マギー牧師
「南京大虐殺」はなかったと主張する人たちが口をそろえて言うことがあります。「仕組まれた”南京大虐殺 攻略作戦の全貌とマスコミ報道の怖さ」大井満(展転社)の第九章、「虐殺話のそもそもの源」の二「東京裁判」の中にもありました。次のような文章です。
ーーー
・・・
それはともかく、東京裁判ではそれら不法行為を立証するための証人が、次々と登場する。南京アメリカ教会のジョン・マギー牧師は、こう証言していく。
「いたるところで、組織的な殺戮が行われ、しばらくすると南京市内のいたるところに死骸がごろごろ横たわっていました。強姦も、いたるところで行われ、もし拒絶や反抗などしたら、すぐ突き殺されました」
ティンパーリイやスノーの記事にあるような虐殺証言を微に入り細をうがち、これでもか、これでもかというように、延々二日間にわたってマギー牧師は証言したのである。
これにたいし、ブルック弁護人は最後にこう質問した。
「それではお聞きしますが、これらのことはあなたがその眼ではっきりと見たのですか?」
「いえ、私が実際に見たのは、誰何されて逃げたところを射たれた、その一人だけでした」
何のことはない、証言といいながら、そのすべてがどこかで仕入れてきた、また聞きにすぎなかったのである。
ーーー
東京裁判で、ブルックス弁護人に「…不法行為もしくは殺人行為というものの現行犯を、あたなご自身いくらぐらいご覧になりましたか」と尋ねられて、「たったわずか一人の事件だけは自分で目撃いたしました」と答えたからといって、「南京大虐殺」がなかったと結論づけることができるのかどうか、彼の日記を読めば、問題はそう簡単ではないことがわかると思います。
たとえば、こうした主張をくり返す人たちが、マギー牧師の証言を裏づける日記やフィルムで明らかとなった李秀英さんの存在や、彼女の日本における名誉毀損裁判での勝訴の判決をどのように説明するのでしょうか。李秀英さんについては、マギー牧師の日記に下記のようにあります。
ーーー
鼓楼病院で、今日(12月19日)もひどい患者を診ました。7歳の少年は腹部を四、五カ所突き刺され、誰も助けられなくて死んでしまったのです。
さらに、まだ19歳という女性ですが、妊娠五、六ヶ月ぐらいだと思います。日本兵の暴行に抵抗したため顔面に七カ所、足に八カ所、腹部に2センチの深い傷を負っていました。このお腹の傷のために胎児は死んでしまいましたが、母親のほうはなんとか命は助かりました。
ーーー
また、「どこかで仕入れてきた、また聞き」などと言う表現もいかがなものかと思います。日記を読めば、マギー牧師が南京において南京で進行中の残虐行為の被害者から毎日のように直接話を聞いていたことがわかります。遙か遠隔の地の話を人伝に聞いたのではないのです。何世代にもわたって伝えられ、様々な解釈や感情が入り込んだ古い昔の話を聞いたのでもないのです。「伝聞」にもいろいろあると思います。マギー牧師の聞いた話には、多少の誇張があるかも知れませんが「伝聞」として完全否定したり無視したりできるものではないと思うのです。感情を伴った事件直後の被害者の訴えが、まったくの作り話でないことは、マギー牧師にはわかるのではないでしょうか。
東京裁判において、被告人全員の無罪を主張したパール判事は、マギー牧師の「伝聞」に基づく証言の一つを取りあげ、それが真実であるとは受け止められないと、その意見書(いわゆる『パール判決書』)に書いています。でも、政治的判断を排し、きちんとした証拠に基づいて、あくまでも法的裁きしようとしたパール判事も、日記やフィルムの存在を知っていたら、たとえ「伝聞」でも、マギー牧師の証言に対する受け止め方は、多少ちがったものになったのではないかと想像します。
下記は「目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記」滝谷二郎(三交社)から、著者のプロローグと第一章のごく一部およびマギー牧師の日記の部分だけを抜粋したものです。著者がより深く日記の内容を理解するために、様々な解説をはさんでいるのですが、それは省略して、マギー日記の文章(その前半部分)のみ、抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
プロローグ
・・・
思い返せば、従軍慰安婦の問題は日中戦争の南京で旧日本軍が起こした夥しいレイプ事件に懲りた日本軍が、戦地で慰安所を設置することを指示したことに始まる。現在、日本政府が問われている戦後補償の原点は、実は日中戦争中の南京事件といわれる旧日本軍が犯した戦争犯罪事件にあり、この事件の真相究明の姿勢におおきなかかわりをもっている。
この事件の重さは、宮沢首相が総理に就任した直後の1991年11月26日、衆議院国際平和特別委員会で、社会党の沢藤礼次郎代議士から一番に南京大虐殺事件について質問を受けていることでもわかる。南京大虐殺事件を一国の総理がどのように判断するかは、対中国のみならず日本の外交問題に極めて重要であるという認識のもとに、一人の社会党代議士が国民に代わって質問したのだと言ってよい。
南京事件について、宮沢首相はこう答えている。
「正確な記録、内容は別として、そういうふうに伝えられた事実があり、それは極めて遺憾なことだと私は思っている」
政権を預かる自民党内に、南京事件はなかったという根強い意見(石原慎太郎衆院議員が米誌『プレイボーイ』1990年10月号のインタビューで南京事件は中国人が作り上げたうそと発言)があることを指摘し、首相の南京事件に対する認識をただす野党議員の質問を受け流した宮沢首相は、その後従軍慰安婦問題の責任追及など、戦後補償の問題がこれほど急速に緊迫化するとは、予想すらしていなかったことだろう。
しかも1992年は日中国交正常化20周年の節目の年にあたる。20年前の1972年、時の中国総理・周恩来は田中角栄首相(当時)に、「中国は中日の友好を考え、戦争賠償要求を放棄する」とこたえる一方で、日本の侵略戦争に反省と真相の究明を求めた。日中国交正常化から20年、日本は戦争責任において中国側に対して何をしてきたのか、それが問われる20年でもある。
一方、中国では、日本の侵略で民間人に被害があったとして、各地で補償を求める市民の署名運動が拡がりつつある。1991年、海部首相(当時)がモンゴルの帰りに北京を公式訪問(8月10日)した際に、請願書を渡そうという計画もあったが、結局はその翌年、1992年の全人代(日本の国会にあたる)に意見書として提出され、議案として検討されることになった。
さらに、日中国交正常化20周年にあたり中国政府の指導者から、「天皇訪中を歓迎する」というサインが送られ、天皇訪中とともに過去の戦争に言及する場面すら予測されるようになっていった。とくに、日中戦争についての中国側の研究者のなかには、昭和天皇の責任説を強く唱える者も多く、補償問題を辞さないという強硬論にまで発展することもあるだろう。また日本国内においては、南京事件の虐殺を肯定する派と組織的な虐殺を否定する派の議論に、いまだ決着をみていない、という状況である。
こうした状況下にあった1991年7月、南京事件の現場を撮影し貴重なフィルムが米国ロサンゼルスで発見され、事件の真相究明に大きな期待を抱かせた。フィルムは16ミリのモノクロで、日本軍の南京占領(1937年12月13日)直後の惨劇などが収録されたものだった。撮影者は当時、南京市で避難民救援活動をしていた米人牧師のジョン・マギー(The Reverend Magee)である。彼が南京市内で日本軍に隠れるようにして撮影したフィルムを、当時同じく南京にいた米人仲間のジョージ・フィッチ(George Fitch / YMCA書記官)が上海へ持ち出した。フィルムは4本複製されており、その存在は知られていたが、その後行方がわからなくなり幻のフィルムとまで言われていた。
それが、在米中国人グループ「紀念南京大受難同胞聯合会」(姜国鎮ら)の手によって、マギー牧師の次男デヴィッド・マギーの自宅から数十年ぶりに発見されたのである。約37分4巻のフィルムはやや縮まっているものの、保存状態がよく南京事件の様子が鮮明に残されていた。
このフィルムの確認の決め手は、1991年ドイツのベルリンで発見された南京事件に関するドイツ外交文書「ロ-ゼン報告」である。南京事件当時、南京駐在のローゼン書記官が、マギー牧師の撮影したフィルムのコピー(その後行方不明)とマギー牧師自身による説明文を添えて本国に送っていた報告が、今回発掘されたフィルムの内容と一致したからである。さらに遺族は、マギー牧師自身が書き添えたとされる説明文の筆跡を本人のものと確認した。
マギー牧師のオリジナル・フィルムの発見は、これまで南京事件の残虐性の有無について議論されてきた、いくつかの謎の解明に貴重な資料になることは間違いない。フィルムを発見した「紀念南京大受難同胞聯合会」は、旧日本軍の南京侵攻の残虐性を証明できる貴重な資料であると、すぐさま世界に向けてその内容を公開した(1991年8月2日)。
当時私は、ニューヨークで「紀念南京大受難同胞聯合会」によるマギー・フィルムの探索に立ち会っており、同時に、フィルムとともに幻の日記とも言われて行方の知れなかったマギー日記の探索に携わっていた。
私は、マギー牧師の南京時代の同僚であるジョージ・フィッチ氏(当時YMCA書記官・フィルムを上海に持ち出した当人)の遺族エディス・フィッチ女史と連絡を取り、彼女の記憶をたどりながらマギー日記の行方を追った。そしてようやく、40数年前の父の思い出をたどった彼女は、ジョージ・フィッチ氏がマギー・フィルムを上海へ持ち出す時、同時にマギー日記を持ち出して家族宛に送っていたという重要な記憶を思い出したのである。私たちはすぐさまニューヨーク郊外に住むマギー牧師の次男デヴィッド・マギー氏に連絡をとった。その結果、自宅倉庫から50数年ぶりにマギー牧師の日記を発掘することができたのだった。
「紀念南京大受難同胞聯合会」の姜国鎮氏は、南京事件の真相究明に大きな前進をもたらすとして、マギー日記の一字一句を確かめ、筆跡とともにその内容をデヴィッドに確認した結果、それがマギー牧師自筆の日記であることが明らかになった。
マギー牧師の日記はこれまで発表されたことはない。師は数少ない南京事件の目撃者であり、後に東京裁判で南京事件の証人として証言台に立っている。マギー牧師の残した日記は、日本軍が南京を占領する1937年12月13日の前日12月12日から、南京の治安が安定する翌年の1938年2月初旬まで書き綴られている。
第一章 「日記は見ていた」五十五年ぶりの真実
中立区となった国際安全区
・・・
マギー牧師は、安全区におかれた鼓楼病院(金陵大学付属病院)で外国人の負傷者の救援にあたり、負傷看護を通して日本軍によって残虐行為を目の当たりにし、日本軍に隠れるように十六ミリフィルムを撮影していたものと思われる。そして、安全区内での日々のでき事を日記に書き残し家族宛に送っていた。いつ死に遭遇するかわからないという緊迫した状況での撮影と手記は、マギー牧師の家族と世界に宛てた遺言ともいうべき決死の告発であったに違いない。マギー牧師は、外国人ジャーナリスト不在の南京で数少ないフィルムの撮影者であり(ほかにパラマウント映画A・メリケンの”南京陥落”と日本の東宝映画文化映画部のドキュメンタリー)、さらにのちに東京裁判で南京事件の目撃者として証言台に立つことになる。
・・・
日本軍は南京で何をしたのか
・・・
マギー牧師の日記は、日本軍が南京を占領する前日、12月12日、”愛する人へ”で書き始められている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
愛する人へ
No25 Lochia Rd. Nanking
Dec. 12,1937
この町の人にとってこの数日はこれまで経験したことのない残酷な日々だったことでしょう。日本軍は今日の午後城内に乱入し、中国軍は中山路や他の路から逃走中です。この日記を書いているときも市中では砲撃の炸裂音が響き、小銃や機関銃の射撃音が聞こえてきます。敗走せず隠れ忍んでいる部隊も確かにあるらしいのですが、本隊は揚子江を超え彼岸に渡ろうと下関方面に向かっているようです。市内のいたるところで、中国軍か日本軍かわかりませんが銃撃が続いています。下関の聖パウロ教会から逃げてきたクリスチャンや市民が集まっているこの避難区の隣の家の向かいにまで爆弾が落下し、住民は恐怖に震えています。
2、3日前のことからどんなことが起こっているか、書きましょう。毎日少しずつ日記を書けばよかったと思います。というのはあまりにも多くのことが起こったので思い出すのが容易ではありません。この間の水曜日〔12月8日と思われる〕、あなたに手紙を投函しました。それが郵便局が私の手紙を受け付けてくれた最後の日でした。
うちのピアノとルイスさんのピアノはうまく運び出せたのですが、アーチ・ツェンさんのピアノは時間がなくて運び出せませんでした。日本軍司令部の許可をもらってやっとうちの荷物だけ持ち込んだのです。私が下関からここ〔安全区〕に入り込む時も歩哨兵が邪魔をして入れてくれなかったのですが、入口に立っていた士官に話していれてもらったのです。
安全区の鼓楼病院
次の日、12月9日木曜日
駅に負傷した市民がいるというので、車で駆けつけました。書き忘れていましたが、前日両手を爆弾で負傷したという気の毒な老女がやってきたので、私は老女とその娘を鼓楼病院に連れていきましたが、老女は片手を切断して助かりました。
私は中国人のチェンと駅に行き、入口で警備している士官に断って駅に入りました。負傷兵はいなかったので駅で待っていた鼓楼病院の救急車に薬品や寝具などを積み込み、私たちは、フォードに乗り数週間前に負傷した少女を連れにいきました。
木曜日、私が下関にいたのですが、日本兵たちは郊外の家を燃やしていました。その時、ブリッジ・ホテルが焼かれたかどうかは私は知りません。ツエンの家の裏にあるビルは焔に包まれていました。兵士たちはさらにツエンの家の回りを走り回っていましたが、私たちが立ち去る前に焔は消えていました。ジョージ・フィッチはあとからきて、燃えているのを見たと言っています。翌日行くと、ただ壁だけが残されていました。以前そこの前の土地を私に売ることを拒んだコウと名乗る人が村の入口でたたずみその燃えた家を指差し、あの村に戻りたいが恐くて戻れないと涙を流していました。私は守備兵に断ってみると言ったのですが、やはりコウさんは村に入れてもらえなかったのです。
何人かの負傷兵を揚子江の川岸まで連れていきました。彼らは、対岸の浦口から列車で転送されて行きました。その波止場には対岸に渡してもらうのに何日も待っている民間の負傷兵も何百人といました。彼らは何日もの間食事もしていません。ジョージ・フィッチが二日前にも警察署長と交渉したのですが、警察署長の話では負傷兵たちは船で渡ったということで喜んでいましたが、私が見たところではまだ1500人程の人が船を待っていました。
12月11日 土曜日
私は、鼓楼病院の負傷兵運搬車に傷兵を乗せ、首都劇場の治療所に向かっていました。治療所の前まで来ると突然大きな爆弾が落ち、通行人11名が即死しました。福昌ホテルの前方の首都劇場の前に止めてあった2台の車は火だるまになり、日本の爆撃機が真上を飛び、対空機関砲が激しく火を吹いていたので、負傷兵を下ろすと私はすぐさま鼓楼病院にとって返したのです。
裏道を通っての帰り道、大学附属中学にいたる道すがら、いたるところで、いくつもの死体を見ました。一軒の家に弾が命中して20名近くの生命が失われ、その中の7、8名は路上に投げ出されていました。かわいそうに、ある老夫婦は33歳になる息子が目の前の大きな穴の中で死に絶え、その横で気が狂ったように泣き叫んでいました。大勢の人が回りに集まっていましたが、私はすぐ隠れるように言いました。中国人の大衆は無知で、いつ爆撃がくるのかわかっていないのです。
この日、私が説教していると電話が鳴り、説教中でしたが電話をとりました。こんなことは初めてです。電話は、安全区委員会(旧張群将軍邸に本部を置く)本部に直ぐ来てほしいという命令に近いほど緊迫したものでした。安全区の計画相談があるというので急いで本部に向かいました。本部に着く前に日本軍が城内を破壊しているという知らせを受けました。中国軍は防御しようと、鼓楼病院に隣り合わせた公園の中に大砲を設置しようとしました。ここは避難区の中立地帯ですから、これはやってはいけないのです。しかし、その一角に薬を保管する倉庫があるので、私はすぐさま薬を運び出し、保管したのです。その日の夕刻は、シェルツェ・パンティン氏(ドイツ人・興明貿易公司)の家で夕食をとりました。この辺りにはまだ電気がありますので、日記を書くことができるのです。これを書いている間に爆撃は少なくなりました。中国軍の陣地が占領され、砲撃用武器などが捕獲されたのだと思います。明日はどんなことが起こるかしれません。小銃の響きは時々聞こえてきます。
第二章 安全区ナンキン・アトローシティ
避難民区に逃げ込んだ敗残兵
12月15日 午前8時50分。
一昨日(12月13日)の晩、日記を書き終えた時は戦闘はもう止んだと思いましたが、すぐ近くの砲兵隊陣地から聞こえる機関銃や小銃の破裂音は今までにないほど激しいものでした。
昨日(12月14日)は本当に嫌な一日でした。日曜日(12月12日)の午後、中国軍が退却を始めた時、私は外交部(外務省にあたる)へ行ったのですが、そこには大勢の負傷兵ばかりで、医師や看護婦はひとりもいませんでした。しばらくしてアーネスト(Rev Ernest H.Foster/アメリカ人・アメリカ聖公会布教団)と私は三牌楼の陸軍省にも行ってみました。ここではもっと多くの負傷兵と20人ほどの医師と看護婦がいたのですが、彼らは治療をしようとせず逃げることばかり考えているのです。私は彼らに負傷兵の治療にあたらないのなら、国際赤十字委員会(マギー牧師が委員長)が面倒をみますと告げ、前日その治療班を組み分けしたように、負傷者を分けていきました。班長を私が引き受け、アーネストが書記を担当してくれました。
安全区委員会のあるものは、日本軍の将校と、もし安全区の病院(鼓楼病院)に中国人の負傷兵を匿ったりしなければ、日本軍は病院を保護するし、兵隊も抵抗しなければ危害を加えないと約束したということでした。そこで、私たちは南京の町中を駆け巡り中国兵に武器を棄てるように呼びかけました。陸軍省の前は兵士で混乱していましたが、兵士が棄てた大小の火砲、弾薬、手投げ弾などが散乱し、ロバは兵士を失い勝手に走り出す始末で、それを止めるのに手間がかかりました。通りに散乱した弾薬や手投げ弾に火を近づけると危険なので注意するのですが、足元で爆発したこともありました。陸軍省では、昨日いた医師や看護婦は逃げて居なくなっており、負傷兵だけが残されていました。
翌朝(12月14日)、外交部に負傷兵を連れて行く途中で日本軍に出会いました。彼らは負傷兵の痛がっている手や足を曲げては、縛って傷めつけ、野獣のように見えました。運よく日本軍の軍医がきましたので、ここは(外交部)負傷兵の病院だと、下手なドイツ語で話すと、軍医は兵隊に命じて傷ついた中国兵を釈放してくれました。
暫くすると、英語をかなり話す日本の新聞記者がやって来て、「なかにはたちの悪い日本兵もいるよ」と慰めてくれました。その後、英語のわかる紳士である大佐に出会いましたので、彼に本部に行き負傷兵看護の許可をもらってきて欲しいと申し入れました。
私と若いロシア人は赤十字の車で道徳会の事務所の西にある中央ホテルへ行きました。コーラ(Cole Podhivoloff)白系ロシア系・サンドグレン電気店)が入口に立っている四角頭の警備兵に私たちの用件を通訳し、陸軍省の負傷兵を外交部に運びたいと申し入れました。彼は中に入り、最高司令官に伝えたのですが、返事は2、3日待てと帰されました。
私が安全区委員会の本部に帰ると、多くの負傷兵が待っていました。私は負傷兵を二列に並ばせて、外交部のある兵站病院へ連れて行こうとしました。病院へ行く車の中で高級将校が、私が負傷兵を何処へ連れていくのかといかぶり、口論となりました。私は負傷兵を決して連れ去る気持ちはないと弁解しました。日本軍の士官は私たちを口汚く罵り、通訳のコーラに、もう二度とアメリカ人を連れてくるな、アメリカ人は皆腹黒い奴だと怒鳴っていました。
敗残兵を集団で虐殺
12月19日 日曜日
先週の恐ろしさは、いままでに経験したことがないようなものでした。日本軍がこんなに野蛮だとは思いもしませんでした。殺人と凶暴の一週間でした。昔、トルコ人に殺されたアルメニア人の惨事よりもさらに酷いものです。囚人は見つけられ次第すぐに殺され、そればかりか一般市民も年齢におかまいなしに被害に遭っています。町の南から北の揚子江沿岸にいたるまで死体がゴロゴロ転がっています。一昨日(12月17日)も私たちの家のそばで中国人が殺されました。
中国人は臆病で脅かされるとすぐに走り出してしまいます。その男も日本軍を見るや走り出し、竹の垣根の向こう側の見えない所で殺されたのです。コーラがあとで現場を見に行ったのですが、頭を殴られ、二人の日本兵はまるで鼠でも殺したように笑いながら煙草を吹かしていたそうです。
知り合いのチェンという中国人の16歳になる長男が、2日前(12月17日)500人位の中国人と家の前から日本軍に連れて行かれたのですが、もう生きていることはないだろうとチェンは泣き暮れています。その中に草鞋峡付近のクリスチャンが11名含まれていますが、その後音信がありません。昨日着いたばかりの、田中副領事(田中末男)に彼らの名前を書いたものを渡しておいたのですが…。
数日前(12月15日)、私の学校のコックが商店主の息子と池で米を洗っていると100名位の中国人がロープで後ろ手に縛られて連行されるのを見たのです。二人もまた日本兵に見つかり最後尾に繋がれ、草鞋峡(揚子江岸)の方へ連れて行かれたというのです。草鞋峡着くまでに一人づつ銃殺されていきましたが、幸いなことに二人は最後尾だったので日本兵に見つからないように歯でロープの結び目を解き排水溝に身を隠し、そこで二晩過ごしてやっと逃げ延びたところで、町へ帰る途中酒樽を略奪してきた日本兵とばったり出くわしました。日本兵は何も知らず二人に酒樽を担がせ町に運ぶように言いつけたのです。二人は喜んで酒樽を担いで無事に市内に戻ることができたのです。
私の運転手の二人の弟が、チェンの息子を連れ去った同じ日本軍のグループに連れて行かれました。私は運転手の奥さんと出て行き、(運転手は出て行かなかったが無理もない、出て行けば彼も連れていかれただろう)、奥さんは二人の義理の弟が縛られているのを見て、軍曹とおぼしき兵士に指を二本立て、”二人は兵士じゃない!”お叫びました。日本兵は、奥さんに”どけっ!”とだけ言い残して二人を連れて行きました。その時、チェンの息子がその中にいることを知っていたら、私はすぐさま指揮官に抗議に行っていたと思います。二日前の15日にも三牌楼のクリスチャンが路上で殺され、火曜日(12月14日)の晩にも4人一組に縛られて連れて行かれるのを見ました。夕暮れでよくわかりませんが5000人から6000人はいたと思います。もう何人殺されたか誰も数えませんが、2万人はいるでしょう。
遅すぎた憲兵の配置
この一週間、日本兵は南京市内のあらゆるものを略奪しています。ドイツ大使館の車を盗み、アメリカ大使館にも何度も侵入して追っ払われたところです。兵士だけではありません。将校も同じです。昨日(12月18日)のことですが、私の家の車庫に兵士に混じって非軍人の浪人が二人、車を盗みに侵入したのです。私が、総領事が張り付けた紙を見せると、浪人のひとりが流暢な英語でパスポートを見せろというので差し出すと、”ありがとう”と英語で礼を言って頭を下げ帰っていきました。日本兵の略奪は続き、南京市民の乏しい食糧まで奪い取って行きました。
ーーー
マギー牧師の東京裁判証言
「最初は殆ど見掛けませんでした。併し多分多少は居ったことと思いますが、日本の大使館に行きまして、日本の大使館が段々多数の人を連れて来るようになったのであります。それは努力して居ったのであります。そしてそれを安全地帯の付近に番兵として立たそうと云う努力を続けたのであります。之に依り最初は非常に元気付けられました。所が段々それが一つの笑い話になっていったと云うのでありますが、その事実は、其う云う番人が、先に申しましたような兵隊不法行為をやるようになったからであります」
ーーー
最も恐ろしいことは婦女暴行でした
でも、いちばん恐ろしいことは婦女暴行です。これは想像もつかない方法で行われています。町は女を追いかけ回す日本兵でいっぱいで中国の一般市民が住んでいると所はいうまでもなく、我々がいる避難民地区にいたるまで、日本兵は何度も家に入り込み、僅かな物まで盗んでいきます。この強盗団に市民は毎日おびやかされ、女たちは戦々恐々として震えて暮らしています。数日前、通りの向こうの寺の僧侶が来て日本兵が二人の尼を連れ去ったため、私の所で女性たちを匿って欲しいと逃げ込んで来ました。家の中は女性でいっぱいになりしばらく風呂場にも女性を匿ったりしました。昨晩も日本兵が覗き込んで女を連れ去ろうとしましたが、大勢の女たちが金切り声上げたため、日本兵はしぶしぶ帰っていきました。
金陵大学には4000人もの女学生がいます。すでに12名の学生が連れ去られたということです。数日前も私がEと一緒に歩いていると、一人の女性がば泣きながら私たちの後を追ってきて、いま日本兵に呼び止められたと助けを求めてきました。私たちは彼女を女たちと同じ所に匿いました。翌朝彼女から話を聞くと四人の男がやって来て28歳の主人と3ヶ月の息子を置き去りにし、彼女を車に押し込めて2、3マイル走ったところで、車のなかで彼女をレイプしたのです。彼らは盗んできた食料を彼女に与え、車ももとの所へ返すと彼女を解放したそうです。そこで私たちと出会ったのだそうです。
翌朝、病院に連れて行き、ウィルソン先生(Dr. Robert O. Wilson/鼓楼病院)に診てもらいました。
昨日(12月18日)の午後、私はドイツ人のスパーリング(Eduard Sperling/上海保険公司)氏と何軒かの家を見て回りましたが、どの家も女が犯されていない家はなく、ある一軒では一人の婦人が床に臥して泣いていました。話をきくと、たったいま男に犯されたところだといういうのです。私たちは男を捜し出そうと三階の部屋の前まで来ると、なかで人の気配がするので私は英語とドイツ語で”ドアを開けてください”と叫びました。なかにいた日本兵はドアを開けると階段を駈け降りて逃げて行きました。私はその男の背中に、”野獣!”と叫んでやったのです。私はこのことを日本総領事に話しました。領事は、”仕方のないことです”とたった一言だけ言いました。また、朝日新聞社の人にも話しましたが、彼もまた、”仕方のないことです”とだけしか言いませんでした。これがいま日本人が日本兵を見る共通した感想なのです。
・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801)
twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます