真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本の麻薬取扱業者とモルヒネ蔓延の状況

2011年05月01日 | 国際・政治
 日本は、15年戦争の時期に国策として中国で大量の阿片を販売した。その目的は2つである。一つは、もちろん戦争に必要な財源の確保であり、植民地政策の財源確保であった。日本の阿片政策は、阿片の専売制を伴っていたので、阿片の販売によって、容易に財源確保ができたのである。さらに、軍部は阿片の専売事業を請け負った民間業者から莫大な裏金を受け取っていたといわれている。清朝末期よりかなり効果をあげていた中国の禁煙政策の前にたちはだかり、大量に阿片を売りまくることによって資金を得た日本は、麻薬政策の面でも、中国の敵であったといえる。
 中国における阿片販売のもう一つの目的については、「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」倉橋正直(共栄書房)では、直接的には論じられていないが、中国で麻薬中毒者を増やして、中国の抗戦力を麻痺させるという目的があったという。下記は、そうした阿片政策の実態が読み取れる部分を、同書から抜粋したものである。
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               第4章 モルヒネ問題

恥知らずな禁制薬取扱業者

 次の史料は、中国で禁製品、即ち、麻薬の密売に従事していた日本人のことを述べている。彼らは、他国の者もやっているというのを口実に、中国人の被る甚大な害毒に目をつむり、禁制品の麻薬を密売し、不正な利益をあげていた。自分だけが儲かりさえすれば、あとはどうなってもよいという、情けない日本人の姿がそこにある。彼らこそ、エコノミック・アニマルと呼ばれる現代の日本人の源流である。このように、恥知らずな日本人のモルヒネ密売人が、当時、中国に多く集まっていた。


 「青島(チンタオ)から済南(サイナン)に行く列車中の出来事である。禁制薬取扱いによって巨富をなしたという評判のある某が昂然として語るを聞けば、
 『一体全体、領事館あたりでは日本人の人口増加をどう見て居るのであろう。海外に出て働いて居る吾々は一粒の米と雖も母国の厄介になって居ないのである。いわば海外発展の魁(サキガケ)である。それに領事館の禁制品取扱者に対する取締の徹底ぶりはどうであらう。
 支那の役人の取締もこんなに苛酷ではない。見あたり次第、容赦なく退去処分で内地に送還して終う。生計を奪われた彼等が内地に帰って、やがて凡ゆる方面に流す害毒を考へて見るがよい。彼等が取扱わなくても、欧米人は口に人道を唱えながら、大規模に取扱って居るではないか。支那の国民を毒するのは結局、同じことである』
 亜片モルヒネ取扱に関する某の話は縷々として尽きないが、此の短い言葉の内に『自分さへよければ、人はどうでもよい。人もするのだ。自分もしなければ損だ』といふ現代世相の現れを、痛感せずには居られなかった。」(菊地酉治「支那に対する阿片の害毒防止運動」論文に対する「編輯子」による前書き、『同仁』、2巻5号、1928年5月、7頁)



一連のトラブル

 醜い日本人が大挙して中国に渡り、恥知らずにも、人道に背いたモルヒネの密売に従事したのであるから、当然、中国側の怒りを買い、其の結果、トラブルが頻発した。一連のトラブル(おそらく、それは氷山の一角に過ぎないであろうが!)を、前述の菊地酉治は次のように紹介している。

 「十数年前には北清方面に於て、有名な日本人モヒ密売店乱入事件を起し、又、 満州及び天津、済南等は巨額の毒物を輸入してゐる事実、昨年の済南事件に  於て虐殺せられたる者は殆どモヒ丸(モヒガン)密造者であった。
  又、山西省石家荘事件、保定府密売日本人銃殺事件、一昨冬、大連に於る液 体モヒ事件、或は熱河、ハルピン、大連等のモヒ製造工場事件、某製薬会社の  山東省阿片専売事件等は、悉く国際的に知られて居る顕著なる事実である。其 他、薬業者のみにても、数知れぬ密輸事件を惹起して常に暗い影を投げている」 (菊地酉治「支那阿片問題の一考察」『支那』20巻12号、1929年12月、61頁)


 ・・・
  ここで、菊地酉治は、およそ10件にのぼる事件の、ほとんどその名前をあげて いるだけであって、残念ながら、これらの事件の詳しい内容にまで立ち入って紹 介してはいない。…。
  なお、菊池酉治のあげている事件の中で、興味があるのは、済南事件(1928 年)に関する一節である。軍人として、たまたま、同事件に際会した佐々木到一も 次 のように同趣旨のことを述べているからである。すなわち


 「それを聞かずして居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老荘男女16人が惨死体となってあらわれたのである。(中略)
 我が軍の激昂はその極に達した。これでは、もはや、容赦はいらないのである。もっとも、右の遭難者は、わが方から言えば、引揚げの勧告を無視して現場に止まったものであって、その多くが、モヒ、ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたもの、と思われる節が多かったのである。」佐々木到一『ある軍人の自伝』、1963年、普通社、181頁)


 2つの史料は、済南事件で「虐殺せられたる者は殆どモヒ丸密造者」であったことを一致して指摘している。おそらく、当時においては、このことは、世間にかなり広く知られていたのではなかろうか。


モルヒネの蔓延の状況

 以上のような経緯から、モルヒネが中国社会に急速に蔓延してゆく。その状況の一端を、満州の場合を例として、少し見てゆく。すなわち、すでに1909年の段階で、モルヒネは相当、広範に広がっていた。例えば、営口(エイコウ)の近郊の牛家屯(ギュウカトン)一帯で、モルヒネ中毒者を20余名、捕まえている(『盛京時報』1909年9月22日)。
 また、西豊(セイホウ)県はとりわけモルヒネの害が多かった所のようであるが、城内だけで、モルヒネを扱う店が20軒あった。一軒で、毎日、3元から7、8元のモルヒネを売ったから、全体ではおよそ120元にもなった(『盛京時報』1915年3月29日)。
 モルヒネ中毒者は、モルヒネを入手するために、例外なく、財産を使い果たし、乞食同然の哀れな境遇に陥る。そして、中毒がひどくなれば、まず、必ず死んだ。彼らには、住む家もなく、路傍で暮らしていたから、多くの場合、気の毒なことに、行き倒れの形で息たえた。さらに満州のように、冬期の寒気が厳しい所では、往々にして、彼らは凍死した。例えば、1915年の満州でいえば、営口では5日間に200余名が凍死する。みなモルヒネ中毒者であって、あまりに死者が多っかったので、慈善堂が用意しておいた棺が不足してしまう。
 また、奉天(ホウテン)ではモルヒネ中毒者が多く行き倒れる。彼らを埋葬する棺が毎日、7、8から十数個にのぼった(『盛京時報』1915年1月23日、及び同年4月24日)。
 ある史料は、彼らが寒気のために凍死したのではなく、実はモルヒネで死んだと述べているが(『盛京時報』1915年2月3日)その通りであった。阿片では、まず死なないのに、モルヒネでは必ず死ぬ。───これが、後者の恐ろしい所であった。


 モルヒネ中毒者の数

 恨みを呑んで死んでいったモルヒネ中毒者は、中国全体では、おびただしい数にのぼるであろう。しかし、残念ながら、モルヒネ中毒による死者の全国的な統計は存在しない。菊地酉治は、次のように、モルヒネ中毒者の数を阿片中毒者の約半数と見ている。

 「例えば阿片癮者千万人ありとすれば、半数500万人がモルヒネ中毒者であります。」(前掲、菊地酉治等『阿片問題の研究』、22頁)


 ただ、両者の割合は地域によって相当の差があったようで、満州国の場合、1938年現在で、阿片中毒者645,007人に対し、モルヒネ中毒者は28,164人という数字を発表している。しかし、モルヒネ中毒者は比較的短期日で死んでゆくので、ある一時点をとって両者の数を比較しても、あまり意味がないかもしれない。両者の割合を知るための、一応の目やすとして、この数字を紹介しておく。
 以上のように、モルヒネが蔓延していった結果、20世紀の中国の阿片問題は、同時にモルヒネ問題でもあったということを、ここで強調しておきたい。



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