真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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本島等元長崎市長 「広島よ、おごるなかれ」

2016年06月24日 | 国際・政治

『回想 本島等』 N04

 本島等元長崎市長の、下記「広島よ、おごるなかれ」の主張と関連して、無視することなく、対応しなければならないと思ったことが3つあります。

 まず、2015年5月、欧米を中心とする187人もの日本研究者や歴史学者が連名で、「日本の歴史家を支持する声明」(Open Letter in Support of Historians in Japan)と題する文書を発表した件です。その文書は首相官邸にも送付されたといいます。日本の歴史認識を懸念する声が、海外で強まっていることがわかります。その文書では、特に深刻な問題として「慰安婦」問題を挙げていますが、それだけに止まるものではなく、日本の植民地支配や戦争における加害の認識にも、懸念があるのだろうと思います。やはり、歴史認識は歴史学者や研究者の客観的研究に基づくべきで、「結論ありき」の政治家や活動家に左右されてはならないと思います。

 次に、同じ2015年08月に、中国メディア・人民網が、ドイツメディアの日本批判を取り上げ、報じたという問題です。それは、ドイチェ・ヴェレの評論記事で、「平和を作り出すのは軍備ではなく和解だ」として、「日本が平和の意志を示したいのであれば、歴史を正視することが必要だ」と指摘し、「終戦から長い年月が経ったが、アジアの国々で働いた数々の暴行を差し置いて、日本は戦争被害者の身分を強調している。だが、日本はなにより戦争の加害者である。日本は今日まで歴史を反省して近隣諸国と和解することを拒んできた」というものです。
 残念ですが、頷かざるを得ない指摘だと、私は思います。社会科の教科書からは、次々に日本軍の戦争犯罪や加害の事実が消え、それらを後世に伝えようとする取り組みも一層難しくなっているように思います。
 また、日本には戦争被害を知ることのできる資料館や記念館、記念碑は多いですが、日本軍の戦争犯罪や加害の事実を知ることのできる資料館、記念館、記念碑は、様々な困難を乗り越えて自主的に運営されているごくわずかなものをに限られているのが現状ではないでしょうか。本来、日本には、国として戦争被害の事実のみならず、加害の事実も後世に伝える義務があると思います。

 三つ目は、先日、その報道姿勢が世界的に高く評されているフランスの「ル・モンド」紙が、伊勢志摩サミットにおける安倍首相の発言を取り上げ、「安倍首相の根拠のないお騒がせ発言がG7を仰天させた」というような見出しの記事を掲載したという問題です。安倍首相が都合のよい資料を使い、世界経済の現状が「リーマンショック前の状況とそっくりだ」と言って、各国に財政出動を促したことを問題視したようです。ドイツのメルケル首相やイギリスのキャメロン首相が「世界経済は安定成長への兆しをみせている」として、同意しなかったことは一部日本でも報道されました。でも、サミット開催国の首相の発言が、このような形で真っ向から批判されることは、異例ではないかと思います。問題は、安倍首相の発言が、あまりにも政治的で、ご都合主義的解釈に基づくものであっただけではなく、かなり信頼を失っている証拠ではないか、と思われることです。世界平和のためにも、国際社会で、広く信頼を得る努力が必要だと思います。

 こうした状況にあるからこそ、私は、本島等元長崎市長の「広島よ、おごるなかれ」という主張を、しっかり噛み締めなければならないと思います。特に、「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ・・・」の詩で有名な原爆詩人「峠三吉」に対する「峠三吉よ、戦争をしかけたのは日本だよ」という呼びかけが、強く印象に残りました。
 下記の文章は「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)から抜粋しました。
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「広島よ、おごるなかれ
 原爆ドームの世界遺産化に思う」
(平和教育研究年報vol24・1966、広島平和研究所 1997年3月)
1、中国、米国に認められなかった原爆ドームの世界遺産登録
 メキシコ、メリダで開かれた世界遺産委員会で、日本が推薦した「広島原爆ドーム」が世界遺産に登録されることに決定した。
 今回の登録は、米国、中国、日本、メキシコ、フィリピンなど21カ国の代表の合意で決定するものだった。
 「広島原爆ドーム」は原爆の悲惨さ、非人間性をすべての国で共有、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として推薦された。しかし登録決定の過程で、米国と中国が不支持の姿勢を示した。
 米国は世界遺産登録に参加しない。「米国が原爆を投下せざるを得なかった事態を理解するには、それ以前の歴史的経緯を理解しなければならない」と指摘、「こうした戦跡の登録は適切な歴史観から逸脱するものである」と主張した。
 中国は「われわれは今回の決定からははずれる」と発言した。
 このようなことは満場一致で、拍手のなかで決定されるべきものである。
 私は、この記事を新聞で見て、日本のエゴが見えて、悲しさと同時に腹が立った。
 広島は原爆ドームを、世界の核廃絶と恒久平和を願う、シンボルとして考え、中国、米国は日本の侵略に対する報復によって破壊された遺跡と考えたのである。どちらの考えが正しいかは、日本軍の空爆によって、多くの人々がもだえ死んだ重慶の防空壕や真珠湾に沈むアリゾナ記念館が世界遺産に登録されるときの日本の心情を思えば「原爆ドーム」を世界遺産に推薦することは、考えなければならなかったことと思う。
 アジア、太平洋戦争は、90%中国と米国を相手とした戦いであった。両国の不支持はまさに「恥の上塗り」であった。
 アジア、太平洋戦争については日本と中国、米国との間には、共通の認識と理解が成立していない。広島に大戦への反省があれば、世界遺産登録はなかったと思う。
 広島の被爆者たちは「核兵器廃絶のスタート地点に立とう、という世界の意志が読みとれる」と歓迎している。しかし、中国、米国が核兵器廃絶のスタートには立たないと言っているではないか。
 「何よりも、原爆は、この国ではいつもそうであるように、歴史、因果、責任、さらには政治と権力から隔絶した記憶の中に自由に漂う、世界の悲劇的真実として扱われた。原爆投下の原因より、原爆の惨事そのものに関心を集中する傾向は、第二次大戦に対する日本社会全体の態度を表している。このような態度のおかげで、戦争責任を問われた時、日本はドイツよりも素直さに欠けるようになってしまった」
 原爆の惨害は多く語られている。しかし原爆投下の原因はかたられることは少ない。私はここでそれを語らなければならない。広島は戦争の加害者であった。そうして被害者になったということを。

2、なぜ原爆は投下されたのか
なぜ原爆投下は、喜ばれたのか


一、日本の最重要軍事基地、広島 ・・・略
二、アメリカ人たちの憤激 ・・・略
三、原爆投下ーアメリカの声明  ・・・略

四、世界は、広島の原爆投下を喜んだ
(1) 戦後フランスで最も活動的な作家、ボーヴォワールの『レ・マンダラン』(1954)に作者とサルトルとカミュが登場する。
 3人は南フランスを旅行中、新聞を買った。巨大な見出しで「米軍ヒロシマに原子爆弾を投下す」 日本は疑いもなく間もなく降伏するだろう。大戦の終わりだ…各新聞は大きな喜びの言葉を重ねていた。しかし3人はいずれもただ、恐怖と悲惨の感情しか感じなかった。
 「ドイツの都会だったら、白人種の上だったら、彼らも敢えてなし得たかどうか疑問だね。黄色人種だからね、彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ」このようにフランスの新聞にとっては原爆投下は大きな喜びであった。 
(2) シンガポールのセントサ島の「ワックス(ロウ人形)博物館」の、第二次世界大戦コーナーでは、広島の原爆雲と焼け野原の市街地の写真が展示されている。
 それも、上下は天井から床まで、横幅はその2倍ほどの大きさで。それは、他の展示物に比べて、ひときわ大きいものである。また、他の展示物が戦時下のマレー半島とシンガポールのことばかりであるのにくらべて異質なものである。なぜ、広島の原爆投下が強調されるのか。
 1942年2月15日シンガポールは陥落し、3年8ヶ月、日本に占領された。日本軍は華僑の抗日組織を探すために、シンガポールの華僑20万人を集めた。検問する憲兵も、各部隊から集められた補助憲兵も中国語も英語も満足に話せなかった。当然の結果として、検問は、おおよそでたらめなものだった。日本側は戦犯法廷で華僑6千人を虐殺したといっているが、現地では数万人虐殺されたといわれている。
 シンガポールの人びとにとって、広島の原爆は日本の敗北を決定づけ、自分たちの死の苦しみから解放してくれた「神の救い」であったことを意味している。

五、中国、方励之 ー(中国の反体制物理学者、天安門事件のアメリカに亡命)
 最初に原爆の歴史を眼にするために、私は広島に行った。資料館の配置はゆきとどいており、被爆後の惨状をよく復元していた。
 原爆投下はまことに驚くべきものであった。六千度の高温、九千メートルものきのこ雲、強い高圧、大火と黒い雨、熱風。
 焼死した者、潰されて死んだ者、反射熱で死んだ者、即死し、つぎつぎと息絶えていった。このようなありさまに心を傷めぬ者があろうか。
 毎年八月六日、ここで式典が催され、西欧人も参加し、平和を祈願する。
 だが中国人である私は、解説の最後のことばをそのまま受け入れるわけにはいかなかった。『戦争の名の下に大量殺人を許してはならない』ー このことば自体は間違っていない。
 しかし、ある種の日本人から中国人にむかって言われるべきことばではない。
 広島は明治になって、軍事基地化した。瀬戸内海最大の軍艦造船所を持ち、日清戦争の前進基地とされた。戦争の名の下に中国人を殺すことはこの街から始まった。だから広島の壊滅は仏門のことばでいえば因果応報なのである。
 もとより、多くの罪なき者がこの報いに遭ったことは、まことに悲惨なことである。
 けれども、広島がこの百年の戦禍のうち最大の受難の地、最も心を傷めるに値する場所で、それゆえに平和のメッカ、ヒューマニズムを心から愛する聖地だというのであれば、私はやはり断固として、首を横に振るだろう。なぜなら、日本軍の爆撃によって、万にのぼる人がもだえ死んだ重慶の防空壕の跡、南京の中華門に今も人目につく弾痕。中国こそこの百年間の戦争における、最大の受難の地なのである。悲惨の程度においても、悲惨の量においても。
 にもかかわらず、中国じゅう、どこへ行っても平和記念公園は一つもない。一年に一度の慰霊祭のための国際大会もない。慰霊の常夜灯も、その前に置かれた献金箱もない。
 もしかすると、一つの民族も一個人も同様に、あまりにも悲惨すぎると、泣くことも、わめくこともしなくなるということがあるのかも知れない。

3、広島に欠ける加害の視点
  峠三吉の「原爆詩集」を読んで
  ちちをかえせ ははをかえせ
  としよりをかえせ こどもをかえせ
  わたしをかえせ わたしにつながる
  にんげんをかえせ
 峠三吉は、36年の生涯のうち、戦後わずか8年生きて、原爆の非人間性を告発し続けた原爆詩人の第一人者である。
 峠三吉は誰にむかって「ちちをかえせ ははをかえせ」と言っているのだろうか。
 この詩を読んで、私は日本軍が中国、華北で繰り広げた「三光作戦」を思い起こした。
 日本軍は中国華北において、特に1940年、中国共産党、八路軍と「百団大戦」を戦い、たいへんな痛手を受けた。この戦いで、日本軍は八路軍とそれを支える抗日根拠地の実力を知った。
 そこで抗日根拠地の討伐作戦をおこない、村や集落を焼き払って「無人区」にした。その残虐さがあまりにも凄まじいものであり、中国側はこれを「三光作戦ー①殺光(殺しつくす)②焼光(焼きつくす)③搶光(奪いつくす)」と名づけた。
ー中国華北でー
 私の部隊は毎日、谷間に残る家を焼き払い無人地帯から立ち退きに遅れた人びとを射殺しました。ある時、谷間に一軒家があるのを見つけました。家の中には年老いてやせ細った重病人と二人の男の子がいました。まず屋根に火をつけました。老人は焼け落ちる梁の下で焼け死にました。そのとき、焼ける屋根の下で、ボロを着てはだしで恐怖に震え、立ちすくみ、父母の名を呼んで泣きじゃくり、目は日本鬼子を見据え、銃弾をあびて血しぶきをあげてふき飛んで死んだ幼い二人の男の子。
ー広島ー
 日本侵略軍の根拠地、最重要軍事基地広島に原爆が落ちて、熱と爆風と放射線でボロぎれのような皮膚をたれ、焼けこげた布を腰にまとい、泣きながら群れ歩いた裸体の行列、片眼つぶれの、半身あかむけの丸坊主、水をもとめ、母の名をつぶやきながら死んだ娘。
 この三人の子どもの死はどちらが重かったか。
 峠三吉よ、戦争をしかけたのは日本だよ。悪いのは日本だよ。無差別、大量虐殺も日本がはじめたことだよ。原爆の違法性は言われているよ。しかし世界中原爆投下は正しかったといっているよ。原爆で日本侵略軍の根拠地、広島は滅び去った。広島、長崎で昭和20年8月から12月まで約22万人が被爆で亡くなった。
 日本侵略軍に、皆殺し、焼き殺され、何の罪もない中国華北は無人の地となった。
 1941年~43年までに247万人が殺され、400万人が強制連行された。
「ちちをかえせ ははをかえせ 何故こんな目に遇わねばならぬのか」
 峠三吉よこのことばは、親を皆殺しされた、中国華北の孤児たちのことばだったのではないか。広島に原爆を落としたのは「三光作戦」の生き残りだったのではないか。

むすび
 原爆の被害は人間の想像をこえるものであった。特に放射線が人体をむしばみ続ける恐ろしさ。しかし、日本の侵略と加害による虐殺の数は原爆被害をはるかにこえるものであった。
 今、われわれがやらなければならぬことは中国をはじめアジア、太平洋の国々と国民に謝罪することである。心から赦しを乞うことである。日本の過去と未来のためにも。
 しかし、そのための条件は、日本人が真珠湾攻撃について謝罪し、広島と長崎が、原爆投下を赦すということである。怒りや憎しみは個人にとっても、国家にとってもよいことではない。娘を殺された父親が相手を殺すというように、赦しえないことを赦す考え方、それが必要である。
 広島、長崎は「和解の世界」の先頭に立つべきであろう。二十一世紀は「和解の世代」でなければならない。
 核兵器のない世界への努力と、「和解の世界」への努力は同一のものでなければならない。

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