真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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『回想 本島等』 NO3

2016年06月16日 | 国際・政治

 2016年5月27日にオバマアメリカ大統領が、現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問するにあたって、日米のメディアが、それぞれアメリカの原爆投下について、大統領の「謝罪」問題を取り上げました。

 様々な議論がありましたが、「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)には、本島等元長崎市長が、このアメリカの原爆投下を”「赦す」と言わなければならない”と主張していたことや、その考え方について触れた論考があります。

 菅原潤(元長崎大学教授・日本大学教授)が、『原子野の「ヨブ記」』に収められた無名の男性の証言から、本島等元長崎市長が、同じカトリック信者である永井隆(被爆医師)の「浦上燔祭説」を読み解く鍵を見出したことを紹介し、”本島等による「浦上燔祭説」の解釈をめぐる一考察”を書いているのです。

 「浦上燔祭説」というのは、1945年11月23日、原子爆弾死者合同葬の弔辞で、永井隆が展開したカトリック信徒としての考え方です。被爆医師である永井隆は、弔辞で「燔祭」(ハンサイ=ホロコースト)という言葉を使いました。その「燔祭」という言葉に注目した高橋真司教授が、その弔辞を「浦上燔祭説」と呼んで批判して以降、永井隆が「弔辞」で展開した考え方が、「浦上燔祭説」と呼ばれるようになったということです。

 「原爆投下は仕方なかった」という発言で物議を醸し、アメリカの原爆投下を”「赦す」と言わなければならない”と主張した本島元長崎市長の考え方に関わる重要な文章であるとともに、永井隆医師を恩師の一人とする秋月辰一郎をして”「原爆の長崎」「長崎の永井」というイメージが全国を風靡した”といわしめるきっかけとなった「弔辞」なので、全文を含む関係部分を抜粋しました(資料1)。

 この弔辞は、永井隆の「長崎の鐘 マニラの悲劇」の中に出てくるのですが、そのなかの「浦上が選ばれて燔祭に供えられたることを感謝致します」には、正直私も驚き、どのように受け止めるべきか戸惑いました。
 でも、この弔辞の考え方は、傷つきながらも生き残ったカトリック信者を慰め、家族や親しい人たちを失った信者に生きる力を与えるためには、最も効果的な考え方ではないかとも思いました。
 ただ、それは戦争に関わる国際社会の歴史を振り返り、その歴史を社会科学的に分析したり考察したりする考え方はもちろん、被爆体験をもとに、非人道的な原爆投下にいたる戦争の原因やその責任を追及し、核のない世界平和を実現しようとする考え方とは、次元の異なる宗教的な考え方のように思いました。

永井隆の「長崎の鐘 マニラの悲劇」の全文が掲載されている「日本の原爆記録」(日本)図書センター)には、著者永井隆の「自序」がありますが、そこには、「原子爆弾について知りたいとだれも思っています。その場に居合わせていた私は、見たこと聞いたこと調べたこと感じたことをそのまま知らせたいと思いました」と書いています。また、「この本の目的は、原子爆弾の実相をひろく知らせ、人々に戦争をきらい平和を守る心を起こさせるにあります」とも書いています。

 確かに、政治的レベルで考えれば、永井の弔辞は、高橋教授がいうように日本の戦争指導層の責任を免除し、また、原子爆弾を投下したアメリカの責任をも免除してしまう内容のものだと思います。でも、永井は「人々に戦争をきらい平和を守る心を起こさせる」ことを意図して「長崎の鐘 マニラの悲劇」を書いたと言っていることを見逃すことはできません。永井の「弔辞」の内容と「人々に戦争をきらい平和を守る心を起こさせ」ようとする意図とは、直接つながるものではないからこそ、本島元長崎市長が、永井の「浦上燔祭説」をどのように読み解き、どのように受け継いでいるのかということを、理解したいと思いました。

 資料2は、永井を恩師の一人とする秋月辰一郎医師(被爆当時浦上第一病院、戦後、聖フランシスコ病院に改名)が、自身の著書『長崎原爆記』と『死の同心円』で展開したという「弔辞」に対する批判的な考え方が読みとれる文章の一部と、色紙に書き記された文章です。永井の「浦上燔祭説」を読み解く上で、踏まえておかなければならない文章だろうと考え、「長崎にあって哲学する・完」高橋真司(北樹出版)から抜粋しました。 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          「ナガサキ」から「フクシマ」へ
          ───  本島等による「浦上燔祭説」の解釈をめぐる一考察 ─── 
                                      菅原 潤 / 日本大学教授・元長崎大学教授
四 原爆投下を「赦す」ことの背景
 原爆投下を赦す発言としていちばんまとまっているのは、1996年の軍縮問題資料の冒頭にある次のような一節である。

”被爆者をはじめ日本人の心の中に原爆投下に対する限りない憎しみの念が燃えさかっていることだろうが、広島、長崎の被爆者たちは、被爆51年目の今日、アメリカの「原爆投下」を「赦す」とはっきり言わなければならない。
 被爆者をはじめ日本人は、心を冷静にして、アジア、太平洋戦争の侵略と加害の深い反省と謝罪を考えながら、原爆投下によって、無差別に大量虐殺された原爆の犠牲者に代わって、アメリカの原爆投下を「赦す」といわなければならない。 
 太平洋戦争は、日本の真珠湾攻撃にはじまり、広島、長崎の原爆投下によって終わった。日本人は、真珠湾の奇襲攻撃をアメリカに謝罪し、アメリカは日本への原爆投下を日本に謝罪しなければならない。
 日本人が謝罪しない限り、アメリカは原爆投下は正当であったと言い続けるだろう。
 私たち日本人が、原爆投下を赦さなければならない理由は、中国をはじめアジアの人たちが、日本の15年にわたる侵略と加害を「赦す。そして決して忘れない」と言っていることである。
日本人が中国はじめアジアの人たちに赦しを請い続ける条件は、アメリカに原爆投下の無差別、大量虐殺を赦すと言うことである。”

 注意しなければならないのは、アメリカによる原爆投下を「赦す」にあたって、日本による侵略戦争の被害者である、中国をはじめとするアジア諸国の立場を考慮していることである。先に触れたようにこの発言の4年前に本島は、在日韓国人の被爆者の補償を問題にしている。それゆえ本島は、被爆者の差別を決しておこなわないようにする考えから出発して、視点を次第に国内から国外へと向けていくうちに、国内の被爆者を特別視する見方を補正するようになり、それが「原爆の犠牲者に代わって、アメリカの原爆投下を「赦す」」という発言にいたったと考えられる。
・・・

五 いわゆる「浦上燔祭説」について

 それでは手短に、永井隆について紹介しておきたい。永井は1908年に松江市にて出生、長崎医科大学(現長崎大学医学部)に入学後は当初内科を専攻する予定だったが耳の病気が理由で断念し、放射線医療を専攻することとなった。戦時中はフィルム不足のため肉眼での透視によるX線検診を続けたことが原因で白血病にかかり、原爆投下の二ヶ月前の診断では余命3年と宣告された。
 1945年8月9日の原爆投下の際に永井は爆心地からわずか700メートルしか離れていない勤務先にいたが、昏睡状態におちいりながらも一命を取りとめた。けれども大学在学中に結婚した潜伏キリシタンの末裔である妻は死去し、そうしたなかで懸命な救護活動をおこなった。自らの療養のため設けた庵の如己堂にて死去したのは、1951年である。
 これから検討したい永井の発言は、原爆投下から約三ヶ月後の1945年11月23日におこなわれた、原子爆弾死者合同葬弔辞である。かなりの長文になるが、これまで激しい論争があった経緯を踏まえて、全文引用することとする。
ーーー 
 昭和20年8月9日午前10時30分ごろ大本営に於て戦争最高指導者会議が開かれ降伏か抗戦かを決定することになりました。世界に新しい平和をもたらすか、それとも人類を更に悲惨な血の戦乱におとし入れるか、運命の岐路に世界が立っていた時刻、即ち午前11時2分、一発の原子爆弾が吾が浦上に爆裂し、カトリック信者八千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の真夜半天主堂は突然火を発して炎上しましたが、これと全く時刻を同じうして大本営に於ては天皇陛下が終戦の聖断を下し給うたのでございます。8月15日終戦の大詔が発せられ世界あまねく平和の日を迎えたのでありますが、この日は聖母の被昇天の大祝日に当たっておりました。浦上天主堂が聖母に捧げられたものであることを想い起します。これらの事件の奇しき一致は果たして単なる偶然でありましょうか?それとも天主の妙なる摂理であありましょうか。

 日本の戦力に止めを刺すべき最後の原子爆弾は元来他の某都市に予定されてあったのが、その都市の上空は雲にとざされてあったため直接照準爆撃が出来ず、突然予定を変更して予備日標たりし長崎に落とすこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍事工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話を聞きました。もしもこれが事実であれば、米軍の飛行機は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来たられたものと解釈されないこともありますまい。

 終戦と浦上壊滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が祭壇に屠られ燃やされるべき潔き羔として選ばれたのではないでしょうか?
 智恵の木の実を盗んだアダムの罪と、弟を殺したカインの血とを承け伝えた人類が神の子でありながら偶像を信じ愛の掟にそむき、互いに憎しみ殺しあって喜んでいた此の大罪悪を終結し、平和を迎える為にはただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を捧げて神にお詫びをせねばならないでしょう。これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間始めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ終戦の聖断を下せ給うたのであります。

 信仰の自由なき日本に於て迫害の下4百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ神の祭壇に捧げられるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって今後更に戦禍を蒙る筈だった数千万の人々が救われたのであります。
 戦乱の闇まさに終り平和の光さし出ずる8月9日、此の天主堂の大前に焔をあげたる嗚呼大いなるかな燔祭よ! 悲しみの極みのうちにもそれをあな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎみたのでございます。汚れなき煙と燃えて天国に昇りゆき給いし主任司祭をはじめ八千の霊魂! 誰を想い出しても善い人ばかり。
 敗戦を知らず世を去り給いし人の幸よ。潔き羔として神の御胸にやすたう霊魂の幸よ。それにくらべて生残った私らのみじめさ。日本は負けました。浦上は全くの廃墟です。みゆる限りは灰と瓦。家なく衣なく食なく、畑は荒れ人は尠し。ぼんやり焼跡に立って空を眺めている二人或いは三人の群。
 あの日あの時この家で、なぜ一緒に死ななかったのでしょうか。なぜ私らのみ斯様な悲惨な生活をせねばならぬのでしょう。私らは罪人だからでした。今こそしみじみ己が罪の深さを知らされます。私は償いを果たしていなかったから残されたのです。余りにも罪の汚れの多き者のみが神の祭壇に供えられる資格なしとして選び遺されたのであります。

 日本人がこれから歩まねばならぬ敗戦国民の道は苦難と悲惨にみちたものであり、ポツダム宣言によって課せられる賠償は誠に大きな重荷であります。この重荷を負い行くこの苦難の道こそ罪人吾等に償いを果たす機会を与える希望への道ではありますまいか。福なるかな泣く人、彼等は慰められるべければなり。私らはこの賠償の道を正直に、ごまかさずに歩みいかねばなりません。嘲られ、罵られ、鞭打たれ、汗を流し、血にまみれ、飢え渇きつつこの道をゆくとき、カルワリオの丘に十字架を担ぎ登り給いしキリストは私共に勇気をつけてくださいましょう。
 
 主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたることを感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本に信仰の自由が許可されたことを感謝致します。
 希わくば死せる人々の霊魂天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを。
 アーメン。
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                 第2編 秋月辰一郎 ―  長崎の被爆医師

第3節 『死の同心円』復刊の意義

 ・・・

 長崎に投下された原爆をどうとらえるか。それを戦後、いちはやく定式化したのが秋月の恩師の一人、永井隆であった。秋月の主著『長崎原爆記』と『死の同心円』には、永井の長崎原爆の受け止め方(思想化)に対する微妙な異議申し立てが見出される。秋月の文章を引いてみよう。

 

 〔永井〕先生は肉体を蝕まれ、衰弱が激しくなるにつれて、つまり白血病の進行と反比例して、被爆地ののろしとなり、全国の耳目を集めた。信仰的にも人間的にも、先生は、浦上の信徒が、長崎の人々が復興するための中心的存在になった。その文才、詩情、心情、絵心、そういったものが、先生の肉体の衰えとは逆に、やがてはなやかに開花していくのである。
 先生が長崎の原爆を世界に紹介した功績は大きい。”原爆の長崎””長崎の永井”というイメージが日本全国を風靡した。しかし、その訴えが、いささかセンチメンタルにすぎ、宗教的に流れてしまったきらいがないではない。そのために、長崎の原爆は、永井博士が一人で証言を引き受けたような結果になってしまった。放射能の二重苦に悩まされ、肉体的に疲れ果てていた先生は、原爆というものを宗教的にとらえるよりほかはなかったのだろう。

 わずか一、二小節の引用ではあるが、なんと行き届いた理解であり評価であろう。師の永井隆を浦上の信徒、長崎の復興の「中心的存在」として肯定的に評価しつつも、なおその訴えが「いささかセンチメンタルにすぎ、宗教的に流れたきらいがないではない」と、二重否定の論理を用いて、慎重のうえにも慎重に書き記すのである。

 ・・・

図2-1 秋月辰一郎色紙  

 私は永井先生の「神は、天主は浦上の人を愛しているがゆえに浦上に原爆を落下した。浦上の人びとは天主から最も愛されていたから何度でも苦しまねばならぬ」といった考え方にはついていけないものを持っている                    聖フランシスコ病院 秋月辰一郎

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