった。現在ホンジュラスに求められているのは、このガバナンスの強化に他ならない。    (田中高)
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             20 モラサン将軍の夢と挫折
            ★中米連邦主義を唱えた国民的英雄★

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 モラサンが活躍したのは、この地域が独立と連邦の形成という大変動を経験する時期でもあった。独立後の中米には、大きく分けて二つの政治勢力が存在した。ひとつは保守派である。彼らは植民地時代の体制維持を理想として、政府の役割をあまり重要視しなかった。したがって経済発展をめざすための各種公共事業や輸出振興には消極的であった。さらに政治的にも経済的に相当の影響力を持っていた教会権力に口を挟むことはしなかった。他方自由派と呼ばれたグループは、政府の役割を重視し、農業や輸出の振興、道路建設や港湾施設などのインフラストラクチャーの整備、通信、教育の分野への積極的な参加をめざした。教会の権力に対しては、抑制する立場であった。モラサンは自由派の代表として活躍する。
 1827年から29年にかけて、モラサン将軍はホンジュラス、エルサルバドル、そしてグアテマラの各地に兵を進めて、保守派の勢力を一掃する。1830年には大統領に選出され、ごく短期間の空白の後に、1835年に二期目の大統領となり39年に任期を全うする。彼のあとを継ぐ実力者がいなかったこともあり、副大統領であった義理の弟が大統領となった。
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 モラサンがめざしたのは、中米諸国が一体となり、アメリカやヨーロッパ列強の手中に落ちるのを防ぐ、という単純な発想であった。これは今でも時として知識人が話題にする、中米連邦主義とよばれる思想の源流である。そこには深遠な哲学や思想があるわけではない。しかし彼らがその理想を追求してやまない姿は、歴史家の関心を引いてきた。欧米の勢力に対抗しようとしたにもかかわらず、現実にはイギリスの権益を拡大させてしまったという批判もある。とはいえ今でもモラサン将軍はホンジュラス人の英雄である。彼の銅像が、テグシガルパの中央公園に大きくそびえ立っている。

 


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