アサド政権の恐ろしさや惨酷さを印象づけるような報道が、朝日新聞でまだ続いています。私は、日本とシリアの一般の人々の交流がほとんどなかった国に関し、これほど熱心にその恐ろしさや惨酷さを伝える報道が続く理由は何なのか、と考えてしまいます。
恐ろしい強権政治や抑圧政治の実態、目を背けたくなるような惨酷な拷問や収容所の様子、強制失踪、麻薬密造、こんなことをする独裁国家が本当に存在するのか、と思うような報道が朝日新聞で続いていましたが、さらに、その後「化学兵器疑惑」の報道がなされたのです。
化学兵器で妻子を亡くした住民の証言が、その悲惨さや惨酷さを伝えています。でも、朝日新聞の記事には、アサド政権が化学兵器を使用したとする文章はありません。断定はしていないのです。ただ、記事全文を読むと、アサド政権が化学兵器を使用して多くの住民を殺害し、苦しめたとしか思えない構成になっているのです。
それは、化学兵器の使用に関してだけではありません。拷問や麻薬密造も、アサド政権がやったという確定的な証拠は示されていないのです。
またそれらがすべてアサド政権の仕業だとしても、恐ろしい拷問や惨酷な化学兵器使用の対象はどういう組織や人物で、なぜそういう酷いことを続けてきたのかは示されていません。それは、仲裁や和解を想定していないということだろう、と私は思います。だから私は、シリアに関する日本のメディアの報道目的は、アメリカの戦略にしたがって、アサド大統領を悪魔のような人物として、読者や視聴者に印象づけることなのではないかと思うのです。アサド政権は叩き潰すべき対象であり、仲裁や和解を働きかける対象ではなかったということです。アサド大統領がロシアに亡命したこととも、そうした記事が続く一因ではないかと思います。
そして、それがアメリカの戦略に基づくものであることは、イランの最高指導者・ハメネイ氏が、アメリカ合州国とイスラエルが、シリアのアサド元大統領の打倒を画策したと、下記のように非難したことと関連するのです。
“There should be no doubt that what happened in Syria was the result of a joint American-Zionist plot,” said Khamenei, addressing the fall of al-Assad for the first time in a speech delivered in Tehran on Wednesday.
「シリアで起こったことは、アメリカとシオニストの共同陰謀の結果であったことに疑いの余地はない」とハメネイは述べ、水曜日にテヘランで行われた演説で初めてアル・アサドの崩壊に言及した。
また、アサド政権打倒に大きな影響力を発揮したというクルドの武装組織(YPG)をアメリカが支援してきたことや、シリア北東部のクルド人支配地域に米軍基地を置き、支援部隊のみならず、特殊部隊も駐留させていたいう事実が、アサド政権崩壊にアメリカが関わったということを示していると思います。だから私は、アメリカの支援が、単なる支援ではなく、「謀略」を含む支援であったことを疑うのです。
そして、「謀略」を裏づけるかのような事実の数々が、国枝昌樹氏によって、「報道されない中東の真実」(朝日新聞出版)のなかで明らかにされているのです。下記は、その一部です。アサド政権
2011年3月から4月にかけてシリアのダラアでの民衆蜂起で、多数の政府側要員が殺されているというのです。だから西側諸国での「平和的民衆蜂起説」は、再検討が必要だといいます。
社会主義政権や反米政権の転覆・崩壊には、いつもアメリカが関わっており、時に「謀略」を含む支援をしてきたことは、中南米やアフリカの歴史をふり返ればわかるのではないかと思います。
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第一章 シリア問題の過去・現在・未来
平和的民衆蜂起説の再検討
2014年5月7日、オックスフォード大学セント・アンソニー・カレッジの上級研究者シャルミヌ・ナルワーニは「シリア:隠された虐殺」とする記事を発表し、その中で2011年3月から4月にかけてダラアでの民衆蜂起で多数の政府側要員が殺されていた事実を詳細に報じている。
シリアの社会は部族社会であり、特に国境地帯では1916年にイギリスとフランスの間で締結されたサイクス・ピコ秘密協定で一方的にひかれた人為的な国境線をまたいで部族が存在しており、現在も部族内の結束を軸とした密輸活動が幅を利かせていることは周知の事実であり、しかも多くの場合、彼らが武器を所持する武装密輸団であることも知られている。また、ムスリム同胞団と密接な関係を有し、エジプトやリビアでの騒動に深く関与してきているカタールのカラダウィ導師による扇動的な言動と活動はよく知られ、同導師とカタール首長との深く緊密な関係から、アサド政権に敵対姿勢を鮮明にするカタール首相グループと同導師との間で意見調整が行われていたことは充分に予想できる。 一方、アサド大統領の側近であるミグダード外務副大臣はシリアの治安当局に対しても影響力を行使できている人物で、治安分野の情報に精通し、単なる憶測で話す人物ではない。最後に、ダラアの少年たちと親たちが反体制派のメディアに登場していないことは、前述の政府関係者が指摘する通りである。
他方、ダラアで民衆蜂起があった当時に国際メディアが報道した際の情報源は、いずれもが外国から電話取材を受けたダラアの「住民」、匿名を希望する「活動家」、あるいは現場にいたと説明される「人権活動家」などであり、彼らはいずれも人物が特定されず、情報源としての信憑性を吟味しようにも吟味できない中で、彼らの発言をもとに危機感あふれる大量の記事が生まれ、世界に配布された。
さらに、当時おびただしい量の動画がユーチューブ、フェイスブック、あるいはツイッターに載り、メディアが積極的に利用して報道したが、ほとんどはその信憑性を吟味されることなく利用された。写真も同様である。アルジャジーラ衛星TV放送局の本部にはシリアに関する動画や写真、それにニュースをモニターする部署が設けられ、未経験の若年職員が四六時中詰めて関心を引く動画や写真があれば信憑性を検討することなく即座に報道部に持ち込み報道されていた。これはしばらく経過してからのことであるが、報道される動画や写真にあまりにも操作が加えられているので、シリアでは「写真と動画、ただしシリアにあらず」というサイトができて数多くの事例が報告されている。
こうした結果描きだされる2011年3月18日以来の事態については民衆の平和的蜂起に対して政府側が治安軍を動員して実力行使に出て、その際の発泡で犠牲者が生まれたというシナリオが描かれた。だが、政府側関係者の証言を加味して描き直せば落書きをとがめられた子どもたちの事件は深刻なものではなく、少なくともデモを煽ろうとする外部からの働きかけは行われ、ダラアの部族で昔から継続的に行われてきていた密輸活動と部族社会における根強い武器所有の伝統を考えれば、ダラアでの民衆蜂起が完全に自然発生的で平和的なデモであったという従来の理解は新たな視点から徹底的に検証し見直される必要がある。
アサド政権はダラアでの民衆蜂起についてカタールのカラダウィ導師の動きなどから、早いうちに民衆蜂起の裏にムスリム同胞団の存在を嗅ぎ取れるとして警戒していた。
過熱する民衆とメディア
ダラアでの民衆蜂起は収まる気配を見せない。民衆蜂起の動きは全国に拡散した。同時に、混乱を利用して犯罪者たの動きも活発化した。
政府では事態の収拾策として逮捕者たちの釈放を重ねるとともに、民衆の要求には正当なものがあるとして、2011年3月20日に大統領が人民議会で演説するに先立ち3月24日、大統領が2000年に就任して以来懸案となっていた非常事態令の再検討、政党の自由化法と報道の自由に関する新法の導入、さらに腐敗撲滅策の導入や法の支配の徹底化など政府のガバナンス改善を目指すことを明らかにし、加えてデモ隊に向けて治安部隊が実弾を発砲することを禁旨発表した。3月29日なージ・オトリ内閣は辞職した。翌日、アサド大統領は人民議会で演説し、現在シリアで起きている事態はイスラエルと対決するシリアの骨抜きを狙うイスラエルを頂点とし、これに協力する諸国、そして一部のシリア国民を手先として使って宗教宗派対立を起こそうとする謀略の一環であるとの理解を表明した。
この演説が終わると、米国政府はさっそく、陰謀説をかざすのは安易な責任逃れに過ぎず演説には内容がなかった。シリア国民はきっと落胆するに違いないとする談話を発表するのだった。アラブ世界では米国政府の声明は関心を持って報じられ、必ず反応がある。2日後の金曜日、ダマスカス市内では富裕層が住むかフル・スーサ地区に隣接する低所得層地区で数百人がデモを行って気勢を上げた。ホムス、ハマー、ダラア、バニヤス、ラタキア、カミシュリの各市、そしてダマスカス近郊のドゥーマ地区でも民衆が街路に出た。民衆、治安部隊双方に死者が出た。
衛星TV放送局アルジャジーラは4月3日、ラタキアではスンニー派とアラアウィ派の市民が民主化を求めてデモを行い、それを政府側が弾圧し、さらにハーフェズ・アサド大統領が権力を握った1970年代から不法に富を得ていたアサド一族に関係するシャッピーHとよばれる私兵グループがデモに襲いかかっているとする大がかりな報道を流した。
海港の町ラタキア市の住民の多くはスンニー派市民だが、周辺の山岳地帯には昔からアラウィ派の人々が多数住み、アサド家の出身地でもある。同市は歴史的にアラウィ派の影響が強い。シャッピーハは外国貿易に不法に携わって富を蓄積し、隠然とした影響力を振るう暴力的なグループで、背後にはハーフェズ・アサド大統領の弟ジャーミルとその関係者が存在すると広く言われてきた。シャッパーハ・グループはもっぱらラタキア市でその存在が語られ、騒動が長引くにつれて全国各地でシャッピーハの活動が悪評とともに語られていいたが、従来シャッピーハは他の地方で話題になっていなかった。
2011年4月10日にはバニヤス近郊で治安当局幹部2人を含む9人が移動中に急襲を受けて殺され、バニヤス市内と近郊で治安当局による大規模な捜査活動が行われた。13日、アルジャジーラは10日に治安当局に犠牲者が出ていたことによってはまったく言及することなく、治安当局がバニヤス市と近郊を強制捜査をして200人を逮捕したと大きく報道した。情報源は、現場と連絡があると称する、名前を報道されることを拒否する人権活動家であるとした。バニヤス事態はその後も不安定な状況で推移する。19日には民衆が街路に出て大規模なデモが行われた。
4月13日、シリア国営TVは逮捕されたテロ・グループ関係者たちの自白内容を放送した。その中でレバノンのサアド・ハリーリ首相派の国民会議議員との結びつきとムスリム同胞団との関係が詳細に語られた。レバノンのハリーリ派グループはこのニュースを事実無根であると否定した。4月15日にはダマスカスで初めてかなりの規模のデモが行われ、治安当局が催涙ガスなどを使って解散させた。また、このころユーチューブ上ではバニヤス近郊での取り締まりの際に、広場でうつ伏せにさせられた市民たちの頭や背中の上を治安軍兵士が踏みつけながら歩く様子が流れた。
2011年3月29日に総辞職したオトリ内閣の後継内閣が。4月16日に発足し、アサド大統領が閣議を主宰して次のように訓示した。
国民各階層、各グループとの対話の重視、腐敗の撲滅と安定した経済の維持発展、クルド人問題の解決、非常事態令の廃止と国際標準に応じた代替法令の緊急導入、改革を真摯に要求するデモと混乱をもたらすためのデモを区別するデモの原則自由に関する法令整備、新政党法の制定、地方自治体法、近代的なメディア法の導入、加えて新規法令を着実に実施できるだけの制度改革、腐敗汚職と戦う一環として公務員の財産公表制度の導入、入札過程における透明性の確保、行政改革の一環としてのコンピューター導入促進、税制改革、歳出の見直しと無駄の削減、政策決定過程の透明性強化とより広い関係者の意見反映制度導入、大臣の責任逃れ、隠れ蓑としての委員会設置の禁止、各省内における稟議制度の見直し、公共の利益と法制度が衝突する際の懸案解決に向けた非常措置として担当者レベルによる閣議への直接問題提起の許可制度導入、政策執行における短期集中的取り組みの推奨そして市民社会との協働が必要である。
そして最後にこう付け加えた。
大統領として自分が各閣僚の仕事ぶりに関心を払い、支援し、責任を求める立場であるが、今はとにかく閣僚の皆さんの支援に力を注ぐ。政府メンバーは国民に対するに、すべからくつつましく謙虚であってほしい。傲慢は許されない。
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