昭和天皇のお妃候補として噂されていた日本の皇族梨本宮守正の第一王女「梨本宮方子」は、日韓併合後のいわゆる「内鮮一体」の方針の流れの中で朝鮮「李王家世子」(朝鮮の皇太子)である李垠(イ・ウン)と結婚し「李方子(イ・バンジャ)」となった。明らかに政略結婚であったが、2人は励まし合い、助け合って様々な困難に対した。
彼女の著書「流れのままに」には、野蛮な政争の具として扱われる怒りを、懸命に押し殺しつつ生きた、皇族「李垠」と「方子」夫婦の思いが綴られている。日本の皇族に、単なる風評が情報として伝えられることはないであろうから、高宗皇帝の死や李垠・方子夫婦の子「晋」第一王子の死は、いずれも毒殺に違いない。しかしながら、彼女にはそれを追求したり明らかにしたりすることが許されず、戦後もその時の思いを「……」の中に込めてふり返るしかなかったのであろう、「流れのままに」で「……」が多用されている理由は、そんなところにあるのではないかと思う。
下記の「晋」の死に至る経過を読めば、素人でも、それが毒殺であろうことが想像される。下記は「流れのままに」李方子(啓佑社)から、そうしたことに関連した部分の記述を抜粋したものである。正しい歴史認識のために、そして、歴史の教訓として今後に生かすことができるように、今からでも高宗皇帝や晋の死の真実をきちんと明らかにしてほしいと思わざるを得ない。それが毒殺された2人に対するささやかな償いにもなるのではないかと思う。
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第3章
前途への不安
・・・
しかも、それから日ならずして、私は李太王様の薨去が、やはりご病死でなかったことを人づてに聞き、身も心も凍るおそろしさと、いうにいえない悲しみにうちひしがれてしまいました。
ご発病が伝えられた1月21日の前夜、李太王さまはごきげんよく側近の人々と昔語りに興じられたあと、夜もふけて、一同が退がったあと、お茶をめしあがってからご寝所へお引き取りになってまもなく急にお苦しみになり、そのままたちまち絶命されたとのこと。退位後もひそかに国力の挽回に腐心されていた李太王さまは、パリへ密使を送る計画をすすめられていたそうで、それがふたたび日本側に発覚したことから、総督府の密命を受けた侍医の安商鎬が、毒を盛ったのが真相だとか。また、
「日本の皇室から妃をいただければ、こんな喜ばしいことはない」
とおっしゃって、殿下と私の結婚に表面上は賛意を表しておられたものの、じつは殿下が9歳のおり、11歳になられる閔閨秀というお方を妃に内約されていたため、内心では必ずしもお喜びでなかったのです。おいたわしい最後となったのではないでしょうか。
毒殺、陰謀───
もはや前途への不安は漠然としたものではなく、私ははっきりと、行く手に立ちふさがっている多難と、それにともなう危険をさえも、覚悟しなければなりませんでした。みずから求めた道でなくても、すでに私の運命は定められていて、どうのがれようもないのです。
けれども、
「私だけではないのだから……」
立場はちがっても、殿下もおなじお身の上なのだと思うと、ようやく勇気もわき、これからの苦難の道を共に歩むお方をしのんで、思いは遠く、まだ見ぬ京城の空にとんでいきました。
しかし、事態はさらに悪化することになってしまったのです。李太王さまの死を毒殺と知った民衆は、これを発火点として、併合への根強い反感を爆発させ、ご葬儀2日前の3月1日を期して
「祖国朝鮮を日本の帝国主義から解放しよう。独立朝鮮万歳!」
と、全鮮一斉に蜂起しました。これがいわゆる「万歳事件」と名づけられている独立運動で、武力をもたないこの人々の抵抗運動は、ただちに鎮圧されたとはいえ、激しい対立反抗の現れをまざまざと示していました。
殿下と私との結婚についても、梨本宮家あてに発信人不明の反対の電話や電報が殺到し、殿下のほうへは、前々から猛反対があったことを知りました。
動乱の中で揺れ動く殿下と私の立場を思うとき、一生をこうした波乱の中に生きていくふたりの姿が目に見えるようで、「日鮮融和のためになるなら」という気負いも、ともすれば崩れがちでした。
「しっかりしなければ……」
と、自分をはげましてみても、相つぐ不祥事に直面して、年若い私にはわれながらおぼつかなく、消え入るようなたよりなさに思われてなりませんでした。
3月3日、李太王さまの国葬の日は、お写真を飾り、黙祷をして、終日、悲しく複雑な思いで部屋にこもっていました。
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第5章
突然訪れた晋の死
・・・
殿下は軽く、けれど満足そうに、笑い声をたてられました。
「晋にも、やがてもの心つくようになりましたら、このたびの帰国のことは、よくよく話しきかせてやろうと思います」
「そうだね、あの小さな大礼服は、大きくなった晋にとっていい思い出となるだろう」
殿下にも、私にも、紗の桃色の小さい大礼服を手に、目をかがやかして話に聞き入る晋の姿が、いまから目に見えるようでした。
「ただ、父上さま母上さまに若宮をお目にかけられないのが……」
「私もそれが残念だ。どんなにか喜んでいただけただろうに……」
好意と愛情につつまれた毎日をふりかえるにつけても、東京を立つまえに、私の身辺の危険を心配する空気があって、東京からつれてきたお付きの者も、はじめのうちは食べものなど、それこそ毒味までする気のつかいようだったのですが、なにか申しわけないような気がして、心がとがめられてなりませんでした。
滞在中の朝夕に、閔姫さまのことも決して思わなかったわけではありませんが、私には関わりのないこととして、心をそらすようにしてきました。一刷きの雲のように、それだけが心のどこかにわだかまっているとはいえ、初の帰国がよい思い出だけでつづられるのを、感謝したい気持ちでいっぱいでした。
やがて、車はすべるように石造殿へ到着、その車がまだ停車しきらないうちに、つぶてのように車窓へ体当たりしてきた桜井御用取扱が、ほとんど半狂乱になって、
「若宮さまの容体が!」
ついいましがたより、ただならぬごようすで……というのを、みなまでは聞かず、殿下も私も、無我夢中で晋のもとへかけつけました。私たちが晩餐会へ出る直前まで、あんなに機嫌がよくて、なにごともなかったしんが、息づかいも苦しげに、青緑色のものを吐きつづけ、泣き声もうつろなのを、ひと目みるなり、ハッと思い当たらずにはいられませんでした。出発前の悪い予感がやはり適中したことに、おののきながらも、気をとり直して、ただちに随行してきた小山典医を呼び、総督府病院からも志賀院長、小児科医長が来診されました。
「急性消化不良かと思います」
との診断で、応急の処置がとられましたが、ひと晩じゅう泣きつづけ、翌9日の朝があけても、もち直すどころか、ときどきチョコレート色のかたまりのようなものを吐いて、刻々と悪化していくさまが目に見えるようでした。
「原因は牛乳だと思います」
母乳のほかに、少量の牛乳を与えていました。いい粉ミルクがない時代でしたから、起こり得ることだとしてもこうも突然に、こうも悪性にやってくるものでしょうか。しかも、京城を立つ前夜になって……。万一の場合を考えての細心の警戒が、最後にきて緩んだのを、まるで狙っていたかのような発病……。それを、どう受けとめればいいのか……。
東京から急ぎ招いた帝大の三輪博士もまにあわずに、5月11日午後3時15分、ついに若宮は、はかなく帰らぬ人となってしまいました。
石造殿西側の大きなベットに、小さな愛(かな)しいむくろを残して、晋の魂は神のもとへのぼっていったのです。父母にいつくしまれたのもわずかな月日で、何も罪のないに、日本人の血がまじっているというそのことのために、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子……。もし父王さまが殺された仇が、この子の上に向けられたというなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか……。
冷たいなきがらを抱いて、無限の悲しみを泣きもだえたその日の夕方、ひどい雷鳴がとどろいたことを、幾歳月へだてたいまなお耳底(じてい)に聞くことができます。
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彼女の著書「流れのままに」には、野蛮な政争の具として扱われる怒りを、懸命に押し殺しつつ生きた、皇族「李垠」と「方子」夫婦の思いが綴られている。日本の皇族に、単なる風評が情報として伝えられることはないであろうから、高宗皇帝の死や李垠・方子夫婦の子「晋」第一王子の死は、いずれも毒殺に違いない。しかしながら、彼女にはそれを追求したり明らかにしたりすることが許されず、戦後もその時の思いを「……」の中に込めてふり返るしかなかったのであろう、「流れのままに」で「……」が多用されている理由は、そんなところにあるのではないかと思う。
下記の「晋」の死に至る経過を読めば、素人でも、それが毒殺であろうことが想像される。下記は「流れのままに」李方子(啓佑社)から、そうしたことに関連した部分の記述を抜粋したものである。正しい歴史認識のために、そして、歴史の教訓として今後に生かすことができるように、今からでも高宗皇帝や晋の死の真実をきちんと明らかにしてほしいと思わざるを得ない。それが毒殺された2人に対するささやかな償いにもなるのではないかと思う。
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第3章
前途への不安
・・・
しかも、それから日ならずして、私は李太王様の薨去が、やはりご病死でなかったことを人づてに聞き、身も心も凍るおそろしさと、いうにいえない悲しみにうちひしがれてしまいました。
ご発病が伝えられた1月21日の前夜、李太王さまはごきげんよく側近の人々と昔語りに興じられたあと、夜もふけて、一同が退がったあと、お茶をめしあがってからご寝所へお引き取りになってまもなく急にお苦しみになり、そのままたちまち絶命されたとのこと。退位後もひそかに国力の挽回に腐心されていた李太王さまは、パリへ密使を送る計画をすすめられていたそうで、それがふたたび日本側に発覚したことから、総督府の密命を受けた侍医の安商鎬が、毒を盛ったのが真相だとか。また、
「日本の皇室から妃をいただければ、こんな喜ばしいことはない」
とおっしゃって、殿下と私の結婚に表面上は賛意を表しておられたものの、じつは殿下が9歳のおり、11歳になられる閔閨秀というお方を妃に内約されていたため、内心では必ずしもお喜びでなかったのです。おいたわしい最後となったのではないでしょうか。
毒殺、陰謀───
もはや前途への不安は漠然としたものではなく、私ははっきりと、行く手に立ちふさがっている多難と、それにともなう危険をさえも、覚悟しなければなりませんでした。みずから求めた道でなくても、すでに私の運命は定められていて、どうのがれようもないのです。
けれども、
「私だけではないのだから……」
立場はちがっても、殿下もおなじお身の上なのだと思うと、ようやく勇気もわき、これからの苦難の道を共に歩むお方をしのんで、思いは遠く、まだ見ぬ京城の空にとんでいきました。
しかし、事態はさらに悪化することになってしまったのです。李太王さまの死を毒殺と知った民衆は、これを発火点として、併合への根強い反感を爆発させ、ご葬儀2日前の3月1日を期して
「祖国朝鮮を日本の帝国主義から解放しよう。独立朝鮮万歳!」
と、全鮮一斉に蜂起しました。これがいわゆる「万歳事件」と名づけられている独立運動で、武力をもたないこの人々の抵抗運動は、ただちに鎮圧されたとはいえ、激しい対立反抗の現れをまざまざと示していました。
殿下と私との結婚についても、梨本宮家あてに発信人不明の反対の電話や電報が殺到し、殿下のほうへは、前々から猛反対があったことを知りました。
動乱の中で揺れ動く殿下と私の立場を思うとき、一生をこうした波乱の中に生きていくふたりの姿が目に見えるようで、「日鮮融和のためになるなら」という気負いも、ともすれば崩れがちでした。
「しっかりしなければ……」
と、自分をはげましてみても、相つぐ不祥事に直面して、年若い私にはわれながらおぼつかなく、消え入るようなたよりなさに思われてなりませんでした。
3月3日、李太王さまの国葬の日は、お写真を飾り、黙祷をして、終日、悲しく複雑な思いで部屋にこもっていました。
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第5章
突然訪れた晋の死
・・・
殿下は軽く、けれど満足そうに、笑い声をたてられました。
「晋にも、やがてもの心つくようになりましたら、このたびの帰国のことは、よくよく話しきかせてやろうと思います」
「そうだね、あの小さな大礼服は、大きくなった晋にとっていい思い出となるだろう」
殿下にも、私にも、紗の桃色の小さい大礼服を手に、目をかがやかして話に聞き入る晋の姿が、いまから目に見えるようでした。
「ただ、父上さま母上さまに若宮をお目にかけられないのが……」
「私もそれが残念だ。どんなにか喜んでいただけただろうに……」
好意と愛情につつまれた毎日をふりかえるにつけても、東京を立つまえに、私の身辺の危険を心配する空気があって、東京からつれてきたお付きの者も、はじめのうちは食べものなど、それこそ毒味までする気のつかいようだったのですが、なにか申しわけないような気がして、心がとがめられてなりませんでした。
滞在中の朝夕に、閔姫さまのことも決して思わなかったわけではありませんが、私には関わりのないこととして、心をそらすようにしてきました。一刷きの雲のように、それだけが心のどこかにわだかまっているとはいえ、初の帰国がよい思い出だけでつづられるのを、感謝したい気持ちでいっぱいでした。
やがて、車はすべるように石造殿へ到着、その車がまだ停車しきらないうちに、つぶてのように車窓へ体当たりしてきた桜井御用取扱が、ほとんど半狂乱になって、
「若宮さまの容体が!」
ついいましがたより、ただならぬごようすで……というのを、みなまでは聞かず、殿下も私も、無我夢中で晋のもとへかけつけました。私たちが晩餐会へ出る直前まで、あんなに機嫌がよくて、なにごともなかったしんが、息づかいも苦しげに、青緑色のものを吐きつづけ、泣き声もうつろなのを、ひと目みるなり、ハッと思い当たらずにはいられませんでした。出発前の悪い予感がやはり適中したことに、おののきながらも、気をとり直して、ただちに随行してきた小山典医を呼び、総督府病院からも志賀院長、小児科医長が来診されました。
「急性消化不良かと思います」
との診断で、応急の処置がとられましたが、ひと晩じゅう泣きつづけ、翌9日の朝があけても、もち直すどころか、ときどきチョコレート色のかたまりのようなものを吐いて、刻々と悪化していくさまが目に見えるようでした。
「原因は牛乳だと思います」
母乳のほかに、少量の牛乳を与えていました。いい粉ミルクがない時代でしたから、起こり得ることだとしてもこうも突然に、こうも悪性にやってくるものでしょうか。しかも、京城を立つ前夜になって……。万一の場合を考えての細心の警戒が、最後にきて緩んだのを、まるで狙っていたかのような発病……。それを、どう受けとめればいいのか……。
東京から急ぎ招いた帝大の三輪博士もまにあわずに、5月11日午後3時15分、ついに若宮は、はかなく帰らぬ人となってしまいました。
石造殿西側の大きなベットに、小さな愛(かな)しいむくろを残して、晋の魂は神のもとへのぼっていったのです。父母にいつくしまれたのもわずかな月日で、何も罪のないに、日本人の血がまじっているというそのことのために、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子……。もし父王さまが殺された仇が、この子の上に向けられたというなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか……。
冷たいなきがらを抱いて、無限の悲しみを泣きもだえたその日の夕方、ひどい雷鳴がとどろいたことを、幾歳月へだてたいまなお耳底(じてい)に聞くことができます。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
ちょっと、おつきの人にも腹が立ちます。何を飲ませたんでしょうね。)本当におかわいそうでした。
詳しく教えて頂いて、有難うございました。
わざわざ、コメントをありがとうございました。あってはならないこと、そして忘れてはならないことだと思っています。