![]() |
感覚の幽(くら)い風景 (中公文庫) |
鷲田 清一 | |
中央公論新社 |
「これって、ちょっと不思議な光景かもしれない」
帰宅の電車に乗ったとき、ふと、こんなことを考えました。
車内はそこそこ混みあっているのですが、シーンと静か。
座席に座っている人、吊革につかまっている人、ドアのすぐそばに立っている人、
乗客を見渡すと、それぞれの視線は、手元に注がれています。
多くが、携帯電話かゲーム機の画面を見ていたのです。
車内で隣にいる人とは、特に言葉を交わさない。
一方で、携帯電話では、どこか別の場所にいる人に、メールやコメントで言葉を交わしている。
車内は静かですが、電波を介してやりとりされている言葉を声にしたら、
とても騒がしいのかもしれない。
そんなことを考えました。
鷲田清一さんの「感覚の幽い風景」という本の中に、次のように書かれていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
電車のなかで半数以上のひとが、だれに眼を向けるでもなく、うつむいて携帯電話をチェックし、指を器用に動かしてメールを打つシーンに、もう誰も驚かなくなった。
誰かと「つながっていたい」と痛いくらいに思う人たちが、たがいに別の世界の住人であるかのように無関心で隣り合っている光景が、わたしたちの前には広がっている。
いつの頃からか、十代のひとたちが「キレる」という言葉を口にしはじめた。
「腹がたつ」ではもちろんなく、
「アタマにくる」でも「むかつく」でもなく、「キレる」。
(中略)
このように、「つながっていたい」という想いが一方であり、「キレる」という行動が他方にある。
誰かとつながっていたいというのは、自分がその人に思いをはせるだけでなく、その人もまた今の自分のことを思ってくれているという、そういう関係の中に浸されていたいということだ。
「寂しいから」と人はいう。
寂しいのは、自分がここにいるという感覚が、自分がここにいるという事実の確認だけでは足りないからである。
(中略)
近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められていく、そういう過程でもある。
現代の都市生活の存在感情の底にあまねく静かに浸透してきているように思われる「寂しさ」。それが、いま、誰かと「つながっていたい」というひりひりした疼きとなって現象しているのではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「つながる」と「キレる(切れる)」
社会の中にある出来事・現象が、ちょうど相反する表現であらわされているのは
興味深いですね。(^_-)-☆
私自身、メールやFB、ツイッターを使っていますが、
「誰かに読んでもらえているといいな」とか、
「私はこれが好きなんだけど、他にも同じものが好きな人いるかな?」
「私と同じようなこと考えている人いるかな?」
「こんな疑問を持っているんだけど、他の人はどうなんだろう?」
などと、思っているから。
だと思います。
たしかに「つながっていたい」という気持ちも、どこかにあるのかもしれません(*^_^*)。
「つながろう」とする行為の裏に、「寂しさ」があるとしても、それは、それで、いいんじゃないかな?
人は、一人ではいきていけないし。
つながるため手段が、今は、いろいろ選択できる世の中になっているのだと思います。