真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ルーズベルト大統領の天皇あて親電、意図的遅配問題

2020年08月25日 | 国際・政治

 戦前の日本は、朝鮮半島をはじめアジア諸国に領土や権益の拡大を目的として侵入し、中国や欧米列強と対立して戦争に至り、無条件降伏しました。でも、敗戦後も戦争指導層が様々な活動を通して影響力を持ち続けたために、日本国憲法によって”自国のことのみに専念して他国を無視してはならない”ことを確認したはずなのに、徐々に戦前・戦中の考え方が復活し、日本の戦争を正当化する歴史の修正が進んでいるように思います。
 歴史の修正は、戦争に関わった人たちのもっともらしい証言や都合のよい史料を使って、巧妙に、幅広くなされているため、なかなか厄介だと思います。
 歴史学者は、「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献を「一次史料」と呼ぶそうですが、やはり、可能な限りそうした一次史料に当たらないと、日本の歴史修正の事実はなかなか見えてこないような気がします。

 開戦に至る日米交渉の史料を読むと、日本が武力を背景として中国で権益を拡大し、それを手放すことに同意できなくて、ハル・ノート(「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」)を「日本に対する最後通牒である」と受け止めたことがわかります。でも、 ハル・ノートは「最後通牒」でもなんでもありません。九ヶ国条約の尊重を日本に求めた米国務長官の覚書です。

 見逃せないのが、このハル国務長官の覚書を十一月二十六日に受領し、翌二十七日の大本営政府連絡会議で「宣戦に関する事務手続順序」及び「戦争遂行に伴ふ国論指導要綱」を採択し、十二月一日の御前会議で戦争開始の国家意思を決定すること、また、開戦の翌日に「宣戦ノ詔書」により宣戦布告を行うことなどを決定していることです。

 すでに取り上げたように「開戦ニ関スル条約」(1907年十月月十八日にハーグで署名された宣戦布告に関する条約)には、その「第一条」で”締約国ハ理由ヲ附シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件附開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前ノ通告ナクシテ其ノ相互間ニ戦争ヲ開始スヘカラサルコトヲ承認ス”とあるのです。にもかかわらず、日本の国家意思決定にかかわる大本営政府連絡会議が、国際法を無視して、開戦の翌日に宣戦布告を行うことを決めているのです〔Y(X+1)日宣戦布告〕。

 ハル国務長官の覚書に対して、日本側は十日以上間を置き、十二月七日になって、長文の「対米外交打切り通告文」を返したのですが、それは、アメリカ政府高官バランタイン氏が、東京裁判において証言したように、”理由を付した宣戦布告でもなく、最後通牒でもなかった。それは外交関係断絶の意思表示とさえも解されなかった”といえるようなものであった上に、それが、”真珠湾攻撃から一時間以上のちに、マレー半島に日本軍が上陸してから二時間以上後、また上海共同租界の境界を日本軍が越えてから四時間後におこなわれたものである”というのです。形式の面でも、事前通告の面でも、国際法に違反していたということだと思います。

 そして、「ルーズベルト大統領の天皇あて親電」の配達遅延もあって、開戦に至りました。「ルーズベルト大統領の天皇あて親電」は、日米の関係者が、日本の外務省を通じてではなく、大統領が直接、天皇に電報を送れば、戦争は回避できるのではないかということで、最後の望みを託したものでした。

 ハル国務長官は、十二月六日ワシントン時間午後九時(日本時間七日午前十一時)、ルーズベルト大統領の天皇あて親電を、グルー大使あて打電しています。でも、東郷外相は、キーナン検事の尋問に、”グルー大使が解読して清書したものを日本文に翻訳しそれを陛下にお目にかけたわけです。十二月八日午前三時すぎだったと思います”と答えているのです。奇襲攻撃後で、手後れだったのです。

 1941年十二月七日正午に中央電信局に着電したルーズベルト大統領の親電(大至急指定)がグルー大使に配達されたのは、午後十時半ごろであったというのです。大至急指定の電報が、 十時間以上経過して配達されたのです。それが意図的であったことは、下記の抜粋文でわかります。

 当時外国電信課に所属していた白尾干城・電信通信官によれば、参謀本部通信課の戸村盛雄少佐から、外国電報の配達を遅らせるよう電話で要請されたといいます。 

 

 宣戦布告とはいえない「対米外交打切り通告文」の手交もハワイ奇襲攻撃後のことでした。

 皇国日本では、”天皇の御稜威(ミイツ)”を”四方”に広げる、という”肇国の大精神”に基づく”大東亜の建設”が最優先され、国際法が軽視ないし無視されていたということではないかと思います。 皇国日本は、米国大統領の天皇にあてた大至急指定の親電さえも、意図的に遅配させ、奇襲攻撃をする国であったのです。

 ハル国務長官が、ルーズベルト大統領の天皇あて親電をグルー大使あてに打電した後、アメリカのマスコミがそれを公表していたため、親電を無視した宣戦布告なき真珠湾奇襲攻撃に対し、それまで開戦に反対していた人たちまで、”戦争に向って一致結束させる口実を与えてしまった”という指摘は、重く受け止めなければならないと思います。

 下記は、「戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5>」防衛庁防衛研究所戦史室著(朝雲新聞社)の「第二十章 開戦 ─ 十二月一日の御前会議」から「ルーズベルト大統領の天皇あて親電」から抜粋しました。
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         第二十章 開戦 ─ 十二月一日の御前会議

 ルーズベルト大統領の天皇あて親電
 十二月六日ワシントン時間午後九時(日本時間七日午前十一時)ハル国務長官は、ルーズベルト大統領の天皇あて親電を、グルー大使あて打電した。それは「親愛なるコーデル、これをグルーにだでんせよ。灰色符号で打てると思う、時間の節約になる。傍受されても構わぬ」と命じたものであった。その一時間ニ十分前米国政府は既にそのことを新聞に発表していた。そして一時間前の午後八時(日本時間七日午前十時)ハル長官はグルー大使あて第八一七号電で「貴下が出来るだけ早い時機に伝達する必要のある大統領から天皇宛メッセージの本文を含む貴下宛の重要な電報が今暗号化されつつある」と知らせたのだった。
 十二月七日(日本時間)午前─おそらく十時(ワシントン時間六日午後八時)ごろであろう。─ 同盟通信社はAP及びUP通信によって右天皇あて大統領メッセージ発出のことを知り、関係要路に知らせた。そこで東郷外相は野村大使当て午後二時紹介電報を打ったりした。
 しかるにジョセフ・C・グルーによれば、駐日米国大使館が前記第八一七号電を受領したのは七日午後九時ごろ(日本時間)、大統領のメッセージを受領したのは午後十時半ごろであったという。そしてそのメッセージを日本の電信局が受信した時刻が午後零時(ワシントン時間六日十時)であることが記されていたというのであった。すなわち中央電信局が大統領親電を受信してから約十時間経過した後届けたことになるのである。それはだれかがわざと遅らせたことを意味するものであった。グルー大使は七日午後三時ごろ、米国の放送局が大統領から天皇あてメッセージを送ったむね放送したことを聞いて知っていた。
 右電報送達の遅延は、陸軍省、参謀本部、〔事務当局は陸軍省防衛課(軍機の保護及び防諜に関する事項等を掌る)、参謀本部通信課〕が協議の上、逓信省の電務局外国電信課に要請して、十一月二十九日以来行って来たことであった。それは開戦決意確定に伴う防諜工作の一つであり、開戦企図及びその他の秘匿に少しでも役立てるためのものであった。当時右外国電信課に所属し、逓信省の検閲室を監督していた白尾干城によれば次のような経緯があった。すなわち十一月二十九日白尾電信官は業務上熟知の参謀本部通信課の戸村盛雄少佐から、外国電報をすべて五時間ずつ配達を遅らせるよう電話で要請された。同電信官は直ちに中央電信局に電話し、「外国電報は発送電報も到着電報も皆五時間差止めにするよう命令」した。もとより日本政府及び恐らくは獨伊両国政府の電報はその適用から除かれた。白尾電信官日記には「夕方帰宅後電話にて外電遅延工作戸村少佐と打合せ中電に手配す」と記されている。十二月六日に至り右電報の差止め時間は、戸村少佐の要請により一日おきに、五時間の場合と十時間の場合とを繰返すことに変更された。そして、十二月七日午後白尾電信官は、米国大統領から天皇あてのメッセージを送られたことを知った。それと前後して戸村少佐から「今後電報は全部十五時間遅らせる様」にという電話に接し、それに応ずる措置を取ったというのであった。
 戸村少佐が特に十五時間遅らせるようにと要請したのは、ルーズベルト大統領の天皇あてメッセージが、時間切れになってしまうことをねらったのであった。十二月八日午前零時という武力発動の期限までに、あと多くも十二時間しか残っていないのである。戸村少佐によれば「十二月七日正午ころ米国大統領から陛下あて親電が送られたということを知った。この日参謀本部は企図秘匿上出勤する人が少なく至って閑散であった。作戦課の瀬島少佐から、前日馬來上陸船団に触接して来た敵機を友軍機が激撃し、すでに戦闘が開始されたこと、そしてそのことは杉山参謀長から陛下に上奏済みであることを聞いた。今更米国大統領から親電がきてもどうにもなるものではない、かえって混乱の因となると思って、右親電をおさえる措置をとった」というのであった。
 十二月七日午後十時十五分グルー大使は、重要緊急案件につき訓令が接到し電文解釈中であるから、間もなく会見したいと申入れ、八日午前零時半ごろ東郷外相を官邸に訪問した、グルー大使はルーズベルト大統領から天皇あて親電が到着したこと、及びそれを直接天皇に拝謁して奉呈するよう訓令されていることを告げ、東郷外相に斡旋を求めた。同外相は拝謁は夜分のことでもあり明朝でなければ手続き致しかねるが、拝謁できるかどうかは親電の内容にもよるという意味合いを述べた。グルー大使は親電写しを非公式に手交し、再会を約して会談十数分で辞去した。ルーズベルト大統領親電の全文は次のとおりである。

日本国天皇陛下
 約一世紀前米国大統領ハ日本国天皇ニ対シ書ヲ致シ、米国民ノ日本国民ニ対スル友好ヲ申出タル処右ハ受諾セラレ、爾来不断ノ平和ト友好ノ長期間ニ亙リ、両国民ハ其ノ徳ト指導者ノ叡智ニヨリテ、繁栄シ人類ニ対シ偉大ナル貢献ヲ為セリ。
 陛下ニ対シ余ガ国務ニ関シ親書ヲ呈スルハ両国ニ取リ特ニ重大ナル場合ニ於テノミナルガ、現ニ醸成セラレツツアル深刻且広汎ナル非常事態ニ鑑ミ、茲ニ一書ヲ呈スベキモノト感ズル次第ナリ。日米両国民及全人類ヲシテ、両国間ノ長年ニ亙ル平和ノ福祉ヲ喪失セシメントスルガ如キ事態ガ現ニ太平洋地域ニ発生シツツアリ。右情勢ハ悲劇ヲ孕ムモノナリ。米国民ハ平和ト諸国家ノ共存ノ権利トヲ信ジ過去数ヶ月ニ亙ル日米交渉ヲ熱心ニ注視シ来レリ。吾人ハ支那事変ノ終息ヲ祈念シ、諸国民ニ於テ侵略ノ恐怖ナクシテ共存シ得ルガ如キ太平洋平和ガ実現セラレンコトヲ希望シ、且堪ヘ難キ軍備ノ負担ヲ除去シ、又各国民ガ如何ナル国家ヲモ排撃シ若クハ之ニ特恵ヲ与フルガ如キ、差別ヲ設ケザル通商ヲ復活センコトヲ念願セリ。右大目的ヲ達成センガ為ニハ、陛下ニ於カレテモ余ト同ジク日米両国ハ如何ナル形式ノ軍事的脅威ヲモ除去スルコトニ同意スベキコト明瞭ナリト信ズ。
 約一年前陛下ノ政府ハ「ヴィシー」政府ト協定ヲ締結シ、之ニ基キ北部佛領印度支那ニ同地方ニ於テ支那軍ニ対シ行動シ居リタル日本軍保護ノ為ニ五、六千ノ軍隊ヲ進駐セシメタリ。而シテ本年春及夏「ヴィシー」政府ハ佛領印度支那共同防衛ニ為ニ更ニ日本部隊ノ南部佛印進駐ヲ許容セリ。
 余ハ佛領印度支那ニ対シ何等ノ攻撃モ行ハレタルコトナク、又攻撃ヲ企図セラレタルコトナシト言明シテ差支ナシト思考ス。最近数週間日本陸海軍部隊ハ夥シク南部佛領印度支那ニ増強セラレタルコト明白トナリタル為、他国ニ対シ印度支那ニ於ケル集結ノ継続ガ其ノ性質上防禦的ニ非ズトノ尤モナル疑惑ヲ生ゼシムルニ至レリ。
 右印度支那ニ於ケル集結ハ極メテ大規模ニ行ハレ、又右ハ今ヤ同半島ノ南東及南西端ニ達シタルヲモッテ、比島、東印度数百ノ島嶼、馬来及泰国ハ、日本軍ガ之等地方ノ何レカニ対シ攻撃ヲ準備乃至企図シ居ルニ非ズヤト猜疑シツツアルハ蓋シ当然ナリ。之等住民ノ総テガ抱懐スル恐怖ハ、其ノ平和及国民的存立ニ関スルモノナルガ故ニ、斯ル恐怖ハ当然ナルコトハ陛下ニ於カレテモ御諒解アラセラルル所ナリト信ズ。余ハ攻撃措置ヲ執リ得ル程度ニ、人員ト装備トヲ為セル陸海及空軍基地ニ対シ、米国民ノ多クガ何故ニ猜疑ノ眼ヲ向クルカヲ、陛下ニ於カセラレテハ御諒解相成ルベシト思惟ス。
  斯ル事態ノ継続ハ到底考ヘ及バザル所ナルコト明カナリ。余ガ前述シタル諸国民ハ何レモ無限ニ若クハ恒久ニ「ダイナマイト」樽ノ上ニ坐シ得ルモノニ非ズ。
 若シ日本兵ガ全面的ニ佛領印度支那ヨリ撤去スルニ於テハ合衆国政府ハ同地ニ侵入スルノ意図毫モナシ。
 余ハ東印度政府、馬來諸政府及泰国政府ヨリ同様ノ保障ヲ求メ得ルモノト思考シ、且支那政府ニ対シテスラ同様保障ヲ求ムル用意アリ。斯クシテ日本軍ノ佛印ヨリノ撤去ハ全南太平洋地域ニ於ケル平和ノ保障ヲ招来スベシ。
 余ガ陛下ニ書ヲ致スハ、此ノ危局ニ際シ陛下ニ於カレテモ同様暗雲ヲ一掃スルノ方法ニ関ソ考慮セラレンコトヲ希望スルガ為ナリ。余ハ陛下ト共ニ、日米両国民ノミナラズ隣接諸国ノ住民ノ為メ、 両国民間ノ伝統的友誼ヲ恢復シ、世界ニ於ケル此ノ上ノ死滅ト破壊トヲ防止スルノ神聖ナル責務ヲ有スルコトヲ確信スルモノナリ。
                               千九百四十一年十二月六日
                                 ワシントンニ於テ
                                 フランクリン・ディ・ルーズベルト  

 


 


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