真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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重慶に至る日本軍の無差別爆撃の始まり

2009年02月27日 | 国際・政治
 1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議においてハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)は採択された。その第25条は「無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず」である。しかし、1935年10月、イタリアは戦闘機など持たないエチオピアを一方的に爆撃した。ジュネーブ議定書で禁止されている毒ガスも使ったという。
 1937年4月には、ドイツ空軍コンドル軍団が無防備都市ゲルニカの無差別爆撃を行った。それは、ピカソの大作「ゲルニカ」によって広く世界中に知られることとなった。ところが、それらより以前に、日本軍によって無差別爆撃は開始されていた。それは、錦州爆撃である。「戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶-広島への軌跡」前田哲男(朝日新聞社)よりの抜粋である。
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             第1章 重慶爆撃への道(1931-37年)

   石原完爾の錦州爆撃

 真田紐で爆弾を吊して出撃

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 関東軍独立飛行第10中隊を主力に実施された石原中佐立案になる錦州爆撃はこのような状況下、地上軍をもってはなし得ない敵行政府所在地に対する長距離機動を敢行して、張学良軍に衝撃を与えるとともに、強力な既成事実を東京の中央政府と軍中央に叩きつけ、事変不拡大を訓令する「軟弱外交」をも併せて爆砕する狙いを秘めていた。爆撃行は10月8日午後、八八式偵察機6機、中国軍から鹵獲したポテー25型軽爆撃機5機の11機編隊で行われ、石原参謀は旅客機に乗って編隊に同行、上空より爆撃の成果を逐一観察した。中国側に戦闘機は1機もなかったので、空から攻撃を受ける心配は無用であった。


 八八式偵察機には、爆弾照準器も爆弾懸吊装置も装備されておらず、攻撃隊は各機、瞬発信管つき25キロ爆弾4発ずつを真田紐で機外に吊し、目標上空に達すると目測によって紐を緩め、爆弾を投下した。この日錦州市街に投じられた爆弾は75発、威力はTNT1.8トン分であったと記録されている。やがて本格化する「戦政略爆撃」の規模から考えると、じつにささやかで泥縄式の出発と見ることもできるが、しかし中国側に恐慌を引き起こすという戦略目的と、東京政府の不拡大政策に対抗して「あとに退けぬ情勢」を強要する政略目的をもって判定するなら、真田紐から放たれた75発の25キロ爆弾は、寸分の狂いもなく目標に命中したというべきであろう。

 飛行隊は10月8日正午、奉天飛行場を離陸、午後1時40分錦州上空に達し、高度1300メートルのところから、張学良の軍政権所在地と推定された交通大学(市西北部)28師兵営(東部)などに爆弾を投下した。交通大学には張学良の東北辺防軍司令部がおかれていた。機上観測による爆撃効果は、交通大学に対しては命中弾10、兵営に向けた分は命中弾22を得たとされる。(戦史叢書「満州方面陸軍航空作戦」)。
 
 無照準投弾による当然の結果だとはいえ、日本側の判定によっても半分以上が目標を逸れて爆発した。錦州駅近くにも落下弾を生じ、死傷者をだした。中国人の初めて体験する都市への空襲であった。中国外交部は、日本軍機からの投弾と機銃掃射によって、ロシア人教授1人、兵士1人、市民14人の死者、20人以上が負傷と発表した。翌年現地入りした国際連盟派遣の調査団報告(リットン報告)の記述によると、爆弾の多くは市内至るところに落下し、病院や大学の建物にも命中したとされた。日本側のいう、爆撃区域は制限されていたという主張には疑問の余地があり、また兵営はともかく(軍政権)政庁の爆撃を正当化はできない──リットン報告は、無差別爆撃を示唆した。
・・・(以下略)


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