私は、東京裁判で証言したアメリカ高官バランタイン氏の”日本は近代国家として出発したときから軍国的膨張的政策を続けてきた”という指摘は、間違っていないと思います。明治維新以来、天皇を現人神とする皇国日本は”功業を掲げて国威を海外にひろめ、夷狄を駆逐して領土を開拓”し、”天祖の御神勅と天孫の御事業”を実現しようとする考え方で敗戦まで突き進んだと思うからです。
「戦陣訓」の「序」に
”夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず”
とありました。
「軍人勅諭」には
”己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ”義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ”とありました。
そして、”君民一体以て克(ヨ)く国運の隆昌を致”すことが最も価値ある事とされていたのだと思います。
前ページのキーナン検事の”真珠湾無警告攻撃はあなたの同意なしにおこなわれたのか”という問いに、東条被告は”私は意図したことはない”と答え、さらに、”首相として戦争を起こしたことを道徳的にも法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのか”と問われて、左手を机上に突っ張り、胸を張ってキーナン氏に向い”間違ったことはない、正しいことをしたと思う”と声高く言い切ったといいます。日本人だけでも、300万人を越える人たちが亡くなり、周辺国ではその数倍の人たちが犠牲になって、結局、日本が降伏せざるを得なかったにもかかわらず、”正しいことをしたと思う”と主張するのは、現在の法意識や人権感覚ではとても理解できないことではないかと思います。
日本は明治時代に西洋に学び、形式的には近代的な法制度を導入しました。でも、法学者・川島武宜は、西洋由来の近代法思想と日本古来の法意識や現実の国民生活との間に大きな隔たりがあることを具体的に指摘したといいます。
私は、加えて、皇国史観によって明治維新以来の日本の政治家や軍人の法意識が、近代法思想と大きく乖離することになったのではないかと思います。現在の常識的な法意識や人権感覚では、とても理解できないことが、日本には多々ありました。七三一部隊の生体実験や細菌戦の凄惨な実態、軍の方針としての慰安所の設置や日本軍慰安婦の奴隷的酷使、師団命令ともいえる捕虜の殺害、多くの非戦闘員を含む南京大虐殺や情報取得のための拷問、対中政策としての阿片の生産・密売、毒ガス兵器の使用、軍命令によって編成された特攻隊、あちこちの戦地でくり返された万歳突撃(Banzai attack)…。
それらの人命軽視・人権無視は、”天祖の御神勅と天孫の御事業”の実現を義務づけられた国民が、権利の主体ではなく、現人神・天皇の臣民であり赤子であったからではないかと思います。したがって、”夷狄”の人命や人権などは問題ではなかったのだろうと思います。大事なのは”皇軍の道義”であり、国民は”義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟”しなければならなかったのです。
西欧では、ハーグ陸戦条約や不戦条約が採択され、戦争の惨禍を回避するための話し合いが継続されていたようですが、日本では、”皇国の威徳を四海に宣揚”するために、人命軽視や人権無視が看過され、「力は正義なり」とする作戦や政策が進められていたのではないかと思います。
バランタイン氏の指摘するとおり、くり返された日米交渉に関しても、私は、日本側の主張に不当なものが目立つと思います。いかにして手に入れたものであっても、既得権益は決して手放さず、さらに権益の拡大を追い求めている面があるからです。
また、真珠湾攻撃の前になされるべき宣戦布告に関して、ハル国務長官が野村・来栖両大使に向かって言った、下記の言葉も理解できます。
”申しあげておくが、私は過去九ヶ月にわたる会談で、うそをついたことは一度もなかった。このことは記録によって証明される。私の全公職五十年間にこれ以上、劣悪な虚偽と歪曲にみちた文書を見たことがない。これほどの劣悪きわまる虚偽をいいうる政府が世界にあるのかとは、今日まで、さらに思いもおよばなかった”
というのは、確かにその文書は”理由を付した宣戦布告でもなく、最後通牒でもなかった。それは外交関係断絶の意思表示とさえも解されなかった”というような内容のものであったからです。奇襲攻撃を成功させるために、あえてアメリカを惑わす作戦だったのではないかと思います。
それは下記資料1の「宣戦ニ関スル事務手続順序ニ付テ」の文書(資料1)が、その一端を示していると思います。
奇襲攻撃の翌日に宣戦布告がなされる事務手続きが連絡会議で決定されているのです。”Y(X+1)日宣戦布告”がそれです。それは、「開戦ニ関スル条約」(資料2)の違反であり、同条約の精神を完全に無視するものだと思います。
石井大佐の”宣戦布告の件は、九月の戦争指導計画研究当時よりの案件であり、事前布告のヘーグ条約の義務は誰も心得ていた。しかも尚且つ条約違反よりも作戦の成功を重視した”という言葉も見逃すことができません。”攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる”ためには手段を選ばない、それが日本だったように思います。
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第七章 開戦前夜の対米関係
アメリカ高官の証言
日米交渉の生き字びき・バランタイン口供書
八日間にわたって続々と提出した書証により、検事側は以上のように日米開戦までの日本の動きを克明に立証した。次いで十一月十八日法廷に国務省顧問バランタイン氏の出頭を求め、日米交渉に関し、キーナン検事が直接尋問をおこなった。キーナン検事はバランタイン氏を「極東問題の権威者」として紹介し「その論旨は国務省当局と検事団と同じ基礎に立つもの」と強調し、法廷の注目をひいた。
バランタイン氏は、日米外交史の生き字びきともいうべき人で、口供書は豊富な知識経験と、国務省記録を縦横に駆使して、明治以来の両国関係を詳述している。その中で、日本は近代国家として出発したときから軍国的膨張的政策を続けてきたと断じ、その例証として日清、日露の両戦争をはじめ満州事変、日華事変をあげ、一つの侵略政策からつぎの侵略政策までの間は地固めの期間にすぎなかったと証言している。さらに、1937年の日華事変以来、日米関係が次第に悪化した事情、米政府からのたびたびの好意的警告にも耳を貸さず、全東亜および西部太平洋の征服をくわだてたことを歴史的に解明「このような背景をはっきり頭にいれておくことは1941年、日米間におこなわれた会談の真意を解する上に欠くべからざることである」として日米交渉の経過を詳細に綴っている。いわば、日米交渉に対する米国政府の見解である。
バランタイン氏の口供書から抜粋して米国政府の同交渉に対する態度を記してみよう。
「一九四一年(昭和16年)三月から四月にかけて、大統領と国務長官とは、日本大使と数回にわたって日米関係改善の問題を協議した。
五月十二日、日本大使は全太平洋区域を含む日米間問題の全面的妥結に関する提案を訓令に従って提出した。日本が中国に対して提議しようとする条件は単に「近衛原則」を通じてのみ示されたのである。国務長官はそれで、日華交渉の基礎と日本が考えている条件をはっきりさせようとしたが、日本側はあいまいな抽象論で明確な言質(ゲンチ)をあたえなかった。また日本大使の軍事顧問、岩畔大佐はほかの機会に、中国における日本軍の駐兵区域は「内蒙古およびそれに隣接する中国本部の地域を含み、南は青島までの海の交通線をも包含する」と説明した。これは華北五省に対する事実上の支配を意味するものである。
日本側提案に対して米政府は世界情勢と関連して、了解に達するため日本の提案をはじめ、あらゆる可能な手段を徹底的に探究することにした。日本側は日華事変の解決は日華両国の問題なので、日本が中国に対し提案する解決条件について、米国がかれこれいうのは意外だと述べた。国務長官は、日華間の和平解決は日米両国が念頭に置く目的、すなわち太平洋の平和をっ促進することが主要な条件であることを強調し、もし米国政府が日本のいうままに、中国政府に対して日本と交渉せよと言うならば、米国としては、米国の原則また交渉の基礎と、日本側条件とを一致させる責任を負わねばならなくなることを指摘した。
日本のいう日華経済提携の問題も討議された。非公式会談によって、それは、日本が中国において優先的な経済的地位を保留し、同時に西南太平洋地域でも、中国におけると同様の経済的権益を獲得しようとすることであるのが判明した。それで長官はこのようなことは、国際通商における無差別主義と矛盾することをあきらかにしたのである。
六月六日、国務長官はそれまでの会談で、日本は枢軸関係を強調しつつ、日華関係を東亜の恒久平和の基礎に置くとの意思表示を回避し、太平洋平和に対する明確な約束をもそらそうとしているとの印象を受けざるをえないと日本大使に告げた。
六月二十二日、ドイツはソ連を攻撃し、しかも七月になると日本の南部仏印進駐の情報が入った。このような軍事行動と日米交渉はあいいれないものであることを日本側に指摘したところ、七月二十三日、日本大使は日本は物資の補給を必要とし、さらに対日軍事的包囲に対する保障が必要だと述べてきたのである。
これに対しウエルズ国務長官代理は日米協約こそは、日本の仏印占領よりもはるかに大きな経済的安定を日本にもたらすであろう。また米国の政策は対日包囲政策とは反対で、日本の行動こそかえって南方征略の最後の手段であるとみるほかないと答えた。このような情勢では、日米交渉の根拠がなくなったと断じたのであった。
七月二十四日になって、ルーズベルト大統領は、仏印の中立化を日本に提案した。これこそは日本側が求めている食糧供給の他物資の供給を保証するもっとも充分で自由な機会であった。しかし日本政府はこの大統領の提案に承諾を与えなかった。そしてついに大兵力を南部仏印に移動させた。
日本の南部仏印進駐は他国を憤激させたばかりでなく、戦争勃発の危険を最大限に発展させ、その結果米国その他の関係国は、もはや自国の安危に関わる問題としなければならなくなった。ここで米国は自衛のため決定的かつ明確な行動に出ざるを得なかった。
七月二十六日、ルーズベルト大統領は、日本資産凍結令を発し、英国・オランダ両政府も、同一の挙に出た。日米間の通商は事実上断絶したわけである。
その後八月八日、日本大使は、日米関係調整のため両国政府首脳部の会合は可能であるかを問合わせてきた。それで、非公式会議が中止になったしだいを簡単に再検討したうえ、日米関係調整の策があるかどうかは日本政府の決定にかかっていることを長官より返答した。
八月二十八日、ルーズベルト大統領は近衛首相から、日米間の重大問題を討議する巨頭会談についてのメッセージを受けたが、巨頭会談に先立ち協約成立のための根本的、本質的な問題について予備討議をすべきであるとの回答が九月三日、発せられた。
九月六日になると、日本政府は新しい提案をおこなったが、これは八月二十八日に大統領に送られたステートメントに比べると範囲がせばめられていた。九月二十五日、日本政府は今度はグルー大使に対し新提案を手交し、回答を求めた。しかし、これも要点に関しては修正するという態度を示したものではなかった。
そこで十月二日、国務長官は日本大使に対し、交渉経過を説明するオーラル・ステートメントの覚書を手渡し、日本側提案のあらゆる点について米政府の態度を説明し、米国の遂行しようとする政策と両立しないことを明らかにした。この覚書を受け取ると、日本はすみやかな交渉妥結を求めて躍起となった。しかし、日本の新提案には何らみるべきものがなかった。
こうして、十月十七日、東条内閣が成立した。そして十一月十五日、来栖大使が、ワシントンに到着した。十一月二十日、野村、来栖両大使はハル長官に対し、極端な提議を手交した。この提議を手交する前後に野村・来栖両大使は時局が切迫したことを力説し、右提議は日本側として最後的なもので、この線で協定に達しえなければ、その結果はもっとも不幸なものになるだろうと力説した。
十一月二十四日付日本の提案をもし米国が同意すれば、米国は日本の過去の侵略を看過し、将来の無限の征服に同意することを意味するばかりでなく、米国の外交方針を放棄することとなり、中国を裏切り、日本が西太平洋と東亜全域で盟主となることを容認するに等しいもので、結局米国の国家の安全にもっとも重大な脅威をもたらすことになったであろう。
十一月二十六日、国務長官は日本側に回答を手交した。その後感じたことだが、日本はこの十一月二十六日回答で、太平洋地域の平和的解決に関する最後的なものだとみなしたにもかかわらず、十二月七日まで、交渉を継続しているかのように、見せかけたのである。
十二月二日、大統領は、仏印に対し日本が兵力を増強している理由について日本側にただしたが、これに対する説明は、日本軍の増強は、国境に近い中国軍に対する防衛手段のためであるとの体裁のよい声明であった。
大統領は十二月六日午後九時、天皇に対し、現下の情勢における「悲劇の可能性」を避けるよう大統領個人としての希望を打電した。特別の命令でそのメッセージは、平文で打たれ、日本側は容易に解読しえたはずである。
十二月七日、日曜日正午ごろ、ハル長官は日本大使からの電話による要求に応じ、午後一時の会見を約束した。午後一時をすぎてまもなく、日本大使は会見を午後一時四十五分に延ばしてもらいたいと申し入れてきた。野村・来栖両大使が国務省に到着したのは午後二時五分で、両大使は午後二時ニ十分、長官と会見した。日本大使は、午後一時に文書を手交するように訓令されたが、電報翻訳困難のため遅延したことをのべ、ついで長官に文書を手交した。
この文書は、理由を付した宣戦布告でもなく、最後通牒でもなかった。それは外交関係断絶の意思表示とさえも解されなかった。
ハル国務長官は日本側のこの文書を読み、野村・来栖両大使に向かい、
『申しあげておくが、私は過去九ヶ月にわたる会談で、うそをついたことは一度もなかった。このことは記録によって証明される。私の全公職五十年間にこれ以上、劣悪な虚偽と歪曲にみちた文書を見たことがない。これほどの劣悪きわまる虚偽をいいうる政府が世界にあるのかとは、今日まで、さらに思いもおよばなかった』
とのべたのである。
野村・来栖両大使はなにも言わず別れを告げて立ち去った。
この会見はあとでわかったように、真珠湾攻撃から一時間以上のちに、マレー半島に日本軍が上陸してから二時間以上後、また上海共同租界の境界を日本軍が越えてから四時間後におこなわれたものである。野村・来栖両大使はこれらの事実には言及しなかった」
資料1-----------------------------------------ーーーー
「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>」防衛庁防衛研究所戦史室著(朝雲新聞社)
第二十章 開戦──十二月一日御前会議
宣戦布告に関する論議
宣戦ニ関スル事務手続順序ニ付て
十一月二十七日 連絡会議決定
宣戦ニ関スル事務手続順序概ネ左ノ如シ
第一 連絡会議ニ於テ戦争開始ノ国家意志ヲ決定スベキ御前会議議題案ヲ決定ス(十二月一日閣議前)。
第二 連絡会議ニ於テ決定シタル御前会議議題案ヲ更ニ閣議決定ス(十二月一日午前)。
第三 御前会議ニ於テ戦争開始ノ国家意志ヲ決定ス(十二月一日午後)。
第四 Y(X+1)日宣戦布告ノ件閣議決定ヲ経、枢密院ニ御諮詢ヲ奏請ス。
第五 左ノ諸件ニ付閣議決定ヲ為ス。
一 宣戦布告ノ件枢密院議決上奏後、同院上奏ノ通裁可奏請ノ件(裁可)
ニ 宣戦布告ニ関スル政府声明ノ件
三 交戦状態ニ入リタル時期ヲ明示スル為ノ内閣告示ノ件
四 「時局ノ経過並政府ノ執リタル措置要綱」ニ付発表、各庁宛通牒ノ件
第六 左ノ諸賢件ハ同時ニ実施ス
一 宣戦布告ノ詔書交布
二 宣戦布告ニ関スル政府声明発表
三 交戦状態ニ入リタル時期ヲ明示スル為ノ内閣告示
四 「時局ノ経過並政府ノ執リタル措置要綱」ニ付発表、各庁宛通牒(宣戦布告ノ直後ニ発表スルモ可ナルベシ)
・・・
前記「宣戦ニ関スル事務手続」は、以上のような「宣戦布告」に関する手続きを規定しているのであるが、その「宣戦布告」をY(X+1)日すなわち開戦の翌日において、「機密戦争日誌」にも
明記されているとおり、「戦線ノ詔書」の公布によって行おうとしているのであった(第六項ノ一参照)。
ところで明治四十五(1912)年一月十二日日本も批准したところの「開戦ニ関スル条約」第一条には、
「締約国ハ理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ、其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スベカラザルコトヲ承認ス」とある。そこで問題は、前記宣戦の詔書公布による宣戦布告が、国際法上この条約第一条の開戦宣言の通告とみなされるかどうかであるが、日本の元首たる天皇が「朕玆ニ米国及英国ニ対シ戦ヲ宣ス」と確言されている宣戦詔書の公布は、それが日本国民に向ってなされたものであっても、客観的には開戦宣言の通告たたるの条件を具備したもの、すなわち開戦宣言の通告たることに間違いはないであろう。ただし、政府および統帥部首脳が、この宣戦布告を「開戦ニ関スル条約」第一条の規定に基づく開戦宣言の通告そのものであることを意識し、したがってY(X+1)日にこれを行うことが、「開戦ニ関スル条約」の事前通告の義務を意識していたかどうかに疑問が残るのである。
日清、日露の両戦役においては─まだ「開戦ニ関スル条約」は公布されていなかった─戦闘開始の数日後又は翌日宣戦の詔書によって宣戦布告が行われている。すなわち日露戦役においては明治三十七(1904)年二月九日午前零時ニ十八分、日本海軍は旅順港外において露国艦艇を襲い、また同日午後零時ニ十分仁川沖において敵艦に砲火を開いたが宣戦の詔書によって宣戦が布告されたのは翌二月十日であった。そこで前記のY(X+1)日宣戦布告ということは、あたかも「開戦ニ関スル条約」を意識せずに、その日清、日露戦役の事例を踏襲したしたかのようである。
しかし「宣戦の布告」をいついかなる方法により行うべきかについては、前記「対米英蘭開戦名目骨子案」、すなわち宣戦詔書の骨子案の研究と関連して、十一月中旬から既に連絡会議の討議に上っている。すなわち「杉山メモ」には十一月十五日「事前に宣戦布告ヲスルカ、或ハ宣戦布告ヲスル事ナク戦争ニ入ルカハ研究ノ要アリトノ意見多数ナリ」、十一月二十二日「宣戦ノ詔勅ニ関連シ、宣戦ノ布告ヲナスヤ否ヤニ関シテ、其ノ方法ト共ニ法制的ニモ実際的ニモ慎重ニ研究スル事ニ申合セリ。(結局宣戦布告ハスルコトニナルベキモ、其ノ方法ニ就キテハ充分ニ研究ノ要アリトスル意見多シ)」と記されている。右は「開戦ニ関スル条約」を意識しながら宣戦布告を事前に行うべきや否やについて論議していたことを示すとともに、宣戦の詔書による宣戦の布告とは別途の「宣戦布告」すなわち「開戦ニ関スル条約」に基づく開戦通告を考えていたことを示唆しているようである。
石井大佐はつぎのように述べている。
宣戦布告の件は、九月の戦争指導計画研究当時よりの案件であり、事前布告のヘーグ条約の義務は誰も心得ていた。しかも尚且つ条約違反よりも作戦の成功を重視した。
現に独逸は六月二十二日ソ連を奇襲した。事後布告するか、又は直前(例えば五分前)に布告して奇襲すべしの意見が支配的だった。十一月十五日の連絡会議では、事前事後の差はあれ、宣戦布告そのものは必要との見解が示され、十一月二十二日の連絡会議では、宣戦布告そのものの利害を討議、やっぱり布告すべしとの見解が多く、従って星野書記官長より宣戦の詔勅案が提出された次第である。布告しないと敵国を怒らせる外に中立国の船も臨検するなど交戦権の行使が不便となる。十一月二十七日決定の「宣戦に関する事務手続き順序」は誰の起案か知らず。私見によれば宣戦布告は、大日本天皇が国内を含む全世界に向けて厳かに戦争を宣するもの、国内向けだけとの見解は弁護に過ぎぬ。 日本は事後に宣戦を布告したが、それを補うべく事前に米国へ実質上戦争通告の措置を取った。実際はこれも事後となった。
資料2------------------------------------ーーー
開戦ニ関スル条約
独逸皇帝普魯西国皇帝陛下・・・ハ平和関係ノ安固ヲ期スル為戦争ハ予告ナクシテ之ヲ開始セサルヲ必要トスルコト及戦争状態ハ遅滞ナク之ヲ中立国ニ通告スルヲ必要トスルコトヲ考慮シ之カ為条約ヲ締結セムコトヲ希望シ各左ノ全権委員ヲ任命セリ
・・・
因テ各全権委員ハ其ノ良好妥当ナリト認メラレタル委任状ヲ寄託シタル後左ノ条項ヲ協定セリ
第一条 締約国ハ理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スヘカラサルコトヲ承認ス
第二条 戦争状態ハ遅滞ナク中立国ニ通告スヘク通告受領ノ後ニ非サレハ該国ニ対シ其ノ効果ヲ生セサルモノトス該通告ハ電報ヲ以テ之ヲ為スコトヲ得但シ中立国カ実際戦争状態ヲ知リタルコト確実ナルトキハ該中立国ハ通告ノ欠缺ヲ主張スルコトヲ得ス
・・・
アジア歴史資料センター
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