真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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パール判事

2016年05月14日 | 国際・政治

 1997年、京都東山の護国神社に「パール博士顕彰碑」が建立されたといいます。京都を訪れた際、嵯峨野の景色を眺めながら、「出来たら余生をこういうところで送りたい」と漏らしたことが発端であったようです。パール博士顕彰碑建立委員会の委員長は、戦後も政治経済界で活躍し「昭和の参謀」と呼ばれた元関東軍参謀、瀬島龍三でした。その後、靖国神社の境内にも「パール顕彰碑」が建立されたことから、戦後の日本で、パールの「東京裁判の被告は全員無罪」という意見書(いわゆる「パール判決書」)を高く評価する考え方が、脈々と受け継がれていることがわかります。

 しかしながら、「パール判事」中島岳志(白水社)の序章には、下記のように、その評価の仕方の問題を象徴するような記述があります。改めて、大事なことは、パールの「真意」を受け継ぐことであると思います。そう言う意味で、パールの全体像にせまる「パール判事」中島岳志(白水社)は貴重な一冊だと思い、特に見逃してはならないと思う部分の一部を、抜粋しました。日本には、パールの長男、プロサント・パールを憤らせるような、ご都合主義的なパールの政治的利用があることを悲しく思います。

 「パール判事の日本無罪論」(小学館文庫)の著者、田中正明氏は、その「終わりに」のなかで、

世上、私の『日本無罪論』という題名が博士の真意をあやまり伝えるものであるかのごとき言説をなす者もいたが、さようならパーティにおける博士の日本国民に与えた最後の講演を聞き、私は本著に対してますます自信を得た。同時に、この博士の”真理の声”を一人でも多くの日本人が味読、心読くだされんことを重ねてお願いしたい。

と書いています。
 しかしながら、『パール判決書』のどこにも「日本が無罪である」というような記述はありません。 逆に、下記にも一つだけ(張作霖爆殺事件)抜粋しましたが、様々な事件で、日本軍の犯罪・国際法違反を認めているのです。一例をあげれば、『パール判決書』の「第六部 厳密なる意味における戦争犯罪」の「俘虜にたいする訴因」で「日本側は戦争犯罪を犯した」とはっきり書いています。(パル判決書 NO5)


 パールは、「日本」が「無罪」なのではなくて、東京裁判における被告人に対する検察側訴因の根幹ともいえる、「共同謀議」の事実や「命令」の証拠がなく、法的には被告人を有罪にできないということをくり返しているだけなのです。したがって、「パール判事の日本無罪論」という書名には問題があると思います。パールの講演を聞いて「自信を得た」という田中正明氏は、パールの講演内容を都合良く解釈したのではないかと、疑わざるを得ません。

 田中正明氏はなぜ、書名をパール自身の表現を利用して「パール判事の被告全員無罪論」などとしなかったのでしょうか。なぜ、読者が誤解するおそれのある「日本無罪論」にしたのでしょうか。

 パールはガンディーの「非暴力・不服従」による世界平和の構築を主張していたといいます。でも日本では、パールの意見書(いわゆる「パール判決書」)は、パールの意に反し、「大東亜戦争肯定論」につながるような主張に結びつけて語られがちなのではないでしょうか。田中正明氏はもちろんですが、パールの「被告人全員無罪」の主張をよく知る人たちは、なぜそのことに言及しないのでしょうか。同書に推薦のことばを寄せている小林よしのり氏は「本書は、第二次世界大戦終結後に行われた東京裁判(極東国際軍事裁判)の本質と、この裁判においてただ一人「被告人全員無罪」を主張した、インドのラダ・ビノード・パール判事の理念を最も簡潔、的確に伝えた一冊である」と書いていますが、私は頷くことができません。 そして、『共同研究 パル判決書』東京裁判研究会(講談社学術文庫)などを手にして、直接パールの主張に触れれば、とても頷くことができないのではないかと思うのです。

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                    序章 
箱根
 ・・・
 パール下中記念館。
 1975年、ラーダービノード・パールと下中彌三郎を記念して建てられた記念館で、二人の遺品や解説パネルが展示されている。管理・運営は、平凡社創業者の下中を記念して設立された下中財団が行っている。
 周りの様子を伺いながら、私はおそるおそる建物に近づいていった。静けさが一帯を包みこんでおり、人気が全くない。
 事前に連絡しておいたからか、入り口には鍵がかかっていない。
 不審に思いながらも、そっとドアを開け、中に入った。
 「すみません。」
 館内に私の声が響き渡る。
 しかし、誰も出てこない。どうやら常駐の受付係や管理人はいないようだ。
 少し戸惑いながら館内を見渡すと、信じ難い光景が広がっていた。
 掃除やメンテナンスがなされた形跡は全くなく、ショーケースや手すりは、すっかり埃をかぶっている。照明は壊れ、床には落ち葉がたまっている。全体的にかび臭く、隙間風が冷たい。
 見学する人などほとんどいないのであろう。展示品は手入れされず、ひどく痛んでいる。写真にはカビが生え、展示プレートは剥がれ落ちている。
 「右派論壇で頻繁に取り上げられる人物の記念館がこんな状態なのは、いったいどういうことだろう?」
 私はしばしの間、呆然とそこに立ち尽くした。
───  ラーダービノード・パール(1886-1967)。
 東京裁判で被告人全員の無罪を説いたインド人裁判官として知られる。
 彼は法廷に提出した意見書(いわゆる「パール判決書」)で、東京裁判が依拠した「平和に対する罪」「人道に対する罪」が事後法であることを強調し、連合国による一方的な「勝者の裁き」を「報復のための興行に過ぎない」と批判した。
 この議論は「日本無罪論」と見なされ、しばしば「東京裁判史観」を批判する論客によって引用される。中には「大東亜戦争肯定論」の論拠として持ち出す論考もあり、近年の歴史観論争に頻繁に登場する重要な存在となっている。
 ・・・
 「このような『パール判決書』のご都合主義的な利用が、パール下中記念館の荒廃につながっているのではないか。」
 私は、館内で棒立ちになりながら、強く思った。
 目の前に置かれたパールの遺品は、無残な姿に変わり果てている。写真の一部は、何が写っているのか判別できないほど、朽ち果てている。史料はかなりの部分が抜き盗られ、散逸してしまっている。 「これではパールは浮かばれない」
 私は強い憤りを感じながら、館内を見て廻った。そして、「今こそパールの思想や主張の全体像を提示しなければならない」と思った。
 本書の執筆は、このときから始まった。
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                第三章 パール判決書 
張作霖爆殺事件
 さて、まず最初に問題となるのが、1928年6月4日に起こった「張作霖爆殺事件」である。この事件は、奉天派軍閥の首領・張作霖が、関東軍高級参謀・河本大作の陰謀によって暗殺された事件である。河本は、張作霖爆殺の混乱に乗じて関東軍による満州制圧を企てたが、この計画は関東軍参謀に周知されておらず、また奉天軍側も挑発に乗らなかったため、失敗に終わった。
 検察は、この事件から日本の指導者たちによる「全面的共同謀議」が始まり、「大東亜」戦争にいたるまで、一貫して侵略戦争の計画、準備が行われたと主張した。満州事変や日中戦争、「大東亜」戦争は、彼らによる、綿密な「共同謀議」によって引き起こされた「犯罪」であると、検察側は見なしたのである。
 パールは、このような見方に真っ向から批判を加えた。
 彼は、張作霖爆殺事件を「たんに張作霖の殺害が関東軍将校の一団によって計画され実行されたとという一事だけである」とし、「この計画もしくは陰謀を、訴追されている共同謀議と連繋づけるものは絶対になにもない」と断定したのである。
 パールは次のように言う。

 殺害を計画し、そしてそれを実行することは、それ自身がたしかに問責できることである。しかし現在われわれは、被告のいずれをも、殺人という卑怯な行為のために裁判しているのではない。われわれの前に提起された本件に関係ある問題と、この物語との間に、どのような関係があるかを、調べなければならないのである。[東京裁判研究会1984a:700ー701]

 パールは、ここで明確に張作霖爆殺事件を「殺人という卑怯な行為」と断罪している。そして、河本をはじめとする事件の実行者は、殺人犯として「問責できる」と説いている。しかし、彼は陸軍の将校が卑劣な殺人事件を犯したことと、それが指導者の「共同謀議」であるかは別問題として、その関連性を証明する必要性を訴えている。
 そして、パールの見るところ、この殺人は「共同謀議」によって企画されたものではない。事件はあくまでも限られた人間によって企画・実行されたものであり、その背景に指導者たちによる「共同謀議」があったと見なすことはできない。確かに、関東軍の多くの軍人が「満州占領を目標として」いたことは事実である。しかし、この事件が「共同謀議」によって企画され、実行されたという証拠は提出されていない。
 ・・・
 パ-ル曰く、張作霖爆殺事件は、間違いなく「無謀でまた卑劣である」この点において、河本一派の行為は非難されるべきであり、殺人事件として問責されるべきである。しかし、この事件と「共同謀議」を関連させて論じることは、難しい。関連性のない事件を「長い物語」の一部として無理につなぎ合わせ、「平和に対する罪」に問うことはできない。
 ここで確認しておきたいことは、パールはこの事件を「共同謀議」の一部ではないと主張しているだけで、その行為を肯定してなどいないということである。このことを読み間違えて「パールは、日本軍に問題はなかったと主張している」と解釈してはならない。
 これは、この後のパールの記述を読む上でも、極めて重要なポイントである。
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                第六章 晩年
最後のメッセージ
 ・・・
 パールはインドに帰国するにあたり、来日中に広島・長崎を訪問することが出来なかったことを悔やんでいた。そして、滞日中に受けた原稿料や見舞金を、原爆ドーム保存強化費として寄付したい旨を申し出た。さらに、彼はインドに帰国後、「広島・長崎の友へ」という文章を書き、日本へ送った。この文章は10月26日の『中国新聞』に掲載され、広島市民に衝撃を与えた。
 彼は原爆投下の悲劇を目撃した後の世界が何も進化していないことを直視し、その問題点を鋭く指摘する。
 彼は言う。

”悲しいことに、あれだけ広島と長崎が苦しんだあとといえども、人類はそれ以前と同様に分裂の様相を示しています。今もあれ以前同様、世界はばらばらの破片にくだかれたままの姿であり、なにか新しい全体性を求めるなどということは、以前にもまして希薄のようです。(中略)世界は人類の統一について合理的な思想にはまだ少しも目ざめているようには見えません。あらゆる国家主義の利害の争いは高まるとも減ってはいません。(中略)至る所で国の指導者や強国の最高方針決定者たちは、国家民族の運命を、あいも変わらず残酷にもてあそんでいるのです。”
                                         [パール博士歓迎事務局1966:109]

 パールは、広島・長崎の市民に対してもたじろがない。むしろ、厳しい現実をしっかり見据えることこそが重要であると説いた。
 彼は、さらに厳しい言葉を投げかける。

 ”見通しはまことに暗い限りです。どんなおそろしい目も、またみなさんが原爆のもとで苦しまれたほど大きな苦しみも、歴史の力をその行く道からそらせることはできないようにみえます。世界は永久的な平和の方向には大して進んでいないようです。広島と長崎の原爆投下は、ただ不吉な破壊の日を迎え入れたに過ぎないかに見えます。        
                                         [パール博士歓迎事務局1966:109]

 世界は広島・長崎の惨事に直面しながらも、平和構築の方向へは進まず、むしろ対立を深め軍事力を拡大させている。広島・長崎の被害は、ただ「不吉な破壊」がおこったという悲劇としてしか捉えられていない。パールが示す見通しは、全くもって暗い。
 彼は、最後に広島・長崎の市民に訴える。

 ”友人のみなさん、私があなたがた全部にとくにお願いしたいことは、人類の未来に、そしてあなたがた自身の将来に、あなたがたが責任の一部になっているということを忘れないでいただきたいのです。”

 被爆者は単なる被害者ではなく、これからの新しい世界を構築する積極的な主体でなければならない。広島・長崎の市民こそが、世界の統一と恒久平和のための責任を担わなければならない。
 彼のメッセージは、最後まで厳格で鋭いものだった。
 そしてこの文章が、彼が公的に残した最後の論考となった。
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                   終章 
息子の怒り
 1988年6月6日。
 インドを代表する新聞『インディアン・エクスプレス』紙に「父の名のもとに裏切られた息子」という記事が掲載された。
 この「息子」の名前は、プロサント・パール。1966年の来日時に同行したパールの長男である。
 記事は、次のように始まる。

”今、一本の映画が東京で上映されている。戦中の日本の総理大臣・東条英機の生涯とその時代を描いたものだ。そして、この映画が、65歳のあるカルカッタ人の心を傷つけ、憤らせている。”

 東京で上映されている映画とは「プライド・運命の瞬間」のことである。
 プロサント・パールは、当初、映画関係者などから「パール判事とその判決がメインの映画を作りたい」という企画を提示されたという。晩年の父に付き添い、その熱い思いを聞いてきた彼は、「パール判事」の業績や考えを後世に伝えることを、自分の義務(ダルマ)と考えていた。そのため、日本から押し寄せてくる映画関係者を温かく迎え、父の想いをじっくりと伝えた。
 しかし、出来上がった映画は、東条英機の生涯が中心で、父とその判決は二次的な扱いだった。父の判決が、東条の人生を肯定するための都合のいい「脇役」として利用されていることに、彼は納得がいかなかった。
 彼は当初の企画が変更されたことなど聞いておらず、すぐさま抗議の手紙を書いた。
 日本側窓口の田中正明から返ってきた手紙は「大衆へのアピールを映画会社が優先した」というものだった。プロサント・パールにとって、それは「屈辱的な裏切り行為」以外の何ものでもなかった。
[Iindian Express 1998.6.6]。
 彼は、父が中心の映画と、東条が中心の映画では、その性質が全く異なることを見抜いていた。父は日本の戦争を擁護しようとしたのではなく、一法学者として「法の正義」を守ろうとしたのだということを、息子である彼は強く訴えたかったのだろう。耳障りのいいことばかりを口にし、それをあっさりと反故にする日本人を、彼はこの時ばかりは許すことができなかった。父が渾身の力を振りしぼってまとめ上げた判決書を、自分の政治的立場を補完する材料として利用しようとする者への怒りは、きわめて激しかった。
 インドの新聞では、日本に対する好意的な記事が目立って多い。そのような中で、プロサント・パールの悲痛な訴えは、多くのインド人に衝撃を与えた。

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